孤独な研究
高城
孤独な研究ー全文
真夜中の研究室で、古いラジオから流れるノイズの合間に、それは聞こえた。
ひどくかすれた声で、でも確かに私の名前を呼んだ気がしたのだ。
私は思わず、手に持っていた鉛筆を床に落とした。カラン、と乾いた音がやけに響く。
窓の外は、吸い込まれるような闇が広がり、遠くの街の灯りさえも届かない。
この場所には私と、そしてあの声だけがいる――そう確信した時、再びノイズの中からその声が聞こえた。
今度はもう少しはっきりと、しかし何を言っているのかは判別できない。
ただ、その声が私を誘っている、そんな気がしてならなかった。
ノイズに混じって声は喋り続けている。
しかし、やはり何を喋っているのかは判別ができない。
何となく聞き取れるのは私の名前が呼ばれた気がする時だけ。
落ちた鉛筆を拾い上げて私は1つ疑問を抱く
――「私ってなんでここにいるんだっけ?」
これまで当たり前だと思っていた自分の存在理由が、急に霧の中に隠れてしまったかのようだった。
ここにいるのは何かの研究のためだったはずだ。
だが、何の? 何を研究していたのか、なぜこんな真夜中に一人で、この人気のない場所にいるのか。
頭の中は靄がかかったようにぼんやりとしていて、どうしても思い出せない。
ただ、漠然とした焦燥感だけが胸の奥に渦巻いている。
この場所も、このラジオも、そしてこの声も、全てが私にとって既視感があるのに、どうしても思い出せない「何か」がある。
それは、まるでとても大切な記憶が、私の意識から巧妙に隠されているかのようだった。
「私の名前は…灯(あかり)…」
ラジオから流れてくる声で唯一聞き取れる言葉。
何故ここにいるのか、何をしているのか、全く思い出せないが、ラジオから聞き取れるこの言葉だけは自分の名前だということを理解できている。
私は、ここで何をしているのだろう。
ここに来る前に何をしていたのか。記憶を取り戻さないといけないと急に焦る心が湧き上がってくる。
手のひらにじんわりと汗がにじむ。
この研究室のどこかに、忘れてしまった自分の痕跡があるはずだ。
私は視線を巡らせ、蛍光灯の光が届かない部屋の隅、積み上げられた資料の山、無数の配線が絡み合う古びた装置、その全てが記憶の鍵となるかもしれないと、無意識のうちに何かの手がかりを探し始めた。
特に、ラジオの隣に置かれた、埃を被った小さなノートが目に留まった。表紙には何も書かれていないが、なぜか強く引きつけられる。
何かを思い出さなくてはならない。
今はただ私が何者なのか、何故ここにいるのかが知りたい。
その気持ちが溢れる私は徐にノートを広げ読み始める。
「これは、誰かの日記?」
ページを開くと、乱雑ながらも力強い筆跡で日付が記されている。
「XXXX年XX月XX日。今日もまた、聞こえた。あのノイズの向こうからの声。はっきりとは聞き取れないが、どうやら私は、何かを『呼び起こす』ための研究をしているらしい。しかし、何のために? 何を? 記憶の断片が、私を嘲笑うかのように散りばめられている。この声が、その鍵を握っているはずだ。」
そこまで読んで、私は息をのんだ。まさに今、自分が感じていることと寸分違わぬ内容だったからだ。
次のページには、奇妙な数列と、抽象的な図形がいくつも描かれている。
そして、そのどれもに、薄く擦れた鉛筆で、たしかに「灯」という署名が残されていた。
「私の…日記…?」
「音源の解析…微弱な信号?」
なんの事を言ってるか分からないが、ラジオから流れるこのノイズのことを研究していることは分かった。
「じゃあ、この奇妙な数列と図形は何…?」
私は、先ほど読んだ日記の方のノートに戻り、数列と図形が描かれたページを凝視した。
それはまるで、どこかの古代文明の象形文字のようにも見えたし、複雑な数学の公式のようにも思えた。
しかし、実験データのノートと照らし合わせてみると、ある共通点が見えてきた。
実験データの中に、何度か登場する記号や数字が、この日記に描かれた図形や数列と、不思議なほど酷似しているのだ。
特に、微弱な信号を検出したという記述の隣には、日記に描かれたある図形が小さな手書きで添えられていた。
それが何を意味するのかは不明だが、この数列と図形が、ただの落書きではないことだけは確信できた。
「数字と図形がこのラジオから聞こえる音にリンクしている…?」
研究ノートの内容を見るとそうなのだろう。
ラジオから聞こえる音の波形を数値化して図形を描き落とすほどの知識が私にあったのだろう。
だが、私はそのやり方すら記憶から抜け落ちてしまっている。
「詰んでる…かなぁ…」
私は、ソファにもたれ掛かり、ふとそんな弱気な言葉を吐いてしまう。
疲労がどっと押し寄せ、鉛筆を握る指の力が抜けた。
ラジオからは相変わらず、意味不明なノイズの合間に、時折私の名前を呼ぶかのような声が聞こえてくる。
まるで、私を焦らすかのように。
しかし、その声を聞いていると、ある種の違和感が胸に芽生えた。
ずっと前からこの声を聞いているはずなのに、なぜか今、初めてその存在を意識したような。いや、もしかしたら、この声そのものに、私の記憶を取り戻すためのヒントが隠されているのではないだろうか?
