第14話

「宇野くん! 待って!」

 突き飛ばされ、尻餅をついた有田は、廊下へと飛びだした宇野の背中に必死に呼びかけた。慌てて立ち上がり、宇野の背中を追う。

 しかし、成長期の男子生徒に追いつけるはずもなく、あっという間に差をつけられ、踊り場のあたりで見失ってしまった。

「一体どこへ……」

 有田は、上下に伸びる階段を左右に捉え、不安げな表情で棒立ちになっていた。

 とにかく、虱潰しに捜索するしかない。有田は、学年問わず各教室を回った。

 有田の鼓動は強く速い。ただそれは、校内を走り回っているからでないことは明らかだった。宇野と木下に対する自身の対応と言動が生んだ惨憺たる結果に、罪悪感、後悔、懺悔などが、全身に、血液のように吐き出されているからだろう。

 もしくは彼らが、この胸を残虐に、そして豪快に叩き潰そうとしているかのどちらかだ。有田にはそう思えた。


 各教室を回り終え、一階へと降りたタイミングで、異様な光景を目の当たりにした。

 正面玄関先、三人の男子生徒が、右手から正門の方へと全速力で走り抜けていった。

 有田はハッとした。彼らは、別館のコンピュータールームから走ってきたのではないか。有田は職員会議以降、塚田たちをマークしていたこともあり、彼らの溜まり場を把握していた。彼らはコンピュータールームを、溜まり場且つ他の生徒を恐喝する場所として使っている。

 別館は、授業以外で出入りすることがあまりなく、人通りも多くない。事務員のおばあちゃんが一人、受付で本を嗜む程度に閑散とした空気が流れており、それは一部の生徒にとっては、悪事をはたらくのに恰好の場となる。

 先ほど正門へと走っていった三人は、土屋、本郷、橋本だったように思う。

 警戒していたが故だろうが、ほんの一瞬映った姿だけでそう思った。

 

 有田は、別館二階のコンピュータールームへ向かおうとしていた。

 しかし、階段を駆け上がった先で目の当たりにした光景に、有田は肝を冷やしたのだった。

「これ……血……?」

 二階の踊り場から三階へ、点々と続く赤い液体。

 有田の鼓動は、更に強く速くなった。正常な呼吸はとうにできていないが、追い打ちをかけるように、気道が狭くなっていく。

「宇野くん……」

 有田が階段を駆け上がり、血痕を辿る。

 最上階四階の踊り場、血痕は更に上へと続いていた。

 屋上へと続く残り数段の折り返し階段。有田は半分を昇り、勢いよく振り返った。すると、屋上の扉前、数段中腹に、腰掛け頭を伏せる宇野の姿があった。

「宇野くん!」

 有田は宇野に駆け寄り、肩に手を置いた。

 宇野の肩はしっとりと濡れていた。小雨に降られた後のような湿気をブレザーが帯びている。

 有田は不思議に思い、自身の掌を見つめた。

「きゃっ!!」

 べっとりと血がついていた。有田は瞬間的な悲鳴をあげ、絶句し、苦悶で歪んだ表情を浮かべ、宇野を再度見つめた。

 宇野がゆっくりと顔を起こす。顔やシャツの襟には、血が斑模様に付着していた。


「先生……ぼく、塚田を殺した……」

 宇野は重たそうに口を開き、ぼそっと呟いた。

「そんな……!」

「こうするしかなかった……。先生たちが、何もしてくれなかったからだ」

「宇野くん……本当にごめんなさい……!」

 有田は、宇野の肩にぽんっと軽く両手を置いた。

「うるさい! 何を今更! もう何したって遅いんだよ!」

 宇野は、優しさという偽善を纏った有田の手に嫌悪感を覚え、振り解き立ち上がった。

「宇野くん……」

 有田の頬を涙が伝う。有田はゆっくりと宇野へ近づき、落ち着かせようとそっと抱いた。

「やめろっ!」

 宇野は、有田を突き放した。そしてポケットからカッターナイフを取り出し、有田へ向けた。

「落ち着いて! 宇野くん!」

 有田は、宇野を宥めるように両手を前に出した。爪や甲、ベージュのジャケットの袖口にポツポツと血が飛び散り、左手首に内向きに巻かれた腕時計の文字盤は、べっとりとついた血で見えなくなっていた。

 宇野は下唇を噛み締め、憎しみと悲哀を合わせたような目を、重い前髪から覗かせていた。頬から顎下にかけて飛び散っていた血は、涙と混ざって床下に数滴垂れた。


「誰にも相談できなかった。誰も助けてくれないと思ったから。でも木下は助けてくれた。だからぼくも助けてやらなきゃと思って校長に話した。でも全く意味がなかった」

 宇野は声を荒げることなく、淡々とした口調で話した。

 何もかも諦めているような覇気のない声だが、有田には、喉から血が出るほどの必死な訴えに聞こえていた。

「ご両親は、いじめられていることを知っているの……?」

「知らないよ。そんなこと言えるわけないじゃん。先生にも言いにくいのに、家族になんか言えないよ……」

 宇野は怒りを押し殺すように、カッターナイフを握った拳をギュッと握り直し、荒げそうな声を抑えてそう言った。


 有田は、とにかく宇野にかける言葉を探していた。時すでに遅しだということは重々承知していたが、それでも何かできることはないだろうかと、脳内を引っ掻き回した。

「先生は、ぼくの気持ちなんか分からないでしょ? この辛さがさ」

「そ、そんなことない!」

「生徒たちに慕われてるもんね。友達も多い学生生活を送ってたんでしょ? ぼくとは違って」

「宇野くんも友達できるよ!」

 有田が答える度に、宇野の表情は更に歪んでいく。

「そう。先生は、友達だと思ってるよ、宇野くんのこと!」

 有田のその一言に、宇野は不快感を露わにするように、ぴくりと眉を動かしてから眉間に皺を寄せた。

「黙れ! いいんだよ、そういうの!」

 宇野は、屋上の扉に向けて走り出した。

 いつもは施錠されている扉だが、今日は業者が補修工事をしている関係で、鍵が開いていた。

 宇野は勢いよく扉を開け、そしてフェンスに向けて全速力で走った。

「宇野くん! 待って!」

 有田も宇野を追って走る。

「来るな!」

 宇野は、フェンスに手を掛け、登り始めた。


「ガキィン……」

 錆びれた金属の、間の短い鈍い響き。勢いよくフェンスの柱が基礎から外れ、宇野はフェンスに体を預けたままつんのめった。

「あ……」

 有田は声を漏らしながら、屋上から飛び出すフェンスと宇野の方へ右手を伸ばし、間一髪、宇野のブレザーの上衿を捕らえ、潰れるほど握り、そして引っ張り上げた。

 有田の視界には宇野、そして右手に見えるグラウンドから、強風で巻き上がった砂埃が映った。


 それからすぐ視界は暗くなり、微かにキィンという耳鳴りがした。

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