ルドヴィーコ1世の治世⑦

第七節 塩と麦が揺らぎ、祈りが掠れ、鐘は鳴らず

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塩は湿り、麦はこぼれた。

声なき市場の片隅で、誰もが値を訊くことをやめた。

風は紙片のように祈りを巻き上げ、教会の鐘は──鳴らない。


ただ、静かに。

土の下で何かが膨らみ、芽吹く音さえ聞こえぬまま、

私たちは、きざしというものをうしなったのだ。

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【1455年11月27日】

 スイスとの講和は、ついにミラノによって成された。総力戦とも称すべき消耗の果て、両軍はそれぞれの死者を数え、もだして言葉を失った。

 講和条約の内容は、以下の通りである

・スイスは、ミラノに対し、毎月の収入の十分の一を戦争賠償として支払う。

・賠償金の総額は135.0ダカットに及び、そのうち67.56ダカットはサヴォイアに分配された。


 【布告:ミラノ政府より帝国各国へ布告】

「帝国の安寧あんねいと正義のため、我らはスイスとの講和を完了せり。支払われる賠償金と破棄される条約は、帝国の秩序と未来の安定を意味する」

〔署名〕ミラノ総督 ジャコモ・デッラ・スカーラ


 【発言記録:サヴォイア公ルドヴィーコ1世】

「戦争は終わった。だが、我らの骨と肉が裂かれたという事実が、金貨の音で消えることはない」


 【発言記録:スイス諸都市評議員 アンセルム・ヴィンターター】

「この講和は屈辱だ。しかし、それでも生き残ることを選んだ。歴史のページは敗者の血でつづられてきたのだから」


 【発言記録:ミラノ総督ジャコモ(内密の手記)】

「我らの兵は動かず、彼らのしかばねは山となった。だが我らが得たものは…金と名誉の二つだけだ。領地は、彼らが巧妙に握っていた」


【1456年1月1日】

 サヴォイア宮廷では、軍備再建の危機感がかつてないほどに高まっていた。人的資源は枯渇し、各地の部隊には既定の兵数すら充足できない中隊が複数存在し、王宮では夜をてっして軍監たちが再編の計画を詰めていた。このような情勢を受け、議会は「予備人的資源の増強」を議題として審議を開始する。


 【発言記録:貴族階級代表 ピエール・ド・シャトレ】

「戦争の火は消えても、残された灰は国土を覆っている。今、我らの血筋に再び命を吹き込むべきだ」


 【発言記録:サヴォイア公ルドヴィーコ1世】

「我が王国に必要なのは“数”ではない。戦える“意志”だ。だがその意志を持つ者すら今は不足している。ならば、地をたがやすより先に、兵舎を築こう」


 議会は満場一致でこの議題を可決し、王は以下の布告を発した。


 【布告:サヴォイア公ルドヴィーコ1世による布告】

「この国に再び剣を握る者を集めよ。我らの祖国は、まだ休むには早すぎる」


 この布告は貴族たちの間に歓迎され、市民階級の一部からも拍手をもって迎えられた。だが、遠く農村部では、再徴兵への恐怖がひそやかに語られていたという。


【1456年9月1日】

 王国議会にて、貴族の特権と権限の見直しが議題に上がった。王と議会との間には、長年にわたる緊張がくすぶっていたが、戦争による貴族層の軍事的優位の揺らぎを契機に、改革派が王に歩調を合わせた。


 【議場発言録:貴族階級代表 ギヨーム・デ・ヴィレヌーヴ】

「我らは代々この国を支えてきた。それを忘れることなきよう。ただ、時代が変わるなら、我らも応じよう。だが、その対価を忘れるな」


 【議場発言録:サヴォイア公ルドヴィーコ1世】

「私は貴族たちを信じている。だが、特権は盾ではなく、役目だ。我らすべてが民のために力を注ぐのならば、互いの責務を正さねばならぬ」


 議会の投票により、貴族の政治的影響力に対する抑制政策が成立した。内容は、「土地支配に伴う裁量の一部を王権のもとに再編する」「税収の配分率を国庫寄りに再調整する」という穏健かつ確実な形式を取った。


