第17話 錯覚


 セミの大合唱が日に日に強まる中、合宿が終わった夏休み後半は文字通り勉強漬けとなった。多くの生徒が塾や夏期講習、学校で開催される強化課題に参加していた。


「信じらんないわ。夏休みなのに学校来るなんて」

「受験生だからね。みんな通る道なのかな。あれそういえば世那は?」

「世那はヒデ君と海だって~ったく呑気なもんよ」

「そうなんだ。期末も惨敗だったって言ってたけど大丈夫なのかな」

「明日からは来るって言ってたけどね」


 いつもと違う教室に入ると『強化課題 数学』と黒板に大きく書かれていた。教室には既に何人か生徒が集まっている。いろはと美鈴は空いている席に座った。


「最悪、一番前しか空いてない」

「本当だ・・・もう少し早く来ればよかったね」


 カバンから教科書やノートを出し、昨日解けなかった問題に目を通しながら数学の先生が来るのを待った。しかしチャイムがなっても教師が来る気配がない。次第にザワツキながらも各々教科書を読んだり問題集を解き始めた時だった。ガララと慌てた様子でドアが開いた。


「ごめんっごめん」


 予想外な人物の声。顔を見なくてもそれが誰なのかすぐにわかった。教室にいた生徒がその人物の名前を呼んだ。


「あれ桜羽先生どうしたの?」

「数学の宮越先生が急な体調不良で来られなくなってね。今からプリントを配るから一時間目はこれをやって質問は後日宮越先生が受け付けてくれるから」


 桜羽は少し慌てた様子でプリントを配っていく。いつものYシャツにグレーのスーツ。クールビズと巷で流れていても桜羽は授業の時はいつもネクタイを締めていた。今日は少し明るめのベージュに柄の入ったネクタイだった。


「あっ小鳥遊さんも受けてたんだ」

「はい。数学苦手で」

「そっか、難しいよね。頑張って」


 桜羽はいろはにプリントを渡した。緩みかけた口元を隠すいろは。プリントを見ながらその向こうにいる桜羽をこっそり見た。隣では美鈴がプリントの難易度に頭を抱えている。夏休みはもう会えないと思っていた。休みの日に学校など憂鬱と先ほどまで美鈴と話していたのに、今日はいろはにとって嬉しい日となった。

 授業が終わると桜羽はいろはに声をかけた。貴重な休憩時間は気分転換に教室をでたり時間を無駄にしまいと参考書を直ぐ出したりとそれぞれ異なっていた。


「小鳥遊さんは卒業制作終わってる?」

「はい。だいたいは仕上がってますけど、あと少し付け足したくて」

「時間があったらでかまわないんだけど、文化祭用になにか準備してもらえないかな」

「文化祭用ですか?」

「小鳥遊さんと白峰さんが抜けて美術部の展示が少なくてね。白峰さんはまだ卒業制作完成していないからそちらを優先させてあげたくて。描きあがっているものでも構わないから用意してもらえると助かるんだけど」

「わかりました。準備しておきますね」

「悪いね、受験生なのに頼んでしまって」

「いえ、絵を描くのも気分転換にもなりますし」

「そう言ってもらえると気が楽になるよ。ありがとう」


 桜羽はいろはに礼を言うと教室から出て行こうとした。その途中、ドア付近にいた女子生徒数名に声を掛けられていた。友達のようにはしゃいで話す女の子たちにどこか羨ましさを感じるいろは。


「ありゃ惚れてんなぁ」

「えっっ!?」


 美鈴の声に思わず声が裏返ったいろは。美鈴はいろはの反応など気にも留めず、ドア付近で桜羽と話している女子生徒を指差した。


「あっそっそち」

「そっちってなに?」

「うっうううん!なんでもない!」

「でも桜羽先生っていろはに優しいよね」

「そんなことないよ!先生誰にでも優しいよ」

「まぁーそうだけど、なんか頼られてるっていうか」


 美鈴は先ほどの数学のプリントを見ながらいろはに告げた。その言葉に慌てて否定をするが返ってわざとらしくなっていないか心配になった。合宿での白峰と小波の会話を思い出した。


