夏合宿、僕だけが知っている~全員が“あれ”に殺される24時間~

☆ほしい

第1話

ガタン、と大きな衝撃が全身を貫いた。


聞き飽きるほど聞いた車輪の軋み。埃と、誰かが車内でこっそり開けたポテトチップスのコンソメ味が混じった、独特の匂い。じりじりと腕を焼く、窓越しの夏の日差し。


そして、クラスメイトたちの、能天気な笑い声。


ゆっくりと瞼をこじ開ける。

目の前に広がるのは、見慣れた光景だった。くたびれた青いモケット生地の座席。通路を挟んだ向こうでは、女子のグループが恋バナに花を咲かせている。後ろの席からは、男子連中がスマホゲームの効果音を響かせながら馬鹿騒ぎする声が聞こえる。


「……ははっ」


乾いた笑いが、喉の奥から漏れ出た。


「また、ここかよ」


そうだ。

また、ここだ。


僕、高槻湊(たかつき みなと)が、この世で最も憎むべき場所。


恒例行事という名の強制イベント、高校最後の夏合宿へ向かう、観光バスの中。


これで、ちょうど4度目になる。

僕が死んで、この忌まわしい一日の始まりに、意識だけを放り込まれるのは。


「おい、湊! お前、昨日ちゃんと寝たのか? 顔、死んでんぞ」


隣の席から、太陽みたいに明るい声が僕を現実に引き戻す。

声の主は、相川陽太(あいかわ ようた)。日に焼けた肌に白い歯が映える、サッカー部のエースで、クラスの誰もが認める人気者。そして、僕のたった一人の親友だ。


「……ああ、陽太か。悪い、ちょっと寝不足でさ」


僕は、もはや身体に染み付いた演技で、曖昧に笑ってみせる。上手く笑えているだろうか。鏡で確認する術はないが、きっと酷い顔色のはずだ。


「ゲームのやりすぎだろ、どうせ。受験生だってのにお気楽なもんだな、お前は」


陽太はニカッと笑って、僕の肩を軽く小突く。その気安い仕草に、胃がキリリと痛んだ。


違う。

ゲームなんかじゃない。


眠れないんだ。

瞼を閉じれば、鮮明すぎる悪夢が再生されるから。


いや、あれは夢なんかじゃない。

僕が、この身をもって三度も体験した、紛れもない“現実”だ。


一度目の僕は、あまりにも無力だった。

肝試しと称して、クラス全員で夜の森に入った時、それは現れた。具体的な姿形は思い出せない。闇そのものが意志を持って蠢いているような、冒涜的な何か。それが“あれ”だった。

最初に悲鳴を上げたのは誰だったか。パニックは一瞬で伝染し、僕らは散り散りになって逃げ惑った。僕はただ、恐怖に竦んで動けなくなった女子の手を引いて走った。けれど、すぐに追いつかれた。背後で聞こえた絶叫と、生々しい咀嚼音。振り返ることさえできず、ただがむしゃらに走って、木の根に足を取られて転んで、そのまま……。


気がついた時、僕はバスの中にいた。一度目と全く同じ、陽太の「顔、死んでんぞ」という声で、目が覚めた。


二度目の僕は、愚かだった。

「これは夢じゃない、ループしてるんだ!」と確信した僕は、チャンスだと思った。未来を知る僕なら、全員を救えるはずだ。バスが合宿所に到着するなり、僕は担任の教師に駆け寄った。「夜の森には入らないでください! 化け物が出ます!」と。

結果は、散々だった。

教師には「疲れてるのか?」と心配され、クラスメイトたちには「湊、どうしたんだよ」「ホラー映画の見すぎだろ」と気味悪がられた。僕が必死に危険を訴えれば訴えるほど、周囲の目は僕を“ヤバいやつ”として見るようになり、僕は孤立した。

もちろん、肝試しは予定通り決行された。僕だけが参加を拒否してロッジに立てこもったが、結局“あれ”は建物の中にまで侵入してきた。窓ガラスが砕ける音、廊下を走り回る絶望的な足音、そして悲鳴が一つ、また一つと消えていくのを、僕はクローゼットの中で耳を塞ぎながら震えて聞いていることしかできなかった。最後は、扉をこじ開けられて……。


三度目の僕は、無謀だった。

もう誰も信じられない、と悟った。頼れるのは自分だけだ。合宿所に到着後、僕は真っ先に備品倉庫に忍び込み、使えそうなものを探した。ナタ、古い斧、そしてガソリンの携行缶。これで“あれ”を迎え撃つ。僕が“あれ”を倒せば、全てが終わるはずだ。

僕は、“あれ”が現れる森の入り口で、一人待ち構えた。陽太が「湊、どこ行ってたんだよ? みんな心配してるぞ」と探しに来てくれたが、僕は「来るな!」と叫んで追い返した。あんなに優しい親友を、僕は拒絶した。

そして、闇の中から“あれ”は現れた。

僕は恐怖を押し殺してナタを振るい、ガソリンをぶちまけて火をつけようとした。だが、“あれ”の動きは、僕の知っている二度の惨劇の時よりも、明らかに速く、そして的確だった。まるで、僕の行動を予測しているかのように。

僕の幼稚な罠は簡単にかいくぐられ、抵抗も虚しく、僕は地面に押さえつけられた。身動き一つ取れない僕の目の前に、“あれ”の一部と思わしき、黒い触手のようなものが迫る。

