第2話 泥棒2
「行ってきます」
誰もいない家に、習慣で声を掛ける。
無駄に高い階層から地上に向かうのは、毎日億劫に感じてしまう。
見栄えだけでぺらぺらのスクールバックを肩にかけ、スカートに散らばった猫の毛を払った。
しいて言うなら、彼に挨拶をしているともいえるが、私が家を出るとき彼はいつも寝ている。
いつからか忘れてしまったが、小さな頃から、私は夢を見る。
そこにはゼンマイ仕掛けの猫がいたり、喋るシャケがミュージカルをしていたり、真珠の涙を流す猿の男爵がいたり、熊の体をした蜂がヘドロを吐いていたりした。
いつからか、灰の女王がどうやら具合が悪くなってから。
夢の世界には偶に、灰が降ってくるようになり、少しだけ、暗い雰囲気。
いいえ。元から治安は悪かったし、別に気付いてなかっただけで、元から何も変わっていないのかもしれないわ。
夢なのか、空想なのか。
どちらにしたって、気にする必要なんてないわね。
現実には、なんの意味もない。
今日はなんとなく電車に乗る。
都心近辺にある学校へは家から歩いて通える。
碌に使わない定期券は、いつもカバンの奥に仕舞ってある。
大きな最寄り駅は、早朝だからかそこまで混んでいなかった。
改札でまごつくのも嫌なので、駅内に入った時にはもう、定期券を見つけ出してある。少し詰まった改札前の人混み。化粧品の宣伝ポスター。そこに映る母親の流し目を見送る。
クラスメイトにどういう気分になるのかと聞かれたこともあるが、ここまで風景と同化されると、意識する日の方が少なくなる。
気付けば、バランスを崩す。
電車が動き出した。
私は何事もなく乗ることが出来たようだ。
後頭部が額の方へ引き攣る。
視界の中心以外のほとんどが、光でぼやけている。
まっすぐ立たなければいけないな、と頭でちゃんと意識して、吊革で背中を引き上げる。
空席もあるようだが、今座りに行くのも、面倒だし、危ないような。
視界の中心以外のほとんどが、光で眩んでいる。
朝日がきらきらと横髪を触るのが、見えた。
いつの間にか落ちていた視線は、髪の隙間から覗き込んで光の粉を追う。
吸い込んでも目に入っても、大して問題はなさそうなほどの天気だ。
だから私はゴーグルを外すことにした。
リンテをホバリングさせ、空の空気を存分に吸う。
「灰はうざったいけど、外の空気は悪くないね」
「アオ」
フェレスは首をぐりんと後ろに倒して、見上げるように返事をした。
辿り着いたのはガラクタの海。
雪のような速度で、砂時計のように渦を巻いて、ガラクタは空の彼方から降ってくる。
それは山のように積みあがったと思えば崩れ、地面に波を起こしていた。
私の日課はその中から、使えそうなパーツをくすねること。
「どうやら、まだ誰も居ないみたいだわ」
それなら、誰に邪魔をされることもない。
今日はオーブンクラッカーの火薬と炸裂玉を探そうかしら。それともアンスエーロ用のルアーとリール?ネイルクリッパーも欲しいわね。
わくわくと地面に降り立って、波打つガラクタを器用に歩く。
がりがりがたがた。耳障りにならない程度の、ガラクタたちの擦れ合う音がそこらで小さく鳴り続けている。
がりがり、がたがた。
なにか、今のうちにしようとも思ったけれど、このまま誰かが来るまで音に身を任せてもいいかもしれないわ。
上機嫌にそんなことをおもう。
がりがり
がたがた
ガラガラ。
丁寧に引き戸を開けて、少年が入ってきた。
「あ……おはよう……!」
こんなに朝早くから教室にいる生徒が他に居るとは思ってはいなかったのだろう。
気の抜けた顔から目を大きく開きなおして、少年はこちらに手を挙げた。
「おはよう」
どうやら私はちゃんと、登校して自席に座っていたらしい。
重い瞼を叱咤して、眉間を摘まんでから挨拶を返した。
「あはは、眠そうだね。というか、朝、早いね」
「昨日、夜更かししてからほとんど寝てないんだよね。
朝日が見えたから、ああ、もう、これはこのまま勢いで今日を終わらせに行こう、ってね」