「それは、ほら・・・私これでも美術部の部長だったし」

「美術部の顧問って桜羽先生だっけ?」

「そうだよ。だからだよ」

「ふ~ん。私も美術部入ればよかったなぁ」


 いろはがもう一度、入り口の方を見るとまだ桜羽と女子生徒達が楽しそうに話している。口元を隠して、控えめに笑う桜羽に目がいってしまう。いろははカバンに入っているお茶を乾いた喉に流し込んだ。氷が水筒の中でカランと音をたてた。けれど体のほてりは治まることを知らない。


「桜羽先生って彼女いるのかな」

「・・・さぁ?」

「まぁいるか。イケメンだし優しそうだもんな~。それに教師だから収入安定してそうだし」


 二時間目のチャイムがなると桜羽は教室から出て行った。嬉しそうに席に着く女子生徒たち。『話せてよかったね』『やったじゃん!』小声で聞こえてきた。いろはは体の向きを前に直した。教科担任が入ってくると、授業はぬるりと始まった。

 いろはは文化祭に出展する作品をどうするかぼんやり考えた。文化祭まであと三カ月。新しく描き始めるには制作時間が少し足りないかもしれない。先日の山中湖のデッサンを仕上げるのもありだと色々と模索した。


□□□


 その日の夜、突然小波からいろはに電話があった。普段はメッセージでしか連絡をとったことがない。いろはは不思議に思いつつも電話に出た。


「もしもし?小波ちゃん?」

「あっいろは先輩!?良かったー。出てもらえて」

「どうしたの?なんか緊急なことでもあった?」

「はい!超緊急です!あの、突然なんですけど明日の夜あいてます!?」

「明日?昼は夏期講習だけど、夜ならあいてるよ」

「明日お祭り行きましょうっ!!というかついて来てくださいっ」

「いいけど。どうしたの?そんな慌てて」

「そ、それが・・・」


 不自然に言葉がつまる小波。風呂上りのいろはは、濡れた髪を片手で乾かしながら小波の返事を待っていた


「私・・・桃山に告白されて」

「・・・ええっ!?桃山君にっ!?」

「はい。それで、ですね・・・付き合うことになったんですけど」

「そっそうなんだ。お似合いだよ、よかった、よかった」

「良くないんですぅー!」


 小波の大きな声に思わずスマホを耳から遠ざけた。いろはの五畳ほどの部屋に小波の甲高い声が響いた。


「付き合いだしたら・・・なんていうか、どうしていいか、わかんなくなっちゃって。前まであんなに普通に話してたのに二人になったら話せなくて部活のときも・・・その、とにかくどうしていいかわかんないんですっ!だからついて来て下さいっ」

「それはいいけどお邪魔じゃない?せっかく二人で」

「だから二人になるとムリなんですよ~あっ人数合わせに堀之内も誘うから先輩はいつも通りでお願いします!」

「はい、はい。わかった」

「はぁー良かった。白峰先輩は返事くれないしやっぱり頼れるのはいろは先輩です!ありがとうございますっ」


 小波は安堵した様子で電話を切った。ツーツーとスマホから音が漏れる。髪を乾かそうとドライヤーを持つとすぐにメッセージが送られてきた。


「『明日は浴衣でお願います!』か…小波ちゃんと桃山君が付き合うことになったんだ」


 いろははスマホをベットに投げると濡れた髪のまま横になった。エアコンの風が心地よく部屋を冷やしてくれる。エアコンのファンの音が鈍く部屋に響いていた。


「好きな人と夏祭りか。いいなぁ」


 瞳を閉じたいろはの脳裏に桜羽の浴衣姿が浮かんだ。桜羽なら何色の浴衣だろうか。


「バカァ~絶対似合うに決まってるよ。ムリだけどそんなの絶対に」


 慌てて目を見開き火照りかけた頬に手を当てた。ベットから起き上がり階段を降りていった。


「お母さーん!浴衣ってどこにしまってあるー?」

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