フライトキャップ

maco

第1話:フライトキャップへの思い入れ

「それで、俺はパイロットを、クビになったんだ」


 春の五月上旬、今日は、やや風が強くても、天気に恵まれて快晴だった。


 僕の名前は、八島幸信やしまゆきのぶといい、八島家の長男だ。両親、次男、僕を含めて八島家の四人家族では、一軒家の広い庭からバーベキューを始めようとしていた。コンロの下部には、バーベキュー用の大きな黒い炭が置かれている。着火剤は灯してあったものの、火がつきそうには見えない。家族四人で、炭に火がつくときまで待っている。いらなくなった新聞紙を、丸めて金網の下にでも詰めようか迷っているとき、父親、八島道信やしまみちのぶの話が始まった。


 今から三年前まで、話が遡る。


 父親は旅客機の機長だった。主に日本発、ハワイ行きの便だ。彼は、優秀なパイロットのようだった。


 しかし、ハワイ空港で機長の仕事を休憩するとき、小さな林に向かって立ちションをしてしまい、そこで国際問題が発生した。ハワイには、多くの外国人が暮しており、日本国内で許されているその慣習がなかった。父親の行為は、林の近隣の住人の苦情で、問題にみなされて、機長の仕事を解雇に及んでしまう。日本の航空会社側はもとより、この国の政府までもが、ハワイ側の要求に対して撤回するほどの度胸を示さなかった。


「そんなことで、国際問題に発展なんて、おかしいに決まってる!」


「トイレで用を足せば、何も問題が起きなかったはずだ」道信が言う。「いま振り返れば、世間を騒がせるほどの馬鹿なことをしでかしてしまった」


「父さんほど、旅客機の機長が似合う人は、他にいないはずだ。これがまかり通る世のなかなんて嫌だ!」


公子きみこ、お前は、俺が三十五歳のときに結婚して、十数年間、パイロットの職業を陰から見守ってくれた」道信は言う。「その誇りにするべき夢を壊してしまい、申し訳がなかった」


「だけれど、あなたは、パイロットの仕事を解雇されてから、すぐにゴルフ場の環境整備の仕事へ移ったじゃない」公子は言う。「新しい正社員の仕事で働くことになっても前向きの働きぶりだと評判を聞いてるわよ。パイロットの仕事で培った真面目さに励んでるみたいね。おそらく、航空機の機長だったころの経験やプライドが生きてるんじゃないかしら。いつまでも、あなたの仕事の姿勢を誇りに思うわ」


「父さんが、新しい仕事をみつけられて、俺も嬉しかったよ」次男の裕太ゆうたが言う。「父さんは、いろんな仕事をできる人だって立派に思ってるよ」


「父さんが、機長の仕事を解雇された話については気の毒だ。しかし今も、兄弟や、母さんを、大事に養い続けてくれる。きっと、父さんの生き方は、間違ってないよ」


「そうか、みんなの気持ちがよくわかった」道信は言う。「パイロットとしても勤められることに、誇りを抱いてきた。その証に、この愛用のフライトキャップを、幸信へ譲ろう」


 そして、道信は、頭にかぶっている帽子を脱いだ。


 「このフライトキャップは、落ち着いているベージュ色で、厚手の生地だ。幸信も気に入ってくれるはずだ」


 その帽子を、僕の頭の上に乗せて、道信は満足げに微笑みを浮かべた。耳当ては、風の感触とともに寒さを和らげる温かいものだ。


「確か、父さんはこれを好んで日常生活に被っていたな」


「そうさ、とても素敵な帽子だろ?」道信は訊く。「旅客機のパイロット就職記念日に購入したものだし、幸信は似合っているな。これは、プロペラ機が戦力の主流だった時代に、多くの戦闘機乗りが愛用する帽子だった。幸信も、その意思さえあれば、空の世界を知るために、俺のパイロットとしての心を引き継いで、旅客機の操縦士の夢を目指してみてほしいが、どうだろうか?」


「…………」


 突然の父親の誘いで答えに困っているとき、


「ごめんくださーい」


 女性の大きな呼び声を聞いた。


 家の敷地の入り口の方へ振り向く。そこに、近所のおばさんが一人でいる。その手一杯には、堀りたてのものだろうか、たくさんのタケノコを抱えて、こちらに笑顔を浮かべている。毎年、あのおばさんは、八島家にも地元の林のなかで取れたタケノコを授けてくれている。今夜は、春が旬のタケノコ料理となりそうだ。


「こんにちはー、いまから向かいます」


 父親がそう応えて、母親とともに、席を立った。


「父さん、炭火が着くまでお世話当番を続けてるよ」


「おう、分かった、頼むぞ、幸信」道信は言う。「裕太も兄さんと一緒にいなさい」


 そこから両親は、庭の入り口に立っているお隣のおばさんのもとへ、挨拶を交わしに向かっていった。あの近所のおばさんと世間話を始める場合は、大抵、長話ばかりだった。


 トングを手で拾い、バーベキュー用の炭をじっくり見つめる。依然として、火が付く様子さえもなさそうだし、着火剤の当てた位置を変えるために炭をひっくり返すべきかと思いながら退屈に観察する。


