第2話

重く、冷たいマホガニーの扉が、僕の背後でゆっくりと閉じていく。

ゴトン、という鈍いロック音が、僕と学園との完全な断絶を告げた。

その瞬間まで、僕はうなだれ、肩を震わせる、全てを失った哀れな被害者を演じ続けていた。廊下の窓から差し込む西日が、僕の長い影を床に映し出す。その影だけが、まるで僕の本当の気持ちを嘲笑うかのように、黒く、大きく、静かに揺れていた。


廊下を歩く。一歩、また一歩と。

すれ違う生徒たちが、僕に気づいて足を止め、ひそひそと囁き合う声が鼓膜を打つ。

「あれ、水城君じゃない?」

「退学になったって本当なんだ……」

「一条院様にあんなことするなんて、信じられない」

「特待生だからって調子に乗ってたのよ、きっと」


投げつけられる言葉は、無数の小さなナイフだ。だが、今の僕の心には届かない。僕の心は、分厚い氷の鎧で覆われている。彼らの言葉は、その表面で虚しく滑り落ちていくだけ。むしろ、その一つ一つが、僕の計画が順調に進んでいることを証明する心地よいBGMにさえ聞こえた。


僕はわざと足をふらつかせ、壁に手をついてみせる。悲劇の主人公として、最後の最後まで舞台を務め上げる。昇降口までの道が、これほど長く感じたことはなかった。それは、物理的な距離ではなく、この「水城玲」という役を演じきるための、精神的な長さだった。


ようやくたどり着いた昇降口で、自分の下駄箱を開ける。中には、もう何度も履き古した一足のスニーカーだけが寂しそうに収まっていた。その横に、誰かが入れたのだろう、くしゃくしゃに丸められた紙くずが転がっていた。『裏切り者』と、乱暴な字で書かれている。


僕はその紙くずをゆっくりと拾い上げ、一瞥し、そして、無表情のままポケットにしまった。これも証拠の一つだ。僕が「学園全体から疎外された」という事実を補強するための、貴重な小道具になる。


スニーカーに履き替え、校門へと続く道を歩く。夕陽に染まるグラウンドでは、サッカー部が練習に励んでいた。かつては僕も、あの歓声の中で、友人たちと笑い合っていたはずだった。だが、もう、あの場所は僕のいるべき世界ではない。


そして、ついに校門をくぐり抜けた。

僕の背後で、重厚な鉄の門がゆっくりと閉ざされていく。もう二度と、生徒としてこの門をくぐることはない。


僕は立ち止まり、深く息を吸った。

アスファルトの匂い、排気ガスの匂い。学園の外の、ありふれた世界の匂いだ。


ゆっくりと顔を上げる。

その瞬間、僕の顔から、全ての表情が抜け落ちた。

絶望も、悲しみも、悔しさも。まるで仮面を剥がすように、それらの感情を全て捨て去る。

残ったのは、冷徹なまでの静けさと、研ぎ澄まされた刃のような鋭い光を宿した瞳。


「第一幕、閉幕。……上出来だ」


誰に言うでもなく、僕は小さく呟いた。

さっきまでの弱々しい声とは似ても似つかない、低く、自信に満ちた声だった。ポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを起動する。送信先は一人だけ。


『A-1、完了。B-3へ移行』


短い暗号文を送ると、すぐに『了解』という返信と、喫茶店の名前が送られてきた。僕はスマートフォンをポケットにしまい、何事もなかったかのように歩き出す。向かう先は、計画の次の段階。僕の唯一の協力者が待つ場所だ。


学園から電車で二駅離れた、古い商店街の一角。

そこに、目的の喫茶店『珈琲館アルル』はあった。蔦の絡まるレンガ造りの外壁に、色褪せた看板。カラン、とドアベルを鳴らして中に入ると、焙煎されたコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐる。客はまばらで、ほとんどが近所の老人たちだ。ここなら、高校生の僕たちが密会していても、誰も気に留めない。


店の最も奥まったボックス席。

そこに、見慣れた顔が座っていた。

「遅いじゃない、レイ君。こっちは待ちくたびれたわよ」


そう言って拗ねたように頬を膨らませるのは、長谷川詩織(はせがわ しおり)。

我が校の新聞部部長にして、僕の計画における唯一無二の共犯者だ。肩まで伸びた髪をポニーテールにし、大きな瞳は好奇心とジャーナリストとしての探究心で常に輝いている。僕とは正反対の、快活で行動力のある少女。


