第19話 すれ違う時間(とき)

東京での大学生活は、季節が初夏から秋へと移り変わるにつれて、ますますその忙しさを増していった。授業は専門性が深まり、課題の量も増えた。フットサルサークルでの練習は本格化し、週に数回の練習に加えて、週末には他大学との練習試合や大会も組まれるようになった。元サッカー部としての彼の情熱は、新しいチームでの連携を深めていく中で、一層燃え上がっていた。新しい友人たちも増え、講義の合間や練習の後には、カフェで談笑したり、夜には居酒屋で飲みに行ったりすることも増えた。日中は充実しているように見えても、夜、アパートの自室に戻ると、一人であることの寂しさが募った。窓から見える東京の夜景は、故郷の星空とは異なり、どこか冷たく、彼の孤独感を際立たせる。都会の煌めきは、人との繋がりが希薄に感じられる錯覚を生んだ。


スマートフォンのディスプレイが手の中で光るたび、彼の指は無意識に「詩織」の名前を探した。メッセージ履歴を開き、何かを打とうとして、指が止まる。遠距離恋愛。その言葉の難しさを、肌で感じ始めていた。


『元気にしてる? そっちはどう?』


そう打ち込んで、一度削除する。こんな漠然としたメッセージで、本当に詩織は喜ぶだろうか。彼女も新しい環境で忙しいはずだ。文学部の彼女のことだから、きっと専門的な勉強に熱中しているだろう。もしかしたら、新しい友達との楽しい時間に、自分の連絡が水を差してしまうかもしれない。そう思うと、送信ボタンを押す指が重くなる。彼は、詩織が新しい生活に早く慣れてくれることを願う一方で、自分から頻繁に連絡することで彼女に負担になるのではないかと考え、躊躇してしまう葛藤を抱えていた。サッカーの試合では、常に攻めの姿勢が重要だったが、恋愛、特に遠距離恋愛においては、相手への「気遣い」が、かえって「距離」を生むこともあるのだと、彼は初めて知った。


詩織からの連絡は、高校時代に比べると、明らかに頻度が減っていた。一日に何通も交わしていたメッセージも、週に数回になり、それがさらに間隔を空けるようになった。時には、電話をかけても出ないことがあった。新しい授業、新しいサークル、新しい友達。彼女もまた、東京の自分と同じように、新しい生活に適応しようと必死なのだろう。そう自分に言い聞かせるが、やはり胸の奥には、鉛のような寂しさが沈んでいた。


夜、ベッドに横になり、目を閉じる。瞼の裏には、あの卒業前夜の詩織の姿が鮮明に浮かび上がる。白い素肌、柔らかなCカップの胸、そして彼の腕の中で甘く喘いだ声。あの夜に交わした「絆の証」は、彼の心の支えであると同時に、手が届かない距離の現実を、より一層切なく突きつけてきた。もし、あの夜がなかったら、こんなにも寂しさを感じることはなかっただろうか。いや、違う。あの夜があったからこそ、詩織との繋がりを、より強く感じられている。だからこそ、この寂しさは乗り越えられるはずだ。彼は、そう自分に言い聞かせた。


剣人の充実した日常と新たな出会い


東京での大学生活が本格化する中で、剣人の日々はさらに多忙を極めた。専門科目の授業は、彼の知的な好奇心を刺激し、フットサルサークルでの練習や試合は、彼の元サッカー部としての闘争本能を満たした。夜には、友人たちと居酒屋で打ち上げをする機会も増え、賑やかな日々を送っていた。彼は、新しいチームでの連携を深めていく中で、新たな目標を見つけていった。


そんな剣人の生活の中に、自然と溶け込もうとする女性がいた。フットサルサークルのマネージャーであるユキだ。明るく社交的な彼女は、常に剣人の近くにいた。

「剣人くん、この前の授業の課題、難しかったよね? 私、ちょっと苦手なんだ。もしよかったら、一緒にやらない?」

ユキは、いつもそう言って、さりげなく彼に近づいた。図書館で隣に座って課題に取り組む中で、ユキは剣人のサッカーの話に興味を示し、彼もつい夢中で話してしまうことが増えた。彼女の明るい笑顔と、彼の話に真剣に耳を傾ける姿は、剣人にとって心地よかった。

「今度のサークルのイベント、剣人くんがいてくれると心強いな! 手伝ってくれない?」

サークルのイベント準備で遅くまで残り、二人きりになる時間も増えた。ユキは、疲れている彼をさりげなく気遣い、温かいコーヒーを差し出したり、彼の肩を揉んだりすることもあった。彼女の視線が、時折、彼に向けられる際に、かすかな好意を匂わせることを、剣人は感じ取っていた。


剣人自身はユキに恋愛感情を抱いていないものの、新しい環境での人間関係を大切にしようとする真面目さから、ユキとの交流は自然と深まっていった。しかし、ユキと過ごす時間が増えるにつれて、夜、ふと詩織に連絡しようとするが、今日の出来事(特にユキとの交流)を話すにはあまりにも多すぎて、何から話せばいいか分からず、結局ためらってしまうことが増えた。詩織の負担になりたくないという思いと、物理的な距離による報告の困難さが重なり、日々の出来事を共有できないことが、二人の間の溝を少しずつ広げていった。


