第3話
学園を追放されてから、三日が経った。
僕の住む安アパートの六畳一間の部屋は、復讐計画の司令室と化していた。壁一面に貼り付けたのは、巨大な模造紙。そこには、僕の通っていた名門・陽泉(ようせん)学園の教師と、主要な生徒たちの顔写真、そして彼らの人間関係を示す無数の線が、まるで複雑な蜘蛛の巣のように張り巡らされている。これが、僕の卒業制作の設計図だ。
中央には、もちろん一条院司の傲慢な笑顔の写真。その周囲を、彼に媚びへつらう教師や取り巻きの生徒たちが衛星のように囲んでいる。僕は、冷めたコーヒーを片手に、その相関図を睨みつけていた。
一条院司という巨大な城を崩すには、まず外堀から埋めていくのが定石だ。堅固な城壁も、それを支える石垣が一つ、また一つと抜き取られていけば、やがては自重に耐えきれず崩壊する。
僕が最初のターゲットとして選んだ、最初の石垣。
それは、進路指導担当の教師、田中正平(たなか しょうへい)。
聴聞会で僕を「身の程知らず」と断じ、一条院の権威の前にひれ伏した、あの男だ。
僕は壁の隅に貼った、田中に関するメモに目を落とす。
『田中正平。52歳。担当教科は現代社会。進路指導主任。性格は事なかれ主義で、極端に権威に弱い。学園理事の息子である一条院を溺愛し、特待生の僕を常々快く思っていなかった。口癖は「前例がない」「常識的に考えて」。弱点は、見栄っ張りで自己顕示欲が強いこと。そして、現在、他校に通う一人息子の大学進学問題で、妻からプレッシャーをかけられていること』
これらの情報は、僕がこの二年間、学園内で地道に集めてきたデータの集積だ。気弱な優等生という仮面は、相手の警戒心を解き、油断させるのに最適だった。教師たちの雑談、生徒たちの噂話。その全てを、僕は聞き流すフリをしながら、頭の中のデータベースに記録してきた。
「あなたの言う『常識』が、いかに脆く、頼りないものか。教えて差し上げますよ、田中先生」
僕は独りごちると、立ち上がった。クローゼットから、一度も着たことのない安物のスウェットと、顔を隠すための深いフードのついたパーカーを取り出す。これから向かうのは、戦場だ。ただし、その戦場に硝煙の匂いはない。クリック音とキーボードの打鍵音だけが響く、デジタルの荒野だ。
足を運んだのは、駅から少し離れた雑居ビルの二階にある、古びたインターネットカフェ。薄暗い店内に、パソコンの冷却ファンが回る低い音だけが響いている。僕は一番奥の個室に入ると、使い捨てのメールアドレスを取得し、ある人物になりすまして、一通のメールを作成した。
件名:【緊急のご相談】〇〇中学校保護者・鈴木より
『拝啓 田中正平先生
突然のメール、大変失礼いたします。私、〇〇中学校に通う息子の母、鈴木と申します。
先生の輝かしい進路指導実績は、保護者の間でも大変な評判となっております。特に、数々の生徒様を難関大学へ導かれたその手腕、まさに神業のようだと伺っております。
実は、他ならぬ息子の進路のことで、夜も眠れぬほど悩んでおります。どうか、藁にもすがる思いの私めに、先生のお力をお貸しいただけないでしょうか。もちろん、先生が非公式に開催されている個人相談会のお礼は、十二分にさせていただきます』
文面は、可能な限り丁寧かつ、相手の自尊心をくすぐるように構成した。田中が、自分の指導実績を誇張し、一部の裕福な保護者を相手に、高額な個人相談会という名の副業に精を出していることは、調査済みだ。この甘い餌に、彼が食いつかないはずはなかった。
案の定、一時間もしないうちに、田中から返信が届いた。
『鈴木様。ご丁寧なメール、痛み入ります。私の指導が、少しでもお役に立てるのなら、これ以上の喜びはありません。つきましては、一度オンラインでお話を伺えればと存じます。日時は、鈴木様のご都合に合わせます』
(食いついたな)
僕は口元に冷たい笑みを浮かべ、すぐさま返信を打った。
相談したい内容は、あらかじめ用意してある。彼が絶対に自力では答えられない、超難問だ。
