第4話

 田中と別れてすぐ、有田は三木が走っていったであろう方向へと歩き出した。

 テンポは相変わらずだったが、歩幅は幾許か人間らしく、一歩一歩踏みしめるような力強さを取り戻していた。有田は、足裏を撫でるように包み込む砂の心地良さを、多少感じた気がした。


 全く景色が変わらず、更に、往来するものが多い場所を何度か通過したこともあり、足跡が消され、どれほど進んできたのかは、もう分からない。

 唯一間国にいるものたちだけが景色を変えることができる存在なのだが、自分よりも背の高い白装束に、能面のような顔ばかりのため、鬱蒼と生い茂った森の大木のように見分けがつかず、目印にもなり得なかった。


「ガシュッ……」

 有田の左後ろあたりに何かが落ちた。有田は、すうっとそちらに目をやった。

「……ハサミ……」

 有田がそう呟き、徐に手を伸ばした瞬間、誰かがそのハサミを勢いよく拾い上げた。

 そのまま視線を上げると、目尻に少し皺のあるショートヘアの女性らしきものが、そのハサミの刃を有田に向けていた。両手で柄をしっかりと握り、感情のない顔で有田を見ていた。睨んでいるように見える。

 有田は、心臓のあたりが一瞬だけ鼓動した気がした。

「どうしました? それはあなたのですか?」

 有田は冷静に尋ねた。すぐに返事があった。

「ええ、そうです」

 弱々しい声だった。依然として、刃先と感情のない目を有田へ向けたまま動かなかった。

「有田萌です……」

「……吉野香帆です」

 刃先を向ける吉野、その吉野をじっと見つめる有田。現世の街中なら、間違いなく悲鳴があがる状況だが、間国では一般的なことだと言わんばかりに、無表情の白装束が、平然と往来していた。

 そんな中、有田が何となく名乗ってみると、吉野は少し間を開けて反応したのだった。

「吉野さんは、どうしてここに?」

「分かりません。気がついたらここにいました。死んでいるらしいですね」

「そのハサミは、拾ったのですか?」

「いいえ、持っていました」

「何でわたしにハサミを向けるのですか?」

「……分かりません」

「そうですか……」


 しばしの沈黙が生まれ、有田と吉野は見つめあった。そして有田は、すっと視線を落とし、ハサミを見つめた。文房具のハサミにしては大きく、柄から刃に至る間に、開口した鮫のようなギザギザとした隙間が見える。吉野が持っているのは、栓抜き付きのハサミだ。

「それ、キッチンバサミですね。料理好きなんですか?」

「……好きなわけないじゃない……」

 有田の言葉に、多少の感情を乗せたような口調で吉野は答えた。キッチンバサミをグッと握り直し、口早にぶつぶつと呟き始めた。

「何なのこの生活は……。息子たちからの暴言に耐えながら、料理洗濯掃除だけを毎日毎日……」

 吉野の死んだ目が、徐々に開き、吊り上がっていく。黒目は更に暗く、漆黒のような色味をしていた。まさに怨念の象徴のようだった。手元は小刻みに震えている。

「お子さんがいらっしゃるんですね」

「ええ。中学三年生と一年生の二人」

「中学生……反抗期真っ只中ですね」

「そう、そうよ。口を開けば『うるせぇ、ババア』って。あたしが何したって言うのよ」

「分かります。わたしは教師でしたので」

「教師……。そうだわ、次男がクラスの子に手を出して、担任の先生に呼び出しを食らったこともあったわ」

 吉野の語気が、徐々に強くなっていく。有田は気にも留めず、淡々と会話を続けていた。

「ご主人に相談とかは……」

「旦那……旦那がいたわね。でも仕事で帰りが遅いし、忙しいからって話なんか全く聞いてくれない。晩ごはんをつまみにビールを飲んで、テレビをぼーっと眺めるだけよ。ビール……テレビ……」