「わあ。それは修羅場だね」
あー。いー。うー。
そう、三井くん。中学から顔見知りなのに、名前を忘れるなんてこと、そんな失礼なこと、私はしていないわ。
「三井くんも、はやいね」
「おれは……御覧の通り。昨日思いっきり突き指しちゃってさ。
本当は今日一日、休むって連絡してたんだけど、身体が勝手に朝練しようとしやがって、仕方ないからそのまま登校したってところ」
そう、三井くんはバスケ部なのよね。中学の頃『スラダン』とか『ロン毛』とか『安西先生』とかいじられてたのを思い出したわ。本人が漫画好きで、呼ばれて喜んでいたみたいだけれど。あんまり良い気分にならない話ね。特に最後のあだ名とか、もう“なんでもあり”感が好きになれないわ。
高校で垢抜けてからは、呼ぶ人もいなくなったみたいだけど。
三井くんは包帯と湿布をまいて太くなった指を、こちらに突き出してきていた。
その指先が、少しぼやけて見える。
ああ、やっぱり、寝不足かも。
三井くんの指が、包帯から、油が染み出てきて。
油の紳士が焼け死んでからも、ゼノピアには呪いが残っていた。
時折、油が滲み出てくるひとがいる。油の呪いだ。
かといって害がないことがほとんどだ。けれど害があると豹変して襲い掛かることもある。
理性が飛ぶらしい。私にはよくわからないけれど。
まあ、そういう時は勇者の剣で、こめかみをガツンとやってやるのだ。
油の紳士と同じようにね。
ガラクタの海にやってきたイヌリスが、興味深そうにこちらに寄ってきた。
リスのように動く、犬だ。こいつはポメラニアン。ネクタイをしている。
「ねーえ?なにしてるのユウシャ」
ハッハッハとスタッカートに息を跳ねつつ、ポメリスは油の滲んだ鼻で私の手元のにおいを嗅ごうとする。
「いつもの。ガラクタ集めだよ」
「ガラクタ!あれでしょ?いっつもそれでおもちゃを増やしてるでしょ?
ユウシャはスゴイね!!いろんなものを作って!器用!」
嬉しそうにはにかんで、ポメリスは私の周りをくるくる回る。
それから急停止して、途端にさみし気な雰囲気を作る。
「おれはダメ。みて。このおてて。
肉球じゃあ氷もつまめない。不器用なの」
ベッ!っと思い切りよく前足を差し出してきた。肉球に滲んだ油が少し飛び散った気がする。
「なに?氷を摘まみたいの?」
私が声を掛けると、ポメリスはころんとすぐに表情を変え、嬉しそうにハッハッハと口角を上げる。
「そうなの!氷はつるつる滑って、追いかけると楽しいし、舐めるとちべたくて気持ちいいし、とてもお得なの!」
「そう。なら今度、家具の隙間に滑り込んで取れなくなった氷を摘まめる、そんなカラクリでも作ってあげよう」
「ほんと!?うれしいなあ!!ありがとう!!!」
まあ、気が向いたらね。
別にわざわざ作ってやる義理もないけれど、作るもののアイデアが増えるなら私としても良いことだ。
ポメリスは油の滲んだ鼻をこちらへ近付けて、擦り付けようとしてきた。
ちょっと……油まみれは勘弁してほしいな。
左頬を舐められた、あの油の紳士の気色の悪いベロ、その感触を思い出して、うえってなってしまう。ぞぞぞ、かもしれない。
「――――――…………さん!
……大丈夫?
やっぱり、寝不足すぎてしんどいんじゃない?」
適当に相槌を打っていたとは思うが、全くもって話の内容は覚えていない。
「……流石に今ならよく眠れるかもしれない。出席だけ返事して、保健室にでも入り浸ろうかな」
しばらくちゃんと会話をしていたとは思うけれど、一瞬嫌な感触を思い出して、呆けてしまっていたようだ。
お陰で左頬が突っ張って、ちょっとぴくぴく痙攣してしまっている。
「あはは……。あんまり無理はしないようにね?」
三井くんはなにも悪いことをしていないのに、私の一時の嫌悪感に巻き込むのは、それは理屈が通らない。
痙攣を上手く誤魔化して、笑顔だと見えるように取り繕えたならば、なにより。
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