アルク 第1章|はじまりの日常

春の光が差し込む午前八時。

九条 岳は、アルク株式会社のオフィスビル前に立っていた。


スーツに身を包んだ姿は一見すると「初出勤のサラリーマン」。

だが──彼の中には、解錠されたばかりの黒い魔力が静かに渦巻いている。


「はぁ……ほんとに、ここでやっていけるのかね……」


ぼそりと独り言をつぶやいたその瞬間、

ガチャ、とオートロックの扉が開いた。


「おはよーございまーす!」


軽やかな声とともに、ひとりの若い女性が現れた。

ショートカットにスポーティなジャケット、肩には小さな筋トレバッグ。


「……あっ、新人さんっすか?」


岳がうなずくと、彼女はにっこり笑ってこう言った。


「じゃあ、今日からよろしくっす!我妻 澄華っす!」


──そうして、岳の新しい日常が幕を開けた。



アルク社・はじめての朝

室内に入ると、新聞を広げた男が目に入った。

ソファで脚を組んだまま、「大阪ジャガーズ開幕戦勝利!」の見出しに目を細めている。


「……おっ、ジャガーズ勝ってる。いい試合だったな」


無言で見つめる岳に気づきもせず、男はご機嫌な様子でコーヒーを啜っていた。


「坂本さんていうんだけど、水の魔法が得意なんだよ〜。

でもね、低気圧の日はテンション底辺だから気にしないでね☆」


突然背後から声が飛び、新聞がパタンと閉じられる。


「……聞こえてんだけど、我妻」


「ふふーん、事実だしぃ~」


そう言って舌をぺろっと出す女性──我妻 澄華は、振り返って岳に親指を立てた。


「で、こっちが今日から仲間になる九条岳くん!よろしくっ!」


その瞬間、室内の奥から柔らかな足音が近づいてきた。


「おはよう、澄華さん。彼が……静社長が言ってた人?」


現れたのは、事務服に身を包み、知的な眼鏡をかけた女性だった。

絵に描いたような落ち着いた佇まい。岳の背筋が無意識に伸びる。


「そですよー! 九条岳くんです!」


「よろしくね、岳くん。私はこちらで事務を担当している田村佳乃です」


穏やかな笑顔でそう言って、佳乃は軽くおじぎをした。


(……やっと、普通な感じの人が来た)


岳の心の中で、ささやかな安堵が芽生える。


アルク社・はじめての朝

「みんな〜おはよー!」


元気な声とともに、自動ドアが開いた。

スーツ姿の女性が一歩足を踏み入れると、室内の空気がほんの少し華やぐ。


「おはようございます、社長」

「おはようっす」

「お、おはようございます……」


それぞれが自分のテンポで挨拶を返す。

誰もが慣れた様子で、だがどこか自然体だ。


「九条くん、おはよ~」


軽やかに近づいてきたのは、アルク株式会社の社長──楠原 静。


「佳乃さん、彼を総務部に案内してあげて。契約関係の書類にサインしてもらわないとだから~」


「了解しました、社長」


佳乃がにこやかにうなずくと、静はさらに続けた。


「サイン終わったら私の部屋まで来てね~。そのあと社内案内しよ」


そこまで聞いたところで、岳が思わず手を挙げて口を開く。


「……あの、朝礼とかないんすか?」


ぽかんとした表情の岳に、静はウィンク交じりでこう返した。


「朝礼って……堅苦しいでしょ?ウチ、そういうのナシの方向でやってるから♪」


「ただ、週の始めだけ“ゆるっと全体ミーティング”やるけど、今日は水曜だから……フリー!」


横から澄華が「週1だけっすよ~マジ楽ちん♪」と笑って補足する。


(……本当に変わった会社だな)


