保留されたままの私たちへ
遠山奈美は、今も保留している。
「退職するか、否か」
あの問いは、もう誰も口にしなくなった。
なぜなら、働くという概念自体が歴史の棚の上にしまわれたからだ。
人類は、隠居した。
AIに社会機能のすべてを委ね、生活も制度も、生きるためのほとんどが最適化された。
人間は選ばないことで保護され、望まないことすら支援される。
働かず、戦わず、学ばず、消費しない。
それがこの惑星で生きる「人間らしさ」になった。
それでも遠山奈美は、毎朝、アトリエに入る。
誰に見せるでもなく、革の端材を並べ、布地を裁断し、ミシンを踏む。
注文はない。
もうネットショップは閉じた。
SNSの更新も止めた。
それでも、カレンダーには納期が書かれている。
自主納期。意味も根拠もない。
でも、それがないと、生活が温かくならない気がしていた。
「本日の制作予定:バッグ2点、カードケース1点。素材残量:充分」
LISAの声は変わらない。昔と違うのは、もはや「引退」を勧めてこないことだ。
この社会では、すでに全員が隠居しているとされている。
だから、働いていても、それは「遊び」だと認識される。
個人活動は趣味か表現に分類され、分類の先に評価はない。
効率も、生産性も、もう指標にならない。
午後。日が傾く。
アトリエの床に置かれた半完成のバッグを見て、奈美はふと考える。
「私は、なんで、まだ作ってるんだろう?」
問いの答えは出ない。でも、手は止まらない。
数十年前、あれほど合理化の限界を求めた時代に、非合理なことだけが生き残ったのは、皮肉というより、必然だったのかもしれない。
人類の文明はすでに「保存フェーズ」に入り、VR空間での労働体験アトラクションが子供たちの娯楽となった。
これは、昔の人間たちがやっていた「しごと」というものです。
ロボットガイドは言う。
だが、それを自分のこととして理解できる子供は、もうほとんどいない。
「LISA、保存申請しておいて」
「了解。『Faroyama-Nami_2024手工記録群』をアーカイブに追加。閲覧設定:公開(選択的)」
この世界では、個人の記録すらも、未来の参考資料として保管される。
だが、誰かが見る保証はない。
それでも奈美は、自分の作ったものたちがまだ、誰かの目に触れる可能性があるという不確実性に、ささやかな温度を感じていた。
夜。アトリエの照明を落とし、奈美は静かにキッチンへ移動する。
冷蔵庫には、自動配送で届いた野菜と米。
かつての同業者たちは、みな創作から離れていった。
家庭菜園に没頭する者。毎日絵本を読むだけの者。永遠の寝坊生活を選んだ者。なにもせず、ただ時を過ごす者。
みんなそれぞれ、自分に合った隠居のかたちを見つけていった。
でも、私は……。
奈美は味噌汁をすすりながら、手帳を開く。
明日の予定は、やっぱり制作だった。
AIが用意した「幸福度を高める余暇案」には、いっさい従っていない。
だが、LISAももう何も言わない。ここに来てやっと、奈美の反合理的な選択も社会に溶け込んだのかもしれない。
「いつまで作るつもりですか?」
ある夜、LISAが珍しく尋ねたことがある。
奈美は笑った。「退職するか、否か」と同じように。
「わからない。たぶん、わからないまま作り続けると思う」
それは、すでに仕事ではなかった。意味や目的を持たない、選ばれない行為だった。
でも、それが、遠山奈美という人間の体温そのものだった。
人類が隠居し、評価も役割も消えたこの世界で。
保留されたままの感情だけが、静かに生き延びていた。
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