ルドヴィーコの治世⑧

第八節 鐘楼しょうろうむせび、帝国の夜に剣は種をまく


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鐘は鳴らなかった。

咽び、軋む音だけが、霧に沈む山峡さんきょうの街に落ちていた。

鳥がかず、人が口を閉ざすとき、もっとも雄弁なのは、もくされた石と風だ。

帝国という名の夜が、地を這い始めた。

それは影ではなかった。血の通った意志だった。

誰かが、土をえぐり、種をまいていた。

見えぬ根が、地中を裂いていた。

わたしたちは、その軋みを知らぬふりで聴いていた。

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 1458年4月1日、ジュネーヴの統合は公式に完了した。外交記録には、形式的な条文が並ぶのみであり、「属国の信託解除」「相互協約の履行りこう」といった無機質な表現が繰り返されていたが、統合された都市の石畳には、見えざる圧力がひたりと染み込んでいた。

【公式記録:モンフェッラート公フィリッポ・ディ・モンフェッラートの祝辞】

「我が敬愛すべき友ルドヴィーコ公よ、その卓越した御治世のもと、ジュネーヴが貴家の庇護の内に帰したこと、まことに喜ばしき次第。」

 ──だが、その書簡と共に届いた密使の筆記には、次のような記述が残されていた。

【密使手記:同年4月3日】

「祝辞は平穏そのものであったが、公の手は震えていた。儀礼の陰に覗く焦り、あれが我らの運命ではないかと、家臣たちは目を逸らした。」

 ルドヴィーコは内心、モンフェッラートを即座に吸収すべきであると確信していた。しかし、帝国内におけるサヴォイアの影響力を保ち、また表面上の秩序を保つためには、強力な公爵領という形式を保持せねばならなかった。

【ルドヴィーコ私記:1458年4月2日】

「彼らを飼う。我らの糧ともなるべき地であるが、しばし、首輪を外さぬままでいよう。」

 一方で、ジュネーヴの市民は、統合の報に困惑しながらも沈黙を貫いた。

【ジュネーヴ市民の声(採録)】

「あの人がいたら、きっと何か言ってくれただろう。だが、アンリ様はいない。あまりにも唐突に。」

 スイス諸都市では、この動きに深い疑念と警戒が広がった。

【ローザンヌ修道会書簡(抜粋)】

「神は知り給う。彼の死が、あまりに都合よく事を運ばせたことを。」

 アンリ・ガーゼンツァーの死は、いかなる告発も起こされぬまま、静かに街を支配する闇となった。

【ルドヴィーコ表向きの弔文】

「ジュネーヴの叡智えいち、アンリ卿をうしないしことは、この地と教会にとってかけがえなき損失である。」

 だが、その直後の密書には冷徹な一節が綴られていた。

【ルドヴィーコ密書:同年4月5日】

「これを機に、我らの手を緩めるな。統合は、言葉ではなく、骨に染みる仕組みで進めよ。」


 同年8月1日、王は国家の宗教的求心力の再編を図り、地方寺院の再建と改築に乗り出した。

【官報告示:寺院建設令】

「信仰の深奥を再び市民の目に、耳に、魂に触れさせるべし。」


 8月12日には、軍備強化のための鉄の大量輸入が決定され、侯国サルッツォとの会談が実施された。

【会談記録:サルッツォ侯ニコロとの応答】

ニコロ侯「供給の余裕は……否、我らのためであれば、誠意を尽くすのみ。」

ルドヴィーコ「鉄は、ただの金属ではない。貴国の壁であり、我らの未来でもある。」

 このやり取りは一見和やかであったが、記録官の筆記には、次のような断片も添えられていた。

【筆記官の記述】

「侯は終始笑っていたが、声に微かな揺れがあった。公は、慈愛に満ちた言葉の裏に、まるで幼子をなだめる父のような口調で応じていた。」

【ルドヴィーコ私記:1458年8月13日】

「彼らは恐れている──それで良い。鉄とは、貸しであり、絆であり、首輪でもある。」


 また、同年9月と12月には、教皇領およびブルゴーニュより資金援助の要請が寄せられた。サヴォイアはそれぞれ24ダカットを拠出し、両国からの感謝状とともに外交儀礼文が届けられた。