「すまない、長谷川さん。最後の役作りが長引いてしまって」

僕がそう言って向かいの席に座ると、彼女は呆れたように笑った。

「もう、その『長谷川さん』ってのやめなさいって言ってるでしょ。私たちは共犯者なんだから、詩織でいいわよ。それで? 大舞台の首尾はどうだったわけ? あなたの脚本通りに、役者たちは踊ってくれた?」


彼女は身を乗り出し、目をキラキラさせながら尋ねてくる。

僕はウェイトレスにブレンドコーヒーを注文してから、ゆっくりと口を開いた。

「完璧に。一条院は最高の悪役を、そして教師たちは最高の愚かな観客を演じきってくれた。僕の退学処分も、満場一致で可決されたよ」


「うっわー、最悪ね、あいつら。でも、計画通りってことね」

詩織はそう言うと、自分のバッグからタブレット端末を取り出した。画面には、学園の公式ウェブサイトが映し出されている。


「見てよ、これ。ついさっき更新されたわ。一条院司、卒業生総代に正式決定。そして、彼の卒業論文は『学園史上最も優れた論文』として、学長賞を受賞ですって。笑わせるわよね」

画面には、満面の笑みを浮かべた一条院の写真が掲載されている。その下には、彼のコメントまで添えられていた。

『この栄誉は、私一人の力によるものではありません。共に学び、支えてくれた仲間たち、そして、道を誤ってしまった旧友への複雑な思い……その全てを胸に、卒業生の代表として、責任を果たしたいと思います』


「旧友、ね……。どの口が言うんだか」

詩織が吐き捨てるように言った。

「学内はもう、一条院様万歳のお祭り騒ぎよ。彼は悲劇を乗り越えたヒーロー。あなたは学園の歴史に残る大罪人。完全に、そういうストーリーが出来上がってる」


「それでいい。むしろ、そうじゃなきゃ困るんだ」

運ばれてきたコーヒーを一口すする。苦味と酸味が、思考をさらにクリアにしてくれた。

「彼が高く飛べば飛ぶほど、落ちた時の衝撃は大きくなる。僕が地に落ちれば落ちるほど、最後に僕が立った時の景色は絶景になる。そのための布石だよ」


僕の冷静な言葉に、詩織は感心したように、それでいて少し心配そうに僕を見た。

「本当に、あなたは面白いわね、レイ君。普通、こんな状況になったら絶望して泣き叫ぶところよ。なのに、あなたはチェスの名手みたいに、何手も先を読んでる。……でも、本当にうまくいくの? 相手は一条院司なのよ。彼の父親は、この街の有力者で、学園の理事でもある。権力で、何でも揉み消せる相手よ」


「権力、か。確かに厄介な武器だ。でも、どんな権力にも、ルールは存在する。彼は今回、学園のルールを盾にして僕を断罪した。なら、僕も同じ土俵で戦うまでだ。彼が見落としている、たった一つのルールを使ってね」


「見落としているルール?」

「ああ。学園創設時に定められた『名誉規定』。その第7条2項。あまりに古くて、誰も気にも留めていない条文だ。それが、僕の切り札になる」


僕はそう言って、話の核心へと移った。

「それと、もう一つの切り札……物理トリックの準備は頼めるかい? 詩織」


その言葉に、彼女の目の色が変わった。ジャーナリストの探究心に火がついた証拠だ。

「待ってました! それよ、それ! あなたが言ってた、旧図書館のトリックってやつ。一体、何をするつもりなの?」


「順を追って説明するよ。まず、君も知っている通り、旧図書館は僕たちの卒業式の日に取り壊されることになっている」

「ええ。創立100周年のメモリアルイベントとして、卒業式の後、全校生徒で旧図書館とのお別れ会をするって、一条院が企画してたわね。なんでも、プロジェクションマッピングで、学園の歴史を壁に映し出すとか」


「その通り。そして、そのイベントこそが、僕の復讐劇の舞台だ」

僕はバッグから一枚の、古びた図書館の見取り図を取り出した。何日もかけて、僕自身が記憶を頼りに書き起こしたものだ。


「この旧図書館の構造は特別なんだ。中央が、三階まで続く巨大な吹き抜けになっている。そして、重要なのが、かつて使われていた手動式本の昇降機……ダムウェーターの存在だ」