「そうですか」

 二人の間に、再び沈黙が生まれる。

 田中と話してからだろうか、有田は違和感を覚えるようになっていた。この沈黙という空気に晒されると、胸の奥が波打つというか、ソワソワ、ザワザワする気がした。

 その変化は、本能的に有田の口を開かせた。


「三年生ってことは、その……高校受験ですよね」

「ええ。でも成績は上がらないし、全然ダメ。あの日も冷蔵庫からコーラを取って、そそくさと逃げていくように部屋に入って。あの日……あの日って……」

 吉野は、有田と会話をした直後、呪文のようにぶつぶつと何かを呟き始めた。呟きながら、ゆっくりとハサミを降ろし、天を仰ぐようにぼーっと黒い空を見つめていた。


「ビール……テレビ……受験……ハサミ……あの日……そうあの日……」

 吉野は、天を仰いでいた視線をすうっと足元の砂へと向け、腰から砕けるように、ストンと座り込んだ。

「あの日、息子の受験のことで旦那と話そうと思って、晩御飯の支度をして待っていたの。帰宅した旦那を捕まえて話し始めたら、自分で考えさせろって言いながら冷蔵庫から瓶ビールを取り出して、我関せずで飲み始めた。それで頭に血が上って、お皿を投げつけたらテレビに当たったの。その音で息子たちがリビングにやって来て、あたしは息子に対して、何で成績が上がらないんだと怒鳴り散らした」

 吉野は、絵を描くように砂を左手の人差し指でいじくり回しながら、有田を他所に語り続けた。

「そうだわ……。あたしは息子たちに期待してて、勉強でも何でもトップになってほしかった。だから口酸っぱく、勉強勉強って。それの所為だったの、次男がクラスの子に手を出したのは。『こんな成績じゃお前の母親に怒られるぞ』って揶揄われたとかで。そのあたりからだわ、息子たちがあたしのことをババアと罵り始めたのは。そのショックを引きずっていたこともあって、あの日、長男に強く当たってしまった」

 そう言って、吉野は手元のキッチンバサミを凝視した。

「テレビから聞こえてくる砂嵐の音で、余計にイライラしてしまって、気がついたら『成績の上がらない息子なんていらない』と長男に叫んでいた。それを聞いた長男は、絶望に満ちた表情をしていた。だけどあたしは、気にせず今度は旦那に向かって喚き散らした。気がついたら、涙を流した長男が、あたしの胸の中にいて、このキッチンバサミの柄を握っているのが見えて……キャアァァ!!」

 吉野は、叫喚と同時に持っていたキッチンバサミを投げ捨て、頭を抱え、うずくまった。

 有田は、宙を浮いて砂に突き刺さったキッチンバサミをじっと見つめていた。

「急に目の前が暗くなって……そんな……あたしは守に殺されたの……? あんなに熱心に育てたのに……恐ろしい……」


 有田は、何やら胸のあたりで沸々とする感覚を覚えながら、気がつくと口を開いていた。

「さあ、分かりません。ですが吉野さん。あなたがここにいるということは、子どもを……息子さんを殺人者にしてしまったことは確かです。反抗期は誰にでもあって、みんな乗り越えます。それに、そもそも息子さんを狂わせたのはあなたです。変な期待をせず、しっかり向き合ってあげていれば、こうはなっていなかったでしょう。将来、立派になって親孝行をする時が来たでしょうに。でも、あなたは亡くなってしまったし、殺人者となってしまった息子さんはもう……」