【教皇庁外交文書】

「寛大なるサヴォイア公、あなたの信仰と慈悲は聖都に届きました。」

【ブルゴーニュ使節の書簡】

「貴国の助力により、我らの冬は凌がれん。真に、兄弟なる隣人なり。」


 1459年10月4日:イングランドの亡命者

 イングランドからの亡命者が密かにサヴォイア宮廷に現れたのは、秋の霧が山間を覆い隠す頃であった。その姿は名も告げず、身分も明かさず、ただ「我が主は凍土に閉じ込められた」とだけ語ったという。この男の受け入れについて、ルドヴィーコ1世は即座に書簡を起草し、ロンドンの政権に対し婉曲ながらも明白な意図を伝えた。

――外交文書(1459年10月5日)

「彼の身の上については、いかなる政治的 含意がんいも我が国は持ち合わせていない。ただし、王家の系譜を重んじる国として、庇護ひごを拒むわけにもいかぬ。いずれ帰るべき場所があることを祈るのみである。」

 その実、ルドヴィーコの内心は複雑であった。イングランドとの関係をこれ以上損なう意図はなく、しかしまた、混乱の只中にある島国の事情をたくみに利用する意欲も秘めていた。

――ルドヴィーコ1世の発言記録(1459年10月)

「彼を庇護することは慈悲でもあり、警鐘でもある。誰に対してとは言わぬがな。」

 この一件は、のちにサヴォイア外交の柔軟性としたたかさを象徴する一幕として記録されることとなった。


 1459年11月1日、秋も深まるこの日、王宮書記官が公的な性格記録を更新した際、サヴォイア君主ルドヴィーコ1世には、内外より「情け深き王」としての呼称が静かに定着しはじめていた。その背景には、亡命者の庇護、教皇領・ブルゴーニュ両国への寛大な経済支援、そして先のスイス戦争後における寛容かつ慎重な姿勢が積み重なっていた。月々の戦争疲弊が自然と和らいでゆくかのように、彼の治世には不思議な鎮静が漂いはじめていたのである。

――ジュネーヴ修道院における説教師の記録(1459年11月)

「この王は、鋼を帯びた寛容であろうか。あるいは、寛容をまとった鋼であろうか。我らには判じがたい。ただ一つ確かなのは、その在り様に、人はいつしか従ってしまうことだ。」

 ルドヴィーコはこうした評価に表向きは関心を寄せていなかったが、その発言には時折、自身の施政と慈悲について語る余地が見られるようになった。

――ルドヴィーコ1世の書斎における私語(筆記官不在時の記録)

「情け深い王だと? ……ならばなぜ、誰も私を真の友と呼ばぬのだろうな。」

 この記述は、同時代の筆録士が書き残した稀有けうな内面の記録であるとされ、後世の史家はこれを、王の「孤高」の兆しと見なすこともある。


【1460年1月2日】

 コルシカ分離独立派の蜂起

 年明け早々、コルシカ島にて分離独立を掲げる一派が武装蜂起した。だが、その背後には、表立っては沈黙を保ちながらもサヴォイアの膨張主義を警戒するスイス諸連邦の一部――特にヴァリスとウーリの旧指導層――が密かに支援していたとの噂が、戦後になって囁かれるようになる。また、ジュネーヴの併合により都市の有力商人たちが持っていた経済的影響力が失われたことに端を発し、彼らの一部が資金を密かにコルシカへ流していたという証言も、後の記録には残っている。