 【布告:王令第186号「領域奉仕の再構築について」】

「この王国の富と義務は、民のものである。従って、貴族の保有する特権は、祖国への奉仕のかたちとして見直される」


 市民階級はこの動きを歓迎し、一部の下級貴族や行政官も王の統治理念に賛同の意を示した。だが、長年特権にあぐらをかいていた旧家の貴族たちは、沈黙のまま議場を後にしたという。


【1456年10月6日】

 一つの小さな報告が、王宮の執務室に届いた。

「ニッツァ南方の市場にて、役人が公然と賄賂を受け取る姿が目撃された」

宮廷ではさざ波のような沈黙が走ったが、王は短く、そして冷ややかに言った。


 【サヴォイア公ルドヴィーコ1世の言葉】

「それはただの格言で済まされることだ――と、誰かが思っているのならば、私が“格言の意味”を教えよう」


 それでもなお、この件に対して大規模な調査は行われず、王は他の改革に焦点を絞る姿勢を取り続けた。腐敗は火種となり得るが、時にはくすぶらせておくほうが容易なこともある。


【1457年1月2日】

 ジュネーヴ市に対して、王国は25.0ダカットの寄付を行った。形式は慈善基金の名目であったが、実際には併合準備の一環として行われた政治的“潤滑剤”であった。

 【外交文書:サヴォイア公ルドヴィーコ1世よりジュネーヴ議会への書簡】

「ジュネーヴ市の文化、歴史、そして民の誇りに敬意を表する。これはその尊厳に捧げる一滴の水である」


 【反応:ジュネーヴ市民の声(市門に集まった青年商人たちの会話)】

「王は金を持ってきた。言葉は綺麗だが、あれは買収ではないのか?」

「でも、寒さをしのげるのも事実だ。俺たちの未来、少しは明るくなるかもしれん」


 この「温情の贈与」は表向きには好意的に受け取られたが、街の片隅では、「黄金の手に首輪が繋がっていく」と皮肉る声も聞かれた。


【1457年2月3日】

 ついに、ジュネーヴ併合に向けた動きが公となる。サヴォイアからの要求に対し、ジュネーヴ市評議会はかねてより水面下でスイス諸都市との連携を画策していた。中心にいたのは、統治者アンリ・ガーゼンツァーである。


 【発言:アンリ・ガーゼンツァー(評議会記録より)】

「サヴォイアの金と香りに屈するな。我らには同胞がいる。我らの意志はスイスの山と同じく、揺るがぬ」


 その翌週、アンリは急死した。公式発表では「持病による容体急変」とされたが、ジュネーヴ市内には、ある種の諦念ていねんと恐怖が流れた。


 【反応:スイス連邦評議会より非公式発言】

「ジュネーヴが沈むとき、我らが手を伸ばせなかったことを悔やんでも遅い。だが――それでも何かがあったのではないか?」


 【反応:サヴォイア公ルドヴィーコ1世(表向きの声明)】

「誠実で理知的なるアンリ殿の訃報くほうに接し、深い悲しみを禁じ得ない。彼の功績はジュネーヴと我が国の未来に語り継がれるだろう」


 【反応:同日夜の王の私的手記より】

「機は熟した。誰が絞首台の縄を引いたかなど、もはや関係あるまい。都市は、もはや一つとなる準備を整えつつある」


【1457年6月2日】

 ピサ市にて、分離独立派による大規模な蜂起が発生した。かつての都市国家の誇りと自治の夢が、炎となって街路に揺れた。反乱軍は、歩兵6,000と騎兵2,000を動員し、地方貴族や旧フィレンツェ派の市民たちも密かに糾合きゅうごうされた。


 【蜂起文書(反乱派による市内掲示)】

「ピサはピサのものである。獅子の咆哮ほうこうを聴け、フィレンツェの記憶を我らが街路に呼び戻せ!」


 国王ルドヴィーコ1世はこの報に即応し、1万3,409の歩兵と2,772の騎兵からなる討伐軍を派遣。わずか20日後、ピサ郊外の野戦において反乱軍は包囲・殲滅せんめつされた。


