第2話

時間が、凍り付いたみたいだった。


僕の目の前で、陽太が右腕を差し出している。その腕の内側に、禍々しい文様を描く黒い“痣”が、まるで嘲笑うかのように存在を主張していた。


心臓が、鉄の爪で鷲掴みにされたように軋む。呼吸の仕方を忘れた肺が、酸素を求めて悲鳴を上げた。


なんで。

どうして、陽太の腕に。

僕が三度目の死の直前に見た、“あれ”の体表に浮かんでいた紋様と、寸分違わぬ痣が。


「……湊? おい、本当にどうかしちまったのか?」


陽太の怪訝そうな声が、厚いガラス越しのように遠く聞こえる。彼の顔から、いつもの屈託のない笑顔が消え、純粋な心配の色が浮かんでいた。その表情は、僕の知っている陽太そのものだ。


だが、この腕の痣はなんだ?


こいつは、僕の親友じゃないのか?

それとも、僕の親友だからこそ、“あれ”に狙われた?

あるいは――最悪の可能性が脳裏をよぎる。こいつ自身が、僕らの敵、なのか?


思考が、猛烈な勢いで混乱の渦に叩き落とされる。


「おーい、二人とも! イチャついてないとこ悪いけど、もう着くぞー!」

「アナウンス、聞こえなかったの?」


前の席の女子たちが、僕らの異様な雰囲気を察してか、からかうように声をかけてきた。その声が、硬直していた僕の身体を現実に引き戻す。


僕は弾かれたように陽太から視線を逸らし、乱暴にグミの袋を彼に押し付けた。


「……悪い。なんでもない」


それだけ言うのが、精一杯だった。


『まもなく、目的地、若葉高原キャンプ場に到着いたします』


無機質なアナウンスが、バスの終点を告げる。

僕にとっては、四度目の地獄への入り口だ。


バスが緩やかに速度を落とし、完全に停止する。プシュー、という気の抜けた音と共にドアが開くと、むわりとした夏の生暖かい空気が車内に流れ込んできた。


「よっしゃ、着いたー!」

「カレー! カレー!」


クラスメイトたちが、解放感に満ちた歓声を上げながら、我先にとバスを降りていく。その誰もが、これから始まる楽しい二日間に胸を躍らせている。この先に待ち受ける運命など、知る由もなく。


「ほら、湊、行こうぜ!」


陽太が僕の腕を掴もうとする。僕は咄嗟にその手を振り払っていた。


「わっ……!?」


陽太が驚きの声を上げる。僕自身も、自分の反射的な行動に驚いた。


「あ……悪い」


気まずい沈黙が、僕と陽太の間に流れる。

違う。こんなことをしたいんじゃない。でも、どうすればいいのか分からない。この痣について、今ここで問い詰めるべきか?


『なあ、陽太。その腕の痣、どうしたんだ?』


そう聞いたとして、何が返ってくる?

もし陽太が“あれ”側だったとしたら、その瞬間、僕がループしている記憶保持者だとバレる。そうなれば、“あれ”の学習能力が、僕というイレギュラーを最優先で排除しにくるだろう。三度目よりも、もっと早く、もっと巧妙な手口で。


ダメだ。下手に動けない。

二度目のループで、知っていることを軽々しく口にした結果、僕は孤立し、誰も救えなかった。

三度目のループで、一人で行動した結果、僕は真っ先に殺された。


学習したのは、“あれ”だけじゃない。僕もだ。

この四度目のループでは、慎重に行動する。情報を集め、確信を得るまで、僕はただの“何も知らない高槻湊”を演じきる。


「……先に行ってる」


僕はそれだけ呟くと、陽太を避けるようにして席を立ち、逃げるようにバスを降りた。背中に突き刺さる、陽太の戸惑ったような視線を感じながら。


目の前に広がるのは、見慣れた合宿所の全景だ。

少し古びた木造のロッジが二棟。その間を抜けると、飯盒炊爨を行う広場と、その奥にどこまでも続く不気味なほど深い森が広がっている。


「はい、全員集合! 荷物は後だ、先に開会式を行う! 速やかに整列!」


学年主任で体育教師の田中先生が、メガホン片手に怒鳴っている。その姿も、声も、三度のループと全く同じだ。生徒たちは面倒くさそうに、しかし逆らえばもっと面倒なことになると知っているから、だらだらと広場に集まり始めた。