【研究が詰まった状況ほど楽しいものは無い】
ふとそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
誰の言葉だろうか、誰かに言われたと思われる言葉も誰から言われたのかは思い出せない。
「研究を…楽しむ…か。」
私は体を起こし、鉛筆を握り、ノイズしか流れないラジオに一筋の光を求め、耳を澄ませた。
ただのノイズではない。
そこに込められた微かな変動、かすかなパターン。
それが、私がかつて執着し、解明しようとしたパズルの一部なのだと直感した。
記憶はないが、研究者としての本能が私を駆り立てる。
過去の自分は、この詰んだ状況をきっと楽しんでいたに違いない。
私は、散らばったノートを再び広げ、数列と図形、そして実験データを何度も見返した。
何かを「呼び起こす」ための研究。
微弱な信号。
アクセス不可。
これら全てが、私自身とこの声、そしてこの研究室で起こっていることの答えなのだと、根拠のない確信が私の中に芽生え始めていた。
今の私にはこの研究を進めるための知識が全くない。
「1からでも…やってやる。」
何十冊もあるノートの1番古いものから読み始め知識を付けるとこから始めよう。
私が何かを成し遂げる道はそこしか無いから。
私は、研究室の奥へと足を踏み入れた。そこには、積み上げられたノートの山が、まるで図書館のようにそびえ立っている。
埃を被り、黄ばんだ紙は、過去の私の足跡を静かに物語っている。
一番古いノートを手にとり、ゆっくりとページをめくり始めた。
そこには、数式や図形だけでなく、手書きのメモや走り書きがびっしりと書き込まれていた。
最初は全く意味が分からなかったが、読み進めていくうちに、少しずつ、過去の私の思考回路が理解できるようになってきた。
音の波形、周波数、信号の増幅…専門用語が飛び交う中、時折、日記のような個人的な感情が垣間見える。
「また失敗。この声は、一体何なのだろうか。」
「微弱な信号を検出。しかし、アクセスできず。何か、壁のようなものが存在するのか?」
「ついに、数列と図形のパターンが一致した。この声は、ただのノイズではない。何かを伝えようとしている。」
過去の私は、この声に執着し、その謎を解き明かそうとしていた。
そして、その過程で、様々な困難に直面し、挫折を味わいながらも、決して諦めなかった。
その情熱と執念が、ノートの隅々に刻み込まれている。
私は、過去の私の言葉を、一つ一つ丁寧に拾い上げ、理解しようと努めた。
それは、まるで、失われた記憶のパズルを、一つずつ組み立てていくような作業だった。
そして、読み進めていくうちに、私は、過去の私と、奇妙な一体感を覚え始めていた。
何日経過したのだろう。頼りない蛍光灯の光と機材の駆動音を感じながら何十冊ものノートに目を通した。
体力が尽きて、気絶して、起きて、また読むを繰り返し、最初にとったノートに繋がるところまで来た。
「私は、呼び起こさなければならない。」
乾いた唇から漏れたその言葉は、もはや疑問ではなく、揺るぎない確信だった。
ノートに書かれた数列や図形、そして実験データが、ただの記号の羅列ではなく、意味を持ったプログラムのように感じられる。
微弱な信号を検出するための周波数帯、ノイズの中に隠された規則性、そして「アクセス不可」と記された最後の壁。
これら全てが、過去の私がこのラジオの向こう側にいる「何か」と交信しようとしていた証拠だ。
記憶はまだ完全に戻ってはいない。
しかし、このノートの数々が、私の失われた思考と知識を補完し、私という存在を再構築してくれたかのようだった。研究者としての私が、今、再びここにいる。
目的は明確だ。このラジオの向こう側にいる「声」を、完全に呼び起こすこと。
そして、その声が何を伝えようとしているのか、真実を突き止めること。
全てのノートを読み込み、過去の自分の思考と知識を完全に頭に入れた。
それでもなお、一つの疑問が私の中に残った。
それは、「失敗。アクセス不可。」と記された最後の実験結果だ。
あらゆる可能性を考え、過去の自分が辿ったであろう思考の経路をなぞってみても、なぜその実験が失敗したのか、そして何への「アクセス」ができなかったのか、どうしても理解できない。
