覚醒と昏睡のゲシュティンアンナ
ぜんこうばしくわう(繕光橋_加)
本文
例えばもし、「絶対に誤射しない処刑兵器」があったら、それは人道的産物といい得るだろうか?
世界から戦火は退く気配もなく、肺を汚す猛毒の煙のように、確かに燻り続けている。そんな物々しい世界の中にありながら、例えば私に何か具体的な前進策を挙げる力があるのかと問われれば、何もない。そう言わざるを得ない。私は視線を落とし、すごすごと食卓のシャケを飲み下すのだ。
昔見た何かの映画で、悲劇を止めるための志を立てながらも自らの無力さを苛み、「傘なんていらない、恥ずかしい!」と土砂降りの中を立ち去る男がいた。その姿にひどく胸を打たれた私は、記憶にその映像を焼き付けたまま、ただの憧れとしてぶらさげたままだ。何でもない日常を送り続ける。
しかし思えばやはり、戦災の悲劇とは言わば、非戦闘員の営みに割り込んで降り注ぐ暴力であり、罪がない(ように思われる)人々が蜂の巣にされ、焼け付くジェヘナに逃げ惑うという恐怖だったり、困窮と飢餓という両腕によって、もがくもやむ無く首を絞められることだったりもする。
六月八日。何でもない日だ。
まばらに散らかした雲を挽き肉にしながら、飛行機がかっ飛ばしていく。一週間後には気温がぐっと上がるらしいが、その日はやけに涼しく、部屋に妖怪でもいるかのようだった。不安定な空模様の昼休み、私は珍しく外に出ながら、ぼんやりと空を見上げていた。
「あの空の青に隠れながら、戦略兵器がこの地上を見ているんだろうか……。」
ある国が、発表していた新型兵器。人間の心臓の心拍音をインプットして、遥か空の上から攻撃してくるらしい。どういうことだ。世の中の進化の方向がおかしいように思うのだが、冷静に考えて、いまや超科学の領域に踏み込んだような恐ろしさもある。
さぞ凄いのだろう。人間の心臓の音なんてどれもこれも同じだろうと、平凡な私は思っていた。声紋や指紋と同じだそうだ。異なる血の色があり、異なる涙の色がある。
「……残念だ。シェイクスピアが書いたように、私たちにも同じ色の血が流れていたら良かったのだが。流される涙。すべての人々が、同じ色で、同じ音色だったら良かったのだが……。連中にとってはそうでないらしい。」
残念だ、と再び私は空を仰いだ。私はぽっかりと口を開け、脱力しながらバイクに寄りかかった。
かばんから、スマホが鳴った。『アダムの肋骨』の着メロを雅やかに轟かせる。電話の主は父親で、前まではうるさいくらいに連絡をよこしたものだが、今となってはその数も減り、やっとせいせいしていたところだった。
ボタンを押すだけで、亜光速でミサイルが射出される軍事人工衛星は、愛称で「ゲシュティンアンナ」と言う名が付いた。メソポタミアの農耕神で、多神教の信仰体系の宿命だが、星座として祀り上げられもしたらしい。
それは当事者にとっては、非常に画期的でセンスに攻め込んだ名付けなのだろうと思う。空中から亜光速で撃ち抜く様子は、確かに見栄えも「厨二めいて」格好よく、技術的にも科学の勝利として喝采を受けるべきだろう。もしも攻撃が必要なら、その副物たる被害を極力減らし続ける努力こそ、やはり人道的で評価される、とも言える。
「ただいま……。」
「おかえりぃ。」
奥から父親の声。
古びてもなければ、新しくもない我が家の玄関ドア。日本趣味の父は気に入っているのだろう、木製のドアに縦長の金属のノブが外側に向けて開く構造。例えば靴を脱ぐ、靴だなに靴をしまう、扉に備えられた鏡で身だしなみを見る……など、それは日本の当たり前だ。
当たり前を疑えと、父も母も言う。異なるものを理解しようとしなくして、調和はないのだから。私も学生時代は随分と苦労したけれど、しかしそれも自分を鍛えることに繋がった。その意味では良い思い出であり、また何者とも異なる色の涙の種でもある。
「ダッド、今日は?」
「うん、しばらくネバダに行くことになってね。」
「そう。……って。例のニュースになってるやつでしょ?」
