第7話 1988年のハンバーグ

その日はもともと午前中に2コマだけ講義があるはずだったのだが、たまたま休講が重なって、僕は丸1日休みになった。

舞子はいつも通り、朝早く起きてホテルのバイトへ出かけ、僕が起きたときにはもういない。


僕は、せっかくなのでゆっくり朝ごはんを作ることにした。


ハンドルを回して豆をガリガリと挽き、紙のフィルターにセットして、沸騰から少し冷ましたお湯を注ぐ。

最初はほんの数滴だけ落として20秒ほど蒸らし、真ん中から細くお湯を垂らすと、豆がふわっと膨らむ。

僕はこの瞬間がたまらなく好きだ。


コーヒーが落ちる間に、手鍋に湯を沸かして酢をひと垂らし。

昨日買っておいた5枚切りの食パンをオーブントースターに放り込み、フライパンには油を引かずにベーコンを並べる。

湯が沸いたところで卵を割り入れ、フォークで手早く卵白を黄身のまわりにまとめていく。


こんがりと焼き上がったパンにたっぷりとバターを塗り、ベーコンとポーチドエッグを盛り付ける。

さすがにオランデーズソースまでは作る気になれないので、マヨネーズに卵黄とレモン汁を混ぜた簡易版で良しとした。仕上げに乾燥パセリと胡椒を軽く振る。


沸騰させないよう注意しながら温め直したコーヒーをマグカップに注ぎ、パンをかじる。

完璧な朝食だ。部屋は畳だけれど。


優雅な朝食を済ませた僕は、もう一杯コーヒーを注いでタバコに火を点けた。

昨夜、舞子に「明日休みやし、バイト終わったらランチ行こか」と言うと、まるで遠足前の小学生みたいに喜んでいた。


さて、それまでどうやって時間を潰そうか。


とりあえず部屋の掃除をすることにした。

散らかり放題になっていた雑誌やパンフレットをまとめ、コインランドリーに持っていく服をトートバッグに突っ込む。

「L.L.Bean」と書かれた白いトートは、まだ少し余裕があった。


舞子の分も入れてやろうかと思ったが、女の子の服を勝手に漁るのはさすがにまずい。

そこで手を止めたものの、床に掃除機をかけ終わると、今度は押し入れの中が気になってくる。


この部屋の主として、押し入れの中がどんな有様になっているか確認するくらいは当然の権利だ。

襖を開けるくらい、罰は当たらないだろう。


意を決して襖を引くと、そこには――なんというか、見事な「巣」が出来上がっていた。


カラフルなクッションのほかに、ぬいぐるみがやたら増えている。いつの間に集めたんだ。

隅のミニテーブルの上には文庫本、輪ゴムで留められた食べかけのポテチ、ガーナチョコ、みかん。

その周りには読みかけの雑誌やメモ帳が散らばっていて、舞子の生活圏がぎゅっと凝縮されていた。


さらにその奥に――「フリスキー」の缶。

テレビのCMで見たことがある。「ネコだいすき フリスキー」の、あれだ。


……なぜ押し入れにキャットフードがあるのか。

問い詰めるのは、また今度にしよう。僕は襖をそっと閉めた。


外は2月にしてはやわらかい日差しの小春日和。

僕は、舞子との待ち合わせの店まで散歩がてら歩いていくつもりで、残りのコーヒーを今度は冷たいままマグに入れ、タバコをくゆらせながら読みかけの本を開いた。


主人公たちが翻訳事務所を立ち上げて軌道に乗り、「僕たちは成功者だ」と祝杯をあげたところで、ちょうどいい時間になった。


スウェット上下にヨレたパーカーという気の抜けた格好を脱ぎ捨て、ヘインズの白Tをかぶり、その上にダンガリーシャツ。

リーバイスのボタンフライを留め、玄関でお気に入りのリーガルのローファーを履く。靴下は、もちろん赤だ。


靴箱の上に投げ出してあった革ジャン――去年ローンで買った、トム・クルーズがトップガンで着てたやつ――を羽織り、外へ出た。


柔らかな日差しの中、橋を渡り、鴨川デルタを横目に加茂街道を上がっていく。

待ち合わせの店までは、のんびり歩いて30分ほど。


まだ空気は冷たいけれど、日差しの中には、確かに春が近づいている気配があった。


川沿いを北大路まで歩くと、白い壁にウッディな茶色の屋根の店が見えてくる。

その前の食品サンプルのショーウィンドウの前に、自転車を止めた舞子が立っていた。


……何かがおかしい。

同時に、どこかで見た覚えのある気配もする。


「お待たせ。店、分かったんやな。待った?」


「ううん、私も今来たところ。このお店?」


舞子のそばまで行って、ようやく違和感と既視感の正体に気づいた。


「どうしたん、そのカーディガン。いつものピンクのフード付きのやつは?」


「洗濯中。これはね、押し入れの上の段で見つけたの。なんかオシャレだったから着てみた」


そう言って、舞子はカーディガンの裾を左右からつまんで、くるっと軽く回ってみせた。

中世ヨーロッパの貴婦人がスカートを持ち上げてあいさつする、あの仕草みたいに。


そのカーディガンは――薫子が部屋着にと置いていったものだった。


何で勝手にそんなものを引っ張り出して、当然の顔で着ているのか。

しかも丈が長すぎて、下に履いているいつもの短パンがすっかり隠れてしまい、ぱっと見、全裸にカーディガン1枚みたいに見える。


