心の器
午前3時。
部屋は真っ暗だった。
布団の中、綾人は丸くなっていた。
喉の奥が詰まり、唾も飲み込めない。
額には冷たい汗。
心臓が痛いほど暴れていた。
“戻る”という現象が、こんなにも激しいとは思わなかった。
まるで、自分という器に一気に熱湯を注がれたような反応だった。
目を閉じても、すぐに誰かの声が浮かぶ。
父の叫び。
クラスの笑い声。
手にしたパックの裏面の赤い文字――
それすらも、今や幻聴のようにこびりついていた。
綾人は、限界を悟った。
このままでは、壊れる。
肉体ではない。
“人間としての中心”が、崩れていく音がした。
感情がいっせいに戻ってきた代償は、あまりにも大きかった。
「もう……無理だ」
それは逃げではなかった。
直感だった。
これ以上“感じ続けたら”、本当に取り返しがつかない。
ベッドを抜け出し、机の引き出しを開ける。
4錠目。銀色のパッケージ。
明かりをつけなくても、場所は覚えていた。
まるで手が勝手にそこに伸びていたようだった。
光のない部屋で、綾人はただ立ったまま、
錠剤を指先でつまむ。
震えていた手は、なぜか止まっていた。
心は、静かだった。
ただし、それは“静寂に戻りたい”という欲求ではなかった。
「これを飲まなきゃ、俺は俺でいられなくなる」
それだけが、確かだった。
フィアネクス――4錠目。
効果は、4ヶ月。
4ヶ月間、恐怖を一切感じない。
戻ってくるのは、きっと……もっと強烈な何かになるだろう。
でも、今はその未来すらもどうでもよかった。
「いまを止めるしかない」
「止めなければ、心臓が破れる」
口を開き、錠剤を舌の上に置く。
コップの水は使わなかった。
ただ、喉の奥で、それは自然に溶けていった。
何も言葉は出なかった。
息を吸い、吐いた。
そして――
沈黙が、戻ってきた。
数分後、綾人は椅子に座っていた。
背中を伸ばし、目を閉じて、深く呼吸する。
震えはない。動悸もない。
さっきまでの“嵐”のような情動は、跡形もなく消えていた。
そして彼は、ゆっくりと目を開けた。
感情が、また静かに沈んでいた。
世界は、音を失った。
それは、地獄から戻ってきた“無音の檻”だった。
綾人は、鏡を見た。
そこには、泣いても笑ってもいない顔があった。
ただ、心のどこかで、微かに呟いた。
「……これが、最後かもしれないな」
自分で選んだ。
逃げではない。
だが、代償はきっと、これから知ることになる。
フィアネクス4錠目。
4ヶ月間、恐怖のない世界。
それは、“自分”の最後の猶予かもしれなかった。
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