酒場での一夜が明けた。昨晩のエリスの歌声と視線が、まだ俺の頭の中に残っていた。魅了スキルの影響だとは分かっていても、彼女の情熱的な歌い方は、俺の心を強く揺さぶった。

◇

翌日、俺はセシリアとギルドの依頼をこなし、早めに宿舎へと戻った。宿舎にはルナがリリアと遊んでいた。リリアがルナに新しい絵本を読み聞かせている。ルナはリリアにすっかり懐いたようだ。

「お兄ちゃん、おかえりなさい！」

俺の姿を見つけると、ルナがぴょんぴょん跳ねながら駆け寄ってきた。その笑顔を見ていると、昨日までの酒場の喧騒も、一瞬で遠ざかる。

「ただいま、ルナ。リリアもありがとうな」

「いえいえ！ルナちゃん、とっても可愛いんですよ！」

リリアは満面の笑みで答える。

「ケンタさん、今日はもう依頼はいいんですか？」

「ああ、今日はもう終わり。ちょっと街をぶらついてくるわ」

俺はそう言って、宿舎を後にした。足は自然と、昨夜訪れた酒場の方向へと向かっていた。エリスのことが、どうにも気になっていた。

酒場の裏手に回ると、かすかに歌声が聞こえてきた。昨日、舞台で聞いた力強い歌声とは少し違う、どこか不安げで、繊細な調べだ。そっと覗き込むと、エリスが一人、静かに歌の練習をしていた。髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。舞台の上の華やかな姿とは異なり、練習中の彼女はどこか頼りなく見えた。

俺がそっと近づくと、エリスは歌うのをやめ、驚いたように振り返った。その瞳が俺を捉えた瞬間、彼女の目に、一瞬で強い光が宿った。

「あ、あなた…！どうしてここに…？」

エリスは驚きながらも、すぐに優しい笑顔を見せた。その笑顔は、昨夜舞台の上で見せたものとはまた違う、素朴で飾り気のないものだった。

「いや、たまたま通りかかったら、歌声が聞こえてきたからさ。綺麗な歌声だな」

俺がそう言うと、エリスは少し照れたように俯いた。

「そんな……舞台の上では、もっと上手く歌えるんですけど、一人で練習してると、どうしても自信がなくなっちゃって……」

エリスはそう言って、再び視線を俺に戻した。彼女の瞳は、吸い込まれるように俺を見つめている。

「でも……あなたがいると、もっと上手く歌える気がする……」

彼女はそう呟くと、俺に一歩近づいてきた。

「ねぇ、お願い……聞いてくれる？」

エリスは俺の顔をじっと見上げる。その真剣な瞳に、俺は思わず息をのんだ。

「何だよ？」

「私の歌……あなたのために歌いたい。あなたにだけ、届けたいの」

エリスはそう言って、再び歌い始めた。その歌声は、まるで俺だけに語りかけるように、より一層の感情を込めて響いた。昨日よりもずっと近くで聞く彼女の歌声は、俺の心を直接揺さぶるような、特別な響きを持っていた。俺は、彼女の歌声が、単なる技術だけでなく、彼女自身の感情をそのまま表しているのだと感じた。

「どう……かな？私、ちゃんと歌えてるかな？」

歌い終えたエリスは、不安げに俺の反応を伺う。その表情は、舞台での自信に満ちた姿からは想像できないほど繊細だった。

「ああ、最高だよ。お前の歌、すごく心に響く」

俺が素直な感想を伝えると、エリスの顔に安堵の表情が広がった。

「よかった……！あなたにそう言ってもらえると、本当に嬉しい……！」

エリスは嬉しそうに微笑んだ。