【証言:コルシカ島南部の村長】

「あの夜、突然現れた男たちは、正規兵のような装備をしていた。島の者じゃない。話す言葉に山の訛りがあった」

【注記:ジュネーヴ出身の商人の日記より】

「我らの街を売ったあの男に罰が下るなら、我が金は惜しくない。島の風が、それを運んでくれることを祈る」


【1460年1月6日】

 宗教界の動きと教会税

 サヴォイア国内にて、影響力ある説教者の一団が出現し、宗教改革に備えた教会の再構築と増税を正当化する説教を行った。これを受けて王ルドヴィーコは、彼らの一部をローマへ派遣することを決定し、教皇への忠誠を示す形となった。この動きは教皇庁にも受け入れられ、以降20年間にわたり「増税に対する教皇の認可」が与えられた。この制度改革により、国家財政は顕著な安定を見せ始めた。

【教皇庁勅令(写本)】

「忠実なるルドヴィーコの国に、神の恩寵あれ。聖ペトロの意志を以て、民を導くことを認む」


【1460年1月17日】

 コルシカの戦い

 国軍は迅速に対応し、17日には反乱軍の主力を打ち破り、独立派の蜂起を鎮圧した。戦闘は苛烈を極めたが、短期間での終結はルドヴィーコの軍政への信頼を高めるものとなった。


交戦勢力        歩兵 騎兵  戦死者  投降者

サヴォイア軍(開戦時) 15,000 3,000 1,032 ―

サヴォイア軍(終結時) 13,968 3,000 ― ―

反乱軍        5,000 2,000 3,284 3,716


【王ルドヴィーコの発言(戦後会議にて)】

「これは蜂起ではない。警告だ。我らが併合した都市の不満が、既に他所へ火を点けた。ジュネーヴの静寂の下に、いくつの声が埋もれているのか……」

【側近メモ(非公式記録)】

「陛下は勝利の後も笑わなかった。むしろ沈黙が重く、私たちまで息を詰めたほどだった」


 1460年2月1日 軍制の刷新

 この日、サヴォイア軍制に新たな進展がもたらされた。長きにわたり諸侯や傭兵団に依存してきた戦闘編成が再検討され、「標準化パイク」の理論が導入される。これに伴い、従来の槍兵はギャロウグラス歩兵と呼ばれる新型の編成へと転換され、近接戦における重装備と密集陣形の有効性が再確認された。近衛軍団の指揮官は、次のように記録している。

「敵の陣に対し、剣で一騎討ちする時代ではない。人を壁とし、人に守られる鉄槍の林こそ、我らの盾である。」

 この改編は、1450年代を通じて培われた実戦経験の総括でもあり、今後の兵制における指針ともなった。


 1460年2月23日 「ビザンツ帝国からの難民」

 東方の帝都がついに陥落したという報が、西の公国にも届いたのはこの頃である。コンスタンティノープル、古のローマの継承者にして東方正教の象徴。その崩壊は、キリスト教世界全体に暗い影を落とした。多数の学者、書記、聖職者が地中海を渡って避難し、その一部がサヴォイアへと保護を求めた。彼らの技術と書巻は、国家にとって貴重な文化的資源であり、同時に政治的にも意味深い動きであった。

 公文書には、ルドヴィーコの命によって難民の受け入れが明記されている。

「彼らの喪失は我らすべての喪失である。神の名のもとに、すべての知と信仰の残響を、我らの地に迎え入れよ。」

 サヴォイア宮廷では、これを受けた聖職者による式典が執り行われ、避難者の一団が王宮で面会する様子も記録されている。一方、教皇庁も公式書簡にてサヴォイアの対応を称賛したが、保守的な枢機卿の間では、異教混交に対する警戒の声も上がったという。

