【第五章 声の代償】
王都から北東へと続く道は、春の訪れとともにぬかるみがちだった。
その道を、ひとりの小柄な少年が歩いていた。
名はフィン。
いつもと変わらず古びた帳面を抱え、小さな肩には旅の疲れがのしかかっている。
夜明けの街道で、時折すれ違う旅人におずおずと頭を下げ、道端で野草を摘み、パンの耳で飢えをしのぐ。
王都でひっそり生きてきたフィンだったが、「声なき者たちの叫び」に引き寄せられるように、自然とこの道を歩いていた。
数日前――
フィンは王都でエリアスとリリアに出会ったあの日以来、自分の持つ“力”の意味を考え続けていた。
「語り手になれる」「君が記録した声を他者に伝えることで、その痛みは分かち合える」
その言葉が心の奥に引っかかり、だが答えを見つけられないまま、王都を離れた。
ひとつには、都市での“声”の多さに押し潰されそうになり、もうひとつには、自分の記録した痛みが誰の救いにもなっていない気がしたからだ。
歩き続けた道の先で、フィンは小さな村にたどり着いた。
北東の丘陵地帯にひっそりと存在するその村――彼は「しばらくだけ、ここで静かに過ごそう」と思った。
野宿するにはまだ寒い季節、村外れの納屋で寝床を借り、朝は村人の雑用を手伝い、夜は広場でパンの切れ端を分けてもらった。
人々は旅の子に警戒心を持ちつつも、あまり詮索しなかった。
「なぜここに来た?」と問われても、「休ませてほしいだけ」とだけ答え、やがて村人たちの会話やため息が“帳面”に静かに書き込まれていくのを感じていた。
◆ ◆ ◆
だが、村に滞在して数日が経った頃から、フィンは不思議な居心地の悪さを感じ始めていた。
夜になると、村のどこからともなくすすり泣く声が聞こえ、昼間の穏やかな顔とは裏腹に、村人たちの心には“何か”が澱のように残っているのを、帳面越しに感じ取った。
ある晩のこと――
広場の端で、老婆が火の消えた竈をじっと見つめていた。
フィンはそっと近寄り、パンの端切れを差し出した。
老婆は小さく微笑みながらも、「昔、誰か大事な人を失ったような気がする。だけど、その人の顔も、名前も思い出せないんだよ」と語った。
フィンの帳面に、その“空白の悲しみ”が新たに記される。
村の子どもたちとも言葉を交わした。
「おじさんも、お母さんも、たまに夜に泣くんだよ」
「昨日までは笑ってたのに、朝になると忘れたみたいな顔をしてる」
フィンはそのたび、胸の奥が締め付けられた。
――この村には、何か重大な“痛み”があったはずなのに、みんなそれを「忘れてしまっている」。
◆ ◆ ◆
そのうち、村に“救い”が訪れた――そう村人たちは囁きあっていた。
王都から来た若い書司の娘が、村長や老人たちと何度も話し込んでいる。
ある夜、村人たちは集会小屋に呼ばれ、なぜか理由もなく胸が重くなる中で、何か“決断”を迫られた気がした。
翌朝には村の空気が驚くほど軽くなり、笑顔も増えた――だが、フィンだけはその“軽さ”の底に巨大な影を感じていた。
その日から、村人たちの口数が減りはじめた。
フィン自身も誰とも話せなくなり、納屋の隅で帳面に手を置いて震えていた。
書き込まれる“声”の多くが、途切れ途切れで曖昧なものになり、誰の痛みなのかすら判然としなくなった。
やがて、カシアンという名の放浪者が村を訪れた。
フィンは広場の隅で彼を見かけ、その時、帳面がピリピリと疼くのを感じた。
銀の音叉を鳴らす男――彼が村に何か大きな波紋をもたらすだろうという直感があった。
そして、あの“事件”が起きた。
カシアンが村人たちの前で音叉を掲げ、忘却されたはずの“痛み”を呼び戻してしまった夜。
村人たちは再び混乱し、誰もが自分の中に何かを取り戻したように、しかしその記憶は苦しくてたまらないものだった。
広場では怒号が飛び交い、幼い子が泣き叫び、母親が“自分の子供を誰かと間違えている”と混乱する――