その表面に、僕は見たのだ。

無数に浮かび上がる、黒く、禍々しい文様を。まるで呪いの紋章のような、奇妙な“痣”が、蠢く体表をびっしりと覆っていた。

それが、僕の最期の記憶だった。


「……と、湊? おい、高槻湊!」


陽太の大きな声に、僕はハッと我に返った。いつの間にか、僕は窓の外を睨みつけながら、唇を噛み締めていたらしい。鉄の味が口の中に広がる。


「悪い、本当にぼーっとしてた」


「マジで大丈夫かよ。夏バテ? 合宿、無理すんなよ」


陽太は本気で心配してくれている。その純粋な優しさが、今はナイフのように僕の心を抉る。

お前も、死ぬんだぞ。

そう喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。言っても無駄だ。二度目の失敗がそれを証明している。


「なあ、陽太。今日の肝試し、やめようって言ったら、どうする?」


僕は、ほとんど無意識にそう問いかけていた。四度目にして、初めての質問だった。


「は? なんでだよ。一番の楽しみじゃんか」


陽太はきょとんとした顔で答える。


「だよな。だよな、悪い、忘れてくれ」


「なんだよ、変なやつだな。まあ、お前が怖いって言うなら、俺がずっと隣にいてやるよ」


陽太はそう言って、またニカッと笑った。

その笑顔を見るのが辛い。


僕は、このループの中で一つの絶望的な法則に気づいてしまった。


僕が対策を講じるたび、“あれ”は僕の行動を学習し、より賢く、より残忍になっていく。

二度目の惨劇で、パニックが起きたことを学習した“あれ”は、三度目ではもっと静かに、確実に一人ずつ襲ってきた。

三度目の僕が武器を持って抵抗したから、四度目の“あれ”は、もっと強力な、武器など通用しない方法で襲ってくるかもしれない。


死に戻るたび、上手くなる。

僕じゃなくて、化け物の方が。


これは、僕を育成するためのゲームじゃない。

“あれ”が、最も効率的に人間を狩る方法を学ぶための、シミュレーターなんだ。

そして、僕がそのリセットボタンを押す役割を担わされているに過ぎない。


じゃあ、どうすればいい?

何もしなければ、一度目と同じ結末が待っているだけだ。

動けば動くほど、被害はより凄惨になる。


八方塞がりだ。

このバスに乗っている時点で、僕らの運命は決まっているのかもしれない。


「そういえばさ、湊」


考え込む僕の思考を、陽太の声が再び遮る。


「お前が好きだって言ってたグミ、母ちゃんが入れてくれたんだ。ほら、この期間限定のやつ。一個やるよ」


陽太はそう言いながら、自分の足元に置いた大きなスポーツバッグをごそごそと漁り始めた。その光景も、もう四度目だ。ああ、この後、陽太はカバンの奥に入り込んだグミの袋を見失い、前の座席の下にでも転がり込ませるんだ。知っている。全部、知っている。


「あ、やべ。どこ行ったかな……。あった、けど奥の方だ」


陽太が身を屈めて、座席の下の狭い空間に腕を突っ込む。

僕は、その光景から目を逸らした。これから起こることを、見たくなかった。


「うおっと……!」


案の定、陽太は体勢を崩し、バランスを取るために床に手をついた。その反動で、カバンから転がり出たらしいグミの小袋が、コロコロと僕の足元まで転がってきた。


「悪い、湊。拾ってくれるか?」


「……ああ」


僕は俯いたまま、床に落ちたグミの袋に手を伸ばす。

その時だった。


「サンキュ。やっぱお前、優しいな」


陽太が、僕が拾った袋を受け取ろうと、右腕を差し出してきた。


何気ない、日常の一コマ。

親友との、ありふれたやり取り。


そのはずだった。


ぐっと伸ばされた陽太の右腕。

Tシャツの袖がずり上がり、露わになった腕の内側。


そこに、僕の視線は釘付けになった。


「…………え?」


時が、止まった。


バスの騒音も、陽太の声も、何もかもが遠くなる。

僕の世界から、音が消えた。


そこにあった。


陽太の、日に焼けた健康的な肌の上に。


黒く、不気味な文様を描く、“痣”が。


見間違えるはずがない。ありえない。絶対に。

三度目のループの最後。僕が死ぬ間際に見た、あの光景。僕を殺した“あれ”の体表をびっしりと覆っていた、呪いのような紋様。


それと、寸分違わぬ形の“痣”が、なぜ。


どうして、僕の一番の親友である、陽太の腕にあるんだ?


「……湊? おい、湊ってば!」


陽太が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。その顔が、声が、今はひどく歪んで見える。


お前は、誰だ?

僕の知っている、相川陽太なのか?

それとも――


「おーい、二人とも! イチャついてないとこ悪いけど、もう着くぞー!」


前の席の女子が、からかうように振り返って言った。


『まもなく、目的地、若葉高原キャンプ場に到着いたします。お降りの際、お忘れ物のないよう、ご注意ください』


その言葉と同時に、バスのスピーカーから、涼やかで無機質なアナウンスが流れる。


それは、合宿の始まりを告げる合図なんかじゃない。


僕にとって、四度目となる地獄の幕開けを告げる、無慈悲なファンファーレだった。

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