 宮廷内の書記官が記した備忘録には、こうある。

「陛下は、東方の滅亡を教義の喪失と捉えておられた。だが、民衆はそれを理解せず、芸術家は炎の中に新たな創造の兆しを見る。」

 王は亡命者をかくまいながら、その知識を巧みに国家体制へと編み込もうとしていた。かつての帝都が滅んだ日、サヴォイアにとっての新たな「知の都」

が静かに芽吹き始めていた。


【1460年3月1日 – 「影の王国」議題提出】

 神聖ローマ帝国議会は、1460年3月1日、かねてより議論されていた「影の王国」問題に正式な議題として取り組むこととなった。提出された議題の名称は、《イタリア支配の回復》。すなわち、長年にわたり帝国法の枠外で統治されてきたイタリア諸侯に対し、帝国の権威と帰属を再び求めるべきか否かという問題である。このしらせはただちにトリノの王宮にも届いた。王国評議会は同日中に開かれ、聖職者・貴族・都市代表が招集された記録が残る。

「帝国に留まることが我らにとって利益であるか、いや、損失となるか――この問いは、もはや個人の好悪よしあしで語ることはできぬ」

―都市代表ギルド長、オルランド・バルデスの演説断章(記録官ヴァレンテ写本より)

 議会では慎重論と帝国残留支持が拮抗し、熱を帯びた議論が数日にわたり継続された。特に貴族層の一部には「帝国法を守り続けても、サヴォイアが常に報われるとは限らぬ」という猜疑さいぎが見られ、都市勢力の中にも「独立を志すイタリア諸侯と歩調を合わせるべき」とする声が高まっていた。そのさなか、王ルドヴィーコ1世は沈黙を保ち続けていたが、3月6日、ついに評議会に出席し、次のように述べた。

「我々は帝国の中にあって、帝国とともに栄えた。いまこの時、乱れを助長することは、慎むべきである」

―ルドヴィーコ1世、帝国議題評議会における発言(記録官ギルベール写本より)

 この発言は一見、帝国残留を支持する穏健な立場を表したものと見られた。しかし、同夜に書かれたとされるルドヴィーコの私的手記には、以下のような記述が残る。

「帝国は老い、腐蝕し、しかも未だに形ばかりの冠を掲げている。だが、我が王国はその空洞の中に根を張る。やがて我らが芽吹く時、帝国は内から喰い破られるだろう」

―ルドヴィーコ1世、手記断章晩餐後の余滴

 表向きには帝国と歩調を合わせるという姿勢を強調しつつ、実際には帝国体制の内側で影響力を拡大し、状況に応じてその中枢を掌握しようとする意図が、すでにこの段階で見え隠れしていた。

 トリノでの議論の熱が冷めぬうちに、この問題はイタリア諸邦にも波紋を広げていった。ミラノでは祝祭の鐘が鳴らされる一方で、モデナやフェラーラでは「帝国放棄の決起を求むる書状」が出回り始めたとされる。サヴォイア国内では、貴族層が沈黙を選ぶ中、都市部の一部ではルドヴィーコの帝国残留方針に異を唱える壁書が密かに貼られた記録もある。

 議題の行方がどうなるか――それはまだ、帝国議会の票決に委ねられていた。


【1460年6月1日】

 ピサ州交易中継港への改築

 ピサ港における交易網の再整備が完了し、同港は正式に「中継港」として位置づけられた。ルッカとフィレンツェを経て地中海を結ぶ交易動脈における要衝ようしょうとして、かつての栄光を取り戻さんとする意図が明確である。

「かつて、ピサは海の王であった。その誇りは、たとえすたれようとも、潮の匂いが残っている限り、我らの中に生きている。」

―ルドヴィーコ1世の演説より(1460年6月1日)

