第3話 泥棒3
いつの間にかイヌリスが群れになっていた。
ガラクタの海から見える、歯車の砂浜。
リンテのシートを引っぺがして、折りたたみボートを波に浮かべ、私はその上でぷかぷかと寝転がっていた。
からからからと、風が吹く度に粒のような歯車が転がっていく。そんな砂浜で、色々な犬種のイヌリス達が、大きなボールを楽しそうに追いかけまわしている。因みに、小型犬タイプのイヌリスしか見たことが無い。ドーベルマンのイヌリスとか、いるのだろうか。見てみたいな。
気持ちよく波に揺られていると、イヌリスの一匹が思い切りよく横滑りしていったのが見えた。ボールを追いかけるのに夢中になってしまったのだろう。柴イヌリスの、右前脚の関節が、禿げ上がる程に擦れていた。
けれど柴は、舌をはっはっはと出して照れ臭そうにするだけで、そのまま他のイヌリス達の元へ戻っていく。毛が禿げてしまう程、痛々しい怪我をしているのに、それよりもボールを追いかけていたいらしい。
「ああ、そうだ。そろそろフェリックスを盗みに行かないと」
私は思い出して、ぽつりと呟く。
昨晩にフェリックスを食べ過ぎて、次の供給日まで心もとない。
そんなとき、私は女王の私室へ忍び込む。
女王もフェリックスの常飲者だ。ベッド脇のサイドテーブルの、鍵の掛けられていない簡素なキャンディボックスの中に、ハンドクリーム等と一緒に仕舞ってある。
どうせ女王もラムネのようにぽりぽりと食べているのだから、少しくらいくすねてもバレやしない。
なんなら、こないだは玉璽を拝借して、勝手に海外へ注文票を出した。それだって、女王の明細には似たような履歴がたくさんあるのでバレやしない。フェリックスが届くまでには数か月を要するらしいので、流石に待ちきれないが。
でも、バレたってかまわない。
女王は私に、負い目があるのだ。
油の紳士が悪さを働いている時、女王は見て見ぬふりをした。
油の恩恵を惜しんだのだろうか。それとも、面倒くさいと思ったのだろうか。
気が付いていなかった筈はない、というのが私の思い込みなのだろうか。
結果的に、灰の勇者がその剣を使って彼を打ち倒した。それが全てだ。
女王は何も出来なかった。それが全て。
だから、私が盗みを働いたとて、女王はきっとまた、何もできない。
なにかできるなら、見てみたいものである。
「こんなところで、よくぞそんな、ゆっくりしてます。なんて態度が取れるな?灰の勇者よ。こんな、喧しい場所で」
気持ちの良い日差しを陰に変えて、真上にリンテが浮いていた。一般的なボート型のリンテだ。
そこから声を掛けてくるのは、でこぼこした大きな鼻を持つ赤ら顔の男。青眼鏡のスペンサー。
彼はリンテを、落ちる木の葉のように前後に揺らしながら、私の隣まで高度を落とした。
「フェリックスを食べ過ぎてぼんやりしてるんだ。
それと、案外大きな音も、一定だったり遠くで響いていたりすると、心地よく眠気を誘ってくれたりしないかい?スペンサー」
頭の後ろで手を組んで枕代わりにしたまんま、私は一応最低限の礼節として……礼節と言うには姿勢に説得力がないな。だが、とにかく彼と目を合わせた。
細長い体に、丸い関節。耳まで裂けたつぎはぎの口は、大きな眼鏡で隠されている。
「灰の勇者。言わんとすることは、わかる。覚えがある。そして、共感がある。
だが、灰の勇者。そろそろここ、まさしくこの場所で。舞台を敷いて、商売を始めようと思うのだが、どうだろう?