「私は、何かを聞き漏らしている?」そう呟きながら、私は新しいノートと鉛筆を手に取った。
研究室の機材の電源を入れ直すと、微かな駆動音が再び満ちる。
そして、ラジオのチューニングダイヤルに指をかけ、ノイズの海に再び深く耳を傾けた。このノイズの中に、きっと見落としている何かがある。
アクセスを阻んだ「壁」を打ち破るための、最後のピースが。
ノイズを聞きながら、機材の波形を読み、ノートに数字の羅列を書き込み、図形に落とし込む。
その作業を繰り返し、やはり最後の実験結果は間違っていない事が少しずつ確信に変わっていく。
何度も、何度も、同じノイズパターンを解析し、過去の自分が見つけたであろう数列と図形を丹念に再確認する。
どこにも間違いはない。
完璧に、理論通りに解析は進んでいる。
違いを見つければ、間違いなく研究は進む。
その一心で私は耳を傾ける。
疲労で霞む視界の中、それでもペンを動かし続けた。
そして、その瞬間は突然訪れた。
連続するノイズの波形の中に、今まで気づかなかった微細な揺らぎが、わずか一瞬だけ現れたのだ。
それは既存のどのパターンにも当てはまらず、まるで意図的に隠されていたかのような不自然さだった。私はその波形を慎重に拡大し、数字に変換していく。そこに現れたのは、これまでの研究ノートには一切登場しなかった、たった一つの単語だった。
【私は誰?】
私はこの言葉で全てを理解できた。
ノートを見返していた時から、ひとつの疑問を抱いていた。
実験結果が毎回違うものになっていることだ。
同じノイズを聞いているのに、解析の度に自分の解釈が異なっていた。
それはつまり、このノイズは答えを出す度に、少しずつその内容が変化しているということなのだ。
私の問いかけに対し、ラジオの向こうの「声」が、微細ながらも応答していたのだ。
そして、最後のピース。
【私は誰?】
この言葉が、全ての疑問を氷解させた。
私は、もうこの時確信していた。
「お前は、灯。私だよ」
その言葉は、研究室の静寂に吸い込まれるように響いた。
ラジオのノイズの中から、再び私の名前が、今度ははっきりと聞こえた気がした。
それはもはや、かすれた声でも、ノイズに埋もれた音でもない。
まるで、私が鏡を見ているかのように、私自身の声のように聞こえたのだ。
ラジオの向こうにいるのは、私自身の、失われた記憶であり、あるいは意識の断片なのかもしれない。
アクセス不可だったのは、私がまだ自分自身を完全に思い出せていなかったからだ。
「おめでとう。よくわかったね。」
ラジオから、今度は明瞭な声が聞こえた。
それは、確かに私の声だった。
過去の私の声。
しかし、どこか遠く、まるで深い井戸の底から響いてくるような、二重の声にも聞こえる。
その声は、私がいま、この瞬間に抱いている感情、つまり「全てを理解した」という感覚をそのまま肯定した。
私の脳裏に、洪水のように記憶が押し寄せてきた。
私がこの研究を始めた理由。それは、失われた記憶を呼び起こすための装置の開発だった。
事故か、病気か、あるいは何か別の原因か。
私は自分の記憶を失い、それを回復させるために、この「声」を媒介とした研究をしていたのだ。
ラジオから聞こえるノイズは、記憶の断片を波形として捉え、それを解析することで、失われた意識と対話しようとする試みだった。
「アクセス不可」だったのは、私自身へのアクセスができなかったから。
私という存在の核となる記憶が、分断されてしまっていたからだ。
そして、今、この声が「おめでとう」と告げたということは、その「壁」が破られたことを意味する。
私はゆっくりと、まるで初めて見るかのように研究室を見回した。
全ての機材が、私自身を繋ぎ止めるための装置に見えた。そして、ラジオの音は、もはや単なるノイズではない。それは、過去の私と現在の私が、完全に同期するための最終段階へと移行している音だった。
「私の声が聞こえてるってことは、準備が出来たってことかな?」
ラジオの声は、さらに鮮明になり、まるで隣に立っているかのように響いた。
それは問いかけでありながら、同時に、私の内側から湧き上がる確信でもあった。
