彼女に恋した吸血鬼〜ちらりと覗いただけなのに〜

高樫玲琉〈たかがしれいる〉

第1話

ガラガラガラ。

窓が開いた。

「よいしょっ」

桟〈さん〉を乗り越えて、声を潜〈ひそ〉めた、一つの影が学校に侵入した。

ガラガラガラ、ピシャ。

窓が閉まった。

ヒタヒタヒタ。

弱々しい音をたてながら、両足が床を踏み鳴らした。

(明かり、明かりっと)

手探りでスイッチを探し、ライトを点けた。

明るくなったその教室は、美術室だった。

「……っ」

背後に視線を感じ、振り向くと、石膏像だった。

侵入者は胸を撫で下ろし、一息つくと、美術室を出た。

夜の校舎内は、シンと静まり返っていて、侵入者の恐怖心を煽った。

T字に分かれた廊下を左折して、職員室と下駄箱を素通りし、二階へ繋がる階段を上がって行く。

(私ったら、課題を忘れるなんて)

そんな事を思いつつ、自分に苛立ちを感じながら、歩いていると目的の、二年D組に着いた。

赤井千代〈あかいちよ〉。

それが侵入者、もとい彼女の名前である。

カラララ。

教室の引き戸を、出来るだけ音をたてないように開け、中に入る。

五列中三列目の三番目。

ジャストど真ん中。

そこに千代の席はあった。

真っしぐらに自分の席へと向かい、机の中から課題のワークを、引っ張り出すと、中に入る際、点けた電気を消して、教室を出た。

千代は美術室へと急いだ。

階段を下り、来た道の逆を行く。

「ん?」

通り過ぎようとした、保健室で、千代の足は止まった。

教室に行く時は気がつかなかったが、たった今、一目見て初めて気がついた点があった。

明かりが漏れている。

気になった千代は、中で誰が何をしているのかと、様子を探る為に、引き戸の隙間から中を覗いた。

次の瞬間、千代は信じられない光景を目の当たりにし、目を見開いた。

養護教諭の黒羽司〈くろばつかさ〉が、物凄〈ものすご〉い形相〈ぎょうそう〉で、数学担当の南見誓〈みなみちか〉の首に、牙〈きば〉を突き立て、噛〈かじ〉りついていた。

何かを飲んでいるらしく、ゴクゴクと言う音と共に、喉元が動いていた。

「うう……」

苦しそうに誓が呻いた。

驚きのあまり、千代はワークを持っていた事を忘れ、手から落としてしまった。

バサッ

「誰だ」

首から口を外すと、司は誓を抱き抱〈かか〉えたまま、ベッドへと運んだ。

音に気づかれた千代は、慌ててワークを拾い上げ、走って逃げた。

その後ろ姿を、見送った、一つの影があったとは気づかずにーーー。

物凄い勢い〈いきおい〉で千代は、家の中に入り、自分の部屋へと駆け込んだ。

下の階で、母親が何か言っているが、聞き取る余裕など、持ち合わせていなかった。

先程の事で頭がいっぱいで、それどころじゃなかった。

ドアに背を預け、荒くなった呼吸を整えようと、吸ったり吐いたりを繰り返した。

その最中〈さなか〉、先程あった出来事を、思い返していた。

頭も呼吸も落ち着いて来ると、千代は冷静になって、考えを巡らせた。

自分がさっきまで見ていたアレは、見間違いなのか?

恐怖心から来る、心理的要素から生まれた、幻覚だったのだろうか?

家に逃げ帰った今となっては、それを証明する術〈すべ〉は無い。

一つだけ、絞り出すように思い浮かんだ方法を、千代は実行した。

それは、自分の頬をつねるというものだった。

千代は試してみた。

「痛っ」

結果はすぐに現れた。

火を見るより明らかだった。

どうやら夢ではないらしい。

自分が見ていたあの光景は、もしかしたらだが、現実かもしれない。

その可能性が出て来た。

(明日、学校で確かめよう)

気合いを入れるように、握り拳を胸に当て、千代はそう思った。

「千代ー、ご飯よー、降りてらっしゃーい」

階下のキッチンから、母親の呼ぶ声がした。

「はーい」

声の張った返事をして、キッチンに降りると、夕飯の準備が既にしてあった。

自分の席に千代が腰を降ろすと、三人は手を合わせて、挨拶をした。

『いただきます』

今日はレバニラが、おかずに出た。

レバニラに箸〈はし〉をつけようとした、その時だった。

ピンポーン。

インターホンの鳴る音が、聞こえた。

「あら、誰かしら?」

母親が言った。

「珍しいな、こんな時間に」

父親も似たような言葉を述べた。

「ねえー、千代、出て」

父親の言葉に同意すると、千代に母親は言った。

「はーい」

あまり嫌そうじゃない声で、千代は返事をすると、席を立った。

ピンポーン。

ピンポーン。

ピンポーン。

千代が玄関に行くまで、インターホンは鳴り続けた。

「はいはいはーい、今出ますよーっと」

独り言を言って、千代はドアを開けた。

「どちら様……きゃあっ」

見慣れない少年が、全身傷だらけで、血にまみれながら、玄関の前に立っていた。

年は千代と同じくらいだろうか。

「よかった、その様子だと、まだ殺されてないみたいだね」

安心したように、少年は穏やかな声を出した。

「きゅ、救急車」

千代はそう言って、固定電話のあるリビングに向かおうとした。

が、少年に腕を掴まれ、止められた。

「僕なら大丈夫」

目を伏せて、首を横に振ると、少年は言った。

「で、でも」

戸惑ったように千代が声を発していると、それを他所〈よそ〉に、少年はズボンのポケットから、小さくて細長い、紐〈ひも〉のついた物を取り出した。

「これを君に」

そう言って、千代に渡した。

見ると、それは十字架のチャームだった。

真ん中に水晶が埋め込まれている。

「お守りだよ、君を助けてくれるように」

言うと、少年は辺りを見回した。

そして千代に言った。

「じゃ、そろそろ奴が来るから、僕はこれで」

手を振りながら、自分の身に着けている十字架を握り締めると、少年の姿が消えた。

千代は、母親に呼ばれるまで、あんぐりと口を開けて、玄関に突っ立ったままだった。

町の明かり以外、月も星も出ていない、空が暗い夜の事だった。

雀〈すずめ〉の囀り〈さえずり〉が、朝の訪れを告げた。

けたたましく、アラームを鳴らすスマホを、ベッドから伸びた手が、布団の中へと引き摺り込んだ。

アラームを止めると、ベッドの中にいる、伸ばしていた手の持ち主は、布団をすっぽり、頭まで被って、寝直した。

「ーーーって、寝ている場合じゃないんだった」

千代はそう、独り言を言って、飛び起きた。

ふと、十字架の事を思い出し、枕元を見ると、寝かせるように、置いてあった。

千代は十字架を手に取った。

そして、まじまじと見ながら、あの少年の事を思い出した。

(その様子だと、まだ、殺されてないみたいだね)

確か、そんな事を言っていた。

司と誓の事。

傷や血だらけの少年。

〝まだ殺されてない〟と言う言葉。

謎だらけだ。

どういう事なんだろう?

どの印象に残っている出来事にも、通ずる疑問がこれだった。

いつもならそろそろ、制服に着替える頃合いだが、それも気づかずに、ぼんやりと自分が出くわした、謎について考えていた。

その時だった。

パリン、パリン、パリン、パリン。

「キャアアアアア」

破壊音と、母親の悲鳴が下から聞こえた。

(ママ?)

悲鳴を聞いて、千代は目覚めた。

何が起きたのかと不安に襲われながら、パジャマのまま、部屋を飛び出した。

少々傾斜が急な階段を、備付けの支えに捕まりながら、なるべく早足で降りると、母親の元へと急いだ。

「ママ、大丈夫?」

駆けつけながら千代は、声をかけた。

「どうした、何があった?」

遅れて父親もやって来た。

「あ、あれ」

崩れ落ちるように座っていた母親は、自分は見たくないとでも言う風に、眼を固く閉じ、顔を背けている。

だが、震えている手の片方は、それとは逆の、キッチンを指さしていた。

二人がキッチンをみると、冷蔵庫に四本の矢が刺さっていた。

千代と父親は冷蔵庫に駆け寄った。

「一体何処〈どこ〉から」

父親が言った。

「待って」

矢を引き抜こうと、手を伸ばした父親を、千代が止めた。

「警察に見せるんだから、触らない方がいい」

そう言われて納得し、父親は手を引っ込めた。

「あ、ああ、そうだな」

千代はリビングを振り返った。

相変わらず、力無く座っている母親の場所をよく見ると、床がキラリと光っていた。

歩み寄って近づき、覗き込むようにして見てみると、それは硝子〈がらす〉の破片だった。

何処の物なのか、すぐに勘づいた千代は、さっしを見た。

硝子が、小さな穴が四つ、空く〈あく〉ように割れていた。

「おい、千代」

父親が声をかけた。

矢がリビングの外から、飛んで来た事が分かったので、千代はこれ以上見るのを止〈や〉めて、キッチンに戻った。

「どうしたの?」

千代が訊ねると、父親はこう答えた。

「これ、見てみろよ」

そう顎〈あご〉でしゃくって、冷蔵庫の蓋〈ふた〉を指した。

父親の言葉に従って、冷蔵庫の蓋を見てみると、刺さった四本のうち一本に、紙が付いていた。

その紙に赤い字で、こう殴り書きがしてあった。

〝お前を殺す〟

「何だよ、これ」

怯えたような声を出して、父親が言った。

司と誓の謎な関係の事が、脳裏を過〈よ〉ぎったが、流石にこじつけ過ぎだと思い、千代は言わなかった。

(まさか、ね)

