静寂の崩壊

深夜0時。


それは、秒針ひとつ分の“音”だった。


カチ、と小さな音が部屋を打った。

それはただの時計の進行音であるはずだった。


だが、綾人の耳には、それが“爆音”のように響いた。


次の瞬間、何かが彼の内側で――“割れた”。


世界の輪郭が、音を立てずに崩れ落ちていく。


静かだった部屋が、急に“生きて”いるように感じられた。

窓の外の風の音が、軋む。

家具の軋みが、ささやく。

空気が、揺れている。


「……戻った」


喉がひとりでに震えた。

思考が、濁った。

意味のない映像が、視界の端でざわついた。


自分の呼吸音が、大きすぎる。

自分の心臓の鼓動が、耳の奥で暴れている。

皮膚が敏感になっている。

背中に浮いた汗が、冷たい。


これは、現実か?


――いや。

これは、恐怖だ。


3週間ぶりの“本物の感情”。

「戻ってきた」のではない。

「押し込められていたすべて」が、濃縮されて一気に爆発したのだ。


呼吸を整えようとしても、喉がつかえる。

机の前で動けない。

ただ、そこに座っているだけなのに、背筋が凍っていく。


「こわい」


その言葉が口から漏れた瞬間、

全身が震えた。


自分が、たったひとつの言葉で崩れていくのがわかる。

この恐怖は、かつての自分が感じていたものとは違う。

もっと原始的で、もっと深いところにある。

「感情を取り戻す」ことの代償。

それは、3週間分の“反動”だった。


感情という海に、急に沈められた。

息ができない。

視界が滲む。

涙ではない。脳が圧迫されて、過去のすべてが一気に蘇る。


父の怒声。

川野の嘲笑。

誰にも言えなかった夜の孤独。

見ないふりをしてきた記憶。

薬の力で“なかったこと”にしたすべてが、

戻ってきた。


「戻らなきゃよかった」


本心だった。

その瞬間だけは、本気でそう思った。


だけど同時に、心のどこかで知っていた。


これが、“人間としての自分”だ。


これが、恐怖というものだ。


そして――

この“恐怖を恐れる心”こそが、

綾人が3週間かけて失っていた、“最後の人間性”だった。



その夜、綾人は一睡もできなかった。


ただ、布団の中で震えながら、天井を見つめていた。


そして気づく。


4錠目は、机の上にまだある。

手を伸ばせば、届く距離にある。


だが――


その“距離”が、

今はなぜか、ものすごく遠く感じられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る