詩織の変わらぬ日常と募る寂しさ


地元での大学生活も、初夏から秋へと季節が移ろうにつれて、すっかり慣れ親しんだものとなっていた。文学の専門的な学びは、詩織の知的好奇心を大いに満たし、図書館で本に囲まれて過ごす時間は、彼女にとって至福だった。文芸部を引退したことで得た、心の余裕を、全て学業に注ぎ込むことができた。新しい友人たちとも、ゆっくりとだが関係を築き始めていた。


それでも、心の片隅には、常に剣人の存在があった。彼が遠く離れた東京にいることへの寂しさは拭えず、時折、胸の奥がチクリと痛む。夜、自室で勉強を終えた後、詩織はスマートフォンを手に取る。ディスプレイを明るくすると、真っ先に、剣人とのトーク履歴が目に入った。


彼からの連絡は、やはり少なかった。

『大学、どう?』

『まあ、それなりに。そっちは?』

そんな簡潔なやり取りが、最後に交わされたメッセージだった。

自分から連絡するべきか。しかし、彼も東京での新しい生活で大変なはずだ。フットサルサークルも本格的に始まっているだろうし、新しい友達もたくさんできているはず。忙しい彼に、自分の寂しさをぶつけて負担をかけたくない。文学少女らしい思慮深さが、彼女の行動を抑制する。彼への「気遣い」が、かえって自分たちの距離を広げているのではないか、そんな矛盾した思いが頭をよぎる。


友人とのカフェでの会話中、恋人の話題になった際、詩織は「今、お付き合いしている人はいないよ」と答えた。友人たちはそれ以上深く尋ねなかった。剣人のことを話そうとすることは、もうほとんどなくなっていた。遠く離れた彼について話すこと自体が、現実との距離を感じさせる。二人の関係が周囲に知られずに自然消滅へと向かっていることを、詩織は静かに受け止めていた。


高校の卒業アルバムを開き、剣人との写真を見つめる。あの夜の温かい記憶が、寂しさを一層募らせる。白い素肌で抱き合った時の温もり、彼の逞しい腕に抱かれた時の安心感、そして彼の男性器が自分の奥を満たした時の深い充足感。あの夜に交わした「絆の証」は、物理的な距離を超えて、確かに自分たちの心を繋ぎ止めてくれるものだと、詩織は信じていた。


だが、同時に、その絆が本当に遠距離に耐えうるのかというかすかな不安が、胸の奥底に潜んでいた。文学作品の中では、遠距離恋愛はしばしば悲劇的な結末を迎える。現実は、小説のようにうまくはいかないことも多い。彼が新しい環境で、新しい出会いを経験し、自分の存在が薄れていってしまうのではないか。ユキのような、明るく、剣人の生活に自然と溶け込める女性が現れたら――そんな想像が、詩織の心を微かに不安にさせる。


体調変化の深化と妊娠への意識


生理予定日を、一ヶ月以上過ぎていた。

微かな吐き気やだるさは、もう「微か」とは言えないほど明確な「つわり」の症状へと変わっていた。朝食の匂いだけでなく、普段は何でもない匂いに敏感になったり、急に特定のものが食べたくなったり、あるいは全く受け付けなくなったりする。倦怠感もひどく、授業中も集中が続かないことが増えた。トイレに行く回数も増え、これらの身体の変化が、あの夜の行為と結びつき、妊娠の可能性が「確信」へと近づいていく。不安、期待、そして、自分一人の責任ではないはずの「責任感」の重さが、複雑に絡み合い、詩織の心を占める。


夜空を見上げると、東京の夜景を想像した。きっと、きらめく光で溢れているのだろう。その光の向こうで、剣人がどうしているのか、今、誰と、どんな時間を過ごしているのか、もう知る由もなかった。遠く離れてしまった二人の間に、目に見えない壁が、少しずつ、しかし確実に築かれていくのを感じていた。互いの忙しさや、新しい環境での適応への努力が、連絡を躊躇させる要因となっていた。それぞれが相手を思いやるがゆえに、かえって連絡を躊躇し、距離が広がっていくパラドックス。新生活への期待と、寂しさ。希望と、不安。旅立ちの春は、そんな複雑な感情を、二人の心に残していった。そして、季節は秋が深まるにつれて、二人の間の連絡は、ほとんど途絶えがちになっていった。それぞれの生活は充実しているように見えても、互いの時間軸は、大きくすれ違っていた。


詩織の心に、新たな物語の序章が、静かに、しかし確実に書き加えられていくような感覚だった。それは、彼との「絆の証」が、まさに形になろうとしていることへの、密かな喜びと、同時に、責任の重さへの不安が入り混じった、複雑な序章だった。彼女は、この予期せぬ、しかし壮大な展開を、どう受け止めるべきか深く悩んだ。

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