「くしゅん」


 次男の裕太がくしゃみをした。


「裕太、風が強く吹いてくるし、上着を着ないと、寒くないか?」


「腹が冷えてきた」裕太は言う。「ちょっと、トイレへ行ってくるよ。もし、肉が焼けたら、家族で先に、バーベキューを食べだしてくれてもいいよ」


「分かった、ここで待ってるよ」


 九歳の裕太は、立ちあがった。腹を痛そうに手で押さえると、前かがみになって、家の玄関の中へ、小走りで入っていった。春の三月頃とは、気温の変化のせいか、身体を壊しやすい季節なのかもしれない。


 家の出入口からもとに視線を戻す。


 屋外用の白い折り畳み机の真ん中に置かれてあるものは、豚肉や牛肉、鳥肉だった。そして、別の皿の上を、エビやホタテ、イカ、ししゃもなどの魚介類も用意してある。それと、ピーマン、ししとう、つまようじのくしで刺していた玉ねぎ、エリンギ、アスパラなどの野菜類も、皿の上へ載せられてある。その他に、四人分の屋外用プレートの取り皿や、塩コショウ、バーベキューソースの甘いたれを注いだ小皿などが置かれてあった。


 次第に、熱気が頭の上にこもってくる。フライトキャップをかぶり直す。頭の上に風を通すと、少しだけ涼しくなる。


 そして、横へ振り向いたとき、一羽の黒くて、大きなカラスがいることに気付く。 


 その鳥は、机の端に乗っかって、顔を右横に向けていた。鳥の目は、顔の側面に着いている。このカラスの視線の先では、肉や魚介類、野菜などを狙っていた。こいつにせっかくの美味しそうな食材を取られると、後になって家族が怒りだすのを予想はついた。このままカラスに、バーベキュー用の食材を盗られるわけにはいかない。


「シッシッシ」


 バーベキューの食材を見つめていたカラスに、手で持っているトングを振ってみた。


 一旦カラスは、逃げだして行くものの、また注意深く接近してくる。懲りない奴だった。家族用のバーベキューの食材を守るための使命感と、そんなカラスのしつこさに正直、苛立ってくるので、追い払おうと、心の底から決意した。


 足もとを転がっている小石を拾い上げてから、そいつに投げつけてやろうとした。


「これでもくらえ!」


 ヒュンッと、その石は、標的へ向かって、真っ直ぐに飛んだ。


 こつんと、そのカラスの頭へ、音を立てて命中した。


 今度こそ、相手は諦めるかに思えた。



 カァーッ!



 ところが、そいつは、石を投げつけられる扱いに怒ったようだ。大きく飛び上がり、僕の頭の上へ乗っかってくる。


「うわあ!」


 そこでたまらずに立ちあがると、トングを投げだし、その場で走って逃げた。自分の臆病な行動は、恥や外聞、情けすらもない有様だ。しかし、カラスの先の行動を読めない恐怖のせいでもある。


 そのカラスは、怒りが収まらないようだった。飛んで、僕の方へ追ってこようとする。



            ※  ※  ※



 裏庭に走って、逃げだしてきた。


 背後の方を振り返る。あのカラスの姿は追ってこない。


 怒りが収まっただろうか。束の間に安堵しながら、前の方を向くと、そのカラスがちょうど反対側から飛んでくる。


 ギョッとした。こちらの考え方を、先読みされている。


 狭い裏庭が一方通行になっていた。僕の身長の高さを優に超すほどの生垣の壁が、整然と並んでいる。裏庭の外へ逃げ場はなさそうだ。



 カァーッ!



 カラスが、再び僕の頭まで乗っかってきた。小石の腹いせに、僕の大事なものを奪いだしたいようだ。つまり、僕の頭の上にかぶっているフライトキャップを足に掴んでから引きはがして、飛び去りたいのだ。


「人様の頭の上へ乗っかるのは、無礼な行為だぞ!」


 そこで、激しい抵抗を試みようとした。けれども、カラスはしつこくて離れない。


 そのとき、おかしな状況だというふうに気付いた。自分の足の裏が、地面から離れ出している感覚を抱いた。まさかと思いつつも、地上の光景は下がり始めているようなことに驚かされたのだ。父親が授けてくれた大切なフライトキャップへの思い入れや、カラスの食欲を阻んだ僕へ対する怒りとともに生みだした葛藤の結果からである。


 緊張と不安から、背筋に冷や汗が流れてきた。


「父さん、母さん、誰か、助けてくれー!」


 この叫び声に、気付く者は一人もいない。


 だんだんと、宙に浮かぶ自分の身体が、空へ昇っていく。裏庭からの思いも寄らない恐怖の旅立ちだった。地面から離れていく足の裏とともに、意識が遠のくような体験に身震いしている。そうでありつつ、無事にせめてひたすらその事態は収まってほしいと、心から祈り続けることにした。

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