岳は、あらためてそう思った。



佳乃に案内されて、岳はオフィスの奥にある一角へと足を運んだ。

そこは数枚のデスクと棚が整然と並んだ、こぢんまりとした事務スペースだった。


「どうぞ、こちらの席に」


佳乃が手で示した椅子に腰を下ろすと、すぐに資料が数枚差し出される。


「雇用契約書と、誓約書、それから社内規定の確認用紙ね。読みながらで大丈夫だから、ゆっくりでいいわ」


「あ……はい、ありがとうございます」


渡された資料はどれもシンプルで、ややフランクな文体も混じっている。

その中で目を引いたのは、誓約書の一文だった。


『所属する期間中、故意に呪詛行為に加担した場合、即時契約解除と同時に処理対象となる可能性があります』


「……“処理対象”って、なんか物騒ですね」


そう口にすると、佳乃は小さく笑った。


「うちの業務内容、どうしても“境界線”が曖昧なの。

だからこそ、社としての意思表示は強くしておく必要があるのよ」


淡々とした口調。でも、その奥には岳の不安を気遣う“やさしさ”が感じられた。


「静社長も言ってたけど……あなたのように“遅れて魔法に目覚めた人”って、本当に珍しいのよ。

でもね、だからこそ、あなたの存在は今のアルクにとって貴重なの」


佳乃の言葉に、岳はふと息をつく。

すこしだけ、胸の奥が軽くなった気がした。


「じゃあ……サイン、しますね」


「はい、よろしくお願いします。──ようこそ、アルクへ」


ペンを走らせ、最後の一枚にサインを書き終えた瞬間、

岳の“新しい日常”が、正式に始まった。



岳がサインを終えたころ、事務スペースの奥からゆっくりと姿を現した人物がいた。


「──佳乃くん、今朝の経費申請、こっちで処理しておいたぞ」


低く渋い声。

背筋は伸び、着ているワイシャツはピシッとアイロンが効いている。

年齢は50代半ばほどだろうか。髪には白いものも混じるが、どこか軍人じみた威厳を纏っていた。


「あ、ありがとうございます、藤村さん」


佳乃が丁寧に頭を下げるその様子に、岳は思わず姿勢を正す。


「……新人か?」


男──藤村は、鋭い視線を岳に向けた。

一瞬、身がすくむような圧を感じたが、すぐに目元がゆるみ、静かにうなずいた。


「書類仕事が一番最初の試練だ。ここを越えれば、現場も少しはマシに見えてくるさ」


「……ありがとうございます」


「藤村さんは、元・自衛魔術隊の人なんですよ。今は経理と庶務を担当してくださってます」


佳乃が補足すると、藤村は少しだけ眉をしかめた。


「昔の話を出すな。今の俺は、電卓片手の裏方だ」


そう言って、机の上に軽く書類を置くと、無言で立ち去っていった。


岳はその背中を見送りながら、こっそり呟いた。


「……なんか、すごい人ばっかりだな」




社長室にて

静の社長室は、想像していたよりもずっとシンプルだった。

無駄な装飾は一切なく、木目調のデスクと観葉植物。壁には業務用ホワイトボード。


岳が室内を見渡していると、ふと、デスクの上の写真立てに目が留まった。


写っていたのは、若かりし頃の静、佳乃、藤村──そして見知らぬ二人。


ひとりは気の強そうなボブカットの女性。

もうひとりは整った顔立ちの金髪の青年だった。


(……誰だろう、この人たち)


そう思っていると、静がいつの間にか岳の隣に立っていた。


「あー、その写真、懐かしいでしょ?って、初見か。ふふっ」


「……こんな、かわ……」


言いかけて慌てて口をつぐむ岳に、静がニヤリとする。


「え、何?かわいかったって? 今のが断然イケてるから安心して!」


「……今の形になったんですか?アルクって」


「んー、変わってるでしょ?最初は勢いで始めちゃったから大変だったんだよ~」


椅子に腰かけてコーヒーをひとくち。


「でもね、うちの親友になんと“御三家”がいるの!