エラーラとカシアンが激しく対立するその只中で、フィンは納屋の片隅で帳面を抱え、激しい痛みに身を縮めていた。
混乱の夜。
広場から逃げ出したフィンは納屋に身を隠した。
帳面の中の痛みや叫びは止まることなく溢れ、彼は耳を塞いで蹲った。
「どうして僕だけが……。もう、耐えられない」
眠ろうとしても、目を閉じれば村人たちの苦しみや怒り、エラーラの涙、カシアンの叫びが心の中で木霊する。
「逃げたい、どこか遠くへ。誰にも見つからない場所へ――」
そのとき、納屋の扉がそっと開いた。
幼い少女――昼間フィンにパンの端を分けてくれた少女だった。
「……お兄ちゃん、大丈夫? 顔が怖いよ」
少女は怯えながらも小さな毛布を差し出し、フィンの隣にそっと座った。
「みんな、今夜は変だった。お母さんも泣いてた。…でも、お兄ちゃんは、昨日も誰かの声を聞いてたよね?」
フィンははっとする。
「うん……いろんな声が、勝手に聞こえてくるんだ」
「ねぇ、お兄ちゃんが私の代わりに、みんなの“痛い気持ち”を覚えてくれるなら……私、明日はちゃんと笑って過ごせるかな」
少女はそう言って、涙を堪えながらフィンの手を握った。
「――ありがとう」
その言葉に、フィンの胸の痛みが少しだけ柔らいだ。
◆ ◆ ◆
夜明け前、納屋の外から物音がした。
今度は、昼間にパンをくれた老女が、そっと戸口から覗き込む。
「坊や、ひとつ頼まれてくれないかい……。あたしは思い出したくないことばっかりだけど、何も覚えてないままだと、どうしても胸が冷たいんだよ。坊やが“覚えてくれる”なら、そのぶんあたしの心が少しだけ軽くなる気がするんだ」
そう言って、老婆はフィンに花を手渡し、ふらりと去っていった。
フィンはしばらく花を握りしめ、震えながら涙を流した。
「僕が語れば、みんなが救われる……そんなふうに思ったこと、一度もなかった。でも、誰かが頼ってくれるなら、僕にもできることがあるのかもしれない」
◆ ◆ ◆
夜明けが近づき、フィンはもう一度自分の帳面を開いた。
そこには、彼の声を頼りにしてくれる少女や老婆の姿、そして村人たちの無数の痛みが刻まれている。
そのとき、帳面の奥からまた静かな囁きが聞こえる――
「語れ。君の声を、必要とする者がいる」
今度は、フィンはゆっくりと頷いた。
「逃げない。僕が語ることで、少しでも誰かの痛みが和らぐなら、それが僕にしかできないことなら……」
彼はそっと広場へ向かう。
石段に腰かけ、夜明けの空に向かって、静かに語り始める。
「ここには消せない痛みがあった。みんなが忘れたがったけど、消えないものは“声”として残っている。
僕はこれから、その“声”を語り継いでいく……」
言葉にするたび、フィンの心は少しだけ軽くなっていった。
納屋で渡された花を胸元に差し、少女や老婆たちへの感謝を思い出しながら、彼はようやく自分の生きる意味を見つけていく。
◆ ◆ ◆
朝焼けが村を照らし始めるころ、
フィンは語り部としての最初の物語を終え、そっと帳面を胸に抱いた。
「――僕は“語り部”になる。誰かの痛みや悲しみを語ることで、この帳面の呪いとも向き合っていく。それが僕の救いであり、誰かの救いにもなるはずだから」
こうして、フィンは初めて“自分から語る”勇気を持つことができた。
それは一夜で生まれたものではなく、村での小さな絆や、頼ってくれる誰かの存在が彼に灯した静かな炎だった。
村の静寂のなかで、新しい一日が始まる。
彼の語った“声”は、これからも世界に響き続けていく――
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《沈黙の王冠》─赦しを語れぬ国の記録─ 森山 雨太 @kazuaiko
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