キラキラ

与野高校文芸部

キラキラ

 ――ずっとずっと、遠く。

「おーい!」

 ……それはきっと、本当は近くて。

「おーい」

 ――いつだって、僕らは。

「ばーか」

 何度も、何度も。

「ばーか!」



「ねえ、お兄ちゃん。どうして海には波があるの?」

「うーん」

 しつこくて離れない、夏の暑さ。

「クジラとか、サメとか、そういうのが遠くで泳いでるから」

「へー」

 本当と噓の間。気づかれないように通り抜ける「それっぽさ」。

「サメって、どのぐらいおっきいの?」

「うーん、あれ。あのマンションぐらい」

「どれ?」

 指を指す気力がなく、ただ一瞬、腕を揺らすようにして彼にマンションの方向を教えた。

 マンションの隣に見える太陽の眩しさが、鬱陶しくて仕方がなかった。

「おっきいね」

「ね」

 噓。あんなに大きいわけがない。いいや、もしかしたら、本当だったりして。

 ああ、暑い。同じ空の下で、どうしてこの子はこんなにも。

 太陽のかけらだと言われても納得してしまうほど、元気で、熱くて、そして……

「お兄ちゃん、ぼく、海行きたい」

「後でね」

「やったー!」

「あー、違う、今度ね」

 僕にはない、眩しさが――


 海。最後に行ったのはいつだろう。

 横になったままスマホに手を伸ばし、ロックを解除する。海、とただ検索しようとしたところで、親指が動かなくなる。

「はあ」

 午後二時三十四分、ため息をつく。

 少し、眠たい。


 午後五時十二分、目をこする。

 自分の部屋のカーペットの上で、汗をかいて眠っていた自分の姿を思い浮かべる。あまりにも滑稽だ。

 冷たい飲み物が飲みたくなって、体を起こし、財布の中身を見る。

 十分に入っている。

 財布と鍵を持って、リビングに向かう。

 廊下は暗くて、まるで時間が流れない写真のようで、ただ、暑い。

「マコト、コーラ飲む?」

「うん」

「じゃあ、今から買ってくるから」

「うん」

 彼はこちらと目を合わせず、まるで機械のように返事を繰り返す。その目に映るのは、僕がもうやらなくなって譲ったゲーム。止まっていたゲームの中の時間が、彼によって再び動き出したような。そんな気がして、どこか安心する。