 【戦闘後の王の布告】

「王国の大地に、炎と血をもって国境を引こうとする者よ。我が軍の槍が、それを否と告げた」


 反乱軍は2,464の歩兵と1,003の騎兵を戦死で失い、残る者たちは降伏した。ピサの街は沈黙を取り戻したが、その静けさには怯えと疲弊が含まれていた。


【1457年7月1日】

 ルッカ州に、ルネサンス文化の風が到達した。古代ギリシア・ローマの再興をうたう文人、建築家、学者たちが、都市の市場に集い、図書館と公会堂の間に知の広場が生まれた。


 【記録:芸術家ジョヴァンニ・フィエゾレの手記】

「この街には、石の中に光がある。描かねばならぬ――新しい神のかたちを」


【1457年10月1日】

 この日、王国は公式にルネサンス文化の受容を布告した。数年来、ルッカやピサに根を下ろしていた人文の流れが、ついに王国中枢にも到達したのである。


 【布告:「人文の興隆こうりゅうについて」】

「かつて我らの祖が剣で築いた王国は、今、書と筆によって補強される。

言葉を学び、数を整え、形に美を求めよ。知の復興は、我が王国の新たな力である」


 王はこれに伴い、王立会計院および王国通商会議による新制度「債券発行および割引制度の導入」を承認。これは、国家および商人による信用取引の透明化と、利付りつき証券を用いた徴税・借款の安定運用を促すものであった。

いわば、王国初の「基本的金融商品の整備」であり、商業と財政の基盤そのものを革新するものであった。


 【宮廷財政官マウリツィオ・デル・カストロの報告書】

「国家の支出は刃ではなく紙により統御される時代が来た。信用とは、国王の名を記した紙切れに宿るものなり」


 その日のうちに、トスカーナ通商回廊の要所・Acchisiの交易施設が中継港へと格上げされることが布告された。これは地中海交易網の再編における布石であり、サヴォイアが西方諸港に接続するための明確な意志表示でもあった。


 【商人組合の連名報告書】

「ルッカ、ピサ、アッチージ。これらはもはや市ではない、一本の銀の筋だ。そこに国王が灯を点した」


 市井しせいの反応も熱を帯びていた。


 【市民層の声(Acchisiの漁師ギオルゴ)】

「昔は風任せだったがな。今じゃ、王の風が吹いてるんだ。魚より金が獲れるって話さ」


 【学徒の集いでの演説(ルッカの若き詩人フェリーチェ)】

「紙の上の数字が、槍よりも鋭く、剣よりも深く刺さる。

我らはこの時代に生まれた。詩とあきないが、等しく力を持つ時代に」


【1457年10月26日】

 この日、サヴォイア宮廷に届いた文書は、儀礼文以上の重みを持っていた。

それは、属国モンフェッラートからの「知識供与願い」であった。本来、宗主国が属国に知識を与えるのは当然であり、申し出など必要としない行為である。しかし、モンフェッラートはあえて正式な書状を用意し、深い敬意と、微かな羞恥を滲ませた筆致でその願いを届けてきた。


 【申請文書(モンフェッラート執政官フィリッポ・ディ・カルデッラ署名)】

「我が地は貴国の繁栄に照らされつつ、なお己が未熟を痛感いたします。願わくは、宗主たる陛下のたまう叡智を、臣の民に少しでも分け与えていただければ、これ以上の光栄はございません」


 この一文は、形式上の従属ではなく、信義と羨望の籠もった請願であった。それを受けたルドヴィーコは、静かに承諾の布告を下す。


 【返書(ルドヴィーコ1世名義の簡布かんぷ)】

「天のことわは、高きより低きに水を注ぐ。されど、誠ある渇きには、王もまた喜んで汲ませるであろう」


 宗主国としての威厳を保ちつつも、知における慈悲と余裕を滲ませるこの文は、同日のうちにトリノの街でも写本され、読み交わされたという。


【1457年11月25日】

 王太子の病は、回復の兆しもなく、静かに息を引き取った。その報せが宮中に届いたのは、夜半のこと。近侍きんじたちは沈黙し、母后ぼこうのすすり泣きのみが、長い廊下に響いた。翌朝、王は一人で政庁におもいた。葬儀の段取りを命じた後、わずか数語で評議会に次代の指名を告げた。


