第1話 甘い匂いは幸せの予感
朝ご飯がパンケーキだった日は、その日一日がいい事づくめな気がしていた。
朝早くに目が覚めた時、甘い香りが鼻腔をくすぐると期待に胸を躍らせてベッドから降りた。窓の外の天気はご機嫌で、山向こうから太陽がのんびりと顔を出す。その光を浴びた植木鉢の植物がのびのびと葉を伸ばし、少年がベッドから降りた衝撃で楽し気に揺れた。
「おはようオレク、もう少し寝てても良かったのに。」
ウキウキとした気分でキッチンへ向かうと、そこでは母親が着慣れたエプロンを付けて朝食の準備をしている。手元のフライパンからは温かな湯気が立ち上り、そこから少年――オレクの大好きな甘い香りがしていた。
「おかあさん、それ。」
「ええ、あなたの大好きなパンケーキよ。さ、顔を洗っていらっしゃい。」
「うん。」
くすくすと笑う母親を背にして、オレクは洗面所へと急いだ。近くに置いてある木箱を両手で動かし、足場にしてから水桶に手を突っ込む。しかし予想以上の冷たさに、まるで火に触った時のように手を引っこめた。
ぶるる、と背筋に震えが走る中、オレクは桶に付いている赤い石を2回叩く。するとその石はぼんやりと光り始め、薄暗い洗面所をほのかに赤く染め上げた。
そうっと人差し指を水に漬けていると、水が段々と暖かくなっていくのを感じる。オレクは手を全部入れても大丈夫なくらいに温まったのを確認した後、赤い石を3回叩いて光を消した。
温まった水で顔を洗ったオレクを、甘くて美味しいパンケーキがほくほくと湯気を立てながら待っていた。
テーブルに並べられたそれの前にある椅子を引き、飛び乗るようにして席に着く。熱い生地の上に乗せられたバターはとろりと溶けだし、オレクが突き刺したフォークで出来た穴に吸い込まれる。少年はそのままかぶりつきたい気持ちをこらえて手を動かし、食べやすい大きさにパンケーキを切った。
ぱくり、と口に入れた瞬間に広がる幸せに、オレクは思わずほっぺたを押さえる。甘い匂いが口いっぱいに広がり、鼻をぬけていく。ふかふかのパンケーキを噛みしめれば、そこから染み出したバターのしょっぱさがそこに加わった。夢中で噛んで飲み込んでしまえば、また味わいたくてすぐにフォークを動かしてしまう。
「……毎日食べたい。」
「毎日は無理よぉ、ただでさえ材料が手に入りにくくなっているんだから。」
不景気って嫌ねぇと母親は呟きながら木箱にパンケーキとサラダ、ウィンナーを詰めていく。まだ目を覚ましていない寝坊助な父親へのお弁当だ。今日もきっと朝食を食べる時間は無いだろうと、隙間が無くなるまで食事を詰め込む。
やがてドタバタと慌てた足音と共に父親が起きてきて、食卓に顔を出した。服は既に着替えており、すぐにでも家を出られる装いだ。
「おはようあなた。はいお弁当。」
「おぉありがとう。オレク、おはよう!」
「むぐ……おはよう。」
すれ違いざまにオレクの頭を揉むように撫で、父親は弁当を大切そうに受け取った。
「職場で聞いた話だが、どうにも貴族連中がきな臭いことをしているらしい。」
「そんなの、いつもの事じゃない。自分たちだけ魔法が使えるって偉そうに。魔石の技術だって独占しようとしているんでしょう?」
「はっはっは、そうだな。ま、そのせいで商会長も太い腹が荒れていたよ。」
両親の会話を小耳に挟みながら、オレクは食べ終わってしまった皿を残念そうに流しに片付けた。
――"きぞく"は、"まほう"が使えるえらいひと。"ませき"はあったか石とかのことで、"しょうかいちょ"がおとうさんのお仕事を作るえらいひと。えらくても"きぞく"じゃないのはどうしてだろう?