『早速のご返信、ありがとうございます。ご相談したいのは、息子の海外大学への進学についてです。現在の息子の成績で、スイスのチューリッヒ応用科学大学の、コンピューターサイエンス学部が設けている「次世代技術者育成奨学金」を利用して進学する、何か裏技的な方法はないものでしょうか……』
この奨学金制度は、実在する。だが、その応募資格は非常に特殊で、ヨーロッパ圏外の学生が利用するには、現地のNPO法人が発行する推薦状と、特定のプログラミングコンテストでの入賞歴が必須となる。そんな情報は、少し調べればわかることだが、僕は田中がその手間を惜しむことを見越していた。彼は「知らない」とは言えない。なぜなら、彼は「進路指導のプロ」だからだ。
僕は、罠の最後の仕上げに取り掛かった。
ネットカフェを出て、コンビニでUSBメモリと封筒を購入する。アパートに戻ると、僕はパソコンに向き合い、数時間かけて一つのファイルを作成した。それは、チューリッヒ応用科学大学の奨学金制度に関する、架空の「極秘資料」だった。
大学のロゴを精巧に再現し、関係者の署名まで偽造する。そして、その資料には、いかにも裏技らしく、こう記しておいた。
『特例措置として、指定のプログラミング学習サイトで最高ランクを獲得し、その証明書を提出すれば、コンテスト入賞歴と同等とみなされる』
もちろん、そんな特例は存在しない。大嘘だ。しかし、その学習サイト自体は実在するもので、一見すると非常に信憑性が高いように見える。
そして、この資料の最も重要な毒。それは、出願書類の提出先として、大学の公式窓口ではなく、すでに閉鎖された古い事務局の住所を記載しておいたことだ。この情報を信じれば、出願者は書類不備で、挑戦することすらできずに終わる。
僕は作成したPDFファイルをUSBメモリに入れ、深夜、田中の自宅へと向かった。高級住宅街に建つ、立派な一軒家。僕は周囲に誰もいないことを確認し、そのUSBメモリを入れた封筒を、彼の家の郵便受けにそっと投函した。封筒には何も書かない。ただの、謎のUSBメモリ。それが逆に、彼の好奇心と猜疑心を煽るはずだ。
翌日、僕は再びネットカフェにいた。
「鈴木」として、田中とのオンライン相談会に臨むためだ。カメラはオフにし、フリーソフトのボイスチェンジャーで、声を40代女性のものに変えている。
画面の向こうで、田中が満足げな笑みを浮かべていた。
「いやあ、鈴木さん。あなた、本当に幸運ですよ。普通なら、絶対に不可能な挑戦でした。ですが、この私にかかれば、道は開けるのです」
彼は、さも自分の手柄のように、僕が仕込んだ偽の情報を語り始めた。
「実は、私もつい先日、独自ルートで極秘の情報を入手しましてね。この奨学金には、知る人ぞ知る特例措置が存在するのですよ。この学習サイトで最高ランクを取れば、それで応募資格が得られるのです。これなら、あなたのご子息でも十分に可能性がありますな! はっはっは!」
高笑いが、イヤホン越しに響く。
見ているだけで胸糞が悪くなる光景だ。彼は、昨夜僕が投函したUSBメモリの中身を、まんまと信じ込んだらしい。自分の手柄にできる「極秘情報」に、飛びつかないはずがなかった。
僕は、声色に感謝と感動をにじませて、彼に礼を言った。
「まあ、先生! 本当でございますか! なんて素晴らしい情報でしょう! ありがとうございます、本当にありがとうございます!」
「いえいえ。これも、悩める生徒と保護者のためですから」
有頂天になっている田中に、僕は最後の一押しをする。
「先生、一つお願いがございます。先生のこの素晴らしいご指導を、ぜひ他の方にも知っていただきたいのです。この相談会の様子を録画させていただき、匿名で、同じように悩める保護者の方々のために、ブログなどで紹介させていただいてもよろしいでしょうか?」
自分の評判がさらに上がると信じ込んだ田中は、二つ返事で快諾した。
「おお、それは素晴らしい! ええ、構いませんとも! どんどん広めてください! 私、田中正平の名をね!」
(愚かだな、本当に)
僕は心の中で嘲笑いながら、録画ボタンを押し、礼を言って通話を切った。約束通り、彼の口座に高額な相談料を振り込む。これで、金銭の授受という、動かぬ証拠もできた。
