【第四章 対立の序曲】

朝の光が淡く村に降り注いでいた。


だが、広場に集う人々の表情は晴れやかではない。


夜明けとともに始まる日常――子どもたちの笑い声も、大人たちの談笑も、どこか空回りしている。


人々の心には言い知れぬざわめきが残っていた。


前夜の静けさとは違い、村の空気は妙な重さを帯びていた。


「どうしてか分からないが、胸の奥が冷たい」「何か大事なことを、思い出しそうで怖い」


そんな呟きが、朝露とともに漂う。


村の教会の鐘楼で、小柄な少女が一人、広場を見下ろしていた。


細身の体、青白い肌、少し長めの藍色の髪――淡い色のマントを羽織り、胸元には小さな革袋が下がっている。


少女は静かなまなざしで人々の様子を見つめ、時折、ふっと寂しそうに目を伏せた。


彼女こそ、エラーラだった。


王立書庫の書司でありながら、まだ十代のあどけなさを残す顔立ち。


どこか影の差した目には、強い決意とともに、迷いと緊張が潜んでいる。


エラーラは昨夜、村人たちの苦しみと“忘却”を見届け、祝福か呪いか定かでない“救い”をもたらした――その手段を使ったことへの葛藤に今も胸を締めつけられていた。


「……私がしたことは、本当に救いだったの?」


胸元の革袋――その中のインク壺が、かすかにぬくもりを伝える。


エラーラはゆっくりと教会を降り、村の小道へと歩き出した。


村人のひとりが、そっと話しかけてくる。「お嬢さん、昨日のこと……あなたのおかげで、楽になった気がするよ」


微笑んで礼を言いながらも、エラーラの心には曇りがあった。


---


その頃、カシアンもまた村を歩いていた。


前日に村人たちから“痛み”の気配を感じ取った彼は、朝の市場で旅人たちの話に耳を傾けていた。


「最近この村に来た若い女の子がいるらしいぞ。書司とかいう肩書きで、何か特別なものを持っているみたいだ」


「ほら、青い髪の……少し儚げな顔立ちの」


「村長の家で何度か相談している姿を見たわ」


「あの子のおかげで、婆さんが夜泣きしなくなったんだって……」


カシアンは人々の言葉の端々に、何か大きな秘密の匂いを感じていた。


「書司」「特別なもの」「救い」――そして、村に突然訪れた静けさ。


村の小道を歩いていると、彼の耳に微かな音叉の共鳴が響いた。


――確かに、あの少女だ。


遠目に見ると、エラーラが古い井戸の脇に佇み、誰かと話している。


青い髪、繊細な横顔、胸元の袋――カシアンは数歩離れたところで様子を窺う。


彼は迷いながらも声をかけた。「……失礼、少し話を聞かせてもらってもいいかな?」


エラーラは一瞬驚いたように顔を上げ、警戒心を隠しきれずに立ち止まった。


「何でしょう……」


「村で噂になっている。君が“特別な何か”を持っていると」


カシアンは少女の容姿と雰囲気、そして音叉が感じさせる“特別な共鳴”から、徐々に確信を深めていった。


「私は、王立書庫の書司です。村の方に頼まれて、少し……手助けをしただけです」


エラーラの声は控えめだが、どこか怯えた響きが混じる。


「その手助けとは――村人たちの“記憶”を消すことだったのか?」


カシアンはあえて穏やかに問いかけた。


エラーラはぎゅっと革袋を握る。「どうして……そんなことを?」


「私は真実を知りたいだけだ」


カシアンは音叉を指先で鳴らす。その音は、エラーラの奥底に隠した秘密を揺らすように響いた。


しばし、二人の間に沈黙が落ちる。


◆  ◆  ◆


小道の脇、野バラが揺れる中で、二人は並んで歩き始めた。


カシアンは遠回しに尋ね続けた。「君は、なぜそんな選択を? 村人たちに痛みを忘れさせて、どんな未来を願った?」


エラーラは歩みを止め、小さく息を吐いた。「皆が苦しんでいたんです。夜ごと泣いて、怒り合って、明日を憎んで……。私は、それを見ていられなかった」


「だが、本当に痛みを忘れることで人は救われるのか?」


「忘れなければ生きていけないこともあります。私は……両親を失った時、自分自身を救うために、このインクの力を選びました」


カシアンは少女の横顔を見つめ、「君は今、救われているのか?」と静かに問う。


エラーラは答えない。ただ目を伏せて歩いた。


二人の間に次第に熱がこもり始める。


「僕はかつて、“優しい嘘”にすがった結果、すべてを失った。だからもう、どんな小さな偽りも許せないんだ」


カシアンの声が震える。


「でも、あなたの“真実”だけが救いとは限らないでしょう? 時に、忘れることも人には必要です」


エラーラも語気を強めて応じる。


「どちらが正しいのか、僕にも分からない。ただ……この村の静けさが、本当に君の望んだものなのか――それだけが知りたい」