 有田の言葉を、吉野の号哭が掻き消した。

 間国に、水分というものは存在しない。それが故に、吉野の目と鼻から溢れ落ちるものは何もなかった。

 しかし、悲しみと後悔の念は、声色となってしっかりと現れていた。


「ズザアアァァ……」

 うずくまる吉野の右側に、あの扉が現れた。

 しかしその扉は、田中を迎えに来た扉とは一風変わっていた。今回は、三日月のような紋章が刻まれていたのだ。

「吉野香帆……地獄からお迎えがまいりました」

 扉の後ろからすうっと現れた案内役は、吉野の目の前に移動し、浮遊していた。

「地獄……?」

「ええ。私が案内いたします」

 案内役がそう言うと、吉野はカッと目を見開き、勢いよく立ち上がり、金切り声のような奇声をあげながら案内役を責め立てた。

「一体どうして!? 地獄に行くのなんて嫌! あんた何とかしなさいよ! ここで一番偉いんでしょ!? ねえってば!」

 声を荒げながら案内役を掴もうとする吉野。しかし案内役は、ひょいひょいと何度も避けながら、細かな泡沫をぶくぶくと立てていた。

 吉野が必死になって喚き散らすも、案内役は小馬鹿にした態度を見せるかのように吉野の周囲をぷかぷかと浮いている。

 吉野は、一縷の望みにすがるように、何度も手を伸ばす。すると、脳裏に息子たちの姿が映った。小学生だった頃の二人、屈託のない笑顔で、こちらに駆け寄ってくる。自分に近づくにつれ、彼らは中学生になり、その表情は失われていった。

 両手を広げ二人を待つ晴れやかな笑顔の自分に、守はキッチンバサミと飛び込んできた。

「どこで間違えてしまったの……」

 その直後、急冷されたように冷静になった吉野が、ぴたりと動きを止めた。空虚であると次第に感じ始めたようで、諦めを見せるように、どさっと腰を落とした。

「そう……。子どもの人生を壊すということは、親の罪なのね……。まあ、そうよね。先に殺したのは、あたしの方ってことでしょう?」

 吉野は、皮肉を形容したような薄ら笑いを浮かべ、そう呟いてからゆっくりと立ち上がった。

 開いた扉の奥は、ひび割れた漆黒の地面から、何やら灼熱色の光が溢れているのが見えた。それだけでなく、断末魔のような不快な音が、間国にまで漏れ聞こえていた。

「有田さん、だったわね? 地獄に行くのは怖いけれど、きっと息子も来るだろうから、それまで待っています。さようなら」

 吉野はそう言って、前屈みになり、両腕をぶらぶらとさせながら、幽霊のように中へと入っていった。

 有田は、吉野にも扉にも目を向けず、数メートル先の砂を見つめていた。


 扉がずうんと閉じると、やはり沈むように砂の中へと消えていった。そのタイミングで、有田はその場に腰を降ろし、膝を抱えた。

「吉野さんと話している時に思い出した。体育館裏、ある生徒が三、四人の生徒に囲まれて、暴行を受けているところを見かけたんだ。でも……赴任したばかりで、面倒事に首を突っ込みたくないと思って、見て見ぬふりをしたんだった……」


 ある日の記憶に色がついた。そしてその画像は、パラパラ漫画のように映像となっていった。

 体育館裏で三、四人に囲まれ、胸ぐらを掴まれている生徒。全員の顔は、黒い靄がかかっており、誰が誰だか分からない。胸ぐらを掴まれていた生徒は、唐突にハサミを取り出し、囲んでいる生徒たちに向け、一瞬たじろがせていた。