毛糸玉を小突いて絡まってしまったような思考にううんと唸り、深く考えることなく諦めて放り投げる。
分からないことは父親が帰ってきた時に聞けばいい。そう思ったオレクは絵本を取りに部屋へ戻った。
***
木を打ち合う高い音が、子供たちの笑い声と一緒に空き地に響いていた。使い古された練習用の木剣を構える少年たちは可愛らしい雄叫びを上げながらぶつかり合い、それを木陰で他の子供たちが囃したてる。
「そこよそこ!足がもつれてるわ!」
「押し込め~!」
「ちょっと、あんた何へっぴり腰になってるのよ!」
「うぜぇー!ちょっと黙ってろよ姉ちゃん!」
腕や棒を振り上げて我が事のように叫ぶ少年たちと、妖精が鳴らす太鼓の様に手を叩いて応援する少女たち。しばらくすると一方の子供が振り下ろした木剣が相手の剣をたたき落とすことに成功し、あたりは歓声で包まれた。
打ち合いがひと段落し、すこしささくれ立った木剣を片手に汗を拭っている少年は、絵本の入った鞄を抱きしめながら観戦していたオレクを見つけて元気に手を振る。
「よぉオレク!お前も特訓しようぜ!」
「ちょっとアロイス、この子に剣なんて危ない物を持たせないでよ!」
とある少女がオレクの肩に手を置きながら抗議すると、アロイスの手合わせ相手をしていた少年が肩をすくめた。
「はぁ~?わかってねぇなあ姉ちゃん。オレクだって男なんだぞ、カッコイイものが好きに決まってんじゃん。」
「はん、そういう馬鹿なことはあたしに勝ってから言いなさいよ。」
「うっせぇ、この脳筋ゴブリン!」
「お、ね、え、さ、ま、と呼びなぁ!」
「ぎゃぁああ!痛ってぇ!」
ゴブリンと呼ばれた少女は服の袖をたくし上げると、高々と掲げた拳を彼女の弟に振り下ろす。目にもとまらぬ速さで叩きこまれた拳に悶絶した少年は、人目もはばからず地面で頭を抱えて転がった。
オレクは痛そうだな、と一瞬だけ憐みの視線を少年に向け、すぐに少女へと向き直る。
「ドミニカおねえちゃんはしないの、手合わせ。」
「ん~?やってもいいけど、ダニエルがこの調子でしょ。あたしがこれ以上強くなったらあいつの心を折っちゃうわ。」
「バカにしやがってぇ……。」
「ははは、言えてら。ま、将来おれが兵士になったら、お前ら全員守ってやるよ。もちろんダニエル含めてな。」
「おれだって兵士になるってば!」
「「無理よぉ~!きゃははは!」」
「うっせぇわ!」
木陰から囃し立てる少女たちに向かって、ダニエルは剣を振り回しながら叫んだ。それすらも可笑しいのか、観戦していた少女たちから笑いが湧き上がる。顔を真っ赤にした少年は姉のドミニカに肩を叩かれて慰められていた。
その騒ぎの隙をつき、アロイスがドミニカの側からオレクを引っ張り出す。
「ほら、持ってみな。何事も経験だぜ。」
「うん、ありがと。」
初めて持たせてもらった木剣はまだ幼いオレクには重く、構えているだけでふらついてしまった。持ち手に巻かれた布が少し湿っているのは、今まで握っていたアロイスの努力が染み込んでいる証だろう。
困った顔でふらふらしているオレクを、アロイスはそっと支えて姿勢を正した。
「うん、いいぞ。重い剣とか、両手剣はそうやって肩にかけるんだ。そのまま振り下ろしてみよう。そお、れ!」
アロイスの掛け声に合わせて、オレクはぐっと腰を落とす。足をふんばり右肩から振り下ろした木剣は、風を切る低い音をお供のように引き連れて、乾いた地面に突き刺さった。砕けた土の欠片がパラパラと転がり、辺りが一瞬静まり返る。
「今の振り、オレクか!?すげえ音したぞ。」
「うん、うん!いいじゃないか!まっすぐで迷いのない剣だ、やっぱり才能あるよオレク!」
「こらぁー!何してるのよ!」
興奮するアロイスの足をドミニカが蹴飛ばし、オレクの手から木剣が離れた。止められて、褒められて、じんじんと痛む両手を見つめたオレクは熱を冷ますように息を吐く。
(ぼくは剣より本が好き、かな。)
一人納得したオレクは、再び絵本の入った鞄を抱きしめるのだった。
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