僕は見取り図の一点を指で示す。

「このダムウェーターは、老朽化で今は使われていない。でも、動かすこと自体は可能だ。君には、イベントの準備にかこつけて、このダムウェーターに、いくつかの『仕掛け』を施してほしい」


「仕掛け……?」

「ああ。一つは、ごく軽い、ピアノ線のような糸。もう一つは、非常に反射率の高い、小さな鏡の破片。そして、一番重要なのが、『ある物』を、この吹き抜けの天井近くにある、古い照明器具の傘の中に隠しておくことだ」


僕は、ポケットに入れていた『裏切り者』と書かれた紙くずを取り出し、テーブルに置いた。

「例えば、こういう『僕が学園から受けた仕打ちの証拠』をね」


詩織はゴクリと唾を飲んだ。

「待って。そんなものを隠して、どうやって一条院の不正を暴くっていうの? 意味がわからないわ」


「今はそれでいい。全てのピースが揃った時、君にもわかる。旧図書館は、非常に乾燥していて、静電気が発生しやすい。そして、ステンドグラスから差し込む光の角度は、時間によって正確に計算できる。その二つが、ドミノを倒す最初のきっかけになるんだ」


僕の言葉は、まるで謎かけのようだっただろう。だが、その謎こそが、読者(観客)を惹きつけるためのフックになる。


「……静電気と、光?」

「床のきしみ、空気のわずかな流れ、拍手の音……。僕が仕掛けるトリックは、卒業式で起こる、ごく自然な現象を連鎖させて発動する。誰にも、僕が仕掛けたとは気づかせない。まるで、学園に宿る亡霊が、一条院の罪を暴いたかのように、ね」


僕が不敵に笑うと、詩織はしばらく僕の顔をじっと見つめていたが、やがて、彼女もニヤリと笑った。

「……最高じゃない! 面白くなってきたわ! まるで、難解なミステリー小説みたい!」

彼女は拳を握りしめる。

「わかったわ、レイ君。その役、引き受けた。新聞部の取材権限を使えば、イベント準備中の旧図書館に立ち入るなんて簡単よ。それで、その『ある物』って、紙くず以外に何を隠せばいいの?」


「リストはこれだ」

僕は用意していたメモを彼女に渡した。そこには、詩織にしかわからないような、暗号めいた言葉で、いくつかの指示が書かれている。

『一条院の机から消えたUSBと同じ型番の、空のUSB』

『僕の論文の下書き(日付入りのもの)』

『一条院が過去に、他の生徒のアイデアを盗んだことを示唆する、過去の新聞記事のコピー』


メモを見た詩織は、大きく目を見開いた。

「これって……! まさか、あなた、ここまで予測して……!」


「予測じゃない。計画だよ。全てのピースは、僕の脚本通りに動いている。君は、それを正しい場所に置いてくれさえすればいい」

僕の言葉に、詩織は力強く頷いた。

「任せて。絶対に、完璧にやってのけるわ。一条院の、あのふてぶてしい顔が歪むところ、この目で見るまでは死ねないもの」


僕たちは、コーヒーカップを軽く合わせた。それは、僕たち二人だけの、革命の誓いだった。


喫茶店を出て、詩織と別れる。すっかり暗くなった夜道を、僕は一人で歩いていた。ネオンの光が、僕の無表情な顔を照らし出す。


一条院司、君が主役の舞台は、着々と準備が進んでいる。

だが、勘違いするな。観客は、お前一人じゃない。


お前の嘘を鵜呑みにし、僕を嘲笑い、断罪したあの教師たち。思考停止で、強い者の意見に流された生徒たち。そして、権威という名の椅子の上にあぐらをかいている、この学園そのもの。その全てが、僕の『卒業制作』の観客になるんだ。


そして、巨大なドミノを倒すためには、最初の一つを、丁寧に、正確に倒す必要がある。


僕は立ち止まり、夜空を見上げた。星一つない、黒い空だ。

心の中で、次のターゲットに語りかける。


まずは、手始めに。

僕を「身の程知らず」と罵り、僕の努力と尊厳を踏みにじってくれた、あなたからだ。


「待っていてくださいね、田中先生。あなたのための、特別な授業を始めますから」


復讐の第二幕が、今、静かに始まろうとしていた。

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