「そ、そうだ、とにかく、警察に連絡しないと」

落ち着かない様子で父親は、リビングに設置されている、固定電話の所に歩いて行き、受話器を手に取った。

ピ、ピ、ピと三回電子音が聞こえた。

「もしもし、警察ですか?すぐ来て下さい、妻と家が襲われたんです、はい、はい、お願いします、はい」

受話器を置いた父親に、千代は話しかけた。

「警察の人、何て〈なんて〉言ってた?」

先程〈さきほど〉と変わらず、落ち着きの無い声で、父親は答えた。

「五分でこちらに着くそうだ」

それを聞いた、千代が返した。

「そう」

千代はまだ、抜け殻〈ぬけがら〉のようにボーッとしている、母親の元に、父親と歩み寄った。

「ママ、大丈夫?」

さっきと同じ質問で、千代は話しかけた。

だが、返事が無い。

「ママ、ねえ、ママったら」

千代が、そう呼びかけて、母親の身体を揺さぶったが、やはり反応は無かった。

パンッ。

父親が母親の前で、手を叩いた。

「キャア、な、何?」

母親が声を上げた。

今度は驚いたようだ。

「ママ、大丈夫?」

千代が訊いた。

本日、三度目の同じ質問だった。

「二人共〈ふたりとも〉おはよう、ああ、びっくりした」

そう言って母親は、胸を押さえた。

「ああ、おはよう」

父親が返した。

「おはよう、大丈夫かって訊いてるんだけど」

千代がむくれた。

「え、ええ、そうね、何とも無いわ」

そう言う母親だったが、矢が掠った〈かすった〉のか、右頬に赤い一線が、引かれていた。

「顔に傷ついてるじゃない、ほら」

言いながらティッシュで傷口を拭う〈ぬぐう〉と、千代は赤い染み〈しみ〉の着いた、ティッシュを母親に見せた。

「嘘?あらヤダ、本当」

軽く驚いてる母親に、父親は訊ねた。

「どうして?一体何があったんだ?」

強い口調と言葉で話す父親を、千代は宥め〈なだめ〉た。

「パパ、突然の事だから、驚く気持ちは分からないでもないけどさ、少しは落ち着きなよ」

父親が言い返した。

「そう言われてもだなあ」

なかなか落ち着けない父親に、千代はこう助言した。

「深呼吸しよう、はい、吸ってー」

父親は千代の言葉に従った。

「吐いてー」

口をすぼめて、吸い込んだ空気を外に出した。

深呼吸の一連の動作を終えると、千代は父親に訊いた。

「どう?少しは落ち着いた?」

凛〈りん〉とした声で父親は答えた。

「ああ、とても」

改めて父親は、母親に訊ねた。

「それで、何があったんだ?」

短く前置きをしてから、母親は話し出した。

「ええ」

それまで母親は、いつものように、キッチンで朝食を盛りつけた食器を、鼻歌を歌いながら、テーブルに並べていた。

「よし、朝ご飯の準備、終わり」

軽く呻き声を上げながら、大きく伸びをした時だった。

コツ。

「?」

物音がした。

リビングの方から聞こえた。

(何かしら?)

