その花の名を君に

渡良瀬 遊

第1話 弟のために

親が離婚した。

物心つくころから両親の関係は破綻していたから、驚くことはなかったけれど、母親の稼ぎだけでは学費が払えないと言われた時には、あっ、と思った。


やりたいこともなく、とりあえずで入った大学だったから、辞めることに未練はなかった。

ただ、どうせ辞めるのなら、最初から弟のために学費を回してあげれば良かったと、今更になって思った。


弟は、昔から料理人になりたいと言っていた。

実際、何を作らせても上手いし、才能もあると思う。高校卒業後は調理師学校への進学を希望していた。

調理師学校の学費は、俺が通ってた私立の大学よりは安いけれど、今のうちの状況じゃそう簡単に出してあげることはできない。


兄として。弟のために。学費を稼いであげないと。


そう思うことが、無気力な俺の唯一の支えだった。



まだ6月だというのに、強い日差しが地面を照りつける。ガムがこびりついたアスファルトの向こうで、さっと何かが動いた気がした。


(ネズミか)


田舎にいたネズミとは違って、歌舞伎町のネズミには可愛らしさがない。道の隅で小さくなって、陰の中をすばしっこく逃げ回る姿は、如何にも弱者というようで、自分に重なって嫌だった。


陽の光から隠れるように、俺は雑居ビルに入った。俺の職場、ホストクラブClub GOURMET はこのビルの3階にある。


エレベーターホールを通り過ぎ、奥の非常階段を上がる。Club GOURMETがあるフロアに出るための無機質な重い扉の前で、立ち止まる。

薄暗い非常階段から、ホストクラブの看板が派手に輝くフロアへ出るこの瞬間は、いつだって気が重い。


ついさっき見たネズミがふっと思い出されて、俺は憂鬱な気分で扉から離れ、踊り場の隅に腰を下ろした。


ホストの仕事は給料が良かった。

比較的綺麗な顔に産んでもらったおかげで、始めたばかりでもそれなりに客がついた。このまま稼ぎが伸びれば、十分な仕送りができる。オーナーだって、親身になって世話してくれる。だから、続けるのが正解。


そう自分に言い聞かせながら、いつもの癖で開いたSNSを斜めに眺める。

先輩ホストのアイコンが赤色に光っている。

出勤前にlive配信で投げ銭を稼いでいるのだろう。枠名は「生意気で可愛い後輩くん」。粘ついた先輩の笑みが浮かぶ。


「思ってもねぇくせに」

「えっ」


思わずこぼした言葉に返事があった。

ちょうど3階へ登ってきたのであろう女性が、俺の声にこちらを振り向く。

暗い非常階段。踊り場の隅で黒いスーツで同化していた俺と目があった瞬間、女性はびくっと肩を揺らした。


「わぁっ!びっくりしたっとと……」


30代も半ばだろうか。少し鈍臭そうな女性は重たそうな荷物を持っていて、それに引きずられるように体勢を崩す。


「危ないっ!」


そのまま後ろに倒れそうになった女性の腕を引く。華奢で小柄な女性は逆うこともなく俺の胸の中に収まった。転げ落ちなかったことに安堵していると、踊り場の隅から、とっさに放り投げたスマホが喋り始めた。


『——それで、その後輩くん。売り上げそれなりに出てきたから掃除組免除なのに、毎日早出して自主的にやってんの。ほんと偉いよねーー、嫌味かっての。くそうぜぇ。あ、だめ?こういうこと言っちゃ。いや、愛だよ?愛!貶し愛ってやつ!笑』


ひっくり返ったスマホの画面に、嫉妬で歪んだ男の顔が映っていた。


(ほら、やっぱり、思ってねえじゃん)


子供っぽい先輩のマウンティングに、知ってたよ、と言えればどれほど楽か。

こんなのはよくあることだと分かっている。

それでも気が重くなってしまうのは、自分の未熟さのせいな気がして、自分も先輩と同じ子供なのだと思い知らされる。


(20歳過ぎてもこれとか、嫌になる)


スマホを拾い上げて、電源を切る。

指先に小さな痛みを感じて画面を見ると、液晶の端が欠けていた。

破片が刺さったのか、じんわりと滲む血を、だるいな、と思いながら拭った。


まだ驚きが抜けないのか、こちらを見つめ固まっている女性に声をかける。


「大丈夫ですか?すみません、驚かせてしまって」

「ああ、いいえ。こっちこそごめんなさい。少しでも運動不足を解消しようと思って階段を使ったのだけれど、そもそも運動神経が悪過ぎて転がるところだったわ」


女性はふふ、と可笑しそうに笑った。

その笑顔は花が綻ぶような優しいものだった。


「助けてくれてありがとう。もしかしてClub GOURMETのキャストさん?」

「あ、はい。そうです」


問われて頷けば、彼女は「早いのね」と言って易々と非常階段の扉を開けた。フロアの光がさっと差し込んでくる。


肩口で切り揃えられた黒髪はまっすぐで、形の良い眉は意志が強そうに見える。綺麗に塗られた口紅が、俺ににっと笑って、光の中に消えていった。


扉が閉まる寸前ではっとした俺は、慌ててクラブグルメに向かって行く彼女の後を追いかけた。


「あのっ。すみません、実はまだ営業時間じゃなくて」

「あら、私客じゃないわ」


そう言って彼女はまたあっさりとクラブグルメの扉を開ける。

そこに戸惑いなんてない。

彼女は後ろも気にせず、前だけを見てスタスタと進んでいく。俺は彼女が勢いよく開け放した扉に滑り込むようにして入店した。


「あ、お疲れ様です!すみません、こんな時間から。今日もよろしくお願いします」


来店ベルを聞きつけて、オーナーの拓実が笑顔でやってくる。顔が良いと評判の拓実の笑顔に、並みの女性ならクラッとしそうなものだけれど、彼女は微塵も態度を変えず、軽やかに笑って、あのやけに重い荷物を指差した。


「お疲れ様です。拓実さん、カタログをたくさん持ってまいりました。きっとお好きなテイストがあると思います」

「それは楽しみですね」


カタログ?テイスト?

女性が語る内容は、確かに客のものらしくない。

何者なんだという顔をする俺に気がついた拓実が教えてくれる。


「お前は会うの初めてだよな。うちのキッチンの改装を担当してくださるフードコーディネーターの藤井さんだ」


フードコーディネーター。

なんだそれは。

よくわからないまま彼女を見れば、すっと、小さな手が差し出される。俺は不慣れさ顕にその手を取った。

掌に感じる冷たさは、彼女が薬指につけている古風なシルバーリングのせいだろう。


「藤井容子です。よろしくね」


俺の手をぎゅっと握って、容子が笑顔を見せる。

それは、嘘だらけのこの世界では珍しい、信頼のおけそうな大人の——強いビジネスマンの笑顔だった。




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