「あの子を……あの生徒を、わたしは殺人者にしてしまったのかもしれない。わたしが止めていれば」

 そう呟くと、有田は立ち上がった。

「三木さんに会わなきゃ……絶対に何か知ってる……」

 有田は、息を吹き返したように、再び歩きだしたのだった。


「有田萌、あなたでしたか」

 数歩進んだところで、有田は足をぴたりと止めて振り返った。案内役が、水の球体を波立てながら、目の前をぷかぷかと浮いていた。

「私の仕事が急に増加しましたので、不思議に思っておりました。あなたが原因だったのですね」

「別に、そんなつもりはないんですけど、結果的にそうなってしまって……。いけないことでしたか?」

 有田は、申し訳なさそうに尋ねた。不思議とその表情も仕草も、まるで人間のような、都合の悪さを形容しているようであった。

「いいえ、構いません。間国でしてはいけないことなどございません」

「吉野さんは……?」

「地獄へ行かれましたが」

「そこでは何を?」

「それは存じません。私は案内をするのみで、地獄のことはさっぱり」

「そうですか……」

 有田は、視線を少し下へと向けた。

 すると案内役は、ぼこぼこと泡沫を立てながら、有田の背後へと移動した。


「しかしながら、吉野香帆は勘違いをされていたようです。息子を殺人者にしてしまったから地獄へ行くのだとおっしゃっておりましたが、実際に人を殺していたようです」

「……どういうことですか?」

 有田は、数回瞬きをして振り返った。

「地獄で発覚したのですが、吉野香帆の長男である吉野守は、先に地獄へ来ておりました。吉野香帆を殺した後、自殺したようです」

「え……」

 有田は目を見開いた。

「吉野香帆も同じ反応をしておりました。おまけに項垂れておりましたから。基準は分かりませんが、吉野守は吉野香帆への怨恨と恐怖を抱えたまま亡くなったので、吉野香帆に殺されたと判断されて、吉野香帆の地獄行きが決定したのかもしれませんね。二人が地獄で会えたかどうかは存じませんが、そんなことを地獄の入り口で聞かされるなんて、これが本当の地獄の始まりとでもいうのでしょうか」

 笑っているのか何なのか、案内役は細かな泡沫を大量にぽこぽこと立ち上がらせていた。内容が内容であるのと、機械的な感情のない声ということもあって、全く冗談に聞こえず、有田は何も言えなかった。


「そうだ、吉野香帆の所有物を回収しなければ。確かハサミでしたね。随分と物騒なものを。ハサミが凶器だなんて……。では、私はこれで」

 そう言って案内役は、染み入るように砂の中へと消えていった。

 有田は、間国で会った同類としてなのか、教師であった人間としてなのか、吉野に対して同情にも似た一種の憐情が湧いていた。


 教師として、子どもとの接し方の難しさを痛感させられてきた。

 教師というのは仕事だ。給料を貰い、その対価として子どもたちと関わる、勉強を教えるわけだが、職業であるが故に、選択の自由がある。つまり、放棄したって構わない。教師を辞めたら、別の教師が補填されるだけ、誰からも文句を言われることはない。子どもとの距離感をはかることに疲れたのなら、投げ出せば良い。

 子育ても仕事だ。しかし、いわゆる教師のような職業ではない。対価のない仕事であり、途中で投げ出すこともできない。親を辞めて、他の親が補填されることはない。つまり、否が応でも、子どもとの接し方を学んでいかなければならない。

 自分との付き合い方さえも、分からなくなってしまうのが人間だ。そんな人間が、教師として生徒と向き合うこと、それは困難なことだということを有田自身思い出し、感じていた。だから、息子なら尚のことだろうと、そう思えたのだ。

 吉野は不器用なだけだった。その一言で簡単に片付けてしまうのもどうかと思ったが、この歳まで独身で、子育ての経験がない有田には、他人事のように言うことしかできなかった。

 かくいう有田も、教師になったばかりに赴任した中学校では、不器用さのせいで、生徒たちから嫌われていた。業務量が多く、朝から夜中まで仕事仕事で、家に帰れば寝るだけ。授業中の生徒たちは騒がしく、消しゴムや上履きを投げられたこともあった。

 そんな生活の所為で、いつしか生徒たちのことを考える気が失せてしまい、教師としてのやりがいを見いだせなくなっていた。

 後に赴任した高桑中学校。有田は、運よく大人しい生徒たちを受け持つこととなり、みんなから慕われ、教師としての生命を取り戻しつつあった。

 しかし、気がついたら死んでいる。恐らく、そこから急転直下する何かが起こったのだ。それは間違いなく、吉野とのやり取りで色づいた記憶と関連しているに違いない。

 有田は、胸のあたりをぎゅうと締め付けられるような違和感を、吉野と別れた後から覚えるようになった。それは、憐情が湧いたもう一つの理由でもあるのだろう。

 ある生徒を、殺人者にしてしまったのかもしれない、吉野と同じ過ちを犯してしまったのかもしれないという自責があるからだった。

 吉野を責めてしまったが、それは自分に対する戒めであったのかもしれない。

 地獄で吉野に謝ろう、有田はそう思ったのだった。

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