そう思い、隣りであるリビングに行った。

辺りを見回してみるが、何も無かった。

外を確かめようと、サッシに近づこうとした、その時だった。

パリン。

チッ。

カッ。

サッシの硝子戸を突き破って、〝何か〟が中に入り込んだ。

その〝何か〟は、母親の頬を掠めて、通り過ぎて行った。

「!?」

何が起こったのか、母親は分からなかった。

パリン。

パリン。

パリン。

フッ。

フッ。

フッ。

と、連続して〝何か〟の襲来は行〈おこな〉われた。

母親の頬を掠めた一撃から三回、同じ攻撃が繰り返された所で、〝何か〟の襲撃は終わった。

母親は崩れ落ちるように座った。

混乱するあまり、出来ていなかった、頭の整理が漸く追いつき、事の重大さに気づいて、母親は悲鳴を上げた。

「キャアアアアア」

「それで、悲鳴を聞きつけた、私達が母の元にやって来た、という訳です」

母親が話し終わる少し前に、警察が到着した。

赤井家一家は親子で、母親がしたのと同じ理由を、警察にも話した。

「それで、犯人の顔は見たんですか?」

警官が母親に訊ねた。

「それが、飛んで来た矢に気を取られて、突然の事でしたし」

と、母親は答えた。

警官は母親の言葉に納得すると、更に訊いた。

「そうですか、では、身の回りでトラブルを起こした事は?」

父親が声を張り上げた。

「そんな、とんでもない」

そう言った時だった。

トゥルルル。

固定電話が鳴った。

「出ていいですよ」

気遣うように、警官が言った。

「私が出るわ、二人は警官さんと話を続けてて」

そう、申し出て、両親に指示を出すと、千代は電話

に出た。

「はい、赤井です」

こんな言葉が聞こえた。

「あの事を喋ったら殺す」

そう一言話すと、電話は切れた。

ツー、ツー。

通話が切れた音を聞きながら、千代は受話器を置いた。

三人のいる玄関に戻ると、母親から話しかけられた。

「何の電話だったの?」

千代は答えた。

「間違い電話よ」

そう言って誤魔化した。

くぐもった、男性らしき低い声が、千代の耳に残った。

「今、犯人について心当たりが無いか、訊かれてたんだ」

父親が、千代が電話に出ている間の、話の流れについて、説明した。

「ええ、私達は思い当たる節も無いけど、千代、何か知らない?」

母親が、自分達にされた質問を千代に、投げかけた。

「さあ、どうだったかしら?」

と、とぼけて答えた時だった。

ピンポーン。

インターホンを鳴らす音が、外から聞こえた。

「私が出るわ」

両親が取り込み中である事を、改めて振り返りながら千代は、自〈みずか〉ら進み出て、ドアを開けた。

「はいはーい、どちら様ですか?」

そう訊くように喋った、千代の視界に飛び込んで来たのは、見覚えのある人物だった。

「やあ、おはよう」

そう、爽やかに笑って、千代に声をかけた。

「貴方〈あなた〉、昨日の」

千代が、その人物の正体を言った。

「覚えててくれたんだね、嬉しいな」

アイドルの月並みな台詞のように、謎の少年は言った。

「まあ、お友達?」

少年を見るなり、嬉しそうに母親は千代に訊ねた。

「誰だ、お前は」

今度は父親が少年に訊いた。

「娘とどういう関係だ?」

険しい顔でそう続けた。

「えっと」

何て言って切り抜けようかと、考えている千代の隣りで、少年はにこやかに喋り出した。

「赤井さんのご両親ですね?おはようございます、クラスメートの加賀美修悟〈かがみしゅうご〉と言います、以後お見知り置きを」

少し長めの挨拶を終えると、修悟は深々とお辞儀をした。

「まあ、これはどうも、ご丁寧に」

そう返すと、母親も頭を下げた。

「う……そ、それで、何しに来たんだ?」

父親は一瞬たじろいだが、すぐに今の質問を思いつき、口に出して、食い下がった。

「赤井さんを迎えに来たんです、一緒に登校しようと思いまして」

修悟が穏やかに答えた。

「あらあら、その為にわざわざ?ありがとうね」

修悟の親切な心遣いに、母親は感謝した。

「うぐぐ……」

これ以上、抵抗する為〈ため〉の、返す言葉が見つからないらしく、父親は悔しそうに歯を噛み締め、呻〈うめ〉いた。

「ちょっと待って」

三人の中に、千代が横入りした。

「さっき何て言った?」

千代が修悟に訊いた。

「君と登校する為に、迎えに来たって」

修悟の言葉を繰り返すように、千代は訊き返した。

「……登校?」

言葉で頷〈うなず〉くと、修悟は続けた。

「そうだよ、平日だから学校に行かないと」

修悟の言葉を聞いて千代は、自分のこれまでの行動を振り返った。

そして、自分の身体を見下ろして、今の自分の格好を見た。

まだ、パジャマ姿のままだった。

気づいた千代は、青くなって慌てた様子で、両親に訊いた。

「今何時!?」

両親は戸惑った。

「え?えーっと」

考えるように唸〈うな〉りながら、母親は辺りを見回した。

時計を探しているらしい。

「うーんと」

父親も、母親と同じように唸りつつ、胸や尻の辺りを弄〈まさぐ〉った。

「何してるの?あなた」

母親が声をかけた。

父親はこう返した。

「いや、スマホ持ってたかなーと思って」

しかし、父親もパジャマ姿だった。

そんな話をしている二人を見かねてか、腕時計を見ながら、警官が言った。

「七時五十三分ですね」

それを聞いた千代は、警官に礼を述べると、修悟に言った。

「ありがとうございます、ちょっと待ってて」

くるりと向きを変え、奥へと一歩踏み出した時だった。

「待った」

警官が呼び止めた。

「何処に行くんですか?」

訊かれた千代は答えた。

「ちょっと着替えに、学校へ行く準備をしないと」

それを聞いた警官が、こう返した。

「そうですか、分かりました、ただ、これからは一言断ってから、行って下さい」

注意を受けて、千代は返事をした。

「あ、はい」

そして、警官が声をかけたのは、千代だけではなかった。

「それと、そこの君」

と、前置きをして、修悟を呼んだ。

「僕ですか?何でしょう?」

自分を指しながら、修悟は訊ねた。

「加賀美修悟君、とか言うお名前でしたね?君達本当にクラスメートですか?」

段々に穏やかなものから険しいものに変わって行った態度と声で、警官は差し迫るような質問をした。

「私達がクラスメートだったら、そんなにおかしいですか?」

頭を急速に回転させて、当たり障りの無い言葉を思いついた千代は、逆に訊き返した。

「いえ、ただ、さっきの会話だと、昨日知り合ったばかりのような、口ぶりに思えたので」

警官の態度と声が緩んだ。

「〝昨日の出された課題、やったか〟って訊いたんです」

千代が返すと、警官は訊ねた。

「じゃあ、〝覚えててくれたんだ、嬉しいな〟は?」

修悟が答えた。

「〝覚えていたんだ、凄い〈すごい〉な〟って言ったんですけど、そんな風に聞こえました?」

訊き返されると警官は、引き下がった。

「そ、そうでしたか、それならいいんです」

千代が訊いた。

「あの、もう行っていいですか?遅刻しちゃうんで」

警官は承諾した。

「ああ、はい、どうぞどうぞ」

警官が掌〈てのひら〉を向けて奥を指すと、千代はダッシュで二階に駆け上がった。

そして、ほんの一、二分で制服に着替えて、持ったスクールバッグと一緒に、降りて来た。

そこで修悟に声をかけるのかと思ったら、千代が言葉を投げかけたのは、警官だった。

「朝ご飯、食べて来ていいですか?」

警官に向けられた言葉が、それだった。

「は、はい、どうぞ」

返事を聞くと、言い終わる前に千代はキッチンに向かった。

そして急いで、朝ご飯をかき込んだ。

口の中の物を牛乳で流し込むと、千代は席を立ち、食器をシンクに置いてあるボウルに入れ、水道の出力を全開にして、水を溜めた。

ボウルがいっぱいになると、水道を切って、またダッシュで修悟の元へと駆け寄った。

そして、今度こそ修悟に声をかけた。

「お待たせ、早いとこ行きましょ」

千代の言葉に、修悟が賛同した。

「そうだね、行こうか」

スリッパから、ローファーに履き替えると、警官と両親、三人に向かって千代は挨拶をした。

「行って来ます」

そして、先陣を切って、家を出た。

「では、僕も行って来ます」

三人に一礼をして、修悟も後を追いかけた。

「あら」

と、三人のうちの一人、母親が何かに気づいたらしく、声を出した。

「どうした?」

気になった父親が訊いた。

「そう言えば、パパは会社に行かなくていいの?」

言われて、父親は自分の今の状況に気づき、青くなった。

「そうだった、俺も行かなきゃ」

千代同様、警官に断りを入れると、父親は慌ただしく、出勤の準備を始めるのだった。

「赤井さーん」

後方から声がして、振り向くと、修悟が早足でこちらに来ようとしていた。

千代は走っていた足を止めた。

すると、修悟も横に並ぶように、隣りに立った。

「はあ、よかった、なんとか追いついた」

胸に手を当てて、息を弾ませながら、修悟は喋った。

「加賀美君だっけ?貴方も急がないと遅刻するよ」

千代が忠告した。

「そうだね、じゃあ早足で、一緒に行こう」

二人は足を進めながら、会話を始めた。

「さっきは誤魔化すのに付き合ってくれて、ありがとう」

話し始めたのは、千代からだった。

「学級委員として、当たり前の事をしたまでだよ」

謙虚なのか本心か分からないが、修悟はそう返した。

「私、そんな冗談に付き合える程、器用じゃないんだけど」

千代が自分を卑下した言葉を述べた。

「あれ?覚えてない?」

修悟が訊〈き〉いた。

「え?」

千代が訊き返した。

「四月始めのLHR〈ロングホームルーム〉で、みんなで選挙して、多数決で僕が選ばれたの」

修悟は説明した。

「えっ……」

千代は言われて、頭を急速に働かせ、記憶を探った。

しかし、心当たりが無く、思い出せなかった。

代わりにこんな言葉が、頭の中に出て来た。

「そうだっけ?」

千代は言葉を口にして、訊ねた。

「そうだよ」

修悟が答えた。

「そうなんだ」

千代が返した。

「うん」

修悟は頷いた。

「そう言えばお守り、使ってくれてる?」

修悟の質問に千代は、訊き返すがすぐに答えた。

「え?ああ」

そして、首に掛けていた十字架を掴んで、修悟に見せた。

「よかった、きっと役に立つから持っててね」

修悟がそう言って聞かせた。

二人は会話を続けながら、早足で道を行った。

「昨日、何かテレビ見た?」

千代の問いに、修悟は答えた。

「いや、何も、戦うのに必死で、そんな事考える余裕、無かったから」

修悟の言葉を聞きながら千代は、昨日の怪我だらけだった、修悟の姿を思い出した。

「私も」

千代が返した。

と、突然、修悟の足が止まった。

二、三歩先に行って、気配が無くなった事に気づいた、千代が訊ねた。

「どうしたの?」

思いも寄らない答えが、修悟の口から返って来た。

「参ったなあ、囲まれちゃったか」

その視線は上空に向けられていた。

「え?」

修悟の言葉を不思議に思い、千代も真似〈まね〉をするように、空を見た。

「烏〈からす〉?」

電線や電柱、民家の屋根と高い場所を黒く埋め尽くしている正体を見て、千代は初めて自分の頭上が影っている事に、気づいた。

「使い魔だよ、君を狙ってやって来たんだ」

修悟が説明した。

「使い魔?誰の?」

深刻な声で修悟は、千代の問いに答えた。

「アイツさ」

続けて千代は訊ねた。

「知ってるの?」

修悟は、はぐらかすように答えた。

「まあね、それより」

と、前置きをすると、千代の気を烏に逸らすかのように、話した。

「来るよ、構〈かま〉えて」

そう言われた千代は、構えた経験なんて、これまでの人生で一度も無く、取り方が分からなかった。

戸惑っていると、身構えている修悟の姿が眼に入った。

それを見て、千代も見よう見真似〈みまね〉で、構えてみた。

「こっこう?」

そんな千代を横目で見ながら、手袋を嵌めて、修悟は喋った。

「よし、OK、心の準備はいい?」

唾を飲み込んで、千代は答えた。

「うっうん」

「カアカアカア」

烏の数匹が羽を広げ、鳴き声を上げて、騒ぎ立てた。

上空に飛び上がると、羽を折り畳んで、風を纏〈まと〉い、猛烈なスピードで突っ込んで来た。

腕で顔を覆って、防御の体勢を取ると、千代は眼を閉じた。

「ギャア」

悲鳴を上げたのは、烏の方だった。

「え?あれ?」

恐る恐る眼を開けた千代が、不思議そうに声を出した。

眼の前に烏の姿は無く、散った羽根だけが地面に落ちていた。

ポカンとしていると、烏の鳴き声がまた、聞こえた。

「カアカアカア」

先程の烏同様、黒いミサイルと化し、千代に襲いかかった。

「わっ」

慌てて千代がまた、防御すると、悲鳴を叫び、羽根を散らして、烏が消えた。

「なっ何が起こったの?」

頭で事態を捕らえる事が出来ず、千代は眼を丸くした。

どういう事なのか訊こうと、修悟の方を振り向くと、烏退治に没頭している様子だった。

声をかけづらい雰囲気に、諦めてこちらも攻防の戦いに集中しようとした時だった。

(あれ?)

あるものが千代の視界に入った。

それは修悟の手元だった。

両方の手が青白く光っている。

烏達を迎撃した修悟の周りにも、黒い羽根が舞って落ちていた。

(え……凄っ)

感心して見ている間にも、千代に襲いかかろうとした、三羽〈わ〉が殺〈や〉られて行った。

そのうち二羽は、左右から挟み撃ちにしようとしていた。

また一羽、また一羽と烏は襲撃を仕掛ける度〈たび〉に、自滅して行った。

まるで何かに守られているかのようだと、千代は思った。

そこで、はたと気づいた。

(守られているーーー守るーーーお守り?)

ふと、千代の脳裏〈のうり〉に、修悟の言葉が過〈よ〉ぎった。

(お守りだよ、君を助けてくれるように)

(きっと役に立つから、持ってて)

二つの言葉が、千代の考えた憶測に可能性を持たせた。

(もしかして)

可能性を信じて、千代は首から下げていた、十字架を取り出して見た。

修悟の手元と同じように、青白く光っていた。

「やっぱり」

呟くように声を漏らした。

(この十字架が助けてくれたんだわ)