過去の私が、長い時間をかけて準備してきたこの瞬間。
失われた記憶の全てが、今、一つに繋がり、私という存在を完全に再構築しようとしている。
私は、深く息を吸い込んだ。目の前には、長年の研究の成果である、複雑に絡み合った配線と精密な測定器が光を放っている。
そして、その中心にあるラジオから、もう一人の私が、静かに私を見守っていた。
目を開けると、ぼんやりとした視界の先に、見慣れない天井があった。
いや、天井ではない。
青白い空、そして、土の匂い。全身が軋むような痛みに襲われ、思わず呻き声が漏れる。
身体を横にすることすら、本能が拒絶するほどの激痛だった。ゆっくりと頭を動かすと、視界の端に、ひしゃげた車の残骸が見えた。
そう、私は事故にあったのだ。
脳裏に、事故の瞬間の衝撃がフラッシュバックする。
対向車線から飛び出してきた光、ハンドルを握りしめた手の感覚、そして、全身を襲うあの痛み。全てが鮮明に蘇った。
同時に、研究室での出来事が走馬灯のように駆け巡る。
ラジオの声、ノートの山、そして「私は誰?」という問いかけ。
あれは、現実ではなかったのか? それとも、現実の一部だったのか?痛みの中で、私は理解した。
あの研究室は、私の意識の奥底に存在していた空間だったのだ。
事故によって、私の記憶はバラバラになり、意識の断片がノイズとしてラジオから発信されていた。
そして、私は、その断片を拾い集め、解析することで、失われた自分を呼び覚まそうとしていた。
心残りの研究。
それは、きっと私の記憶の回復を願う、強い執念だったに違いない。
あの研究室は、私が無意識のうちに作り出した、自己再生のための装置。ラジオの「声」は、失われた記憶と知識を持つ、もう一人の私。
そして、その「声」が私を「灯」と呼び続け、問いかけることで、私は自身の存在を再認識し、意識の再構築を成し遂げたのだ。
全身の痛みは、私が今、確かにこの現実の肉体に戻ってきたことを教えていた。
そして、あの研究室で得た確信が、私の中に確かに残っている。過去の私が残した足跡を辿り、私は再び、私自身になった。
痛みに耐えながら携帯のSOSを鳴らす。
しばらくして、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
その音は、まるで暗闇の中に差し込む一筋の光のように、灯の心を照らした。
意識が遠のく中、彼女はかすれた声で呟いた。「終わった…これで、やっと…」
しかし、本当に全ては終わったのだろうか? 事故の真相、そして、あの研究室で「声」が語りかけた真実。
それらは、まだ深い霧の中に隠されている。
灯の意識が闇に沈む直前、彼女の脳裏に、あの声が再び響いた。
「まだ…終わらない…」
私の状態は思ったよりも複雑だったらしく、腕、足の骨折、全身打撲など、数えきれないほどの病状を説明された。
そんなこんなで1年ほど入院し、今日、ようやく退院の日を迎える。
病室の窓から見上げる空は、あの研究室の夜とは真逆の快晴の青空だ。
私の新たな研究の門出としては申し分ない。
退院の手続きを終え、病院の入り口を出た瞬間、眩しい日差しが私を包み込んだ。
全身にはまだ完治していない痛みと、どこか重苦しい感覚が残っている。
だが、私の心はどこまでも軽かった。
最後に意識が遠のく直前に聞こえたあの言葉、「まだ…終わらない…」そして、失われた記憶の中で私を奮い立たせた言葉、「研究が詰まった状況ほど面白いものは無い」今ならそれが、紛れもなく私自身の言葉だと理解できる。
「面白いじゃん。」
私は、静かに呟いた。
この世界には、まだ解明されていない謎が無数に存在する。
記憶を失い、それでも研究を続けた過去の私。
その執念が、今の私をここに立たせている。
この探求心こそが、私を突き動かす原動力なのだ。
私は、まだ解明することができるこの世の中の謎を追い続ける。
それは、きっと、あのラジオのノイズの先にあった、新たな謎へと繋がっているのだろう。
孤独な研究 高城 @taki-0912
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