この、いつもの良い場所を、私に譲ってくれないかな?」
裂けた口では判り辛いが、友好的な笑みを向けてくる。
話し方はややこしいが、こちらへの敵意はなさそうだ。
ただ、彼なりの拘りが強いだけ。
「ああ。いつもの、紙芝居か。今日はなにを読んでくれるんだい?」
彼はいつも、いつもこの位置で、イヌリス、そしてスイミーを集めて絵本の朗読劇などを行っている。
それは時に人形劇だったり、ただ絵本を開いた読み聞かせだったり。
「今日はインドラゴーダの葉っぱを様々なものに混ぜたレシピと、その感想文だ」
今日はグルメ雑誌を読み聞かせるらしい。
「邪魔をして悪かったね。私は別に、どこへでも寝転がれるなら、それでいいからさ。
どうぞ、こちらは気にせず、いつも通り始めてくれていいよ。私はもう少し上の方で休むことにするよ」
「『どうぞ。気にせず』と、きたか。
まあ、君みたいな、者に、『せっかくだから聞いて行かないか?』と訊ねた所で、すげなく、流されるのだろうな。
まあ、いいだろう。
耳を傾ける者を依怙贔屓して、耳を傾けぬ者を迫害するとしよう。
それが自然当然必然節理。皆さんへ与える権利。
私は、私の、私の為の、皆さんの為に、皆さんへしっかり、勤めを果たすとしよう。
それが私の義務そして権威そして使命なのだから」
やっぱり、少なからず彼に嫌われているようだった。彼の主張は私には理解できないところではあるが、なんとなく嫌味のような感じがする。
果たして彼に好かれても良いことになるとは言い難い気もするが。
彼の言う『依怙贔屓』とは、贔屓された側が喜ばしく思うような内容なのかは怪しいものである。
さっさとリンテを上昇させて、それでもぷかぷかと浮いて寝転んでいる。
真下からうにょうにょうにょと、何事かを『皆さん』へと語り掛けているスペンサーの声が聞こえる。
どうしてさっさとどこかへ行ってしまわないのかという話だが、単純にフェリックスの残り香が重たくて、動くのが億劫なだけなんだ。
吐き気があるような無いような。さっき嘔吐したようなしてないような。
そんなことより視界の七割がぼやんと白い光で淡く見えていて、もしかしたらそれが吐き気のように感じさせている正体なのかもしれない。
下で演じるスペンサーの声は、ずっと平坦なトーンのまま流れてくる。それが私の意識を完全に刈り取ってやろうと側頭部辺りを撫でていく。
目を瞑っては落ちてしまいそうで、それでも頭は重く、瞼に圧を掛けた。
そうして段々と白い光を暗闇が飲み込んでいくと――――――
目を覚ますと真っ白なシーツと、薄ピンクのカーテンに包囲されていた。
保健室の窓からは、体育の授業中なのか、男子生徒達がサッカーをして必死にボールを追いかけている。
一人、真っ白なビブスと対照的に、肘を真っ赤に痛めつけた少年が見える。
さっさと治療しにくればいいのに、少年は楽しそうに、なんでもないように笑顔でボールを追いかけていた。
「大丈夫か?」
カーテンの向こうから声がする。私が在籍するクラス担任、篠崎の声だった。
「お。まだ、顔色は……よくなさそうに見えるな。
どうする?もうすぐ昼だが、まだ復帰が難しそうなら、いっそ早退して家で休むって選択肢もあるぞ?
まあ、午後一で私の授業だから、参加してほしい気持ちも大いにあるが」
私がカーテンをゆっくりと開けば、篠崎はおずおずとそこから私の顔色を覗き込んだ。
薬が残った頭で、午後一に数学の何某で公式がどうだとか言われたら、間違いなく意識を失ってしまう。
問題を解くのはそこまで苦手ではないが、座って数式と言葉を体に吸収するのは、間違いなく今の体調では毒になると判断した。
「吐き気もあるので、今日は帰ります。すみません。わざわざ来ていただいて」
私の口は、脳を介さず喉から直接それらしい言葉を抽出してくれる。
篠崎の目を眺めていた視線を、自分を取り囲むシーツの皺へと移して、横髪で表情に影を落とす。
意識せずとも、私の体は私の社会性を担保してくれる。
「そうか。帰り、気を付けなさい。とは言っても、体調がマシな時に動けばいい。無理に帰ろうとして悪化したら本末転倒だからな」
担任が保健室を出たのを見送ると、さっさとシーツをはぎ取って、私は帰路に着いた。
ぼんやりとはしていたが、大分薬も抜けたようで、家に着く頃には視界の八割はハッキリと見えていた。
今週、母親は地方で撮影である。
バレるはずもない盗みを働こう。
母の寝室、ベッドサイドテーブルには、スマホの置き型充電器と、詰まった吸殻に更に差し込んで剣山みたいになった灰皿。捨て損なった空のペットボトルが二つ。煙草を買ったオマケでついてくるようなフリント式の安っぽいライター、そこにもたれ掛かったような格好で、いかにも急ごしらえなポーチ型の携帯灰皿が投げられていた。私はその奥、ペットボトルの番兵を丁寧に横へ置きなおして、少し灰に汚れた、置いてある小物入れを開けた。
鍵付きなのに、鍵が掛けられているところをみたことがない。可愛らしい、ファンシーな、お姫様の宝石箱のような小物入れ。
そこからアルミを3シート。赤と白の、アニメに出てきそうなカプセルがくっついたアルミ。それをさくりと抜き取った。
小物入れの蓋をかたんと締め、寝室の扉は開けたままで、自室へと帰る。
2シートを机の引き出しに入れると、私は夢の中からフェリックスを取り出して、1枚丸々食べつくした。
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