千代は烏達をじっと見た。

よし、と自分に気合いを入れるように声を出すと、十字架を握り締めて、烏達に立ち向かった。

「ギャア」

飛びかかって来る烏に向かって、十字架を翳〈かざ〉すと、数枚の羽根を残して、烏は消滅した。

これに味を占めたのか、千代はどんどん十字架を使って、烏達に対峙して行った。

「えいっやあっ」

千代から活気のある声が上がった。

「たあっはあっ」

修悟も生気〈せいき〉の籠もった声を、発した。

二人は次々と烏達を、倒して行った。

数十羽はいた筈の烏だったが、段々と数が減って行き、とうとう最後の一羽だけとなった。

「カアカアカア」

ピンチに陥〈おちい〉った烏から、声が上がった。

最後に悪足掻〈わるあが〉きをしようと、吠えたのだろうか。

千代と修悟が身構〈みがま〉えると、烏はバッと羽音を羽ばたかせて、空中へと舞い上がった。

「!!」

突然、二人の視界が見えなくなった。

烏が羽根を顔面めがけて、撒〈ま〉き散らし、ぶつけて来たのだった。

羽根を全部取り払い終えて、向き直ると、そこに烏の姿は無かった。

二人は辺りを見回して、烏を探した。

「いないわ」

心細〈こころぼそ〉そうに、千代が声をかけた。

「逃がしたか」

口惜しそうに、修悟が返した。

「何処に行ったのかしら?」

行方〈ゆくえ〉が気になった千代が、そんな質問をした。

その質問を、修悟は拾〈ひろ〉って答えた。

「主人の所に帰ったんだろうね、きっと」

暢気〈のんき〉にまた、空を見上げながら言っていたが、その声には深刻さが、滲〈にじ〉み出ていた。

「それって、さっき言ってたアイツの事?」

続け様に千代は訊いた。

視線を千代に移し、頷〈うなず〉いて修悟は答えた。

「そう、アイツだよ」

頭の中に浮かんでいる、一人の人物に心当〈こころあ〉たりを感じながら、恐る恐る、再び千代は訊こうとした。

「そのアイツってまさかーーー」

言いかけた時だった。

「あ!」

と、修悟が声を跳〈は〉ねさせた。

「な、何?どうかしたの?」

修悟の様子を気遣〈きづか〉って、千代は質問した。

「すっかり忘れてた、時間大丈夫?」

と、問いに答えてから、訊き返した。

「え?……あーっ」

数秒考えると、千代も気づいた。

学校へ遅刻しそうな事に。

千代はスクールバッグの中から、スマホを取り出して、時間を見た。

八時十五分を周っていた。

登校時間が終わるのは、八時三十分だ。

「やっば、もう、こんな時間、急がなきゃ」

千代のスマホを覗き込んで、修悟は喋った。

「よし、走ろう」

修悟の言葉に、千代は頷いた。

「うん」

二人は、自分達の現在位地から、学校までの道程〈みちのり〉を急いだ。

千代達が通う、陽月〈ひづき〉高校の教室は、多数の生徒達が話す声で賑わっていた。

千代達の属する二年D組も、その一つだった。

ワイワイ。

ガヤガヤ。

何重奏にも聞こえる、クラス中の声。

それはまるで、蛙の大合唱や蝉時雨を聴いてるようだった。

「昨日テレビ、何見た?」

向かい合って会話をしている男子のうち、左を向いている男子が質問した。

「〝有吉ゼミ〟と〝世界まる見えテレビ特捜部〟見てた」

右を向いている男子が答えた。

「おっ偶然、俺も見てた」

嬉しそうな表情と声で、左向きの男子が返した。

「面白かったよなー、ギャル曽根の大食いっぷりとか、ビートたけしの暴れぶりとか」

内容を振り返るように、右向きの男子が喋った。

「そうそう、あれはウケた」

思い出すように、左向きの男子が話した。

「これ、返すね、ありがとう」

女子から、そんな声がした。

数人で一つの集まりになって、雑談をしていた。

「面白かったでしょ?」

差し出された少女漫画を受け取って、女子は礼を述べた女子に、感想を求めた。

「うん、とっても、特に夏人と二葉の関係が気になるわ」

漫画を借りた女子に、貸した女子が声を弾ませて返した。

「そう、そこなのよ、二人の間柄にヤキモキしちゃうのよね」

借りた女子が、貸した女子に共感した。

「だよねー、分かるわあ」

キャッキャッと二人で盛り上がっていると、女子の一人が横から、口を出した。

「そんなに面白いの?ウチにも貸してよ」

貸した女子が返した。

「OK、じゃあ明日、持って来るね」

借りた女子も予約を取り付けた。

「私にも、その話の続き、あったら貸して」

快く〈こころよく〉貸した女子は、頷いて返事をした。

「うん」

キーンコーンカーンコーン。

そう話していた所で、登校時間終了のチャイムが鳴り出した。

バタバタバタ。

重なった足音が聞こえた。

ガラッ。

教室の引き戸が勢い良く開〈あ〉いて、二人の生徒が現れた。

一人は女子で、もう一人は男子。

千代と修悟だった。

乱れた息を整えながら、二人は中に入った。

キーンコーンカーンコーン。

チャイムが鳴り止んだ。

「ま、間に合った」

喉〈のど〉から絞〈しぼ〉り出すような声を、千代が出した。

「ギ、ギリギリセーフ」

修悟もそれに続いた。

「お、いよっお二人さん、仲良く並んでご登校かい」

男子の一人が冷やかした。

ヒューヒューと、クラス中が囃子〈はやし〉立てた。

「何言ってんの、そんなんじゃないわよ」

千代が否定した。

「そうそう、ちょっとした成り行き〈なりゆき〉で一緒になっただけだよ、ね」

修悟も千代に続いた。

「ちょっとした成り行きって?」

女子の一人がニヤニヤしながら、質問した。

「成り行きは成り行きよ、たまたま偶然、二人で登校する事になったの、それだけ」

言葉足らずの説明で、千代は返答した。

「ふーん、言えない程〈ほど〉アヤシイ事を、二人でしてたんだ?」

千代の返答では通じず、更に〈さらに〉面白がって、二人に質問で迫った。

「違うったら」

千代はまた、女子の質問に含まれている、色恋沙汰

〈いろこいざた〉的〈てき〉な意味を打ち消す、答えを返した。

「またまた、そんな事言って」

更に詰め寄る女子に、千代は困惑した。

「困ったわ、どうしよう」

対応に困った千代を擁護〈ようご〉しようと思ったらしく、修悟は助け船を出した。

「本当だよ、烏の軍団に二人で、戦って来たんだ」

それを聞いた千代は表情が明るくなり、修悟の言葉に乗っかって、繰り返し頷いた。

「そうそう、物凄い〈ものすごい〉勢い〈いきおい〉でかかって来て、本当、大変だったんだから」

これで肩の荷が下りると思ったのか、千代はホッとした顔つきになった。

しかし、それでも女子は引き下がらなかった。

「ふーん、そうなんだ、で、正直な所、本当はどうなの?」

先刻と似たような質問が繰り返された。

「えっ」

修悟がたじろいだ。

「二人でナニしてたの?」

二人が当惑していると、横からふいにコホンと、咳払いが聞こえた。

「あー、お取り込み中悪いんだが、朝読書、そろそろ始めてもいいか?」

いつの間にか担任の産土始〈うぶすなはじめ〉が、教室の中に入って来ていた。

「先生」

千代が呼ぶように喋った。

「いつの間に……」

修悟も驚き〈おどろき〉を隠せず、言葉に出した。

「いつまで突っ立ってんだ、早く席に着け、チャイムはもう、鳴り終わってるぞ」

生徒達に聞こえるように始が呼びかけた。

「はーい」

生徒達が口々返事をして、席に着き始めた。

「赤井に加賀美、それから東〈あずま〉、何をボケッとしとるんだ、ボサボサしとらんで、お前達も早う〈はよう〉、席に着かんか」

産土の𠮟り〈しかり〉を受けて、気が引き締まったのか、三人共ハキハキした声で、返事をした。

「は、はい!」

三人も他の生徒同様、自分の席へと、それぞれ散らばった。

「チッ」

東が去り際〈さりぎわ〉に、聞こえないように、舌打ちしたのが、二人の耳には、届いていた。

「よかった」

修悟が言いながら、全身の力を抜いた。

「助かった」

千代も心に平穏〈へいおん〉が訪れた〈おとずれた〉。

別れ際、千代は産土や東に気づかれないよう、修悟

にこっそり耳打ちした。

ガチャリ。

ノブを回す。

キィイイイ。

ドアが開く。

屋上に出ると、晴れ渡る空が広がっていた。

握り〈にぎり〉拳〈こぶし〉を作った手を差し出すと、バサバサッと羽音を立てた、烏が一羽、舞い降りて来て止まった。

「お帰り」

手の持ち主である人物が、烏に話しかけた。

「どうだった、成果は?」

その人物が訊ねると、烏は申し訳無さそうに、一声鳴いて、返事をした。

「カア」

それで人物は、大体の事を察した。

「そうか、しくじったか」

人物の言葉に、烏は応えた。

「カア」

人物は質問を続けた。

「で、帰って来たのは、お前だけか?」

訊かれた烏は答えた。

「カア」

それを聞いた人物は、烏にこう返した。

「そうか、行っていいぞ」

人物の言葉に従う〈したがう〉ように、烏は一声鳴くと、バサバサと何処かへ羽ばたいて行った。

「カア」

一人残った人物は、独り言を述べた。

「殺り〈やり〉損〈そこ〉なったか、だが、まあいい、次の手段は考えてある、赤井千代、加賀美修悟、次は殺す」

そよ風に吹かれながら、その人物は屋上の入口まで歩いて行った。

キィ、パタン。

キーンコーンカーンコーン。

屋上のドアが開閉する音がした後、チャイムが朝読書終了の時間を、全校生徒に知らせた。

放課後になった。

修悟が一緒に帰る為〈ため〉、千代の所に行こうと、スクールバッグを持って、席を立った時だった。

「加賀美君」

背後から声をかけられた。

振り向くと、女子が立っていた。

名前は来栖真歩〈くるすまほ〉と言った。

「今、帰り?」

訊かれた修悟は答えた。

「うん、来栖さんこそ、部活終わり?」

と、訊き返した。

「そう、あのね」

質問に答えると、前置きをして、真歩は更に続けた。

「これ」

そう言って、制服のポケットから、あるものを取り出し、両手で差し出した。

それは、金色に縁〈ふち〉取〈ど〉られた、濃いピンクのリボンで綴〈と〉じられている、レースの包みだった。

「バターの良〈い〉い香りがするね」

修悟の言葉に真歩は、頷いて返した。

「うん、クッキーだよ、さっき、部活の時間にみんなで作ったの、余ったからあげる」

折角の好意だから甘えようと、修悟は快く、クッキーを受け取った。

「そう、じゃあ遠慮無く貰うね、ありがとう」

修悟が礼を述べると、真歩はこう返した。

「いえいえ、どう致〈いた〉しまして、それじゃあ私、赤井さんにもクッキー、あげに行くからこれで」

そして、修悟の元を去ろうとした時だった。

「ちょっと待った」

と、声がかかった。

修悟に呼び止められたのだった。

「赤井さんなら、僕一緒に帰るから、よかったら渡しておくよ」

それを聞いた真歩は、こんな言葉を口にした。

「そう?それじゃ、お願いするわ」

言うと真歩は、修悟の机に、もう一つクッキーが入った包みを置き、挨拶をして今度は去って行った。

「じゃあね、また明日」

真歩がいなくなると、修悟はクッキーを一つ、制服のポケットに入れ、もう一つを片手に、スクールバッグを提げて、千代の元にやって来た。

到着すると、同時にカタッという音が聞こえた。

千代が赤ペンを、放り投げるように置いた音だった。

「ふー」

そう声に出しながら息を吐くと、背凭〈もた〉れに寄りかかった。

「終わった?」

修悟が声をかけた。

「なんとか」

と、千代が返した。

