第24話

神楽坂京介との、静かなる宣戦布告。


アカデメイア・ラウンジを後にした僕は、寮の自室へと戻った。アドレナリンが全身を駆け巡っているのを感じる。だが、僕の思考はその興奮とは裏腹に、どこまでも冷徹にクリアになっていた。


平穏な日常は終わった。再び僕は、戦場へと足を踏み入れたのだ。


部屋に戻ると、僕はまず自らの環境を作り変えることから始めた。ここはもはや、ただの学生寮の一室ではない。これから始まる壮大な情報戦と心理戦を戦い抜くための、司令室であり要塞だ。


僕はまず、部屋の全ての電子機器を分解し、物理的な盗聴器やGPSトラッカーが仕掛けられていないか徹底的に確認した。神楽坂ならば、僕と接触したあのわずかな時間でそれくらいのことをしていてもおかしくはない。幸い、物理的な仕掛けはなかった。奴は僕の能力をまだ完全には把握しておらず、直接的な物理干渉は避けたのだろう。


次に、僕はデジタルな要塞を構築した。ノートパソコンのハードディスクを複数の暗号化されたパーティションに分割。OSも普段使うものとは別に、追跡不可能なセキュアOSをインストールした。全ての通信は僕が独自に構築した多重VPNとTorネットワークを経由させる。これで、僕のデジタルな足跡は完全に闇の中へと消えた。


壁には再び、巨大な模造紙が貼り付けられる。だが、高校時代のそれとは質が違う。そこに書き込まれるのは、単なる人間関係の相関図ではない。アルカディアという組織の構造、資金の流れ、関連企業、そしてメンバー個人のデジタルな脆弱性。あらゆる情報がシステムとして可視化されていく。僕の頭脳こそが、この司令室のメインフレームだった。


準備は整った。だが、僕一人ではこの巨大な城を攻め落とすことはできない。僕には僕の手足となり、僕にはない武器となる仲間が必要だった。


僕はリストの筆頭に、ある名前を書き出した。


猫宮ひまり。


彼女を仲間に引き入れる。それが僕の最初のミッションだ。


僕は彼女の論文や、彼女がネット上で匿名で公開しているプログラムの数々を徹底的に分析した。彼女のコーディングは一つの芸術作品だった。無駄がなく、エレガントで、そしてその構造の至る所に彼女だけの美学と遊び心が隠されている。僕は彼女の書いたコードを通して、彼女という人間を理解しようと試みた。彼女は人間を嫌っているのではない。人間の不合理で非効率なコミュニケーションを嫌っているのだ。彼女が理解できる言語は世界でただ一つ。論理と数学によって構成された、純粋なコードだけ。


ならば、僕も彼女の言語で語りかけるしかない。


僕は彼女が構築したという鉄壁のプライベートサーバーへの侵入を試みた。それは正面からの攻撃ではなかった。僕は彼女が作り上げた完璧な城壁を賛美し、その設計思想を理解し、そしてその設計者が唯一見落としたであろう一点の曇りを見つけ出す作業だった。


丸二日。不眠不休の集中の果てに、僕はついにそれを見つけた。彼女のあまりにも独創的な暗号化アルゴリズムが生み出した、理論上のほんのわずかな矛盾。そこが唯一の侵入口だった。


僕はその小さな扉から、彼女の神聖な領域へと足を踏み入れた。そして、彼女のシステムのルートディレクトリに一つのパズルを置いてきた。それは彼女が過去に発表した論文の中の数式を応用した暗号パズル。そして、そのパズルを解くと一つのメッセージが浮かび上がるように設計しておいた。


『素晴らしい城の主へ。あなたを晩餐会に招待したい』


僕が司令室の椅子で仮眠を取ってから数時間後、僕のパソコンに匿名のチャットルームへの招待が届いた。僕は静かにそれを受理した。


チャットルームには、猫のアバターが一つ表示されている。『Nekomata』。間違いない。彼女だ。


『……あんた、何者?』

短いテキストが送られてくる。

『私のサーバーに入ってきたってことは、それなりの腕なんだろうけど』


僕は彼女の問いには答えず、逆に質問を返した。

『君が使っている暗号鍵生成の乱数ジェネレータ。それはリーマン予想のゼータ関数の非自明なゼロ点分布を応用しているね?独創的だが、特定条件下での周期性にわずかな脆弱性が残っている』


僕のその指摘に、チャットの向こう側で彼女が息をのんだのが分かった。しばらく沈黙が続いた。やがて、彼女から返信が来た。


『……あんた、面白いね』


その一言は、彼女が僕という存在を認めたことを意味していた。


『で、何の用?まさか、ただ私のコードの欠陥を指摘しに来たわけじゃないでしょ』

『ああ。君の力を借りたい』

僕は単刀直入に言った。

『僕は今から、ある巨大なシステムをハッキングしようと思っている。それはこの大学を裏から支配する巨大な組織だ』

『……ふーん。で、私にそれを手伝えと?メリットは?』

『メリットはない。あるのは君が今まで一度も経験したことのない、最高難易度で最もスリリングなパズルだけだ』


僕は彼女の知的好奇心と、技術者としてのプライドに直接訴えかけた。チャットの沈黙が続く。僕はただ静かに彼女の答えを待った。やがて、画面に新しいメッセージが表示された。


『……いいよ。乗ってあげる』


その短いテキストに、僕は確かな勝利を感じた。


『ただし、条件がある。私は私のやり方でやる。それと、私の正体を探ろうとしないこと。もちろん、直接会うのも禁止。OK?』

「歓迎するよ。僕のチームへようこそ、ひまり」


僕の最強の矛であり盾となる仲間が加わった。僕の反撃のための最初のピースが、今、確かに盤上へと置かれたのだ。

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