イスマイール・シャアバーニ

辰井圭斗

――

 私がイスマイール・シャアバーニ様の御許に召されたのは、才覚に見るべきものがあったからではなく、単に美しかったからなのでしょう。当時八歳であった私にさしたる才覚などありようもございません。

 私があの方の召使いになるために初めてあの方の元を訪れた時のことは、昨日のように覚えております。あの方は大理石でできた大きな邸宅にお住まいでした。私も貴族の出ですが、宮殿以外であのように「整った」建築は見たことがありませんでした。流石に宮廷魔術師でいらっしゃる御方は御身分が違うと、子どもながらに思ったものです。

 私ごときのために扉の前で立っていらっしゃったあの方は、五月の木漏れ日の中、お腰まで伸びる銀の髪をさらりと輝かせていらっしゃいました。それに緩やかな深緑の長衣に身を包んでいらっしゃるのが誠に瀟洒しょうしゃで、遠目にも恍惚としてしまいました。しかし、お近くまで歩を進めるに従って私は血の気が引いてゆきました。凡そ人というものはあまりに美しいものを見た時には、恐ろしい心地がしてしまうものではないでしょうか。

 あの方の御容姿は明らかに美神の寵愛を受けていらっしゃいました。あの方のお姿をそっくりと彫刻することができたならば、その彫り手の名は永久に称えられることでしょう。瞳は長衣と同じく深緑をしていらっしゃって、水に沈めた翠玉エメラルドの最も深い色を眺めているようでした。ええ、この時からもうどうしようもなく、私はあの方の虜だったのです。

 あまりのことに思わず足を止めた私に向かって、あの方は静かに微笑むと、長衣を翻らせて扉の前にしつらえられた三段の白い階段を下り、ふわりと私の前にかがみました。

「アルタン・トスカだね」

 優しい低く歌うような声でした。私は、はい、御主人様とお答えするのが精一杯でただ硬直してしまいました。その様子がおかしかったのでしょうか、クスリとお笑いになって、あの方は爪の先までこの世界の恩恵を受けた白く美しいヒヤリとした手を私の頬にあてました。

「君のその金の髪は誰に似たの」

「……父です」

「その薄い葡萄色の瞳は」

「母です」

「そう、きれいな子だね」

 翠玉の瞳があまりに私を覗き込むので、私は非礼とは知りながら視線を下へ逸らしてしまいました。すると、長衣の首元にある金の留め具が目に入って――

 瞬間、背筋が凍りました。

 全て気配りの行き届いたあの方の御姿、装飾の中で、その留め具だけが異様に古びて黒ずんでいました。はっきりとその輝かしさを失いつつあるものでした。けれどもその留め具があることによって、あの方の美が損なわれることは無く、いえむしろその留め具にこそ美が集約されているようで、私は――何だか見てはいけないものを見たような気がいたしました。

 「おいで」と声を掛けられたのが先だったでしょうか、それとも抱え上げられたのが先だったでしょうか。私はあの方に抱きかかえられて、扉から私がお仕えする邸宅の中に入ることになりました。ああ、本当に、そのような有様でしたから才覚などで私を召使いになさったわけがないのです。ただ、私はあの方の愛玩品でした。

 屋敷内部の調度も見事なもので、王国中の器物を一つ所に集めて選んだとしても、こうまで見事な集合にはなり得ないだろうというほどに、奇跡のようにあの方の日々を飾っていました。

 飾ると言えば、あの方の寝室に花を飾るのも私の仕事の一つとなりました。私は初めの日に花を花瓶に挿して、次の日の朝に摘みたての花とそれを入れ替えました。すると意外なことにあの方の御叱りを受けてしまいました。「勿体ないことをしてはならないよ、アルタン」と。戸惑いました。このように豪奢な暮らしをなさっている方が、なぜ私の振る舞いを咎めるのか分かりませんでした。

 私は花をそのままにしておきました。数日して花は萎れ始めました。「御主人様」と黒絹の寝台の上に横たわるあの方を見て控えめに花瓶へ視線を移すと、あの方はたのしそうにしていらっしゃいました。「もう少しそのままで」

 次の日花びらがはらりと樫の文机に散りかかったところで、あの方は首元に例の金の留め具を嵌めながら何の御執着もなく「もういいよ、捨てておしまい」と仰いました。私は訳も分からず、ただ散り始めが花の替え時なのだと学びました。

 一度だけあの方と共に宮中へ参上したことがあります。敷居の緩やかな祝賀の場でした。王国の中心たる宮城を囲む旧市街は千年の歴史を持ち、滑らかなターコイズのような屋根が連なるこの都は、世界から華と称されていました。その街路を馬車で往きながら、あの方は私に御尋ねになりました。「私には一つ好きなものがあるんだ、それが何か分かるかい?」私はきっと美しいものがお好きなのでしょうと思いました。けれど「分かりません」とお答えしました。あの方のことを知ったようなことを申し上げるのは僭越であると考えたのです。あの方は長い人差し指と中指を二本艶やかな口元にあてると微かに「かわいいね」と仰いました。私が真っ赤になって俯いたのは言うまでもありません。