「じゃあ、行こうか」

修悟の誘うような言葉に、千代は頷くと、修悟を引き止めた。

「うん、ちょっと待ってて、すぐ仕度するから」

言うと千代は急いで、勉強道具をスクールバッグの中にしまい込むと、忘れ物が無いかチェックした。

「よし、大丈夫だ、いいよ、行こう」

二人は話しながら、教室を出た。

「ごめんね、待たせちゃって」

千代が詫びた。

「全然、僕も課題やってたし、来栖さんと少しだけど喋ってたから」

千代を気遣〈きづか〉って、修悟は言いながら、首を左右に振った。

「そう?それならいいんだけど」

千代が納得すると、ふいに修悟が声を出した。

「あ」

気になった千代が、訊ね〈たずね〉た。

「何?」

続けて話すように、修悟は答えた。

「思い出した、はい、これ」

そう言って、しまい直した制服のポケットから、銀色に縁取られた、濃い紫色のリボンで綴じられている、レースで出来た包みを取り出した。

「これは?」

謎めいた包みを見て、千代が訊いた。

「来栖さんから君にって」

修悟は包みを差し出した。

「この香り、もしかして、クッキー?」

包みの中身を千代は、言い当てた。

「ご名答」

修悟が返した。

そうだと知ると、千代の表情が明るくなった。

「そうなんだ、嬉しいわ、ありがとう」

千代は喜んで、クッキーを受け取った。

職員室に入って、一、二分もすると、修悟の元に千代は戻って来た。

「お待たせ、行きましょ」

千代の言葉に修悟は頷いた。

「うん」

次に歩きながら話しかけて来たのは、修悟からだった。

「それで、相談って何?」

遅刻寸前で、急いで登校した今朝。

着席の為に、散り散りになったあの時、別れ際に千代はこう、修悟に耳打ちしていた。

〝相談したい事があるから、放課後残ってくれる?〟

「うん、あのね、協力して欲しいの」

千代は昨日の夜、侵入した学校で見てしまった出来事を話した。

「あれが本物だったのかどうか、本物だったら何故、黒羽先生があんな事をしたのか、知りたいの」

修悟の手を取って、千代は最後にこんな言葉を付け加えた。

「お願い、力を貸して」

マシュマロのような手触りに、修悟の心臓は跳ね上がった。

顔を赤らめて、修悟はそっぽを向いてしまった。

「ダメ?」

叱〈しか〉られた子犬のような表情で、千代は訊いた。

「そりゃまあ、構わないけど」

千代の顔を見ずに、修悟は返事をした。

「そうだよね、構わないに決まってるよねって、え!?」

一人で解釈〈かいしゃく〉している途中で、修悟の返事が色の良いものだったのに気づき、千代は訊き直した。

「ほっ本当に!?いっいいの!?」

千代が修悟に詰め寄った。

「ただし」

と、修悟は前置きをした。

「一つだけ約束して」

そう続けた。

「約束?」

繰り返すように言いながら、千代は訊ねた。

「そう、約束」

頷いて、修悟が返した。

「何を約束すればいいの?」

玄関で靴〈くつ〉を履〈は〉き替え、外に出た。

「それはね、」

修悟が短く言葉を切った。

「それは?」

言葉の続きを千代は、促〈うなが〉した。

「僕から離れない事」

修悟は答えた。

少し、二人の間〈あいだ〉に間〈ま〉が開いた。

「それだけ?」

ポカンとして、千代が訊いた。

「そう、それだけ」

修悟が頷いて、返答した。

「……な、なーんだ」

数秒の間〈あいだ〉、再び訪れた間〈ま〉をおいて、明るい声を出したのは、千代だった。

「あーよかった、勿体〈もったい〉ぶるような話し方するから、どんな条件呑〈の〉まされるのかと思ったじゃない、心配して損した」

大きく息を吐くと、力を抜くように残りの言葉を話した。

「まあ、約束しなくても守る宿命にあるんだけどね」

ポソリと修悟が呟〈つぶや〉いた。

「え?」

言葉を聞き取れなかった千代が、訊ねた。

「ううん」

首を横に振ると、修悟は続けて喋った。

「約束してくれるよね?」

修悟の問いに、千代は元気に答えた。

「するするする、そんな約束だったら、いくらでもする」

それを聞いた修悟は、ニッコリ笑ってこう話した。

「OK、じゃ、交渉成立だね」

千代も同意した。

「決まりね」

話が纏まると、修悟は千代に声をかけた。

「それじゃ、帰ろっか」

千代も頷いた。

「うん」

二人は歩〈ほ〉を進めた。

「そうだ」

揃った足並みで歩いている中、ふいに千代が声を上げた。

「何?」

修悟が訊ねた。

「あのさ」

千代は言う前に、ワンクッション置いた。

「うん」

修悟が頷いて、続きを促した。

「昨日、家に来た時、どうしてあんなに沢山、怪我をしてたの?」

残りの言葉を千代は、述べ終えた。

「ああ、あれね」

そう答えると修悟は昨日、自分の身に起こった出来事について、話し始めた。

その話は前夜に遡〈さかのぼ〉る。

「誰だ」

保健室の引き戸が開いて、黒羽司が姿を現した。

しかし、物音を立てたその正体は、もう逃げていて、司はその背中を見送るしか出来なかった。

「赤井千代か、チッ、逃げ足の速い奴だ」

舌打ちをして、一人で喋り出した。

「まあ、いい、あんな人間ぐらい殺す手立てなら、幾ら〈いくら〉でもある」

ドス黒いオーラを拳に纏〈まと〉わせた。

「そうはさせません」

突然聞こえた声に振り向いた。

見ると、千代が逃げた先の、美術室の前にいつの間にか修悟が、寄りかかって立っていた。

引き戸から身体を離すと、修悟は身構えた。

「加賀美修悟か、此処〈ここ〉で何してる?」

修悟同様、司も質問をすると、構えを取った。

修悟の拳に、青白い光が宿った。

「貴方の行動を探ってたんですよ、こんな事もあろうかと思いましてね」

修悟の能力を目の当たりにした司だったが、最初こそ驚いたようだったが、あくまでも冷静に返した。

「悪魔祓い師〈エクソシスト〉か、成程〈なるほど〉確かに、厄介な能力だ、だが相手に取って不足は無い、さあ、かかって来るがいい、返り討ちにしてくれる」

二人は激突した。

「ーーーってな事があってね」

話の最後を、修悟はそう言って締め括〈くく〉った。

「それであんなに怪我〈けが〉してたんだ」

千代は納得した。

それからハッと気がついて、喋った。

「じゃ、私を狙ってるのって」

言葉の続きを暗示するように、修悟は頷いて、この言葉を口にした。

「恐らくね」

予想が確信に変わり、千代は言葉を声に出した。

「やっぱりそうか、なんとなくそんな気はしてたけど」

そして更にこう続けた。

「でも、それでなんで殺されなきゃなんないの?」

修悟が答えた。

「そうしないと生きていけないからさ」

意味慎重な言葉に理解が出来ず、千代は加えて質問をした。

「え?どういう事?」

修悟は噛み砕くように丁寧な説明をした。

「吸血鬼は知ってる?」

千代は答えた。

「うん、昔、テレビアニメか何かで見たことがあったと思うけど」

修悟が続けて訊いた。

「それならヴァンパイアは分かるね?」

千代も続けて答えた。

「うん、確か、西洋の妖怪で、夜になると変身するのよね、耳が尖〈とが〉ってて、口が耳まで裂〈さ〉けてて、蝙蝠〈こうもり〉みたいな翼を持ってて、大きな牙〈きば〉も生やしてて、よく女性が狙われてて、その血を吸うのよね、で、大蒜〈にんにく〉と十字架、それと太陽の光が苦手なんじゃなかったっけ」

千代の返答に修悟は頷くと、付け加えるように、こう声に出した。

「そして、不老不死」

修悟は続けた。

「だけれど、それはもう、昔の話、加賀美家にはこんな言い伝えがある」

そう言うと、修悟が話し出した。

「古い時代、一体の吸血鬼が西洋文化の来訪と共に、日本に降り立った、貿易の商談が上手く纏まった礼として、殿様の計らいで接待を受けに城へ行くと、奉公に来ていた娘子〈むすめご〉達が、給仕〈きゅうじ〉の仕事を甲斐甲斐し〈かいがい〉しく、働いていた、酌〈しゃく〉をする為、一人の娘子が吸血鬼の側〈そば〉に寄って来たのを見て、吸血鬼は眼と心を奪われた、娘子も吸血鬼に惹かれて行った、二人が恋に落ちるのに、そう時間はかからなかった、娘子の両親の反対を押し切って、二人は駆け落ちした、それから二人の間には子供が産まれた、子供は大人になり、その子供を産んだ、その子供もまた結婚して、尊〈とうと〉い生命〈いのち〉を授かった、そしてその子供も愛の結晶を宿した、こうして吸血鬼の家系は子孫を繁栄して行った」

感想を言うように、千代は言葉を述べた。

「聞こえは随分〈ずいぶん〉ロマンチックだけど、宗教信者の人からしたら、物騒〈ぶっそう〉な話ね」

修悟が共感した。

「僕もそう思う」

続きを修悟は話し出した。

「だけど、この伝承には問題があったんだ、人間と交わる事で吸血鬼の家系は、大蒜の臭いや太陽の光に、ある程度ではあるけれど、強くなって行った、一方で人間の血が混じった子孫は、人間の血が入ってるからなのか、正体を知られてしまうと、正体が分かっている人間の血だけ、不味〈まず〉くて吸えなくなっていた、でも、その人間が生きてなかった場合は、他の人間と同様に血を吸う事が出来る」

千代が口を挟んだ。

「じゃあ、私を殺そうとしている理由って」

修悟が頷いた。

「そういう事」

千代は納得すると次の通りに、訊いた。

「で、黒羽先生がその血を引く、生き残りなのね?」

質問された修悟は、答えた。

「うん、十中八九、間違い無い」

「成程ね、これで家を襲った犯人が黒羽先生なら、殆ど〈ほとんど〉の謎が解〈と〉けるわ」

腑〈ふ〉に落ちたような表情を浮かべながら喋る千代に、修悟が訊ねた。

「まだ何か、分からない事があるの?」

千代が答えて、返した。

「一つ謎が残ってるわ、貴方〈あなた〉よ」

更に〈さらに〉修悟は訊いた。

「僕?」

千代は返答を口にした。

「そうよ、手から光を出したり、吸血鬼の使い魔やっつけたり、敵についての情報に詳しかったり、私を守ってくれたり、一体、何者?」

修悟に迫るように、千代は質問した。

「ああ、そうか」

合点〈がてん〉の行ったような口調〈くちょう〉で修悟は返すと、こう言ってからまた、話を始めた。

「じゃあ、その謎についても話すね、その昔、天上には神様が暮らす世界があると言われて来た、そして神様には天使が仕〈つか〉えていた、しかし、神様が人間を可愛がるあまり、それを快く思わない天使が、神様に反逆を起こした、だが神様を慕う〈したう〉天使達が迎え撃ち、刃向かった天使は倒され、地上へと追放されてしまった、協力した天使達もいて同様の罰〈ばつ〉を受けた、その中の天使が地上で暮らす人間と出会う、そして二人の間に子供が産まれた、子供は親譲り〈ゆずり〉の力を授かっていた、その力を狙って来る邪〈よこしま〉な輩〈やから〉から、慈しむ〈いつくしむ〉者達を守る為、悪魔祓い師は誕生した、これが僕の家系の始まり」

聞いた千代は納得した。

「成程、そうだったのね」

話を自分なりに理解している千代に、修悟は話しかけた。

「さあ、これでもう、謎は解けたかな?」

千代が訊き返した。

「加賀美君や黒羽先生を誕生させる、事の発端〈ほったん〉となった天使や吸血鬼はどうなったの?」

修悟から答えが返って来た。

「残念だけど、そこまでは僕にも分からないんだ、天使は世間的には亡くなった事になってて、市役所で調べてみても消息不明で、詳しい足取りが分からないし、吸血鬼は他人の家系だから、警察の人間でもない限りは、調べようが無いんだ」

