静かすぎる心臓

目覚ましのベルが鳴る前に、綾人は目を開けていた。

脳の奥が、妙に冴えている。夢を見なかった。

机の上、銀色のパックは変わらずそこにあった。


今なら、飲める。

父もまだ寝ている。母は台所で音を立てているが、誰も部屋を気にしていない。

学校に行く前の、この短い時間。


綾人は震える手でパックを取り上げた。

裏面に小さく、“1錠目は効果1時間”と記されている。


「……1時間だけなら」


そう、自分に言い聞かせた。

パックを破る。プラスチックの中から転がり出てきた錠剤は、想像していたよりも小さかった。


喉に押し込む。

水もなしに。


数秒、何も起こらない。

目を閉じる。心臓がどくん、どくんと速く打っているのがわかる。


いや、違う。

一瞬前までは、そうだったのに。


その鼓動が――急に、静かになった。


綾人は、瞬きも忘れて天井を見つめた。

まるで自分の中で何かが凍ったような、あるいは沈んでいったような感覚。

「怖い」という感情が、どこにもない。


部屋を出ると、父とすれ違った。

「時間は守れ」と言われたが、その言葉は紙のように軽かった。

以前なら、喉が詰まり、呼吸が浅くなっていたはずのその瞬間――

綾人は平然と、目を見てこう言った。


「知ってるよ」


父が言葉を詰まらせた。

その顔を見るのは、初めてだった。


食卓の席。

母が気づかぬふりをして新聞をめくっている。

父が何か言いかけるが、綾人はそれをさえぎるように立ち上がった。


「……行ってくる」


声は、驚くほど落ち着いていた。震えがなかった。

足取りも、軽い。電車の中、人の視線も気にならない。


通学路を歩く間も、自分の心が妙に“澄んでいる”のを感じる。

不安も、羞恥も、怯えも――どこにもない。


教室に入ると、川野が相変わらずの調子で言った。


「おー猫くん、今日は声出せるかな?」


その瞬間、綾人は無意識に、机の端を叩いていた。

教室が静まり返る。

綾人は、川野の目を真正面から見据えた。


「……うるさい。黙れよ」


数秒の沈黙。

川野は冗談が通じない空気に気づき、目を泳がせた。

その様子が、滑稽だった。


綾人は笑いそうになるのをこらえながら、自分の席に座った。

心臓の鼓動は、一定。

手も震えていない。

喉も詰まっていない。


こんな自分が――

「これが、本来の“強さ”なのか?」


けれどそのとき、ふと異物感が走った。

笑おうとしたとき、心の奥が引っかかった。

感情が――鈍い。

笑いも、怒りも、どこか平坦な感触。

そして何より、「怖くない」こと自体が、実感できない。


怖くないというよりも、

「恐怖という感情の輪郭を忘れてしまった」ような奇妙な感覚。


それが快感にも似ていた。

同時に、どこか――

“危ない気がする”とも、思った。


時計を見る。

残り30分。


綾人は、初めて「効果が切れた後」のことを想像した。

この状態が消えるなら、あの震える自分に戻るのか?

いや、それはもう――


「……無理だな」


静かな教室で、誰にも聞かれないように、綾人はそう呟いた。

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