僕は、集団の中から意識的に陽太の姿を探す。

いた。サッカー部の連中と合流し、何か冗談を言って笑わせている。その姿は、いつも通りの陽太だ。僕がさっき見せた、おかしな態度などまるで気にしていないかのように。


……本当に、気にしていないのか?

それとも、僕の動揺を楽しんでいるのか?


僕は、陽太から少し離れた後方の列に並ぶ。ここからなら、彼の全身を怪しまれずに観察できる。


田中先生の、毎年同じ内容のつまらない訓示が始まった。熱中症に注意しろ、夜は騒ぎすぎるな、男女間の風紀を乱すな。誰も真面目に聞いていない。僕もだ。僕の全神経は、数メートル先に立つ親友の背中に注がれていた。


Tシャツとハーフパンツ。ごく普通の、夏のアウトドアスタイル。

右腕の痣は、袖に隠れて今は見えない。

他に、何か変わったところは?

歩き方、立ち方、他の奴らとの話し方。

何か、ほんの僅かでもいい。違和感はないか?


分からない。

僕が知っている陽太と、何も変わらないように見える。

だが、一度疑いの目で見てしまえば、その全てが演技に思えてくる。周りを欺くための、完璧な擬態。僕を油断させるための……。


「――以上! それでは各班に分かれて、夕食の準備に取り掛かれ! 部屋割りはプリントの通りだ! 解散!」


田中先生の号令で、生徒たちが再びざわめき出す。


「よっし、カレー作るぞ!」

「俺、火起こし担当な!」


僕らの班は、僕と陽太を含めた男子四人、女子四人の計八人。これも、いつも通りだ。


「湊、部屋、一緒だよな? 荷物置きに行くぞ」


陽太が、今度は何事もなかったかのように、僕の肩に腕を回してきた。

びくり、と身体が強張る。

痣のある右腕じゃなく、左腕だった。それでも、蛇に巻き付かれたような悪寒が背筋を走った。


「……ああ」


僕は短く答えるのが精一杯だった。


ロッジの二階、割り当てられた八人部屋は、木の匂いとカビの匂いが混じった独特の空気が漂っていた。二段ベッドが四つ置かれただけの、殺風景な部屋だ。


僕も陽太も、いつも通り下段を選ぶ。

荷物をベッドの上に放り出し、お互いに無言で着替えやタオルを取り出す。気まずい。こんなに陽太との間に沈黙が流れるなんて、今まで一度もなかった。


先に沈黙を破ったのは、陽太だった。


「……なあ、湊」

「……なんだよ」

「お前、なんか怒ってるのか? 俺、なんかしたか?」


真っ直ぐな瞳が、僕を射抜く。

その瞳に、嘘や悪意の色は読み取れない。ただ、親友を心配する、誠実な色が浮かんでいるだけに見える。


僕の心が、揺らぐ。

もしかして、僕の勘違いなんじゃないか?

あの痣は、“あれ”の紋様と似ているだけの、ただの痣なんじゃないか?

陽太は何も知らなくて、ただの被害者の一人なんじゃないか?


「……いや、怒ってるとかじゃなくて」

僕は言葉を選ぶ。

「ただ……ちょっと、疲れてるだけだ。バスで変な夢、見たし」


「夢?」


「ああ。なんか、みんなが化け物に襲われる、変な夢」


カマを、かけてみた。

これで陽太の表情が少しでも変われば。


「ははっ、なんだよそれ。湊、ビビりすぎだろ」


陽太は、あっけらかんと笑い飛ばした。


「大丈夫だって! もし化け物が出たら、俺がサッカーボールで撃退してやっから!」


そう言って、彼は屈託なく笑う。

やはり、反応はない。僕の考えすぎか……?


