第8話 押し入れのカーディガン
料理が運ばれてくるまでのあいだ、僕は向かいの舞子より、そのカーディガンの方をぼんやり眺めていた。
押し入れの上の段から引っ張り出された、少し上等な糸のカーディガン。
あれは、本来ここにいるはずのない人の名残だった。
◇ ◇ ◇ ◇
薫子と知り合ったのは、入学してすぐの春、語学のクラスだった。
最初の授業で、簡単な自己紹介タイムがあった。
彼女は山陰地方の歯医者の1人娘で、京都で1人暮らしをしていると言った。
肩パッドのきいたジャケットにミニスカート、なんて当時主流のスタイルとはまるで違う。
キャメル色のカーディガンに、ゆったりしたロングスカート。
きれいにかかったソバージュの長い髪、白い肌、大きな目。
すっと通った鼻筋に、少し厚めの唇に乗った上品な赤い口紅。
要するに、美人だった。
ただ、僕は最初から近づこうとは思わなかった。
ゆったりした話し方も相まって、あまりにも「ええとこのお嬢さん」感が強すぎたからだ。
軽く挨拶を交わし、試験前にノートを見せ合う程度の距離を、僕はしばらく保っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
一方で僕はと言えば、広告研究会に顔を出し、飲み会や合宿に参加し、夏には合コンで知り合った他大学の子と付き合ってみたり、別れたり。
琵琶湖にウィンドサーフィンに行き、フェリーで36時間かけて沖縄に行き、高校ラグビー部の仲間と八ヶ岳のコテージに泊まり、テニスコートを借り切って大会を開き、車を連ねて信州にスキーにも行った。
――いわゆる、「大学生になったらやりたかったこと」を片っ端からやっていた。
仕送りはそれなりに多かったが、それでも足りない分を埋めるために、バイトにも精を出した。
北野白梅町の24時間営業のカフェ。
出町柳から自転車で30分ほど、西の端まで走らなければならないけれど、店はいつも賑わっていて、バイト仲間もノリのいい学生ばかりだった。
夜シフトのあとでそのまま衣笠のアパートに流れ込み、麻雀からの雑魚寝。
かわいい高校生の新人バイトが入ってくると、誰が口説くかで盛り上がる。
みんなでシフトをサボってキャンプに行き、あとで店長にこっぴどく怒られたりもした。
そんなこんなでシフトを入れまくっているうちに、2回生に上がる頃には「アルバイトリーダー」なんて肩書きまでついていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「へえ、中田くん達、あの店でバイトしてるんだ。今度行ってみるね」
薫子がそう言ったのは、夏休みに入る少し前、一般教養の講義でたまたま隣の席になった時だった。
幼稚園から中学まで一緒で、高校は別になったものの大学でまた同じ学部になり、バイト先も一緒に決めたタツヤと、今夜のシフトについて笑っていたら、その会話が耳に入ったらしい。
タツヤは豪農の次男坊で、僕と同じく親に車を買ってもらっていたが、そのパールホワイトのソアラは、僕のスプリンターカリブとは次元が違った。
180センチを超える長身に、そこそこ鍛えた体。
少し長めの髪。ドラマでいえば、男女七人の奥田瑛二ポジションみたいなやつだ。
「おー、来て来て!」
お調子者のタツヤが、嬉しそうにそう言った。
ところが、薫子が店に現れたのは、それから3か月も経ってからだった。
すっかり涼しくなった10月の夜、ふらりとカフェのドアを開けて入ってきた。
同じシフトのメンバーたちは一気に色めき立った。
誰が水を持っていくか、誰がオーダーを取るか、誰が料理を運ぶか。
そのつど厨房の裏でじゃんけん大会が始まる。
「アホ。あのコは、ハルヒトが唾つけとんねん」
タツヤがそう言い出したのは、半分本気で、半分は面白がっていたのだろう。
そんな言い方をされると、余計に否定しづらい。
案の定、騒ぎを面白がったメンバーたちは、ロッカールームでタツヤに羽交い締めにされている僕からの「伝言」という体で、立命館組を仕切っていたヒロくんが小さなメモを彼女に渡しに行った。
メモの内容は、結局最後まで教えてもらえなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日。
