戻ってくる音

1限目の終わりを告げるチャイムが、廊下に反響した。


その瞬間、綾人の内側で、なにかが“ひりついた”。


黒板の文字が霞んで見える。手のひらにじわりと汗が滲む。

指先が微かに震えはじめていた。


――ああ。

「戻ってきている」


ただの感覚の錯覚ではない。

はっきりと、“あの感情”が、ゆっくりと、でも確実に自分を浸食し始めているのがわかる。


さっきまで軽やかだった足は重くなり、視線を上げるのが怖くなる。

背筋が冷えていく。

ささやかな物音――隣の席の椅子が軋む音にすら、神経が過敏に反応している。


川野の笑い声が、教室の後ろで上がる。

まるでそれが、刃物のように胸に突き刺さった。

心臓が、跳ねた。


――いやだ。


さっきまで、自分は平然としていた。

あのときは、川野の目すら見返せた。

父の声にさえ怯まなかった。


でも今は?

声を出すことさえ怖い。視線が、空気が、すべてがまた圧力を持ち始めている。


「中谷くん?」

前の席の女子が何気なく振り返って声をかけてきた。

その一言だけで、綾人の喉は固まる。返事ができない。

目が合うことが怖い。


「……あ、ご、ごめん……」


掠れた声が出た。

その瞬間、自分の中の“何か”が、音を立てて崩れた気がした。


――どうしてだ。

――どうして“戻る”んだ。

――どうして“あの状態”のままじゃ、いられないんだ。


その問いが、急激に膨らんでいく。

“元の自分”がこんなにも無力で、脆くて、恥ずかしい存在だったと、

初めて明確に認識してしまった。


以前は、この状態が“普通”だったはずなのに。

今はもう、耐えられない。

たった1時間で、恐怖のない世界が「本当の自分」だと思ってしまったのだ。


授業が続く。

ノートは開いたまま、文字は書けない。

手が震えて、ペンが上手く持てない。


隣の席で、川野がくすっと笑った。

それだけで、心臓が締め付けられた。


――フィアネクス。

もう1錠……。


綾人の脳裏に、パックの残像がよぎる。

自宅の引き出しの中に、まだある。あと3錠。


思い出す。

赤い注意文。


『――よく考えて、服用してください。これはあなたの恐怖を消すものです。』


それでも、今のこの状態に比べれば――

たとえどんな副作用があったとしても、あの「無敵の1時間」に戻れるのなら。

「……もう1錠、欲しい」


その思いが、胸の奥から泡のように浮かび上がってきた。


気づけば、チャイムが鳴っていた。

2限目が始まる。だが綾人の耳には入ってこない。

ただ、心の奥で何かがささやいている。


「また、怖がるのか?」

「また、逃げるのか?」

「一錠飲むだけで、全部消えるのに」


その声が、昨日までの自分のものとは思えなかった。


だが、ひとつだけ確かだった。

――このままじゃ、もう耐えられない。


だから、次の休み時間。

綾人はスマホを手に取り、制服のポケットを握りしめながら立ち上がった。


彼の視線は、窓の向こうの校門に向いていた。

そして、家へと続く道を――

まるで“帰還”のように見つめていた。

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