 宮中に入るとその絢爛に目を奪われました。勿論趣味はあの方の方が余程良かったですが、千年の歴史を持つだけのことはあって、燭台の一つに至るまで名匠の手に成ったものであろうと推察されました。祝賀の会は月の間という大広間で開かれ、宴もたけなわになった頃、イスマイール・シャアバーニとあの方の御名前が呼ばれました。あの方は私をその場に置いて国王陛下がお座りになっている金の玉座の前に進み出ると、跪いて何か御言葉を頂いていらっしゃいました。

 暫くしてあの方は立ち上がるとその場で靴の先を上げてクルリと回られました。その途端、あの方の周りから透明な波飛沫が上がって私達の元に打ち寄せて参りました。淑女の方々が小さく悲鳴をお上げになりましたが、私達が濡れることは一切ありませんでした。それからどこからともなく沢山の小さな青い鳥が羽ばたいてきて、月の間の高い天井まで飛び上がると銀の雨に変わって私達に降り注ぎました。全て幻影でした。私は初めてあの方の魔術を目にしたのです。喝采の中あの方は深々と御辞儀をなさって、私はその御様子をうっとりとしながら見ておりました。

 帰りの馬車の中、あの方は少し疲れたと仰って、私を膝にお抱えになると私の耳元に口をお寄せになりました。

「あの馬鹿どもは私のことを道化師だとでも思っているんだ。けれど許してあげる。愚かさが美を生むこともあるからね」

 私は小さな心臓を跳ねさせて、不忠の言葉を口になさったこの方に災厄が降りかからぬよう密かに祈りました。

 あの方の御宅でお仕えするようになって半年が経った頃でした。私は邸宅の中にある器物のことが気になり始めました。最初はこぼたぬようにとそればかり気にかけていたものを、慣れてからよく見ると微細にではありましたが、既にきずが入っておりました。私がその時見たものだけではなく、他の器物も黒ずみがあったり、年月を感じさせるものでした。

 そうして器物を見て回るうち、どこで傷つけたのでしょうか、私の頬には一筋血の線が引かれていました。私は狼狽えました。私の美しさに傷がついてしまった、あの方に幻滅されるのではないかと。その日私はあの方から隠れるようにしていましたが、それにも限界がありました。寝室でくつろぐあの方の元に無花果イチジクを運んだ時、ついに見咎められました。

 「おや、どうしたのその傷は」私が俯いていつの間にか引っ掻いていたようですとお答えすると、あの方は起き上がって寝台の端に腰掛けました。「おいで」そうして私がいつものように、あの方に抱きかかえられ、あの方のほのかな温もりを感じた時に、

 あの方の舌が私の頬をなぞりました。

 私は打ち震えました。その過分な幸福と光栄に。そうして、密かにあの方の瞳を覗き見ると、その翠玉の瞳も歓喜に輝いておりました。そこでやっと私は気付きました。この方は美しいものが傷ついてゆくのがお好きなのだと。

 それから、私は光栄に浴するために、時折わざと傷を作るようになりました。子どもの浅知恵、あの方はとっくにお気付きでいらっしゃったでしょう。けれど、いつも変わらず私の傷を舐めてくださいました。瞳を輝かせてくださいました。夜になると傷が疼きましたが、あの方の幸福は私の幸福であり、それをやめるつもりはありませんでした。


 やがて王国を取り巻く情勢が不穏になり、隣国と戦争になることになりました。あの方はその日露台テラスに出て、夜風に吹かれていらっしゃいました。御貌の向かれる先は旧市街の街並みでした。闇を受けて水銀のように重たく輝く髪をゆるく束ねて、薄絹に肌の色を透かすその御姿が不吉なまでに美しかったのを覚えています。私はあの方の腕の中にいました。

「愚かだねえ、この国は王も大臣もみんな愚かだよ。勝てるわけがないのにねえ」

 わらっていらっしゃいました。私はふと勝てなかったらどうなるのだろうと思いました。千年の都、あの旧市街は全て業火に呑まれ、ターコイズの釉薬は溶け落ちるのでしょうか。あの王宮、あの絢爛が隣国の軍隊によって踏み荒らされ、燭台の一つまで奪われ、玉座の金は削り取られるのでしょうか。そして美しいこの方は。

 そこで、私はあの方の瞳の輝きに気付きました。あの方はきっと私と同じものを御覧になっていました。そしてそれを、その滅びを幻視するあの方の瞳は確かによろこびに光って、あんなに幸福そうなあの方は見たことがありませんでした。私はああ、と観念して、けれどそれに心奪われて、そっとあの方の首筋に頬を寄せました。

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