第6話
八木橋が言ったマンションの一階にいた。高級マンションらしく、みなそこ区の一等地にあった。入り口から物々しい雰囲気で、重厚な装飾が出入り口を飾っている。
入り口のカードキーの機会にいくと、昨日のシャツを着た八木橋が待っていた。
「やあ。来てくれるとは思わなかったよ」
先ほどの苦しげな声とは思えないハツラツとした笑顔で出迎えてくれた。
(なんだ…。弱ってると思っていたのに)
アスミは八木橋が精神的ダメージを受けていて、危険な状態にあることを声で察した。縋るものが欲しいような、心細い声だった。以前にも聞いたことがある。あの感覚。人間は弱くなると誰かを利用して苦痛を軽くしようとする。
「変なことしないでくださいよ」
のこのことこんな男について行く私は馬鹿だと思ったが、それ以上にこの男がどこまで不安定な精神状態なのか興味があった。殺し屋をなりわいにしている男のもろさに興味があったと言っていい。やはり人間、人間を殺す仕事をしてれば精神がおかしくなるという証拠がこの男を観察すれば得れる気がした。
「しないよ、行こう」
304号室にエレベーターで向かう。2人きりになったが、2人は無言のまま部屋に向かった。
室内はモデルルーム並みの広さと家具が揃っていた。中央に位置するダブルソファとテーブル。黒の基調で合わせられたキッチンテーブルとイスも傍らにあり、別々に分けられたシステムキッチンが奥にある。
テレビカウンターの上の52型のテレビと簡素なゴミ箱があった。
部屋数は3部屋だと分かった。リビングの左側に位置するドアノブが見えた。
「何かのむかい?」
ソファに勧められるまま座っていると、八木橋が気を使って、飲み物を飲むか聞いてきた。
来てやったからこれくらいいいだろうと思って、お茶が欲しいと伝える。
「はい、どうぞ」
目の前に氷の入ったアールグレイティが置かれた。
八木橋が隣に無理くり座って手を握ったままくっついてきた。
「ちょっと!やめてください」
「ごめん。この態勢でいていいかな」
あすみの握った手を自身の顔に触れるように固定してじっとしている。
この男は何がしたいのだ?
「何してるんですか」
「こうすると落ち着くんだ」
「人肌が落ち着く?」
「そうだね。だからセックスが好きなんだけど、君はしたくないって言うからしないよ。ただこうやって人肌というか、ぬくもりを感じていたいんだ」
「ほんとに病気みたい」
「ああ、病気だよ。何回も言ってるだろう」
八木橋は真剣な顔をして、じっとその体勢を続けている。しびれが出てきて、アスミは手をぱっぱっと振り払った。
「痺れが来たんです。ちょっと解放してください」
「君はあの仕事が好きかい?」
八木橋が突然尋ねてきた。
「好きなわけない」
好きなような顔をしていただろうか。ただただ金欲しさにしているだけだ。それは八木橋も同じだろう。
「俺昔さ、両親が離婚して、母方のほうについてったんだけど、親が仕事しなくてね。男とばっかり遊んでた母親なんだ。父親の方もアル中のDV野郎でもう一家破滅型みたいな家族だったんだ。そんな俺ができる仕事なんてなくてさ。気づいてたら、ただ頼まれて人殺してた。案外、人殺しても見つからないもんでさ。それも他人ならなおさらで。いつの間にかこうして生き延びてた」
八木橋はアスミに両親のことを話してきた。自分に親近感を抱いているのだろうか。心が弱くなってしまって、話さずにはいられないのだろうか。
「中途半端に整った顔してるから昔はもっと嫌なことしてた。
男娼っていうの?オヤジたちの相手すんの。昨日の君みたいに」
はっとした。この男は体を売っていた男なのか。
「男と寝てた時だった。そんな生活もう嫌だと思って、脅したんだ、相手を。そうしたら、そいつが自分から殺されに来たんだ。不思議な感覚だった。初めて人を殺したのはその時だった。そのとき、知り合っていた目黒さんに助けてもらって、売りはやめた。でも今度俺のできる仕事はなかった。だから殺し屋を始めたんだ」
「それしか仕事ができないの?」
「できないと思ってる。だって普通の人間と住んでる世界が違いすぎる」
「それでもやっていくしかない」
「君もわかってるだろう。外れたやつは外れたところでしか生きれないんだ」
痛々しいほどの事実だった。殺し屋なんてしてきた人間が次の日からスーパーの店員としてなじめるわけがない。一般から外れた挙動や顔つきは目につきやすい。一般の生活を過ごすことがどれくらい難しいことなのか分かってるつもりだったが、自分の問いが考えなしに発せられたものだと再確認した。
冷たき水底 @acdc28882
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