「そ。いいだろう。」
たまに会った父親は、得意そうに、しかし若干自虐的にも微笑んだ。毛頭うらやましくなんかない私だが、彼の老いた微笑みを見ると、舌先すんでで言葉を飲み込んでしまった。
なかなか交友関係の広い父は、稀にだが海の先の友人に呼ばれて、ふらふらと旅に行ってしまう。
母は特にうるさく文句を言うこともない。母も母で相当に稼いでいるし、父親も充分に自力で稼いでいるため、みんなバラバラに生きている。家族という枠組みは私にとって、ゆるやかで途切れ途切れな群れの名前にすぎないが、それは決して互いに関心がないというものでもない。私の父は随分と子煩悩で、無茶な女遊びもしないだろうと、母も、私も願っている。
「私なんて、一介の日本文化学者だからさあ。呼ばれて資料を見せられたところで、航空技術がどうとか、軍事や地政学がどうとか、正直分からんのだけどね。」
「最先端の技術がどうなっているか、知見を広げるのも良いことなんじゃない?」
「まあ、そりゃそうだ。」
しぶしぶと首肯する父だったが、トランクケースにはラフなシャツとパソコンとサングラス。それから、市松模様のパッケージをした日本の菓子折りを詰め込んだ。帰国のついでに縁のある地を巡るのだろう。流石に実家に帰ることはないと思いたい。
父は日本人である私の母に婿入すると、米国籍を捨てて帰化してしまった。だが彼自身の考え方は、生まれ育った米国のハートをそのまま輸入して来たような男だ。周りの人は彼を指して柔和な人だと言うが、しかし自分自身を規定する意思があり、頑固。つまり世の父親同様、身の丈通りのアメリカ男に過ぎない。
敢えて羽を伸ばそうとする父を、咎めるつもりもない。私は冷蔵庫からペットボトルを取り出す。持ち上げたコーヒーは残り少なくて、ガラス瓶のような透き通った綺麗な茶色が揺れた。
「かるっ。ちょっと、これだけ残さないでよ。」
「ああ、まだある。まだある。」
「ないよ、コレ。買ってこないと。」
父親はニコニコとした口のまま目を逸らし、荷造りへと逃げる。
「友達がそのうち家に来るから。ま、ダッドはちょうどいないのね。」
「ん、そうなのか。」
「ちゃんと片付けといてよ。」
ダイニングテーブルの端に、空になったコーヒーボトルを置いた。他に切れている食材はあったかなと、コンロ下の調味料棚を覗き込む。底をついているものはないようだ。果物のひとつでも買ってきた方がいいか?
「やってくる友達は、どんな人?」
「うん、高校時代の同級生。」
「じゃあ、もてなさなきゃな。これ。」
「え?」
紙の擦れる音。彼は千円札を二枚、テーブルに差し出した。
「えっ、べつにいいよ。それくらい。」
「持っときな。何も言わず。」
私は顔に疑問符を浮かべながら、父の顔を見た。父は静かに笑っていた。まだ梅雨前線の届かない空は、燦々と照らす太陽があり、部屋は陰ってやけに暗かった。除湿の効いた部屋だったが、私は身震いをした。
「お客さんは、きちんともてなさなきゃいけないよ?」
「え、ええ。」
彼が何を考えているのか、私は分からない。分からないからこそ、ここでつい返事を返したことは失敗だった。彼は胸中を明かさぬまま、満足そうに頷くと、そのまま行ってきますと言いながら、車にスーツケースを積み込みに行った。
一瞬にして生命を奪い取る超兵器。亜光速に迫る殺意の影が、上空から迫ってくる。それが倫理的で道徳的に運用される日などあるのだろうか。私はそれを父に尋ねたかったが、その問いかけをするより先に父は渡米していった。
そしてしばらく帰ってこなかったので、私はその是非を尋ねることを忘れてしまった。ただ言えることは、梅雨空のあとには、夏の嵐が雷とともにやってくるということであり、それを「恵み」と捉える国に私は住んでいる、ということだ。
覚醒と昏睡のゲシュティンアンナ ぜんこうばしくわう(繕光橋_加) @nazze11
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