その花の名を君に
渡良瀬 遊
第1話 弟のために
親が離婚した。
物心つくころから両親の関係は破綻していたから、驚くことはなかったけれど、母親の稼ぎだけでは学費が払えないと言われた時には、あっ、と思った。
やりたいこともなく、とりあえずで入った大学だったから、辞めることに未練はなかった。
ただ、どうせ辞めるのなら、最初から弟のために学費を回してあげれば良かったと、今更になって思った。
弟は、昔から料理人になりたいと言っていた。
実際、何を作らせても上手いし、才能もあると思う。高校卒業後は調理師学校への進学を希望していた。
調理師学校の学費は、俺が通ってた私立の大学よりは安いけれど、今のうちの状況じゃそう簡単に出してあげることはできない。
兄として。弟のために。学費を稼いであげないと。
そう思うことが、無気力な俺の唯一の支えだった。
◆
まだ6月だというのに、強い日差しが地面を照りつける。ガムがこびりついたアスファルトの向こうで、さっと何かが動いた気がした。
(ネズミか)
田舎にいたネズミとは違って、歌舞伎町のネズミには可愛らしさがない。道の隅で小さくなって、陰の中をすばしっこく逃げ回る姿は、如何にも弱者というようで、自分に重なって嫌だった。
陽の光から隠れるように、俺は雑居ビルに入った。俺の職場、ホストクラブClub GOURMET はこのビルの3階にある。
エレベーターホールを通り過ぎ、奥の非常階段を上がる。Club GOURMETがあるフロアに出るための無機質な重い扉の前で、立ち止まる。
薄暗い非常階段から、ホストクラブの看板が派手に輝くフロアへ出るこの瞬間は、いつだって気が重い。
ついさっき見たネズミがふっと思い出されて、俺は憂鬱な気分で扉から離れ、踊り場の隅に腰を下ろした。
ホストの仕事は給料が良かった。
比較的綺麗な顔に産んでもらったおかげで、始めたばかりでもそれなりに客がついた。このまま稼ぎが伸びれば、十分な仕送りができる。オーナーだって、親身になって世話してくれる。だから、続けるのが正解。
そう自分に言い聞かせながら、いつもの癖で開いたSNSを斜めに眺める。
先輩ホストのアイコンが赤色に光っている。
出勤前にlive配信で投げ銭を稼いでいるのだろう。枠名は「生意気で可愛い後輩くん」。粘ついた先輩の笑みが浮かぶ。
「思ってもねぇくせに」
「えっ」
思わずこぼした言葉に返事があった。
ちょうど3階へ登ってきたのであろう女性が、俺の声にこちらを振り向く。
暗い非常階段。踊り場の隅で黒いスーツで同化していた俺と目があった瞬間、女性はびくっと肩を揺らした。
「わぁっ!びっくりしたっとと……」
30代も半ばだろうか。少し鈍臭そうな女性は重たそうな荷物を持っていて、それに引きずられるように体勢を崩す。
「危ないっ!」
そのまま後ろに倒れそうになった女性の腕を引く。華奢で小柄な女性は逆うこともなく俺の胸の中に収まった。転げ落ちなかったことに安堵していると、踊り場の隅から、とっさに放り投げたスマホが喋り始めた。
『——それで、その後輩くん。売り上げそれなりに出てきたから掃除組免除なのに、毎日早出して自主的にやってんの。ほんと偉いよねーー、嫌味かっての。くそうぜぇ。あ、だめ?こういうこと言っちゃ。いや、愛だよ?愛!貶し愛ってやつ!笑』
ひっくり返ったスマホの画面に、嫉妬で歪んだ男の顔が映っていた。
(ほら、やっぱり、思ってねえじゃん)
子供っぽい先輩のマウンティングに、知ってたよ、と言えればどれほど楽か。
こんなのはよくあることだと分かっている。
それでも気が重くなってしまうのは、自分の未熟さのせいな気がして、自分も先輩と同じ子供なのだと思い知らされる。
(20歳過ぎてもこれとか、嫌になる)
スマホを拾い上げて、電源を切る。
指先に小さな痛みを感じて画面を見ると、液晶の端が欠けていた。
破片が刺さったのか、じんわりと滲む血を、だるいな、と思いながら拭った。
まだ驚きが抜けないのか、こちらを見つめ固まっている女性に声をかける。
「大丈夫ですか?すみません、驚かせてしまって」
「ああ、いいえ。こっちこそごめんなさい。少しでも運動不足を解消しようと思って階段を使ったのだけれど、そもそも運動神経が悪過ぎて転がるところだったわ」
女性はふふ、と可笑しそうに笑った。
その笑顔は花が綻ぶような優しいものだった。
「助けてくれてありがとう。もしかしてClub GOURMETのキャストさん?」
「あ、はい。そうです」
問われて頷けば、彼女は「早いのね」と言って易々と非常階段の扉を開けた。フロアの光がさっと差し込んでくる。
肩口で切り揃えられた黒髪はまっすぐで、形の良い眉は意志が強そうに見える。綺麗に塗られた口紅が、俺ににっと笑って、光の中に消えていった。
扉が閉まる寸前ではっとした俺は、慌ててクラブグルメに向かって行く彼女の後を追いかけた。
「あのっ。すみません、実はまだ営業時間じゃなくて」
「あら、私客じゃないわ」
そう言って彼女はまたあっさりとクラブグルメの扉を開ける。
そこに戸惑いなんてない。
彼女は後ろも気にせず、前だけを見てスタスタと進んでいく。俺は彼女が勢いよく開け放した扉に滑り込むようにして入店した。
「あ、お疲れ様です!すみません、こんな時間から。今日もよろしくお願いします」
来店ベルを聞きつけて、オーナーの拓実が笑顔でやってくる。顔が良いと評判の拓実の笑顔に、並みの女性ならクラッとしそうなものだけれど、彼女は微塵も態度を変えず、軽やかに笑って、あのやけに重い荷物を指差した。
「お疲れ様です。拓実さん、カタログをたくさん持ってまいりました。きっとお好きなテイストがあると思います」
「それは楽しみですね」
カタログ?テイスト?
女性が語る内容は、確かに客のものらしくない。
何者なんだという顔をする俺に気がついた拓実が教えてくれる。
「お前は会うの初めてだよな。うちのキッチンの改装を担当してくださるフードコーディネーターの藤井さんだ」
フードコーディネーター。
なんだそれは。
よくわからないまま彼女を見れば、すっと、小さな手が差し出される。俺は不慣れさ顕にその手を取った。
掌に感じる冷たさは、彼女が薬指につけている古風なシルバーリングのせいだろう。
「藤井容子です。よろしくね」
俺の手をぎゅっと握って、容子が笑顔を見せる。
それは、嘘だらけのこの世界では珍しい、信頼のおけそうな大人の——強いビジネスマンの笑顔だった。
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