第20話 遠ざかる面影

季節は移ろい、街路樹の葉は色づき始め、やがて冷たい木枯らしが吹き抜ける頃には、東京も地元の街も、本格的な冬の気配に包まれていた。詩織の体調は、日を追うごとに悪化していった。かすかな吐き気は、もう「かすか」とは呼べないほど明確な「つわり」の症状へと変わっていた。朝、目が覚めるたびに、胃の奥からこみ上げる不快感に、何度も洗面所に駆け込んだ。朝食の匂いはもちろんのこと、普段は何でもないはずの柔軟剤の香りや、街ですれ違う人の香水の匂さえ、彼女の胃を刺激した。特定のものが急に無性に食べたくなったり、逆に昨日まで平気だったものが全く受け付けなくなったりする日々の繰り返し。倦怠感もひどく、大学の講義中も集中が続かないことが増え、ノートの文字はいつも以上に乱れていた。


トイレに行く回数も増え、わずかながら尿意を感じるたびに、胸の奥で何かがざわめいた。これらの身体の変化が、あの卒業前夜の行為と結びつき、妊娠の可能性が「確信」へと変わっていく。詩織は、書店に立ち寄った際に、衝動的に市販の妊娠検査薬を手に取った。帰宅後、自室で一人、震える手でそれを試す。尿をかけた瞬間、急速に浮かび上がった二本の赤い線を見た時、詩織の心に「あの夜」の「計画」が現実となったことへの、確かな、しかし形容しがたい衝撃が押し寄せた。


それは、喜びだった。あの夜、彼との間に「確かな絆の証」を望んだ、純粋な願いが叶ったことへの、密やかな喜び。しかし同時に、これから一人でその命を育むことへの、途方もない責任と、剣人には決して告げられないという罪悪感が、嵐のように詩織の心を打ち砕いた。


意を決して、詩織は産婦人科の予約を入れた。数日後、清潔で、しかしどこか緊張感のある待合室で、彼女は自分の番を待った。周りには、幸せそうな夫婦や、大きな腹を抱えた女性たちが座っている。その誰もが、詩織と同じ「秘密」を抱えているわけではない。孤独感が、冷たい水のように彼女の胸を満たした。


「詩織さん、どうぞ」


看護師の声に促され、診察室へ入る。優しい眼差しを向ける女医に、緊張しながらもこれまでの経緯を説明した。そして、エコー検査台に横たわる。冷たいジェルがお腹に塗られ、探触子がゆっくりと肌の上を滑る。モニターに映し出された画像に、小さな影が二つ、はっきりと見えた瞬間、女医が穏やかな声で告げた。


「おめでとうございます、妊娠です。……しかも、赤ちゃんが二つ、見えますね。双子さんの可能性が高いですよ」


詩織の心臓が、大きく跳ね上がった。双子。その言葉は、予想もしなかった、あまりにも運命的な展開だった。「絆の証」が、二倍。それは、彼の温かい愛が、二つの生命として、この世界に確かに宿ったという、何よりも雄弁な証拠だった。衝撃と驚き、そして、抗えない運命のいたずらに対する、ある種の畏怖の念が詩織を包む。同時に、密やかな、しかし確かな喜びが、心の奥底から湧き上がってきた。


診察が終わり、女医は今後のこと、特に一人で育てることの困難さを丁寧に説明した。しかし、詩織は毅然とした態度で頭を下げた。「はい、一人で育てます」。彼女の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。


自宅に戻った詩織は、再び自身の選択と向き合った。机の上には、大学の専門書が積まれ、いつものように読みかけの単行本が置かれている。だが、その文字はもう、彼女の目には入ってこない。頭の中は、これから生まれてくる二つの命と、剣人のことでいっぱいだった。


剣人に告げるべきか。その問いが、何度も脳裏をよぎる。しかし、彼の未来――東京での大学生活、新しい人間関係、そしてこれから広がるであろう輝かしい将来――を、自分の都合で奪いたくなかった。彼を縛りたくない。この双子は、自分と剣人の間に結ばれた「確かな絆の証」。だからこそ、これは自分一人の責任として、育てるべきだ。彼の人生を、この計画で狂わせるわけにはいかない。


文学少女としての繊細さと、一方で一度決めたことには揺るぎない覚悟を持つ彼女の性格が、この決断を裏打ちしていた。双子の存在が、彼女の決意をさらに揺るぎないものにする。「二倍の喜び、二倍の責任」。その重みを一人で背負う覚悟を、詩織は静かに固めていった。


その決意を固めた瞬間から、詩織は剣人への連絡を完全に断つことを決めた。彼を巻き込まないため。そして、自分自身がこの道を進む覚悟を固めるため。これまで躊躇していた連絡が、今度は明確な意思をもって行われなくなった。


東京の剣人のもとには、詩織からの連絡が途絶えた。

スマートフォンを手に取り、何度もメッセージ履歴を開く。最後に詩織から来たメッセージは、もう何週間も前の、短い近況報告だった。「元気にしてる?」「そっちはどう?」そう打ち込んでは消す日々に、終止符が打たれたかのように、メッセージを送る気力すら失せていく。


剣人は、何度も電話をかけた。しかし、コール音はむなしく響くだけで、詩織が出ることは一度もなかった。彼の心に、漠然とした不安が膨れ上がる。寂しさ。そして、もしかしたら「これで終わりなのか」という諦念が、鉛のように沈んでいった。


大学生活は相変わらず忙しかった。フットサルサークルでの練習や試合に熱中し、学業にも打ち込んだ。ユキとの交流は続いていた。彼女は相変わらず明るく、剣人の多忙な日々を気遣ってくれた。疲れた時に差し出される温かいコーヒー、肩を揉む優しい手。剣人自身はユキに恋愛感情を抱いていないものの、彼女の存在は、詩織からの連絡が途絶え、心にぽっかりと開いた空白を、かすかに埋めるようだった。しかし、完全に満たされることはなかった。心の奥底では、常に詩織の存在が、痛むように残っていた。


彼は詩織が「卒業」を選んだのだと、半ば納得するしかなかった。彼女が、彼の将来を考えて、遠距離恋愛を終わらせる決断をしたのだと。だが、完全に割り切ることはできない。あの卒業前夜の夜。魂を揺さぶるような深い愛を交わし、「絆の証」を刻み合った、あの夜の記憶が、剣人の心を何度も締め付けた。


そして、季節が冬の終わりへと向かう頃には、二人の間の連絡は完全に途絶えた。物理的な距離が、心理的な距離となり、やがて二人の関係は、長い空白の期間へと突入していった。東京の夜景は、相変わらず煌びやかだが、その光の向こうに、詩織の面影はもう見えなかった。

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