いや、まだだ。まだ分からない。

もし陽太が“あれ”側の存在なら、この程度の揺さぶりでボロを出すはずがない。三度も僕の対策を学習し、上回ってきた知性を持っているんだから。


「……それより、早く準備行こうぜ。女子たち、待たせてるだろ」


僕は話を切り上げ、部屋を出ようとする。その時、陽太がベッドの下に置いたスポーツバッグのジッパーが、少しだけ開いているのが目に入った。


中を、見たい。

何か、手がかりになるようなものが隠されているかもしれない。


でも、今は無理だ。彼がすぐそばにいる。

後で、必ずチャンスは来る。


僕と陽太は、他のメンバーと合流し、飯盒炊爨の広場へと向かった。

広場では、すでにいくつかの班が火起こしを始めており、あちこちから楽しそうな声と、薪のはぜる音が聞こえてくる。

平和そのものの光景だ。

あと数時間後には、このすべてが悲鳴と絶望に塗り替えられるというのに。


僕らの班も、カレー作りを始めた。

陽太と、もう一人の男子が火起こしと飯盒の担当。僕ともう一人は、薪割りと運搬。女子たちは野菜を切ったり、調理の準備をしたりしている。


僕は薪を運びながらも、意識のほとんどを陽太に向けていた。

陽太は、慣れた手つきで薪を組み、火をつけている。その横顔は真剣そのものだ。時折、班の女子に「陽太くん、頼りになるー!」などと囃し立てられては、照れ臭そうに笑っている。


どこからどう見ても、ただの高校生だ。

あの痣さえなければ。


どうすれば、もっと情報を引き出せる?

直接的すぎず、自然な形で。


薪を置き、僕は辺りを見回す。何か、きっかけになるものはないか。

その時、僕の目に、ある人物が飛び込んできた。


隣の班で、救急箱を前に座っている女子生徒。

クラスの保健委員、早乙女静(さおとめ しずか)さんだ。

腰まである長い黒髪を一つに束ね、真面目そうな眼鏡をかけている。少し神経質そうな雰囲気で、男子とはあまり話さないタイプだが、仕事はきっちりこなすことで知られていた。