 サンダルを履いて、ドアを開ける。

「暑い……」

 小さな呟きは、また、どこにも届かず溶けていく。


「はい、コーラ」

「ありがと」

 彼はゲーム機を机に置いて、それを飲む。

 二口ほど飲んでから、彼は口を開いた。

「ねえ、いつ海行くの?」

「え、あー」

「あとで、って言ったじゃん」

「うーん、え、あー……」

 何がきっかけで、そこまで海に興味を持ったのだろう。

 コーラが喉を流れる。少し経って、もう一度。

「行かないの?」

 今にも崩れてしまいそうな、震えた声。

「……明日行こう。ごめん」

「やったー!」

 またこうして、太陽に負けてしまう。

 濃い茶色で、パチパチしたコーラ。それは、海じゃない。

 窓から見える、青い空。それもまた、海じゃない。

 海とは、何だろう。そこには、何があるんだろう。


「サメ、返事しろ!」

 電車で二時間ほど。少しだけマップのアプリを見て、無事に辿り着いた。

 実際にこの目で見る海は、ただただ広くて、何もない。

「サメー!」

 彼は、海に向かってそう叫ぶ。サメなんて、もっと深い場所に行かないと会えないだろうに。

「お兄ちゃん、海に入ってもいい?」

「え、ダメ」

「なんで?」

「毒があるクラゲとか、いるから」

「そうなの?」

 いない。ただ、ここで彼が濡れることになると、後々面倒になると思った。

 元々海に入る予定はなく、水着など着てすらいない。海を見るためだけに来たのだ。

 ――クラゲ。また一つ、海へと「それっぽさ」を託す。いいや、もはやこれは、ただの噓ではないか。

「あの人たち、入ってるよ。危なくないの?」

「あれはほら、そう、バリア」

「バリア?」

「あの人たちは、バリア使えるから」

 海に入っている人の集まりに目を向ける。何の変哲もない、一般人だ。

「えー、僕は?」

「十七歳とかになんないと、使えないよ」

「じゃあ、お兄ちゃんは?」

「使えるよ。余裕」

「へー!」

 彼の輝いた目は、あの海を映しているようには見えなかった。


 海。それは、広くて、大きくて。波があって、音を立てて。それ以上でも、それ以下でもなかった。

 不思議なものだ。

 僕は、海を知らない。あまりにも知らない。そんなこと、彼に波について問われた時から自覚していた。

 海が嫌いだ。まるで、僕から全てを隠しているように思えるから。

 どうして、彼は海に興味を持ったのだろう。

 彼は――海を知っているのだろうか。

 カラカラ。カラカラ。ピンポン。カラカラ。お兄ちゃん。カラカラ。

 カラカラ――

「お兄ちゃん」

「え」

「言って」

「あ、えっと、ハンバーグと……いや、ハンバーグを二つ」

 僕らは、海から少し離れた場所にあるレストランに入った。

 海と手を繋ぐように。あるいは、海から逃げるようにして。

「マコト、海どうだった?」

「まだサメ見つけてないよ」

「え、見つけたいの?」

「だって波おっきかったよ。おっきいサメいるよ」

「え、あー、え」

 ああ、そうなんだ。

 彼の知る海は、「そう」なんだ。

「サメ探そ」

「い、いるかな」

「お兄ちゃん、バリア使って探してきて!」

「ば、バリア」

「うん」

 海を見ていた時と同じように目を輝かせて、そう言った。

 ……今になって、ようやく気付くことができた。

 彼の知る海は、僕がついた噓でできている。

「ご飯食べたら、行こ!」

「……うーん」


 また一つ。許してもらえるだろうか。

 海のせいにして、僕は、逃げてしまいたい。

 何も感じなかった、波の音。それがうるさくて仕方ない。

 ああ。

 こんなこと、考えたこともなかった。

 ――許すだなんて、誰が決めるのだろう。

 それもまた、海なのだとしたら。

 やはり僕は、海が嫌いだ。

「暑いな――」

「お兄ちゃん! 波、おっきい!」

「うん」

「行ってきて」

 水着を着ていないのは、僕だって同じだ。

 濡れたくない。面倒だから。

 いっそのこと、海の方がこちらへと来てくれれば、仕方ない、の一言で上書きできるような気がする。

 ――あれ。

 濡れたとしても、仕方ない、で済むのか。

 それならば、どうして僕は海に入らない?

