間国(かんごく)
葉 田半
第1話
「有田先生! 有田先生!! みんな下がって! 見世物じゃないぞ! おい、撮るんじゃない! ほら……離れなさい……お……ちょ……これ……も……せい……」
徐々に遠くなる男性の声。その声に重なるキーンと響く金属音のような甲高い音。
視界は真っ暗で、どこかへ吸い込まれていくかのような感覚が全身を包んでいる。
スルスルとウォータースライダーを滑るように、右に左に、時には垂直に。だけど、降っているような昇っているような、どこへ向かっているのか見当もつかない軌道で滑っていく。
途方もない移動を続けているが、自分の足を使っているわけではないからだろう、疲労も何もなかった。それが救いではあるのだが、美しい景色があるわけでも、心地の良い風が吹いているでもなく、正直退屈の極みであるという不満が出てくる程度に時間が過ぎていくのを感じていた。
突然、減速するように、すうっと止まった。どれほどの時間が経過したか定かではないが、随分と長い時間、滑っていたような気がする。
減速に合わせて、キーンと響いていた音も、グラデーションがかかるように治り、しばしの沈黙が生まれた。
程なくして、サラサラと何かが流れる音を聞いた。
水か。いや、この音は、ジャリジャリと微細な粒子の衝突音が連続した結果生じる音のような気がする。これは恐らく砂だ。
すると、頭頂から砂が溢れ出し、そして耳介をチリチリと転げながら、肩を飛び跳ねていくむず痒さを感じた。
その砂は、足元へと落ちていくようだ。
「ん……?」
目を開けた。いや、元々開いていたのかもしれないが、砂漠のような場所に立っていることに気がついた。
頭頂からまだ多少の砂が流れており、それを両の掌で受け止めた。
「どこ……ここ……」
周囲を見渡すと、そこは本当に砂漠だった。白色のような銀色のような砂が、一面に広がっていた。砂山の凹凸が一切なく、永遠に広がるなだらかな砂地。
ふと見上げると、太陽も月も雲も星も何もない、インクをぶちまけたような真っ黒な空。
「何これ……」
ぐるぐると、その場で回りながら周囲を確認していると、その動きに合わせてひらひらと棚引く裾によって、着ている衣服に気がついた。
真っ白な患者衣のようなガウンだ。ちょうど膝下が隠れる程度の長さのもので、襟は左前に、そして腰には帯が、縦向きの蝶結びで施されていた。
「まるで白装束みたいね……」
「ええ、そうです。あなたは死んでおられます」
背後から、機械的な感情のない男性の声。振り返ると、不可思議な現象を目の当たりにした。
透明な球体らしきものが浮いている。それは、不規則に波打ちながら、球としての形を留めようとしていた。
水だ。この水でできた球体が、声をかけてきたのだろうか。
「誰?」
「あああ、触らないでいただきたい。いかんせん不安定なもので」
両手で掬い上げるように球体に触れようとすると、制すように喋った。
「ええ……っと。有田萌、三十歳、元女性。所見は異常なしと……。では、簡単に説明させていただきます」
水の球体は、独り言のようにぶつぶつ言うと、淡々と「ここ」の説明をし始めた。
「ここは『間国(かんごく)』と言いまして、息絶えた生物がやってくる世界、死後の世界です」
有田は、狼狽えるでも発狂するでもなく、ただ棒立ちになり、球体の波浪を見つめて静かに話を聞いていた。
「はい、以上です。では、私はこれで……。ああ、忘れておりました。何かありましたら『案内役』と呼んでくださいませ。すぐに駆けつけますので。まあ、今まで呼ばれたことはありませんがね」
案内役は、苦笑するように、泡沫をぼこぼこと立てていた。
「待ってください。それだけですか?」
有田は、のっぺりとした表情を変えることなく、案内役ほどではないものの、感情のない口調でそう言った。
「ええ。他に何か?」
「もっと詳しく。ここでは何をするのかとか。天国や地獄とは違うのですか?」
「そんなことが気になるのですか?」
「ええ、まあ」
「そうですか。異常はなさそうですけども」
案内役は、そう言いながら舐め回し見るように、有田の周囲をぐるぐると回った。
有田は、そんな案内役を、虚ろな目で追いかけた。
「ここは天国でも地獄でもありませんよ。言うなれば天国と地獄の狭間、だから間国なのです。天国や地獄へ行くことのできない生物が集まる場所でございます。することは、特にございません」
「間国……何故、わたしはここへ……?」
「あなたが亡くなられた理由は存じませんが、ここへ来られる生物の共通点はございます。それは『死を受け入れた』ことです。つまり、死に対する恐怖がなかったものたち、ということでございます」
「死を受け入れた……死に対する恐怖がなかった……」
「死ぬことへの興味関心が強いものたちであったり、最も多いのは、気がついたら亡くなっていた、なんてものたちです」
有田は、目線を足元の砂に向け、全てを受け入れているかのように無反応のまま話を聞いていた。側から見れば、ぼーっとした、まさに死者の表情だった。
「わたしは死んだの? しかも死ぬことを怖がりもせず? そんな勇敢な人間だったかしら……」
「亡くなる直前の記憶はございませんか?」
「ええ。学校にいた気はしますけど……」
「でしたら、気がついたら亡くなっていたというパターンでしょう。ああ、ちょうどいいところに。右手をご覧ください」