 【ルドヴィーコ1世の発言(1457年11月26日、王国評議会)】

「息子を失った父は今日、この国を守る王である。

そのために、未来に名を繋がねばならぬ。カルロ・ディ・サヴォイアを王位継承者に指名する」


 それは、冷酷とも受け取られかねない言葉だった。だが、誰もそれを責めはしなかった。むしろその姿に、幾人かの老臣は涙したという。


 【老臣ジャコモ・ドッラ・ローベレの私記】

「陛下の声は、まるで葬列の太鼓のように重く、正確だった。

哀しみを王冠に封じる者のみが、王たりうるのだろう」


 こうして、7歳のカルロは、名目上の継承者として戴冠前の地位を与えられた。


 【布告文(王国公報)】

「神は命を奪い、また与えたもう。王国はその定めに従い、カルロ・ディ・サヴォイア殿下を未来の証とする」


 この布告は、民に深い安堵をもたらした。


 【市民の声(トリノの薬剤師アントニオ)】

「王が子をうしなった日、国は父を得たのだろう。あれが、我らの王だ」


【1458年1月5日】

 この日、サヴォイア王国において、貧困層の子どもたちへの初等教育制度の導入が正式に布告された。背景には、前1457年末に行われた宮廷会議での議論がある。


 【王宮における議論記録より(教育長官とルドヴィーコ一世)】

「我らが国家の未来は、民のうちに眠る。教えられぬまま育った子どもたちは、地を耕すのみで、星を知らぬ。だが、王の一声があれば、彼らは夜の帳を割って歩み出せましょう。」

「では始めよう。民の知を耕すことで、王国の根を深くするのだ。」


 その日午後、王国全土に向けて以下の布告が発布された。


 【布告『大衆のための学校設置に関する布告』】

「今より十年、王国の地に貧しき子どもたちのための学び舎を建つるものとす。言葉を綴り、数を数え、ことわりを知ることで、貧しき者にも道は開かれん。」


 この施策は、まずはブレシア州において試験的に施行され、「大衆のための学校」が設置された。州の建設官は次のように報告している。


 【ブレシア州建設官報告書】

「工事は整い、日毎に十余人の児童が机に向かい始めた。彼らの目には、かつて見たことのない光が宿る。」


 この報せを受け、王都トリノでは王自らが市民に向けて演説を行った。


 【ルドヴィーコ一世による公開演説】

「貧しきことは、罪ではない。知らぬままに生きねばならぬことが、罪なのだ。王として、父として、子らに書物と机を与えん。」


 この言葉に市民たちは深く胸を打たれた。ある若き母親はこう記している。


 【市民の日記より】

「うちの子が、紙に『A』と書いた夜、灯りも乏しい小屋がまるで宮殿のように明るく思えました。王の言葉は、私たちの暮らしに本当に届いています。」


 聖職者たちもまた、この政策に強く共鳴した。


 【トリノ司教館記録より】

「神の御名みなを唱える者が、神の創られし子らを学ばせずして何を語れよう。我らはこの事業に最大限の支援を誓う。」


 また、街角で遊んでいた少年たちは、放課後になると、ノートを手に路地裏で自分たちの名を教え合い、「自分の名前が書けるんだぞ」とはしゃいだという。子どもたちの無垢むくな喜びが、国家の未来の鼓動として響いた春の兆しであった。


【1457年3月7日】

 冷たい雨のなか、ブレシア近郊の農村では、泥にまみれた農夫たちが王都に向けて陳情ちんじょうの使者を送り出していた。干ばつと害虫被害が続き、次の収穫までの食糧を確保できぬ村々は、疲れた目と痩せた体で「陛下の寛恕かんじょ」を祈っていた。報告を受けたルドヴィーコは、宮廷内で小さく息をつき、帳簿をひらいた。戦争の爪痕が予算に影を落とす中、彼は無言で決裁を下す。

「彼らは、王国の根を支える者たちだ。…損耗を惜しまず、種をけ」

救済金として40ダカットあまりが割かれた。使節はすぐに派遣され、種子と干し肉とを載せた荷車が村々へと送られた。宮廷の書記官は記録にこう記した。

「国王陛下、困窮こんきゅうする民の嘆願たんがんに応えたまい、損耗を惜しまず、未来を支えんとす。」

その年の春、王都では大商人の間で「王は民の手にパンを与える」とささやかれた。だが同時に、「そのパンの粉をひいたのは、貴族でも商人でもなく、王の心だ」とも。


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穢れなきものが倒れ、叫びは抑えられ、誰も泣かなかった。

ただ、帳簿が閉じられ、戸が重くなり、火が低くなった。


鐘は最後まで鳴らなかった。祈りも、もはや音ではなかった。

揺らぐ塩と、割れた麦と、

それでも続いていくこの王国の朝が──夜よりも暗いだけだった。

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