何か言ってやろうかと口を開きかけた瞬間、舞子が店の扉を押した。


「さ、入ろ。お腹ペコペコ」


ピークを少し過ぎていたのか、店内はほどよい賑わいで、すぐに席に案内された。

メニューを舞子に渡す。


「えーっと……さっき外のサンプルも見たけど、ここってハンバーグ専門?」


「専門ってほどでもないけど、この店はハンバーグ食べなあかん。美味いで。今日はどれにしよかな」


そう言いつつ横顔をうかがうと、この前酢豚を出したときと同じ、少し引きぎみの表情をしている。


「ハルくん、この店よく来るの?」


「まあ、時々」


「じゃあさ、私よく分からないから、ハルくんが決めて。私が好きそうなの」


好きそうなのと言われても、まだそこまで舞子の好みを把握しているわけじゃない。

分かっているのは、美味いものを出すと、ほっぺたをふくらませてハムスターみたいに黙々と食べる、ということくらいだ。


少し迷って、やはり初回は1番シンプルなハンバーグステーキにしておくことにした。

この店のハンバーグには、全部ライスがセットで付いてくる。

舞子にはハンバーグステーキ、僕は最近気に入っているキノコのホワイトソースのハンバーグを注文した。


料理が運ばれてくると、舞子はおそるおそるナイフとフォークを取り、ハンバーグをつつく。


「いただきます」


僕が促すと、舞子も真似して「いただきます」と小さく呟き、1切れを口に運んだ。


「……うま! なにこれ!」


お決まりの第一声が出た。

この一言が出た瞬間から、舞子はハムスターモードに入る。

ハンバーグ、ごはん、またハンバーグ。表情は真剣そのものだ。


僕はそんな舞子を横目で見ながら、ホワイトソースのかかった自分の皿にフォークを伸ばした。


やがて皿がきれいになったころ、舞子は頬を赤らめ、満足げな顔で深いため息をついた。


「ふわあ……ごちそうさまでした」


食後、僕はコーヒー、舞子はミルクティーを頼んだ。

湯気の立つカップを両手で包みながら、舞子がぽつりと告白する。


「実はね、私、ハンバーグも大嫌いだったの」


「また極端やな」


「お母さんが作るハンバーグ、いつも外は真っ黒で、中はカッチカチでさ。たまに買ってくるのはイシイのハンバーグでしょ?あれで『ハンバーグってこういうもの』って思って育ってきたの。だから今日も、ちょっと覚悟してたんだよね」


「それは……まあ、気の毒やったな」


「でも、なにこれ。私が今までハンバーグだと思ってたものは何だったの?ってぐらい違う。世の中にはこんなハンバーグがあったんだ……」


目をきらきらさせてまくしたてる舞子を見て、僕は「連れてきてよかった」と心底思った。


そのとき、舞子が「あ!」と声を上げた。


「なんや、また何か思い出したんか」


「違う違う、忘れないうちに。はい、これ」


そう言って、カーディガンのポケットから小さな箱を取り出し、僕の前にそっと置いた。


「プレゼント。商店街の古いおもちゃ屋さんの隅っこでホコリかぶってたんだけど、なんかハルくん好きそうかなって」


箱を開けると、ロータスヨーロッパのミニカーが入っていた。

しかも白いボディに赤い帯、帯には小さな撃墜マーク。

どう見ても「サーキットの狼」の風吹裕矢仕様だ。


「うわ、マジか。これ、よう見つけたな。ありがとう!」


興奮して何度もミニカーをひっくり返している僕を見て、舞子も嬉しそうに笑った。


店を出ると、今度は舞子が言い出した。


「ねえ、クリームソーダ飲みたい。あの、緑色のやつ」


まだ何か入るんか、と思いつつ、近くの喫茶店に目星をつけて入る。


丸テーブルの上に運ばれてきたクリームソーダは、きれいなエメラルドグリーンにバニラアイスが浮かび、その上に赤いさくらんぼがちょこんと乗っていた。

舞子はロングスプーンでアイスをつつきながら、嬉しそうに眺めている。


僕はコーヒーを頼み、タバコに火を点けた。

ポケットから取り出したZIPPOは、少し重たい純銀のやつだ。


――そういえば、これ、薫子のプレゼントやったな。


純銀のZIPPOと、商店街のおもちゃ屋で見つけてきたロータスヨーロッパ風吹仕様。

テーブルの上に並べてみると、なんだかおかしくなって、ひとりで吹き出しそうになった。


店を出るころには、夕方の光が少し傾きかけていた。


「自転車、お願いね!」


そう言い残して舞子が駆け出す。

僕は自転車を押しながら、その後ろ姿を追った。


加茂街道を下っていくと、左手に鴨川デルタが広がる。


「ねえ、今日なら明るいし、河原に降りて浅瀬まで行ってもいいでしょ?」


そう叫ぶやいなや、舞子は階段をぴょんぴょんと降りていった。


その背中を眺めながら、僕はふと思った。


――この子と、これからも鴨川デルタを歩いていくのも、悪くないかもしれない。


さっきまで僕の胸をかすめていた、長いこと押し入れの奥で眠っていたカーディガンの持ち主の記憶が、少しだけ輪郭をぼかしていく。


けれど、その話は、また別の機会に。

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