学食でタツヤと並んで、巨大なカツが乗ったカレーライスをかき込んでいると、トレイを持った薫子が現れた。
「えっとね、中田くんがどうしてもって言うなら、付き合ってあげてもいいよ」
タツヤが黄色いご飯粒を盛大に吹き出した。
汚い。
そんなわけで、よく分からない流れのまま、僕の彼女になったのが薫子だった。
学部でも、店でも注目を集めるような女の子が自分の彼女になったということで、僕も最初は悪い気はしなかった。
どこへ行くにも連れて行ったし、誰にでも紹介した。
けれど――。
付き合い始めて1か月ほど経ち、彼女が僕の部屋に歯ブラシと部屋着を置いていくようになると、だんだん「世界の違い」を意識するようになった。
親が有名な歯科医で、オートロック付きの1LDKマンションの家賃も、学費も、月々の生活費30万円も、全部親持ち。
僕もそれなりに裕福な家で育ち、安アパート暮らしは自分の趣味でやっているし、仕送りだって友達から羨ましがられるくらいにはもらっている。
それでも、彼女とは感覚が違った。
少し遠くに行くときは、すぐタクシーを使いたがる。
高島屋に行けば外商の担当が付き、彼女が気に入りそうな服を次々に持ってくる。
欲しいものがあれば迷いなく選び、伝票だけ書いてそのまま店を出る。支払いは、全部後から親に回る仕組みだと言う。
僕の好きな定食屋やラーメン屋にも付き合ってはくれたが、店を出るたびに、
「今度は、もうちょっとマシなお店にも行きたいね」
と笑って言った。
銭湯に誘っても、1度も付いてきたことはなかった。
だから、僕の部屋に泊まった朝は、僕が作った朝ごはんも食べずにタクシーを呼び、「早くシャワー浴びたいの」と言って帰っていった。
僕が「なんだかなあ」と思い始めた頃、街はユーミンの似合う季節になっていた。
♪輝く街はウィンターセール、黄昏おちて
ラジオからそんな歌が流れるある日、薫子は言った。
「クリスマス、私が全部出すから、ウェスティン都ホテルに泊まろう。レストランも予約しておくね」
けれど僕は、あまり乗り気にはなれなかった。
そんなところでフレンチを食べるより、僕の部屋で僕が焼いたローストチキンと、ケーキを一緒に食べたいと密かに思っていた。
とはいえ、向こうが全部出してくれると言うのだ。
ありがたく乗っかることにした。
ちょうどその頃、僕はバイトのシフトをかなり減らしていた。
仕送りも、これまで入れまくっていた深夜シフトの貯金もある。
少しのんびりしよう、と思った理由のひとつには、薫子との付き合いに、どこか疲れ始めていたこともあったかもしれない。
シフトは週に2回入るかどうかになっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
ところが12月23日。
店から突然電話がかかってきた。
「中田くん、なんとかならん?24と25、みんな休みたがってて、ただでさえギリギリやってとこに、リーダーのヒロがインフルで倒れてもうてん。お前もバイトリーダーやろ?」
店長の必死の声を聞いてしまうと、断れなかった。
「しゃあないなあ」と返事をしてから、僕はようやく、クリスマスのことを思い出した。
その旨を薫子に伝えると、最初はむっと口を尖らせたが、すぐに新しい提案を口にした。
「まあ、仕方ないね。キャンセル料くらいなら大したことないし、日程変えてもらうよ。25日にしよ」
「いや、その……25日もやねん」
「は?」
そこで会話は終わった。
薫子は、それ以上何も言わず、黙って帰ってしまった。
案の定、24日と25日の店は大忙しだった。
楽しそうなカップルを見ながら、僕は何度か、薫子に申し訳ない気持ちになった。
それでも、1週間まったく連絡はこない。
ようやく電話が鳴ったのは、大晦日の前日だった。
「明日、どうするの?大学のみんなと串本に初日の出見に行くって話。私、本当は毎年家族で行ってる有馬の温泉旅館で年越しの方がよかったんだけど、ハルがどうしてもって言うから、お父さんにお願いして予定空けてもらってるんだよ」
電話口の声は、どこか冷たかった。
「クリスマスもすっぽかしてさ。大晦日も、まさか放ったらかしにはしないよね?」
「せやな。クリスマスはホンマ悪かった。もし、もう怒ってへんのやったら、一緒に来てくれたら嬉しい」