それを聞いた千代は、残念そうに一言、こう返した。

「そっか」

修悟はいたたまれない気持ちになった。

力無く修悟は謝った。

「ごめんね……」

その声には申し訳(わけ)無さが込められていた。

「ううん、気にしないで、って言うか、こっちこそごめんね、難しい事訊いて」

修悟を気遣う〈きづかう〉ように、千代は言葉を声に出した。

修悟も千代を気遣うような言葉を、口にした。

「いやいや、君の方こそ、気にするような事じゃないよ」

そう言われて千代は素直に頷き、感謝の言葉を述べた。

「うん、ありがとう」

千代は救われた気持ちになった。

「でも、分かってはいるけど」

と、千代が言葉を発〈はっ〉した。

「やっぱり」

修悟もそれに続いた。

『考えちゃうよね』

二つの声が揃った。

「はぁ……」

溜め息が、二人の口から同時に出た。

二人は歩きながら、他にルーツを辿れる方法が無いか、考え始めた。

「まず、月並みな意見だけど、図書館はどう?」

千代の提案に、修悟は答えた。

「残念だけど、さっき赤井さんが言ったような特徴の吸血鬼しか、書物〈しょもつ〉に載ってなかったよ」

そう訊いて、千代はがっかりした。

「なんだ、そうなの」

また考えながら歩いていると、次の案を千代が出した。

「教会に行って、神父さんに訊いてみたらいいんじゃない?神様や魔物に通じている仕事をしている人なら、何か知っているかも」

再び修悟は答えた。

「それが、どの教会の神父さんも口を揃〈そろ〉えたように、みんな〝知らない〟か〝分からない〟と答えるばかりでね」

千代が食い下がった。

「そんなあ、何か隠してるんじゃないの?」

修悟は、千代の質問を否定した。

「いや、誰一人として、有力な情報を持ってない感じだった」

それを聞くと、千代はまた考えて、次にこんな提案をした。

「言い伝えの出所〈でどころ〉を家族から訊〈き〉いて、探〈さぐ〉ってみるのは?」

修悟から、こんな返答〈へんとう〉が来た。

「うん、訊いたんだけど、両親も兄達も亡くなった祖母から聞いてて、祖母もそのまたお祖母〈ばあ〉ちゃんから聞かされたって、亡くなる前に言ってたから、分からず終い〈じまい〉なんだ」

千代は喋った。

「ん~じゃあ、他に調べる方法は……」

そう言いかけた形で言葉を切ると、千代は考え出した。

「図書館も駄目、教会も駄目、市役所、は、調べられないし」

ブツブツと、独り言を呟いた後、頭を搔き毟り〈かきむしり〉、声を上げた。

「あーもう、全然思いつかない」

話題の内容を変えるように、修悟が話しかけた。

「それじゃあ、調査の話は置いといて、学校に潜入する件の打ち合わせをしようか」

千代が訊ね〈たずね〉た。

「打ち合わせ?」

修悟は頷いて、説明をした。

「うん、待ち合わせの時間と場所を、決めておこうと思って」

それを聞いて千代が、納得した。

「確かにその方が、良〈い〉いかもね」

千代の言葉を聞いた、修悟が返した。

「でしょ?それで、今夜七時に校舎前でどう?」

返事を求める修悟に、千代は了解した。

「OK、それで良いよ」

修悟が纏めた。

「決まりだね」

千代の声に緊張が籠もった〈こもった〉。

「もうすぐ、先生から真相が聞けるのね」

気を鎮める〈しずめる〉ように、千代は深呼吸をした。

すると、そんな千代の直感が働いた。

「……ん?」

不思議に思った、修悟が訊ねた。

「どうしたの?」

千代はすぐに答えなかった。

そして、さっき言った自分の言葉を、思い返した。

(先生?真相?聞ける?)

「そうか、それよ」

と、何か閃いた〈ひらめいた〉らしく、千代が声を出した。

「え?」

引き続き、不思議そうな顔をして、修悟が訊ねた。

「分からないなら、直接訊けばいいのよ」

此処〈ここ〉で漸く〈ようやく〉千代は返答した。

「どう言う事?」

言葉の意味が分からず、更に修悟が訊いた。

「つまり、学校に突入する際〈さい〉、先生に訊こうって事」

噛み砕かれた説明を受けて、修悟は理解した。

「ああ、成程……って、え!?」

その直後に驚きの声を出した。

思いがけない言葉を耳にしたらしい。

「あら、いざとなったら守ってくれるんでしょ?」

平然と千代は確認した。

「え?あ、うん」

修悟が答えると、もう一つ千代は訊いた。

「加賀美君だって、吸血鬼のルーツについて、知りたいでしょ?」

続けて修悟は答えた。

「そりゃあ……」

その続きを容易に想像出来た千代は、次の言葉を声に出した。

「なら、決まりね、うん、決定」

修悟に断わる理由は無かった。

「はは……おっと」

乾いた笑いを漏らすと、修悟は止まった。

千代もストップした。

「あ、着いちゃった」

そんな声を出した。

二人が止まったその先には、一軒の家があった。

赤井家のものだった。

「それじゃ、また今夜改めて」

そう言う修悟に、千代もこう言って返した。

「うん、後でね」

二人は別れて行った。

「ただいま」

取っ手に手を掛けて、ドアを開けた。

中に入って挨拶をし、ドアを閉めると、三人の兄達が出迎えた。

「おー、お帰りー」

リビングのソファに座って、テレビを見ながら、首だけを動かし、声をかけた三男、修三。

「ん、お帰りー」

別なソファに寝っ転がって、漫画を読みながら、片手を挙げ、挨拶を返した、次男、修二。

「よう、お帰りー」

キッチンで鍋を使って、何かを煮込み、夕食を作っている長男、修一。

加賀美四兄弟が此処に揃った。

料理の匂いが、鼻をついた。

献立を考えた修一を除く、三人は思った。

(今夜はビーフシチューだ)

〝当たり〟のメニューに、三人は小さくガッツポーズをした。

「いつもよりも時間がかかったな」

修一が修悟に話しかけた。

「うん、女の子を送って来たからね」

修悟がそう言って返した。

「ふうん」

ニヤニヤしながら、修三が喋った。

「女の子をねえ」

修二もそれに続いた。

「な、何さ」

意地悪な笑みを浮かべながら話して来る兄達に、修悟はたじろいだ。

「まさか、彼女が出来たとは思わなかったな」

そう言って修一が、修悟の首に腕を周した。

「そ、そんなんじゃないよ」

慌てて修悟は抵抗した。

「またまたー」

修三が返した。

「隠すなって」

修二もしつこく、修悟に迫った。

「本当だって」

修悟は言い返した。

「そのポケットに入ってるお菓子も、女の子からのプレゼントだろう?」

ポケットを指さして、修二が憶測を口にした。

「違うよ、これは別な女の子から貰ったんだ、」

言い終えた瞬間、修悟は口を滑らせた事に気づき、慌てて両手で塞〈ふさ〉ぎ、噤〈つぐ〉んだ。

「へーえ、別な女の子からねえ」

楽しそうに修三が言葉を、口にした。

「ヒューッモテるねえ、修悟君」

口笛を吹きながら、修二が冷やかした。

「いっいいじゃないか別に、女子から施し〈ほどこし〉を受け取ったって」

修悟が反論した。

「なかなかやるねえ、修悟君」

修三も修悟をからかった。

「何だよ、二人して、修一兄さん、何か言ってよ」

修悟が修一に話を振った。

「はいはい、三人共、じゃれ合うのはそのくらいにして、そのお菓子をみんなで頂くとしようか、修悟、いいだろ?」

三人のやりとりを丸く収めると、修一は修悟に、クッキーを食〈しょく〉す了承を求めた。

「それは勿論〈もちろん〉、喜んで」

修悟は快く承諾〈しょうだく〉すると、ポケットからクッキーの入った包み〈つつみ〉を取り出し、リボンを解いて〈ほどいて〉、テーブルに広げた。

「わあ、美味し〈おいし〉そう」

綺麗な焼き目の着いたクッキーを見て、修三が喋った。

「早く食べようぜ」

修二が急かした。

「それじゃあ、手を合わせて」

IHクッキングヒーターのスイッチを切って、最後に席へ着いた修一の掛け声を合図に、四人は声を揃えた。

『いただきます』

四人はクッキーを食べ始めた。

「うん、美味い〈うまい〉」

修一が味の感想を述べた。

「うん、良い味」

修三も続いた。

「お、イケる」

と、修二。

「美味しい」

修悟も食べた感想を口にした。

四人がクッキーに夢中になっていた時だった。

トゥルルル。

音がした。

玄関から聞こえて来る。

「修悟、出ろ」

修二が命じた。

「はーい」

不服そうな声で返事をすると、修悟は席を立った。

玄関に行ってみると、固定電話がけたたましく鳴っていた。

修悟は受話器を手に取った。

「はい、もしもし」

電話から聞こえたのは、こんな言葉だった。

「もしもし、私、来栖と申しますが、加賀美君、いらっしゃいますか?」

聞き覚えのある声だった。

真歩だ。

修悟が返した。

「来栖さん?どうしたの?」

真歩が答えた。

「クッキー食べたかなと思って」

修悟が話した。

「うん、今、家族で食べてるよ」

真歩が訊ねた。

「そう、お味は如何〈いかが〉かしら?」

修悟が答えた。

「うん、とても美味しいよ、ありがとう」

その時だった。

真歩が思いがけない言葉を口にした。

「それはよかったわ、じゃあ後は死ぬだけね」

修悟が訊き返した瞬間〈とき〉だった。

「え?……うっ」

修悟を突然の吐き気が襲った。

「ふふふ、どうやら始まったみたいね」

嬉しそうに真歩が喋った。

「どういう、事」

苦しそうに修悟が返した。

「残念だったわね、そのクッキーにはトリカブトの毒が入っていたのよ」

真歩が話した。

「どう、して、こんな事」

更に修悟は訊いた。

真歩は答えなかった。

「ふふふ、さあ、もっと苦しみなさい」

そう言った後、真歩はこう口にした。

「赤井千代さんも死んだ事だし、これで黒羽先生が喜ぶわ」

(!……しまった)

修悟は千代にクッキーを渡した事を思い出した。

毒入りクッキーを千代に渡した事、そして自らもそのクッキーを食べた事。

二つの失態を犯した事に、修悟は不覚を覚えた。

「くっ……」

修悟は通話を切った。

(そうだ、兄さん達)