 同日付で、港湾労働者組合からは「新たな雇用の機会と都市の復興に感謝する」との声明が発せられ、ピサ市民の間では久方ぶりの明るい声が広がった。


【1460年7月10日 サヴォイア公国 - トリノ宮廷記録抄】

 その日、アラゴン王国より一通の外交書簡がもたらされた。内容は、学術的知見の共有を求めるものであり、「王立工芸学院における行政的理論の研究が停滞しており、貴国の進展に学びたい」とする丁重な文面であった。しかし、宮廷内は一時騒然となった。かつて、唐突に同盟を破棄し、欧州の情勢不安に際し背を向けたアラゴンが、今さら手を差し伸べてきたという事実に、廷臣や議会の一部からは強い反発が巻き起こった。

「いったいどの面下げて知識を乞うのか」「信頼とは、破られた記憶とともによみがえるものではない」と、特に貴族階級を中心に、冷ややかな反応が多く記録されている。

 その渦中、アラゴンからの二通目の書簡が到着する。そこにはこう記されていた。

「かの破棄は、王の意志に非ず。今、我らはその誤りを悔い、再び共に歩む道を模索せん。願わくば、再び兄弟の盃を交わさんことを。」

 書簡は署名も含め、国王フェルナンド自身の手によるものであったとされ、謹直きんちょくな筆跡に偽りのない誠意が見られたという。これを受けたルドヴィーコ公は、王宮内の私的執務室にて側近らと短い会談を行い、その夜、以下の密約が草案されることとなる。

【密約文書:トリノ合意草案(未公表)】

「王国アラゴンと公国サヴォイアとは、将来において相互の尊重と防衛を旨とした同盟を再構築する意思を確認する。

その実現の前提として、知見の共有は文化的絆を深める礎と認め、当該要請を受け入れるものである。


西の地にかつて灯された理性と忠誠の火は、今ふたたびアルプスの峰より温もりを帯びん。


サヴォイア公:ルドヴィーコ一世・ディ・サヴァイア

アラゴン国王:フェルナンド二世」

 この文書は公にされることなく、記録係の手により密封され、王家の外交記録庫に保管された。

 ルドヴィーコは柔和な態度を貫いた。

「対話の扉は、互いの過失を乗り越えた者のみに開かれる。彼らが再び誠実に歩むというのならば、我らはそれを迎えよう。」

 こうして、知識の共有は正式に受諾され、再同盟への伏線が静かに、しかし確実に引かれていったのであった。


【1460年11月2日 シャンベリ宮廷記録】

 この日、ルドヴィーコ一世は「第三次領地改革」と呼ばれる大規模な行政刷新を断行した。形式としては、地方貴族との権利調整に見えるものの、実態は、王権による徴税機構の再編と、各州の管轄権を中央に統合する大いなる転換であった。

 議会の席上、王は次のように演説したという。

「公国はもはや、昔日のようなばらばらの領地の集合体ではない。鉄と塩と祈りの名において、我々は一つの国土として歩まねばならぬ。」

 貴族の中には、発言権の後退を危惧し、低く呻く者もいたが、都市出身の官僚や、近年勢いを増す市民層からの喝采が、やがて議場を包み込んだ。各地の反応は静かだったが、これは恐らく、反発する力すら失っていた証左しょうさであった。


【1461年1月23日 密約に基づくアラゴンとの再同盟】

 前年の知識共有の申し出に端を発した交渉の末、サヴォイアとアラゴンとの間に再び軍事同盟が結ばれた。この同盟は、公に発表された条文の背後に、慎重に取り交わされた密約があったとされる。

 史料の中には、ルドヴィーコとアラゴン王アルフォンソの代理使節との間で締結された「モンテッラ協定草案」に言及するものがあり、これによれば両国は将来的なイタリア政策において協調する意志を共有していた。

 この再同盟に関して、ルドヴィーコは書簡の中でこう述べている。

「我らは赦しの証として手を取り合った。されど、それは信義の上に築かれるべき契約であり、裏切りの記憶を拭うには充分ではない。ゆえに、誓約は文として遺された。」

 同盟の発表後、国内の反応は複雑だった。貴族の中には「過去の背信を忘れたのか」といきどおる者もおり、市井の者たちの間にも懐疑は渦巻いた。だが、宮廷内では「公国の戦略的孤立を避ける現実的選択である」とする声が優勢となり、ほどなく同盟は正式に承認された。