この金髪とボブヘアーはね──そう、御三家の白鷺家と玖珂家のお二人さん!(えっへん)」


ちょっと誇らしげに胸を張る静に、岳は「すごい」と素直に言うしかなかった。


「親のコネとかじゃないからね?学生時代に偶然同じクラスで──

最初は私、玖珂さんの呪言にビビって避けてたから。懐かしいなぁ」


彼女の言葉の端々に、過去の“日常”が滲む。

だがそれが、これから岳が踏み込む非日常の扉に繋がっていることに、まだ彼は気づいていなかった──



地下訓練場

「ここが地下訓練場ね。防音設備もあるんだぞ~」


静に案内されてエレベーターを降りた岳の目の前に広がったのは、

テニスコート二面分はありそうな、ひんやりとした広い空間だった。


壁には魔力吸収素材らしき素材が敷かれ、

隅には本格的なトレーニング器具。

中央には畳敷きのスペースが設けられている。


「……思ったよりガチだな」


岳がぼそりと呟いたその時、視界の端に動きがあった。


トレーニング器具のベンチに座り、ベンチプレスを軽く上げている女性──

朝にも見かけた、我妻 澄華だった。


なぜか朝よりも顔色が良く、むしろ活き活きしている。


「……あれ、元気になってません?」


「気のせいじゃないよ。あの子、筋トレがエネルギー源だから」


静がくすくす笑いながら、畳スペースを指差す。


「こっちは坂本くん。魔力の制御訓練中。あの子、安定性は高いの」


その横には、もう一人の男性がいた。


細身で長身、姿勢が良く、どこか整った所作の人物。

年齢は40歳前後だろうか。腕を組みながら、坂本の動きをじっと見ていた。


「──あ、彼は田村 陽翔(たむら はると)さん。佳乃さんの旦那さま。

ここでトレーナーとして働いてもらってるの」


「夫婦でアルクに……すごいですね」


「うん、でも“この人をトレーナーにしたい”って最初に声かけたの、実は佳乃さんじゃなくて澄華なのよ」


「えっ」


「“なんか強そう”って言ってた(笑)」


岳が言葉を失っている間にも、陽翔は変わらぬ穏やかな表情で、

坂本に向かって一言だけ呟いた。


「もう少し、腹式で吐いてみて」


その声は低く落ち着いていて、不思議と空間に溶け込んでいた。


(……変わった会社、だけど……なんか、嫌じゃないな)



訓練場を一通り見終えたところで、静がポケットから一枚の紙を取り出して岳に手渡す。


「はい、これ。明日からの研修スケジュール」


「……研修?」


「そう。基本は3か月間ね。午前はここ、地下訓練場で体力と魔力制御の訓練。

午後は佳乃さんと一緒に事務研修。社内の動きや外部対応の流れも覚えてもらうよ」


紙にはびっしりとスケジュールが組まれていた。

曜日ごとに分かれた訓練内容、座学、社内業務フロー、そして数日おきに“外部研修”と書かれた項目。


「……ずいぶんしっかりしてるんですね」


「ふふ、でしょ?最初は“ノリと勢い”だけだったけど、今はちゃんと人を育てる体制があるの。

だから、岳くんもちゃんと“育てられる側”としての責任、持ってね?」


その笑顔は柔らかかったが、言葉には明確な“芯”があった。


「午後の研修については、あとで佳乃さんから説明してもらうから──ちゃんと聞くようにね?」


「は、はい……」


岳はスケジュール表を見つめながら、心の中で深く息をついた。


(……さて、やるしかないな)



アルク社・昼休憩

休憩室に座り、紙コップの温かいお茶を啜る岳。

外から差し込む春の陽射しが、室内をほんのりと明るく照らしていた。


(社員は十人前後か……思ったより小規模な会社だな)


周囲を見渡しても、事務方らしき人影が数人。

裏方のアルバイトや臨時職員らしき気配もあるが、目立つ様子はない。


そこへ──


「九条君、おつかれい~!」


元気な声とともに、すみかが休憩室に入ってきた。

その後ろには、新聞を脇に抱えた坂本悠生の姿もある。


「前のとこより、ぜんっぜん緩いよね!?ね!?」


にこにこしながら岳に詰め寄るすみか。


「……まだ半日だし、比べられんでしょうに」


坂本がぼそりと突っ込んだ。


「現場に出るのって、お二人だけですか?」


岳がふと思って尋ねると、坂本が少し考えるように視線を上げた。


「いや、静さんが陣頭指揮をとるよ。

華奢に見えるけど、学生の時は魔法実技の全国大会で入賞したり、魔法論文で表彰されたりしてる」


「俺がライトユーザーなら、あの人はもう──廃人だからな」


坂本が苦笑い混じりに言うと、すみかがすぐに目を輝かせた。


「四大属性を全部扱えて、ちょーかっこいいんだよ!

学生のとき、同性だけど──ドキドキしたもん!!」


満面の笑顔で力説するすみかに、岳は思わず小さく吹き出してしまった。


(……ここ、意外とアツい人多いな)


紙コップを傾けながら、岳はそんなことを思った。

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