◆  ◆  ◆


話しながら、二人は広場に出た。


そこでは、村人たちが何とも言えぬ表情で集まり始めていた。


「……なんだか、心がざわつくの。昨日までは忘れていたのに」


「孫が、夜、夢の中で泣いていた気がする……どうしてだろう」


村人たちは互いに目を見合わせ、不安げにささやき合う。


カシアンはエラーラに向き直り、もう一度だけ問いかけた。「本当に、これが救いなのか?」


エラーラは震える声で答えた。「分からない。でも、私にはこれしかできなかった……」


そこへ、一人の老婆が泣き崩れた。「どうしても思い出せない……何か、大切なものを失った気がするのに」


村人たちの悲しみや不安が、一気に広場にあふれ出す。


◆  ◆  ◆


二人は、村人たちを見守りながら再び口を開く。


「真実を暴くだけでは、癒やせない傷もある」エラーラは涙を拭いながら言う。


「それでも、偽りのままでは本当の赦しは得られない」カシアンもまた、苦しげに呟く。


互いの言葉が、次第に熱を帯びてぶつかり合う。


エラーラはインク壺を握りしめ、「それでも私は、誰かの痛みを少しでも和らげたい」と強く言った。


カシアンは音叉を鳴らし、「君のその優しさが、人を現実から遠ざけているかもしれない」と応じた。


◆  ◆  ◆


村の空はいつしか曇り始め、冷たい風がふたりを包み込んだ。


広場の片隅で、フィンが帳面に静かに新たな“声”を書き留めていた。


その声は村人たちの痛み、赦しと真実の狭間で揺れる叫び――そして、エラーラとカシアン自身の心の揺らぎそのものだった。


物語はまた一歩、深く、苦しい岐路へと踏み込もうとしていた。


赦しと真実、そのどちらにも正解はなく、夜の帳が村を包み始めていた。


広場を包む沈黙――

村人たちの動揺と涙、エラーラとカシアンの議論が熱を帯びる最中、その場にいた全員が何かしらの“喪失”を心で感じ始めていた。


そんなとき、一人の少年が母親の手を振りほどき、カシアンとエラーラの前へ駆け寄る。

「お姉ちゃん、助けてよ! お母さんが急に、僕のことを“誰かと間違えてる”って……! お母さんは昨日まで僕の名前を呼んでくれたのに……」


その瞬間、村人たちの間に恐怖と混乱の波が一気に広がった。

「どうしてだ……私たちは、本当に家族だったのか?」

「“忘れた”はずの過去が、断片だけ戻ってきている?」

「消えた記憶が、別の形で心の奥に残っていたんだ……!」


村人たちが混乱の中、互いを問い詰め、責め合う声が広場にこだまする。

それは“忘却”が破綻しはじめ、抑えきれない痛みや罪悪感となって村全体を覆い始めた証だった。


エラーラは動揺し、何とか収めようと必死に呼びかける。

「落ち着いて! 皆さん、きっと時間が経てば……」

だが村人たちはエラーラを恐れるような目で見はじめ、

「あの子が私たちの“何か”を奪ったのか?」

「彼女が“書き換えた”せいで、家族の顔も思い出せなくなったのか?」

不安と恐怖が、次第に怒りへと変わっていく。


一方、カシアンは人々の“混乱”を目の当たりにしても、動揺せず毅然と音叉を掲げた。

「この苦しみこそが、真実だ。痛みを誤魔化す“赦し”など、偽善にすぎない!」

「君が人々の心を操作したんだ!」とエラーラを糾弾する村人も現れ、

「やめて! 私は救いたかっただけ……」

エラーラは涙ながらに訴えるが、その声はもはや届かない。


カシアンは静かに、だがはっきりと告げる。

「君の“慈悲”は、誰のためでもなかった。君自身の罪から目を逸らすためのものだ――この村をこれ以上歪めるなら、俺は君を許さない」


エラーラもついに、カシアンを睨み返して叫ぶ。

「あなたの“正義”こそ、誰も救わない! ただ傷をえぐって、世界を痛みに染めていくだけ!」


二人の声はついに広場を二分し、村人たちの間に亀裂を生む。

エラーラの“慈悲”を信じる者、カシアンの“真実”を信じる者――

広場は疑心暗鬼と憎悪の渦に呑み込まれていく。


フィンが片隅で帳面を震わせ、記録しきれないほどの“痛み”と“叫び”に顔を歪めた。


カシアンは低く呟く。

「もう二度と、君のやり方を認めるわけにはいかない――」

エラーラも同じく、

「もうあなたを絶対に赦せない……!」


そうして、二人の間に決定的な断絶が生まれる。

赦しと真実、そのどちらも正義でありながら、もはや“敵”としてしか相手を見られなくなっていた。


村に深い夜が訪れる頃、

エラーラとカシアンは互いに背を向け、決して交わることのない道を歩き始めていた。


――二人の対立は、やがて王都と世界をも巻き込む「戦いの火種」となっていく。

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