……あれだ。


僕は、足元に落ちていた手頃な薪の枝を拾うと、わざと自分の左手の甲に、そのささくれた先端を強くこすりつけた。


「いっ……!」


ジンジンとした痛みが走り、皮膚が赤くなって、ぷくりと血の玉が浮かぶ。


よし。


僕はわざと痛そうな顔をして、自分の班から離れ、早乙女さんの元へと向かった。


「あの、早乙女さん」


「……高槻くん? どうかしたの?」


彼女は本を読んでいたが、僕の声に顔を上げた。


「悪いんだけど、薪でちょっとやっちゃって。絆創膏、もらえないかな?」


僕は傷口を見せる。早乙女さんは「あ、大変」と小さく呟くと、すぐに救急箱を開けて、消毒液と絆創膏を取り出してくれた。


「じっとしてて」


彼女は慣れた手つきで、僕の傷を消毒してくれる。アルコールが染みて、思わず顔をしかめた。


「ありがとう。助かるよ」


手当を終え、僕が礼を言う。

ここからだ。


「しかし、慣れないことするとすぐ怪我するな。最近、なんか変な痣とかできてるやつもいるらしいし、気をつけないと」


僕は、できるだけ自然を装って、独り言のように呟いた。


「……変な痣?」


早乙女さんの手が、ぴくりと止まる。食いついてきた。


「ああ、なんかネットで見ただけだけどさ。原因不明の痣が広がるとか、そういう都市伝説。気にしないで」


「……原因不明の、痣」


早乙女さんは、眼鏡の奥の瞳で、じっと僕の顔を見つめてくる。その視線は、何かを探るように鋭い。


「高槻くん。その痣って、どんな模様か、覚えてる?」


「え? いや、だから、ただの噂だって……」


「私、少し気になることがあるの」


彼女は声を潜め、辺りを窺うようにしてから、言葉を続けた。


「痣、じゃないんだけど。最近、こういう山間部での合宿やキャンプの後に、原因不明の体調不良を訴えるケースが、局地的に報告されてるって話を聞いたことがあるわ。ネットの、ごく一部の掲示板だけど」


「体調不良?」


「ええ。高熱や、幻覚、あと……皮膚に、特殊なアレルギー反応みたいな発疹が出ることがあるって。それは、植物によるかぶれや、虫刺されとは明らかに違うものらしいの」


植物でも、虫でもない、発疹。

それは、陽太の痣と何か関係があるのか?


「その掲示板、まだ見れるかな?」


「さあ……。かなりマニアックなオカルト系のサイトだったから。でも、確か『風土病』とか『土着の呪い』みたいなキーワードで……」


そこまで言った時、早乙女さんはハッと口をつぐんだ。


「ごめんなさい。変な話をして。絆創膏、汚れたらまた替えに来て。じゃあ」


彼女は一方的に話を打ち切ると、また本の世界へと戻ってしまった。


だが、僕にとってはとてつもない収穫だった。

新しい仮説が、頭の中にいくつも生まれる。


陽太の痣は、“あれ”の紋様であると同時に、早乙女さんの言っていた“発疹”の一種なのかもしれない。

だとすれば、“あれ”の正体は、超自然的な怪物なんかじゃない。何らかの病原体、あるいは寄生生物のような、もっと科学的に説明がつく存在の可能性がある。

そして、陽太は“あれ”に“感染”した、最初の被害者……?


もしそうなら、彼が僕の親友である陽太のままである可能性も出てくる。敵ではなく、味方、あるいは守るべき対象として。


希望の光が、ほんの少しだけ見えた気がした。

このループで死んだとしても、次のループが始まる前に、そのネットの情報を徹底的に調べれば、何か対策が立てられるかもしれない。


「よし……!」


僕は小さく拳を握り、自分の班へと戻った。

心なしか、足取りが少し軽い。

カレーのいい匂いが、鼻をくすぐる。


班に戻ると、ちょうどカレーが出来上がったところだった。

女子たちがよそってくれたカレーを受け取る。


その時、僕は見てしまった。


少し離れた場所で、陽太が一人、森の方向をじっと見つめているのを。


飯盒の火の番を終え、手持ち無沙汰になったのだろう。

だが、その横顔は、僕の知っている陽多のそれじゃなかった。

いつものような快活さはなく、かといって険しいわけでもない。

ただ、ひたすらに静かで、どこか物憂げで。まるで、森の奥にある“何か”と、無言の対話でもしているかのように見えた。


僕の心臓が、またドクンと嫌な音を立てる。


「……陽太」


僕が声をかけると、陽太の肩がびくりと震えた。

彼はゆっくりと僕の方へ振り返ると、一瞬、戸惑ったような表情を見せた後、いつものニカッとした笑顔を顔に貼り付けた。


「お、湊! うわ、カレー超うまそうじゃん! 腹減ったー!」


そのあまりにも早い表情の変化。

さっきまでの静かな横顔は、幻だったのか?


いや。

僕は、確かに見た。


陽太は、何かを隠している。

それは間違いない。


それが、僕を助けるための秘密なのか。

それとも、僕らを絶望に突き落とすための罠なのか。


今は、まだ分からない。


でも、確かなことが一つだけある。

この四度目の夏合宿は、これまでの三回とは、何かが決定的に違う。


親友という名の、最大の謎を抱えて。

僕は、出来立てのカレーを、一口、口に運んだ。

味なんて、全くしなかった。

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