案内役は、右方向に水の矢印をつくって向けた。
有田が徐に視線をそちらの方へ向けると、何やら獣数体が、こちらへ向かってくるのが分かった。
子どものライオン、ガゼル、シマウマ、リス、ゾウ、バッファロー、ハイエナ、ヒョウ、ダチョウ、イヌ、ネコ。まるで動物園から脱走したかのように、有田の横を走り抜けていくもの、のそのそと歩を進めるもの、その場に寝転がるもの。有田を怖がるどころか、見えていないかのような自由な振る舞いを見せていた。
イヌは、有田の足元まで来ると、その足を無表情でじっと見つめ、そして身体を丸めて横になった。
有田はそれを無表情で見つめた。
「寝込みを襲われたり、不慮の事故に遭った動物たちでしょう。人間とは違い、野生動物たちは、気がついたら亡くなっていたというパターンが往々にありますから。ちなみに、砂を掘っていただけますか?」
有田は、案内役をちらっとと見てからしゃがみ、片手で適当に砂を掘った。
すると、もぞもぞと何かが蠢いていた。もの凄いスピードで、砂の中を移動しているものがいる。
有田は両腕を砂に突っ込み、掻き出すように勢いよく砂を持ち上げた。
「ドシャァ……」
魚だ。水色のボディに、ピンクの斑点模様のあるド派手な一メートルほどの巨大魚が、一瞬有田の目の前を転げ、またすぐに潜っていった。
有田は驚きもせず、巨大魚が潜っていった場所をじっと見つめていた。
「魚介類は砂の下を泳いでおります」
先ほどから、不可思議な光景を目の当たりにしているにも関わらず、有田は冷静だった。人間なら、間違いなく腰を抜かすレベルの異様な光景のはずだ。発狂して、この場から走り去ろうとしてもおかしくはない。
有田が、じっと砂を見つめたまま立ち尽くしていると、案内役はその答えを、広げてみせるように説明した。
「こんな状況に置かれても、何も感じないでしょう? 不思議だとも思わないはずです。それもそのはず、脳のつくりが人間であった時とは異なりますから。そう、脳があるんですよ。ちなみに心臓もあります。動いてはいませんがね。ええ、この際ですから、どう異なるかを感じていただきましょうか」
案内役はそう言うと、水で矢印をつくり、有田の方を差した。
有田がゆっくりと振り返ると、王宮のダイニングテーブルほど長い、砂でできたテーブルの上に、さまざまな料理が乗っていた。ミートソーススパゲティ、寿司、ハンバーガー、麻婆豆腐、ラーメン、ケーキ、アイスクリーム、オレンジジュース、次から次へと、砂のテーブルに乗せられていく。
有田は、徐にテーブルに近づいた。テーブルの端から端まで並べられた料理を見て回り、そして気がついたのだ。ただただカラフルな物体がそこにあるような、全く魅力を感じない。本能に訴えかけてくる刺激がなく、それを求めてもいない。
「食欲がない……」
「御名答。そうです、『三代欲求』がないのです。ご自身のお身体をよくご覧ください」
案内役がそう言うと、砂のテーブルはワシャッと崩れ、料理は砂の中へと沈んでしまった。
有田は案内役に言われた通り、帯を外し、ガウンを脱いだ。
有田の身体は、丸みを帯びた柔そうな壁だった。乳房はおろか乳首もなく、女性器もない。肌色の壁から、手脚、そして首が生えている。人間ではない他の何かであることを、如実に表しているようだ。
有田は、表情ひとつ変えず、ガウンを羽織った。
「ご覧の通り、生前の性別は反映されておらず、先ほど申し上げた通り、性欲もございません。もちろん睡眠欲も」
「そうですか」
「間国での皆さんの脳は、生前の記憶を画像として残しているだけのフィルムのようなものなのです。ですから、感情というものはほぼ皆無。あなたがこれらを見ても、驚いたり興奮したりしないのは、そういう脳のつくりだからなのです」
「……分かりました」
「こんなに間国の説明をしたのは初めてかもしれません。普通は説明をする必要がないものですから」
すんとした態度で突っ立つ有田を前に、案内役は、ぶくんぶくんと心臓を動かすように、大きな泡沫を立ててそう言った。
しばらくの沈黙の後、有田はその場で体育座りをし、白黒の地平線を眺め始めた。
案内役は、仕事を終え、何も言わず消え去ろうとしたが、急にぶくぶくと泡沫を立てた。
「無駄話ばかりで忘れておりましたが、思い出しました。一点だけ、お伝えしておきます。間国にいるものは、天国か地獄へ行くこともできます。生前の行いから、どちらへ行くのかはすでに決まっております故、選択はできませんが。しかし、それはかなりのレアケースであると思っていただければと思います。私自身、その手続きを行ったことは、数えられる程度しかございません」
「そうですか。それは人間ですか?」
有田は、背後で語る案内役を振り返ることなく、そう質問したのだった。
「はい、そうです。直近ですと、確か……猟師、商人二体の手続きを行いました」
有田は、聞いているのか聞いていないのか、無愛想な態度で、じっと地平線を眺めたまま黙っていた。
そんな有田の様子を確認した案内役は、では、とお辞儀をするように泡沫をぼここと立て、砂の中に染みていくように消えたのだった。
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