第1話

今回は――


「閉店前の喫茶店」を元にした、少し静かで、やさしい終わりと始まりを描きました。

時間が止まりかけている場所から、登場人物達の記憶に語りかける物語です。



『最後のコーヒー』


 閉店まで、あと三日だった。


 喫茶店「リーフ」は、駅から少し外れた住宅街の角にある。四十年近く営業してきた老舗で、木の扉と小さな看板、控えめに流れるクラシック、そして店主・三谷の静かな笑顔が売りだった。


 「今日が最後かもしれないと思って来ました」

 そう言って扉を開けたのは、二十代の女性だった。細身のコートに、すこし古い革のショルダーバッグ。どこか、懐かしい面影があった。


 三谷は目を細めて彼女を見つめた。

 「…もしかして、あのときの中学生かい?」


 彼女は恥ずかしそうに笑った。

 「はい。放課後に毎日、窓の外からこの店をのぞいていた、あの子です」


 そうだった。

 十年前、決して店に入らず、外のベンチでスケッチブックを開いていた少女。三谷がココアを差し入れたときも、顔を赤くして「ありがとうございます」と小さく礼を言っただけだった。


 「絵は、続けてるのかい?」

 「はい。いまは絵本の仕事をしてます」

 「それは、良かった」


 彼女はゆっくりと店内を見回した。

 壁の時計、カウンターの丸椅子、窓際の一人席、角の観葉植物――ぜんぶ昔と変わっていない。


 「ずっと、入る勇気がなかったんです。でも、閉まっちゃうって聞いて、今ならいいかなって」


 三谷は、にこりと笑った。


 「勇気を出すタイミングなんて、きっと何回でもある。だけど今日来てくれたってことは、これが一番のタイミングだったんだね」


 そう言って、彼はカップを用意しはじめた。

 豆を挽く音。お湯を注ぐ音。ゆっくりと満ちていく香り。


 カウンター越しに差し出されたコーヒーは、やわらかく湯気をのぼらせていた。


 彼女は両手で包むようにカップを持った。

 そして、ひと口。


 「……ああ、これです。外にいたときも、この香りだけは届いてたんです」

 「そいつは、うれしいね」


 静かに時間が流れた。店の外では、夕陽が建物を赤く染めていた。

 やがて彼女は、鞄から一冊の絵本を取り出した。


 「よかったら、これ。喫茶店が舞台の話なんです」

 表紙には、どこかこの店に似た扉と、赤いベンチ、そしてコーヒーカップが描かれていた。


 三谷は、しばらくじっとそれを見つめ、うなずいた。


 「じゃあ、これはこの店の“最後の本”だな」


 「いえ、たぶん、“最初の本”です」


 ふたりは笑った。

 閉店まで、あと二日。

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