吐き気を堪え〈こらえ〉ながら、修悟はキッチンに戻った。

三人共、十字架を握り締めながら、ぐったりと、テーブルに突っ伏して〈つっぷして〉いた。

「兄、さん、達、大、丈夫?」

修悟の問いに三人は答えた。

「危ない所だった」

そう言ったのは修一だった。

「助かった」

と、修三。

「九死に一生を得たぜ」

修二もそれに続いた。

「誰か、十字架、貸して」

壁に手を掛け、身体〈からだ〉を支えて、修悟は三人に頼んだ。

「お前のはどうした?」

調子の戻っていない声で、修一が訊いた。

「どっか、に、落と、した」

修悟が答えると、次に口を開いた〈ひらいた〉のは、修二だった。

「仕方ねーな、ほら」

修一同様、気力の無い声でそう言うと、十字架を放り投げた。

「ありがとう」

上手く〈うまく〉キャッチして礼を述べると、修悟は両手で十字架を握り、気を集中させて、祈りを捧げた〈ささげた〉。

白い光が身体を包み、癒して行く。

苦しさが消えて行く。

光が消えると、修悟は眼を開けた。

浄化が終わったようだ。

「ふう、治った」

身体の不調から立ち直ると、修悟は再び、受話器を手に取った。

押した番号は、一一九だ。

伝えた行き先は、千代の住所だった。

受話器を置くと、修悟は三人の兄達〈たち〉に千代の家に行くと伝え、応援されながら道を急いだ。

赤井家に到着すると、一台の救急車が側〈そば〉に止まっていた。

「ハァ、ハァ、ハァ、ふう」

乱れた息を整えていると、家の中から救急隊員達が、千代を担架に乗せて、運んで来た。

両親も出て来た。

その時だった。

「うわっと」

救急隊員の一人が声を出した。

躓いて〈つまずいて〉、バランスを崩したのだ。

なんとか態勢を立て直すと、その拍子に担架ごと、千代の身体が揺れた、時だった。

「ケホッ」

千代が咳込んだ。

そして、口の中から、クッキーの欠片〈かけら〉が出て来た。

「う……ん」

少し唸って千代は眼を開けた。

「!赤井さん、分かる?」

それに気づいた、修悟は駆け寄り、声をかけた。

「加賀美君?私、どうしたの?」

言いながら、上体を起こした。

救急隊員達は慌てて、担架を下ろした。

「大丈夫?気分はどう?何とも〈なんとも〉無い?」

千代の身体の具合いが心配になった、修悟が訊ねた。

「私、そうだ、クッキーを食べてたら、突然苦しくなって、それから意識が遠くなって」

思い出しながら、千代は答えた。

「クッキーを喉〈のど〉に詰まらせただけのようだね、毒に当たってなくてよかった」

修悟は安心した声を出した。

無事に意識を取り戻した千代と、修悟を残して、救急車は去って行った。

両親は千代が気を利かせて、言われた通り、家の中に入って行った。

「嘘!?あのクッキー、毒入りだったの!?」

事情を修悟から聞いた千代は、驚きの声を出した。

「毒が体内に入って行かなかった事が、不幸中の幸い〈さいわい〉だったね」

力無く修悟は喋った。

「でも、何で〈なんで〉、来栖さんがそんな事を?」

千代の問いに修悟が答えた。

「怨恨〈えんこん〉の線じゃないんだとすると、考えられるのは、彼女を陰で操っている何者かの仕業なのかもしれないね」

続けて千代が訊いた。

「これも黒羽先生の仕業だって事?」

頷くと、念を押すように修悟は答えた。

「あくまで可能性の話だけどね」

聞くと千代は返した。

「でも、信憑性あるんでしょ?」

訊ねられて修悟は次の言葉を喋った。

「まあね、そういう事だから、そろそろ行こうか」

千代が訊いた。

「行くって何処に?」

平然として、修悟は答えた。

「何処って学校に」

千代が納得したような返事をした。

「あ、そうかって、もうそんな時間!?」

と、スマホで時間を確認した。

「そうだよ、さあ、行こう」

修悟が一緒に出かけるように、促した〈うながした〉。

「ち、ちょっと待ってて」

そう言うと千代は、家の中に引っ込んだ。

一、二分待つと出て来た。

「お待たせ、それじゃ行きましょ」

どうやら、両親に出かける旨を伝えに行って来たらしい。

「うん」

修悟が頷くと、千代は先陣切って歩き出した。

「そう言えば打ち合わせ、無駄になっちゃったね」

千代が話を切り出した。

「え?ああ、うん、でも、先生が怪しいっていう話が出来たから、僕は気にしてないよ」

修悟の言葉を聞いて、千代が返した。

「んーそれもそうね」

と、思い直した。

今度は修悟が質問という形で、言葉を連ねた〈つらねた〉。

「ところで、学校の何処から入るのか、場所は決めてある?」

千代は答えた。

「うん、昼間、掃除の時間にこっそり、美術室の窓の鍵を開けておいた」

その言葉を聞いて、修悟は不安を一つ失くした。

「それなら大丈夫だね」

千代が足を止めて、胸を押さえた。

「うー、ドキドキする」

聞いた修悟が問いかけた。

「緊張してる?」

千代は答えると、訊き返した。

「そりゃあね、加賀美君は緊張してないの?」

訊ねると、修悟が千代の手を握って来た。

修悟の鼓動が千代にも、伝わって来た。

「これでも落ち着いてるって言える?」

困ったように笑いながら、修悟は答えの分かりきった質問をした。

二人は無口になった。

沈黙を破ったのは、修悟だった。

「行こうか」

千代が頷いた。

手は繋がれたまま、二人は歩いて行った。

その様子を一部始終見ていた人物がいた。

その人物は千代と修悟、二人の行動が映し出された、ビー玉サイズの水晶玉を怒りに任せて握り締めた。

「またもや、しくじったか」

悔しそうに、吐き捨〈す〉てた。

「まあ、いい、向こうからやって来てくれるとは、こちらにとって、好都合〈こうつごう〉だ、俺自ら直接手を下してくれる」

満月を見上げながら誓うように言うと、捲って〈めくって〉いたカーテンを離した。

千代と修悟の二人は、一歩一歩着実に学校に近づいて行った。

二人を殺そうと狙う人物もまた、千代と修悟の到着を待ち構えていた。

決着の時が刻々と迫っていた。

二十、十九、十八……十三、十二、十一、十、九、八……五、四、三、二、一、そして。

「着いたよ」

修悟の言葉に、千代が頷いた。

「うん」

握られた手に力が籠る。

「心の準備はいい?」

修悟のこの問いにも、千代は頷いた。

「う、うん」

今度は自信が無さげだった。

「行こうか」

修悟が誘いをかけた。

「う、うん」

千代は生唾〈なまつば〉を飲み込んだ。

二人は美術室に外から周り込んだ。

千代の言う通り、窓の鍵が開いていた。

修悟が先に入り、千代を引っ張り上げて中に入れた。

明かりを点けようと千代が動こうとした、その時だった。

突然、真っ暗だった美術室が明るくなった。

「よお、待ってたぜ」

聞こえて来た声に、二人は向き直った。

二人の眼の前にいたのは、養護教諭、黒羽司だった。

「会いたかったぜ、お二人さん」

そう話す司に言葉を返したのは千代だった。

「今まで私達の事を襲わせて、事件を起こしていたのは、先生なんですか?」

司は口元を緩ませて、答えた。

「ああ、その通りだ」

千代の口から言葉が漏れた。

「やっぱり」

今度は修悟が質問した。

「赤井さんを狙うのは、血を吸っている所を見られたからですか?」

引き続き、司が答えた。

「そうだ、正体を知られる程、血を吸える奴がいなくなるからな、腹は減らないが、生気が飢えちまう

千代が司を呼ぶように、声を出した。

「先生……」

修悟が千代を隠すように、前に立ちはだかった。

「貴方の思うようにはさせません」

手袋を嵌め、拳に青白い気を纏わせた。

「望む所だ、かかって来い」

司もドス黒いオーラを纏った。

立ち尽くしている千代を見て、修悟が声をかけた。

「赤井さんは下がってて」

二つの気流がぶつかり合った。

ガアアアン。

ガアアアン。

ガアアアン。

衝撃音が室内に響いた。

何度か同じ攻撃が繰り返されたが、二人共互いに一歩も退〈ひ〉かない様子だ。

その行く末を千代は見守っていた。

「くっ、もう一つ訊きたいのですが」

そう修悟が司に、話しかけた。

「ぐっ、何だ?」

司が訊ねた。

「貴方達、黒羽家の先祖であり、家系の始まりとなった吸血鬼は今、何処に?」

司の答えはこうだった。

「知らねーな」

修悟が声を荒らげた。

「嘘をつかないで下さい!」

司が反論した。

「知るもんか!身元を洗ってみたが、死亡扱いになっていた、それ以外の出所は不明だった、それだけだ」

千代が割って入った。

「嘘をついてる眼じゃないわ、信じましょう」

そう言う千代に、修悟は声をかけた。

「赤井さん」

千代は返事をした。

「何?」

修悟は答えた。

「きっと、君の為に勝ってみせる、だから、この戦いが終わったら、僕と付き合って欲しい」

千代は驚いて、眼を見開いた〈みひらいた〉。

「え……」

思わず声を漏らした。

それを聞いていた司が、横から口を出した。

「おーっと、抜け駆け〈ぬけがけ〉は無しだぜ、赤井」

千代は司にも返事をした。

「は、はい!」

司が続けた。

「俺もお前の事が気になってた、この戦いが終わったら、俺の嫁になってくれ」

聞いた千代から、声が出た。

「はい?」

更に司は続けた。

「俺と結婚すれば、吸血鬼の家族になる訳だから、殺されなくて済むぞ」

千代が動揺した。

「う……」

聞いていた修悟が、攻撃を仕掛けた。

「赤井さんは渡さない!」

司は攻撃を受け止めると、修悟を弾き〈はじき〉飛ばした。

「くっ」

修悟から声が上がった。

司が返した。

「その台詞〈せりふ〉、そっくりそのまま返す」

修悟は声を上げて、司に立ち向かった。

「はあああああ」

司も修悟に飛びかかった。

「おらあああああ」

二つの力が再びぶつかった、その時だった。

千代の視界が暗転した。

千代が眼を覚ますと、二つの顔が視界に入った。

「う……ん」

見覚えのある部屋だ。

千代の部屋だった。

「よかった、気がついて」

修悟が口を開いた。

「ああ」

と、司も同意した。

「覚えてる?戦いの途中で気を失って倒れたの」

修悟が言うと、キョトンとして、千代は訊いた。

「そうなの?」

修悟が答えた。

「そうだよ」

千代が呪文を唱えるように、言葉を繰り返した。

「そう、そうだったの」

自分で言ってて、千代は気づいた。

「そうだ、勝負はどうなったの?」

慌てて身体を起こすが、目眩〈めまい〉がして再びベッドに、身体を預けた。

「まだ寝てろ」

千代の身体を司が気遣った。

「互いに決着がつかないまま中断」

修悟が勝負の結果を教えた。