【1461年3月1日 サヴォイア、皇帝への服従を再宣言す】

 帝国議会における「影の王国」可決から数日後の1461年3月1日、サヴォイア公ルドヴィーコ1世は正式に「皇帝への服従」を再宣言した。この布告は、シャンベリの王宮において王自らの筆によって認められ、以下のように公示された。

《布告文抜粋》

「我らが王国は、皇帝権の名の下に創建され、長きにわたりその秩序の中に繁栄してきた。

今こそ、列邦が離反を選ぶ中にあっても、我らはその証を掲げ続けよう。

帝国はもはや強くはない。されど、帝国の名は重い。

その影に宿る正統の灯を、我らは消さぬ。これは主権の放棄ではない。

むしろ、主権の深耕しんこうである。」

 この宣言は、帝国内外の諸侯に一定の評価をもって迎えられたが、国内では異なる温度感が生まれた。

■ 貴族階級の反応

 上級貴族の間では、おおむね支持の姿勢が示された。帝国内における自らの封地ほうちと特権が帝国制度に依存している以上、離脱はむしろ不安要素であった。

「影の中にこそ我らの特権は根を張る。

帝国の秩序が続く限り、我らは法の名において統治できるのだ」

―― サヴォイア伯家家臣、アウグスト・デル・バッロ(私信より)

 ただし、若手の中には王権の強化を危惧する声も散見され、内心では忠誠と計算の間で揺れる者もいた。


■ 市民階級と地方都市の反応

 都市市民の一部――特にリヨンやトリノの商工会――では、帝国に残ることでライン方面との交易優遇が維持される可能性を歓迎する声が上がった。

「独立の響きより、安定と規格の保証の方が商人にとっては金だ」

―― トリノ市商会報

 一方、ジュネーヴやロマンディ地方の知識人層からは、王が選択の自由を放棄したように見えるとする批判的論調もあった。

「帝国の残照ざんしょうにすがるその姿勢は、果たして栄光か、恐怖か」

―― ジュネーヴ市大学、匿名の論考


■ 聖職者層の反応

 聖職者の多くは帝国との宗教的一体性を重視し、皇帝権への服従を歓迎した。カリニャーノ修道院を中心に、帝国の法と教会の一致が説かれる説教が行われた。

「皇帝と教会は同一の秩序を戴く。皇帝を否とするは、神の裁きを否定するに等しい」

―― 修道院長ギヨーム・ド・サン=マルタン


■ ルドヴィーコ1世の内心と記録

 この決定の背後には、帝国に残ることによって得られる国際的な“遮蔽効果”と、未来の主導権奪取の目論見があった。

 【ルドヴィーコ1世 私的手記 1461年3月1日】

「臣民は、この決定を正義と受け取るか、怯懦きょうだとみなすか。

いずれにせよ、我は盾の裏に刃を隠す。

帝国の名を借りて内政を固め、影に紛れて牙を研ぐ。

影の中に潜むものは、光を見失うのではなく、光を奪う時を待つ。」

 この布告は、同時に国内統治の諸制度を強化するための法案とともに布告され、不穏度の上昇と引き換えに、王権の権威を明示する結果となった。


---

剣は、光の中で鍛えられるとは限らない。

鋼を打つ音は、影の中でこそ響く。

帝国の外皮を守る者たちが、聖域の名を唱えるとき、

その内臓に蠢く野望は、寡黙な笑みを浮かべていた。

鐘楼は咽び、祭壇は沈黙し、

ルドヴィーコの足元に撒かれた種は、

やがて、茨として実を結ぶだろう。

その棘が誰の肌を裂くのか、まだ誰も知らない。

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