僕は、細かい言い訳をさせる前に、「みんなもきれいな彼女に会いたがってる」と半ば強引に誘った。
友達の前に、美人の彼女を連れて初詣に行く。
それが、妙な意味で僕にとっても「一大イベント」みたいになっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
大晦日の夜。
御所の南にそびえるマンション前まで車を回すと、薫子はカシミアのロングコートにマフラー、つば広の帽子という、まるで古い映画から抜け出したような格好で現れた。
北野白梅町の店に着くと、店長が「大晦日にシフト入らんて、どんなリーダーやねん!」とぼやいたが、それは軽く聞き流して、僕らはそれぞれの車に乗り込んだ。
そのとき、タツヤが言った。
「悪い、俺もハルの車乗せてくれ」
「ソアラは?」
「昨日、急にエンストして動かんようになってん。年末でディーラーも工場も閉まってるし、どうしようもない」
僕は一瞬、助手席の薫子の顔をうかがったが、気にしていても仕方がない。
タツヤを後ろに乗せ、名神から近畿道、阪和道と進んでいった。
道中、僕とタツヤはくだらない話で延々盛り上がっていた。
薫子はと言えば、不機嫌そうな顔で、細いメンソール煙草を何本か吸ったあと、黙って眠ってしまった。
串本に着き、初日の出スポットへ歩いて向かうときも、彼女は1言も喋らなかった。
本州最南端の突端から見る初日の出は、本当に見事だった。
暗い海の向こうが白んで、やがてオレンジに染まり、水平線からゆっくり太陽が顔を出す。
あちこちから、自然とどよめきと拍手が起こる。
けれど、薫子は最後まで笑わなかった。
人の波が引き、駐車場に戻ったところで、僕はようやく気づいた。
彼女の姿が、ない。
タツヤと2人で辺りを探し回ると、道路脇でタクシーを止めようとしている薫子を見つけた。
いつの間にか、どこかに電話して呼んでいたのだろう。
「薫子! どうしたん!」
叫ぶと、薫子は1瞬だけこちらを振り向いた。
しかし、すぐに視線を外し、タクシーのドアに手をかける。
駆け寄る僕に、彼女は短く言った。
「じゃ。良いお年を」
その目の端には、涙の光が見えた。
それきり、薫子と会うことはなかった。
約束していたスキー旅行にも、「行かない」と取り巻きの子たちを通じて伝えてきて、そのついでに僕は彼女らに1時間ほど説教された。
「女心が分かってない」
「エスコートがなってない」
「プレゼントの趣味が悪い」
「選ぶ店がどれも救いようがない」
「そもそも釣り合ってない」
「格下なのはあんた」
「女をアクセサリー扱いするな」
「女の敵」
「小学校からやり直せ」
……たまたま一緒にいたタツヤまで、とばっちりを食らった。
とにかく、そのまま彼女はスキーには来ず、大学でも見かけなくなった。
◇ ◇ ◇ ◇
そして、あのスキー旅行の帰り道。
雪道から国道に戻る途中、僕たちは1人の少女を拾った。
今、目の前でほっぺたを真ん丸に膨らませてハンバーグを頬張っていた、この珍獣――舞子だ。
◇ ◇ ◇ ◇
「ふわ~、ごちそうさまでした!」
舞子は頬を赤らめ、ホクホク顔で大きく伸びをした。
さっきまで胸の奥をざらつかせていた古い記憶が、少しだけ遠くなる。
食後、僕はコーヒー、舞子はミルクティーを頼んだ。
「ねえ、ハルくん」
カップを両手で包みながら、舞子が言う。
「さっきのカーディガン、誰の?」
僕は一瞬答えに詰まり、それから笑ってごまかした。
「さあな。昔、ちょっとだけ出入りしてた人の」
「ふーん。ハルくん、モテたんだね」
舞子はそれ以上聞いてこなかった。
ミルクティーをひと口飲み、「あ、クリームソーダも飲みたい」と話題を変える。
それで、いいのかもしれない。
店を出て、クリームソーダをはさんで、鴨川デルタまで一緒に歩いた午後の記憶と、押し入れの上段から引っ張り出されたカーディガンの持ち主の記憶が、静かに入れ替わっていく。
――今は、この子と歩いている。
そう思いながら、僕はロータスヨーロッパのミニカーをポケットの中で1度ぎゅっと握りしめた。
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