作戦は、最終段階へと移行する。
僕は、録画した動画を、慎重に、そして悪意を持って編集した。
田中が「私が独自に入手した情報ですが」「絶対に間違いありません」「私を信じなさい」と、自信満々に、断定的に語っている部分を切り貼りし、テロップで強調する。彼の傲慢な高笑いも、効果音付きで挿入しておいた。
そして、完成した動画を、地域の保護者や陽泉学園の関係者が最も多く閲覧している匿名掲示板に、投稿した。タイトルは、できるだけ扇情的に。
【超悲報】陽泉学園・田中正平先生の進路指導、完全なデタラメだった件【相談料詐欺?】
動画と共に、僕はテキストで、丁寧な解説を添えた。
『動画内で田中先生が語っている情報は、全て偽りです。
正しい奨学金の応募資格は以下の通りです(公式サイトのリンクを添付)。
先生が紹介した「特例措置」は存在しません。
また、先生が指定した出願先は、すでに閉鎖された旧事務局のものです。
この情報を信じて出願準備を進めた場合、多大な時間とお金を無駄にするだけでなく、締め切りに間に合わず、受験資格そのものを失います。
進路指導のプロを名乗る教師が、裏も取らずに、しかも金銭を受け取って、このようなデタラメな情報を教えていることは、教育者として許されることなのでしょうか? 皆様のご意見をお聞かせください』
引き金は、引かれた。
あとは、情報という名のウイルスが、勝手に増殖し、感染を広げていくのを待つだけだ。
結果は、僕の想像以上だった。
投稿からわずか数時間で、スレッドは驚異的な勢いで伸び、SNSでも拡散され、大炎上となった。
『これ、うちの息子も相談したことある先生だ…』
『金取ってこれって、詐欺じゃん』
『うちの学校の恥だ。早くクビにしろ』
『そもそも、教師が非公式に金取るって、服務規程違反じゃないの?』
炎は、僕が火をつけた範囲を遥かに超えて、田中自身の過去の悪行まで燃やし始めた。
その二日後。
僕のスマートフォンが、軽快な着信音を鳴らした。表示された名前は『長谷川詩織』。
「もしもし、レイ君!? 見たわよ、ネット! あれ、あなたがやったんでしょ! すごいじゃない!」
電話の向こうで、詩織が興奮したように叫んでいる。
「ああ。ドミノの最初の一つを倒しただけだよ。そっちの様子はどうだ?」
僕は冷静に尋ねる。
「もう、大変な騒ぎよ! 田中先生、あの炎上が原因で、他の保護者からも苦情が殺到したみたい。非公式の相談会で高額な金銭を受け取ってたこと、さらにデタラメな情報を教えていたことが、ついに学園長の耳に入って……昨日から、自宅謹慎処分よ!」
「そうか」
「そうか、じゃないわよ! 進路指導の担当は即刻クビ、今は懲戒免職になるかどうかの調査委員会が開かれてるって噂よ! あの威張り散らしてた田中先生が、完全に終わったわ! ねぇ、気分はどう? スカッとした?」
詩織の問いに、僕は窓の外を見ながら静かに答えた。
「ああ。少しだけ、な」
電話を切り、僕は司令室の壁に向き合う。
そして、田中正平の顔写真の上に、用意していた赤いマジックで、大きく、力強く、バツ印を書き込んだ。
「田中先生、分かりましたか。知らないことを知ったかぶりで語るのが、どれだけ醜いことか。あなたは、僕の論文の価値を理解しようともせず、ただ権威に媚びへつらい、僕の三年間を否定した。それが、あなたの犯した罪です」
ドミノは、一つ倒れた。
その振動は、ゆっくりと、しかし確実に、次の駒へと伝わっていく。
僕は、相関図の中の一人に、視線を移した。一条院の隣で、得意げに笑っている男子生徒。聴聞会で、一条院の嘘に合わせて、「僕も、水城が怪しい動きをしているのを見ました」と偽証した、彼の取り巻きの一人だ。
「さて、城を支える石垣は、一つ崩れた。次は、王様の隣で威張っている、嘘で塗り固められたペットの番だ」
僕は、次のターゲットの写真を、指でなぞる。
「君を操っているその糸、この僕が、綺麗に断ち切ってあげるよ――西園寺(さいおんじ)君」
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