「そんな、もしかして私のせい?」

思い詰めるような言葉を、千代は口にした。

「いや、それは無い」

司が否定した。

「そうそう、気にしないで」

修悟が同意した。

「ありがとう、そう言って貰えて助かります」

千代は胸を撫で下ろした。

「じゃ、長居するのもなんだから、俺、帰るわ」

司の言葉に修悟が続いた。

「僕も」

千代がこう言って、二人を見送った。

「そうですか、気をつけて」

司が千代に挨拶をした。

「ああ、それじゃ、また明日」

修悟もそれに続いた。

「また明日」

二人は千代に背を向けると、歩き出した。

「この次は負けませんよ」

修悟の話しかけた言葉に、司も返した。

「ふん、お互い様だ」

二人は言い合いをしながら、部屋を出て行った。

下の階で両親と二、三会話を交わしたかと思うと、何回か鳴った二つの靴音と、ドアの閉まる音が、玄関から聞こえた。

千代は入浴を済ませると、母親に用意された、遅めの夕食を摂り、後片付けを終えた後、部屋に戻って再び床に着いた。

そして夜は更けて行った。

次の日。

「千代、そろそろ行きなさい、遅刻するわよ」

母親から急〈せ〉かされるようにして、千代は返事と挨拶をしながら、家を出た。

昨日の事があったから、母親に休養を薦められたが、断った。

「はーい、行って来まーす」

千代がドアを閉めていると、黒のスポーツカーが家の前で止まった。

その反対側からも、赤井家に接近する一つの影があった。

この後、千代をめぐって小競り合いが始まるが、結局三人で一緒に登校する事になるまで、五秒前。

*  *  *  * * * * * * * 

「そう言えば、来栖さんどうしたかしら?」

赤信号に引っかかり、スポーツカーが停車した。

司の車の中で、千代が言った。

言われて二人はハッとした。

「確かにそうだね」

修悟が言葉を返した。

千代と修悟は、司を見た。

「な、何だよ、確かに操りはしたけど、アレは時間が経てば解ける洗脳だから大丈夫だよ」  

多少たじろぎながらも、司は喋った。

「嘘ではなさそうね」

千代が真偽〈しんぎ〉を裁いた。

「本当だって」

司が更に付け加えた。

「信じて良いんですね?」

修悟が確認した。

「ああ、勿論〈もちろん〉だ、今頃、きっと操られていた事すら忘れてる筈〈はず〉だ」

信号が青に変わった。

司がアクセルを踏むと、スポーツカーは動いた。

「っくしゅん」 

登校中、思わず立ち止まって、真歩はくしゃみをした。 

グスッ

と、鼻音を鳴らすと、再び歩き始めた。

そして、また、ぼんやりと考え出した。

あの日。

いつも通り、登校して、玄関で靴を履き替える為、下駄箱の取っ手に手を掛〈か〉けようとした時だった。

(ん?)

隙間〈すきま〉に何かが挟まっていた。

(何、これ)

手に取ってみると、黒い一通の封筒〈ふうとう〉だった。

辺りを見回し、人がいない事を確認すると、真歩は封を切って中を見た。

紫色の便箋〈びんせん〉が入っていた。

広げて黙読〈もくどく〉すると、こう書かれていた。

〝大事な話がある、昼休み屋上に来てくれ、司〟

(黒羽先生からだわ)

そう、手紙の送り主の心当たりを、想像していると、他の生徒が話しながら、登校して来るのが聞こえて来た。

「マジで!?」

「そうなんだよ、もう、超面白くてさー」

真歩は急いで手紙を封筒に入れ直すと、制服であるブレザーのポケットにしまった。

そして、何食わぬ顔で靴を履き替えると、教室に通じている階段へと向かった。

(大事な話って何だろう?)

教室に入ってからも、席に着いてからも、朝読書の時間も、LHR〈ロングホームルーム〉の間も、授業中も、真歩は手紙の事が気になり、教師の眼を盗み見ては、頻りに〈しきりに〉だが、こっそりとブレザーのポケットを触った〈さわった〉り、中を見たりしていた。

運命の昼休みがやって来た。

楽しく談笑〈だんしょう〉している賑〈にぎ〉やかな声が、教室中に湧〈わ〉いた。

そんな中、真歩は弁当を持つと、教室を後にした。

真歩には、一緒に弁当を食べる友達も仲間も相手もいなかった。

なんとなく過ごしていたら、いつの間にか一人になっていたのだ。

二階の更にその上に繋がる階段を上がって行く。

突き当りのドアを開けた。

真歩は屋上に出た。

しかし、辺りはガランとしていて、静かだった。    

「黒羽先生、いますか?」

そう問いかけながら、その姿を探した。

だが、人影すら見当たらなかった。

「忘れちゃったのかな」

一人、そう呟くと、諦〈あきら〉めたように、フウと溜め息をついた。

「仕方ない、一人で食べるか」

と言って、弁当を置いて、腰を下ろそうとした、その時だった。

「呼んだか?」

そう、声がした。

振り向くが、やはり誰もいない。

四方八方探すが姿も見当たらない。

「此処〈ここ〉だ、此処」

真後ろを向くと、入り口のドアに眼の焦点が合った。

真歩が閉め忘れて、ポッカリと口が開いたままになっていた。

「よう」

開け放たれたドアの陰から、司が現れた。

そして片手を挙げて、前述の通り挨拶をした。

「なんだ、いたんですね」

安心したように真歩が言った。

「待ってるって言っただろ」

と司が返した。

「先生もこれからお弁当ですか?」

スーパーかコンビニか分からないが、片手に提げてるレジ袋を見て、真歩は訊ねた。

「まあな、隣りいいか?」

真歩の質問に答えると、司は訊き返した。

「どうぞ」

と、司の申し出を真歩は受け入れた。

真歩の返事を聞き届けると、司は遠慮無く、隣りに腰を下ろした。

真歩は、小さな深い緑色の巾着〈きんちゃく〉袋から、ランチボックスを取り出した。

おかずの良い匂いが、食欲を唆〈そそ〉らせた。

蓋〈ふた〉を開けると、中身が玉子焼き、唐揚げ、タコさんウィンナー、ポテトサラダ、青椒肉絲〈チンジャオロース〉等〈など〉が入った、梅干しがご飯の上に乗ってる、日の丸弁当だった。

「お、美味そうじゃん」

真歩の弁当を見て、司が言った。

「えへへ、手作りなんです」

照れたように笑って言うと、真歩は訊いた。

「先生は何を食べるんですか?」

訊き返してから、司は答えた。

「俺か?俺はこれだ」

と、レジ袋から弁当のパックを取り出した。

ミニハンバーグに、ポテトフライ、人参〈にんじん〉、ブロッコリー、スパゲッティがおかずに入っていて、胡麻〈ごま〉塩がかかったご飯に、梅干しが乗っていた。

ちなみに飲み物は、真歩がスポーツドリンク、司は野菜ジュースのパックだった。

「わあ、美味しそう」

司の弁当を見て、真歩が言った。

「良いだろ、パワーランチセット」

司のからかいに、真歩はこう返した。

「いいなぁ、ハンバーグ」

それを聞いて、司は喋った。

「なんだ、食べたそうだな」

真歩が素直に、自分の気持ちを話した。

「ええ、とっても」

そうだと知ると、司は返した。

「なんなら、一口やろうか」

司の言葉を聞いて、真歩は遠慮した。

「そんな、言っただけですから」

そう聞くと、司が迫った。

「でも、食べたいんだろ?」

聞いた、真歩がたじろいだ。

「う……そう言われると」

更に司は畳み掛けた。

「一口ならいいぞ」

その言葉で真歩が表情を明るくした。

「本当ですか!?」

訊いて来た真歩に、司はこう答えた。

「百五十円な」

そう聞いて、真歩の表情が暗くなった。

「やっぱりいいです」

軽い調子で司が言った。

「冗談だ、そのおかずのどれかと交換な」

それを聞いて、真歩はホッとした表情で喋った。

「分かりました」

そこまで話を終えると、二人は弁当の蓋を開けた。そして手を合わせて、挨拶をした。

『いただきます』

だが、すぐには食べず、真歩は弁当を差し出した。

「お好きなのをどうぞ」

その言葉に司は応えた。

「それじゃ、貰うな」

と、割り箸〈わりばし〉で玉子焼きを摘〈つ〉まんで、口の中に入れた。

玉子焼きの甘みが口いっぱいに広がった。

「美味い」

驚いた表情で、司は味の感想を述べた。

「ふふっ」

それを聞いて、真歩が嬉しそうに笑った。

「来栖は料理が上手いんだな」

司の褒〈ほ〉め言葉に真歩はこう返した。

「煽〈おだ〉てても何も出ませんよ」

真歩に司が言った。

「本当の事さ、彼氏に作ったら喜ぶぞ」

嬉しそうな声で真歩が返した。

「いたら、一人で食べてませんよ、先生こそ彼女いないんですか?」

真歩の質問に司は答えた。

「気になる相手はいる」

それに真歩が飛びついた。

「え、誰ですか!?」

続けて司が答えた。

「さてな、秘密だ」

勿体〈もったい〉ぶる司の答えに、真歩は文句を言った。

「えー、教えて下さいよー」

知りたがる真歩に対して、司の答えは同じだった。

「内緒だ」

むぅ、と、零し、膨〈ふく〉れっ面〈つら〉をする

真歩の気分を替えるように、司は話を切り替えた。

「じゃ、今度は俺の番だ」

と、言うと、ハンバーグを割り箸で小さく切り分けて、摘まんで真歩に差し向けた。

「ほら、食べさせてやるから、こっち来い」

真歩は返事をした。

「あ、はい」

足を折り曲げ、膝〈ひざ〉で歩きながら、ハンバーグに近づいた、その時だった。

真歩の視界が暗転した。

気がつくと、自宅の固定電話の側〈そば〉にいた。

以上が真歩の記憶である。

思い出し終えると、真歩は溜め息をついた。

やはり、ハンバーグを食べようとした所からの記憶が無い。

その間に修悟の声が聞こえた気がするが、思い出せない。

(学校に着いたら訊いてみようか)

そう心に決めると、止めていた足を動かした。

「じゃ、また帰りにな」

校庭前で千代と修悟を降ろすと、司が言った。

「はい、ありがとうございました」

そう言って千代が頭を下げた。

「どうも」

と修悟もそれに続いた。

司が去ると、修悟が話しかけた。

「行こうか」

千代が返事をした。

「うん」

二人は歩き出した。

駐車場に車を止めると、司も歩き始めた。

真歩も歩を進めた。

四人の人物が校舎に近づいていた。

それを見守るように、頭部につけられた時計の文字盤〈もじばん〉が、刻々と時を刻んでいた。

登校時間終了の合図を告げるチャイムを鳴らすまで

後、数十分。


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彼女に恋した吸血鬼〜ちらりと覗いただけなのに〜 高樫玲琉〈たかがしれいる〉 @au08057406264

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