「マコト」

「なに」

「お兄ちゃんね」

「うん」

「……めんどくさい、かも」

 これ以上、考えるのが。

 海に、考えさせられるのが。


 帰りの電車は、涼しかった。

 結局僕らは、海に入ることなく、帰ることにした。

 海は、僕の心を揺さぶり続けた。

 なんでもない。それなのに、嫌い。小さな音なのに、うるさくて。

 思えば、ここまで心を動かされたのは、久しぶりだ。

 淡々とした夢を見て、カーペットの上に横になって。冷たい飲み物を飲んで、また夢を見て。そんな、僕が僕じゃなくても成り立つ日々。

 そんな日常が、僕の心を動かすことはなかった。

「ん……」

「……寝てていいよ」

 誰かがくしゃみをした。その音で、彼は一瞬目を覚ました。

 彼は、本当は海で何をしたかったんだろう。いくら考えても分からない。

 ああ、まただ。

 海のことになると、どうしても、考えすぎてしまう。

 ふと思った。海に、どんな言葉をかけるべきだろう。「嫌い」、「うるさい」……

「いやー……」

 目を閉じて呟く。

「また来るわ……」

 眠たい。

 今日は、海の夢が見たい。


 午前九時二十五分。

 昨日の疲れを若干感じながらも、体を起こす。

 海に行ったのが噓みたいに、また、いつも通りの今日がスタートする。

 いや。

 この疲れた体が、昨日の出来事をはっきりと記憶している。

 リビングへと続く少し明るい廊下は、まるで森の中の秘密基地みたいに、ただそこに佇んでいる。

「おはよう」

「おはよう」

「お兄ちゃん、遊ぼ」

「ご飯食べてからね」

 母親が用意してくれたおにぎりを温める。

 あと、十秒。

「お兄ちゃん、見て」

「おお、すごいな」

「でしょ!」

 一秒。チン。

 彼は、ゲーム機を僕に見せて、大きな口をあけて笑う。

 眩しい笑顔に釣られて、僕の心が跳ねる。

 ――あれ。どうしてだろう。

「十二秒なんて、お兄ちゃんできないよ」

「えへへ」

 こんなこと、今までなかったのに。

 どうして、こんなにも。

 太陽が、嫌ではないんだ。

「もう一回やるから見てて」

「お、見せて」

 彼はソファに座り、僕もその隣に座った。

 ゲーム機の画面を見つめる。

 僕がそのゲームをプレイしていたのは、何年前だろう。とにかく、懐かしい。

 十二秒。それはこのゲームの中のミニゲームのクリアタイム。

 僕がそのタイムを超えることができなかったのは、事実だ。

 彼は、僕を超えていたんだ。

「ほら! できた!」

「お、でも、さっきの方が早かったね」

「もう一回やるね」

「いいよ」

 画面から目を離し、彼の横顔を見る。

 とても楽しそうだ。

「あ」

 おなかの音が鳴る。

 そういえば、おにぎりを温めて、まだ食べていなかった。


「お兄ちゃん、ちょっと出かけてくるね」

「うん」

 午前十一時七分、日の光を浴びる。

 暑い。

 昨日と同じ駅で、電車を待つ。道中で買ったコーラを飲みながら。

 体の疲れは取れていない。なのに、僕は一人で、海に会いに行こうと思ってしまっている。 

 知りたかった。彼が海で本当にしたかったことを。僕の心を揺さぶるものの正体を。

 見てみたかった。海に、あの海に、何があるのか。

 それと、もう一つ。

 波を作る大きなサメを、探しに。


 改札を出て、日の光の下を歩く。

 昨日全く同じ道を通ったため、マップのアプリを見る必要もなかった。

 暑い。だけど、その言葉を口に出しても、すぐに溶けてしまうことはもう分かっていた。

 顔を上げて、辺りを見回してみる。僕らの家の周辺とは違い、灰色で、よく光を反射するガラスでびっしりな、背の高いビルがたくさん立っている。

 どういうわけか、妙に静かで、ここには僕一人しかいないのではないか、と錯覚してしまいそうだった。

 炭酸が抜けてきたコーラを飲み干す。もう一本何かを買わないと、喉が十分に潤わない気がする。

 汗拭きシートで、顔を拭いた。ひんやりする。

 息を大きく吸う。

 歩く。

 海が見えた。

「……昨日ぶりだね」

 小さな声で、海に話しかけてみた。でも、この言葉もきっと届くことはない。

 今日も、波がある。きっとこれは、サメが――

 気付いた時には、靴下まで脱いで、海に入っていた。

 驚いた。どうして僕は今、海に入ったのだろう。

 考えるのが疲れたのだろうか。それとも、本当に海で探し物をするのだろうか。

「おーい、海、君はどう思う」

 どこにも辿り着かない自問を諦めて、海に聞いてみた。

「あ、そうだ。サメはどこにいるのか、教えてもらえるかな」

 足元を見る。

 波によって柔らかくなった砂が、僕の足を汚していた。

「これ、どうするのよ」

 海は、僕の問いかけに答えない。

 でも、じっとしているだけ、というわけではないような気がする。

 もしかしたら、海は僕の話を聞いてくれているのかもしれない。

 だとしたら。

 そうなのだとしたら、僕が海にかける言葉は――

「……ありがとう、海」

 波が、少し大きくなった気がした。

「海っていうか、ミーちゃん」

 海は不思議だ。

 僕は、海のことを知らない。好きでも、嫌いでもない気がする。

 だから、なのだろうか。知ってみたい、などと思ってしまう。

 ただただ広くて、そこまで綺麗でもなくて。だけど、海の方が僕を拒むことはない。

 優しいんだ。そう思った。

「……また明日も、来るよ。今度はさ」

 あの子を、太陽のかけらを――

「弟を、連れて来る」


 午前七時三十六分、目を覚ます。

 歩きすぎたからだろう。少し足が痛い。

 そんな足を今日も動かして、リビングに向かう。

「おはよう」

「おはよう」

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん」

 目。

 分かる。

 見たことのある輝きを放っている、目だ。

「また海行きたい!」

「はは」

 目を閉じて、答える。

「……行こう」


 もうすっかり慣れてしまったルート。電車の中で座り、窓の奥を見ていた。

「マコトはさ」

「うん」

「何で海に行きたいと思ったの」

 涼しい電車の中だから、僕の言葉は溶けずに、弟へと届く。

「うーん」

 ぶらぶらした足を見つめながら、答えた。

「楽しそうだったから」

「……あー」

 心の中で、小さく笑ってしまった。

 僕は、考えすぎていた。

 弟が海に行きたかった理由。それは単純で、ありきたりな言葉で表せる、分かりやすいものだった。

 でも。

 ――なんていえば良いんだろう。

 とっても、キラキラしているように思う。

「お兄ちゃん、サメ見つけてくるから」

 マコトの、言う通り。

 海に行くのは、楽しそうだ。


「走ろう」

「うん!」

 改札を出る。

 太陽が眩しい。

 風が吹く。

 空が青い。

 心臓の鼓動が強くなる。

 ああ。

「楽しい――」

 溶けない。溶かさせない。

 この言葉は、届けないといけない。

 マコトに。ミーちゃんに。

 そして、僕に。


「海! 久しぶり!」

「海ー」

 弟は、海の目の前まで辿り着き、大きな声で叫ぶ。

「サメー!」

 今日も波が大きい。ここにはきっと、サメがいる。

「おーい!」

「おーい」

 サメからの返事はない。

「ばーか」

「ばーか!」

 僕らの息が切れる。弟は、砂浜に腰を下ろした。

「……よし」

「お兄ちゃん、バリア忘れないでね」

「ありがとう」

 目を閉じて、息を吸う。

 僕には今、達成感のようなものがあった。

 ここまで来るのに、二日もかかってしまった。

 でも、それで良かったんじゃないかと思う。多分、一日だけじゃ、この海のキラキラに気付くことができなかっただろうから。

 泳いだことはあまりない。ゴーグルも持っていない。

 それでも僕は、サメを探しに海へと入る。

「行ってきます」

 ――

 ――……

「……」

「ぷは」

「いた?」

「や、ちょっと」

 目を開けられなかった。

「あー……」

「お兄ちゃんー!」

「うーん、あ、そうだ」

 両腕を広げて、大きく回した。海をかき混ぜるように。

「何してるの!」

「倒してる……毒クラゲ」

「!」

「ほら、全部倒した。良いよ、マコト」

「え」

「海、入ろう」

 顔を拭いて、目を開ける。

 目の前にいたのは――

「一緒に探そう、サメ」

「うん!」

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