朝陽
@kawaisounine
朝陽
夫の真人は不安そうな顔をしていた。その隣で、私も不安だった。
「大丈夫かな」
私の耳元に口を寄せ、小声で囁く真人の瞳は、迷子になった子供のようにゆらゆらと揺れている。大丈夫に決まっている、と言いたいのに、すぐに口に出すことができない。私の胸にも、大きな不安がある。本当にこれで良かったのか、やっぱりやめておくべきだったんじゃないのか。自分の選んだ選択が正しいなんて、自信を持って言うことができない。迷路の中に迷い込んだように、正解は出ない。ただ、こうしたかったから、という理由だけで、私は今を迎えている。
ポン、と軽い音がした。
「中本結衣さん、診察室五番にお入りください」
静かな待合室の中に、私の名前が響いた。
「行こう」
真人の顔を見ると、真っ青になっていた。着ているシャツが水色で、顔色に近くなっているのが少し面白かった。それまで緊張と不安で苦しかった胸が少しだけ楽になる。ネガティブな真人に苛立つこともあるけれど、私よりも私のことで不安になっている姿を見ると、私がしっかりしないといけないと思わせてくれる。守りたいと思える相手と出会え、結婚できたことは幸せなことだ。
「ほら、早く立って」
掴んだ真人の掌は、じっとりと汗が滲んでいるのに冷たかった。指先が氷のように冷たくて、手のひらだけが温かく湿っている。冷房が効いているといっても、室内は生暖かい空気で満ちているのに、唇を青くさせている真人は一人だけ雪山にいるようだ。
診察室の前まで行くと、背中にいくつも視線が突き刺さるようだった。物珍しいものを見る視線が、隠しきれない好奇心がじりじりと私の背中を焦がしていく。
引き戸に手をかけ、力を入れる。ほとんど力を入れずとも、軽い扉は開いていく。カラカラ、と軽い音を立てて開いた扉の向こうには、今は珍しい産科医がいる。
産科という、今はもう消えかかっていて、古の産物とまで言われている科の医者はどんな人だろうか。珍獣を見るような気持ちで診察室に目をやると、そこには柔和な笑みを浮かべた女性がいた。歳の頃は三十代に差し掛かったところのようで、まだ若々しい。私とほとんど変わらないくらいの歳だろう。白い白衣と艶やかな黒髪のコントラストが目に痛かった。
「御確認でお名前よろしいですか」
アナウンスで聞いたのと同じ声が、女性の口から溢れ落ちた。いろいろな薬剤の匂いが混ざった診察室内で、私は女性のつるんとした頬を眺めていた。
「中本結衣です」
こんな若くて綺麗な女性が、わざわざ古臭い産科を選ぶなんて、と不思議で仕方なかった。
「はい、ありがとうございます。私は産科医の錦織朱音です」
どうぞよろしく、と歌うように言葉が続けられる。右手で、まだ膨らんでいない下腹を撫でる。この若い女に、錦織先生に、私と腹の中にいる子供の命が握られている。
今から五十年ほど前、人工子宮の研究が進み、人類は子宮を持たない人間でも子供を持つことが可能となった。温度、湿度管理を厳格に行われたクリーンルームで、人工子宮は受精卵から正産期を迎えるまで、女の代わりに子供を育ててくれる。
人工子宮が普及し始めたばかりは、出産までにかかる費用が大きく、それを使用することができるのは一部の金持ちだけだった。次第に人工子宮を作る費用が安くなり、それに伴い、出産までにかかる費用も低下していったことで、人工子宮を用いた妊娠、出産が一般的なものとなった。
卵子と精子を採取し、試験管内で受精させ、その後人工子宮に移植するのが一般的な方法ではあるけれど、十年ほど前からは同性同士でも子供をもうけることが可能となった。医療の発展に伴って、精子から卵子を生み出すことも、卵子から精子を生み出すことも可能になった。医療の発展というのは、恐ろしい。神の領域とまで言われていた妊娠に関することまで、時間の経過によって人類の手の中に収めているのだから。
人工子宮の普及に伴い、産科は縮小の一途を辿った。
妊娠出産に、子宮を用いなくなったからだ。これまでの妊娠出産には、いろいろなトラブルが付き物だった。妊娠時期には妊娠悪阻があり、出産時には緊急手術となるようなものがたくさんあった。臍の緒が赤子の首に巻き付いてしまったり、赤子が体外に出る前に胎盤が剥がれ落ちてしまったりと、赤子にダメージのあるもの、母体にダメージのあるものと、さまざまなものがあった。それらは赤子の死亡をもたらし、同時に母体の死亡をもたらすこともあった。出産という、世界で一番喜ばしい出来事であるにも関わらず、多くの人が涙を流す結果となっていた。
人工子宮が安価で使用できるようになり、一般庶民にも充分に普及してからは、そういった症例は過去のものとなりつつある。出産に関する死亡事故は減少し続け、現在では、国全体で見ても年に五件も存在しない。そもそも、その五件は人工子宮を用いた出産ではない。死亡事故の全てが、人体の子宮を用いての、従来通りの出産での事故だった。
経膣分娩は、現在では非人道的で母体を著しく痛めつけるもの、と定義されている。
世界的に見ても、経膣分娩を行う人々は後進国と呼ばれる国に多く存在しており、日本のように医療の発展した国では、経膣分娩など、行うといえば頭がおかしいのでは、と心配される事項だった。
私は、どうしても経膣分娩がしてみたかった。痛みを味わうことも、妊娠中の体調不良も、分娩に関わるすべての事象を受け止めたいと思っていた。
今はもう死んでしまった母方の祖母が、死ぬ前に荷物の整理をしたいと私に声をかけてきたことがあった。遺品整理よ、と笑って言われた時はこんなに元気なのに、と返したけれど、祖母はその遺品整理を終えて一ヶ月もしないうちに死んでしまった。心筋梗塞で、眠っている間に家族の誰にも気づかれることなく、死んでいった。死期のようなものを、感じていたのかもしれない。
祖母は、大抵のものは一瞥するなりゴミ袋にどんどん投げ入れていった。これもいらない、あれもいらないと、どんどん量が増えるゴミ袋にもう少し考えて捨てたら、と声をかけた。
「死んだら何も持っていけないでしょう。本当に大切なものにだけ囲まれて、最後は過ごしたいのよ」
祖母はその後もどんどんゴミ袋に物を投げ入れていった。作業を終わりにする頃には、数枚の肌着と洋服、老眼鏡、お気に入りの文庫本が一冊と、アルバム三冊以外は、全てゴミ袋の中だった。
「こんなに捨てて大丈夫なの?必要になること、ないの?」
私の声が聞こえていないのか、祖母は手元に残したアルバムの表紙を、何度も撫でていた。愛おしいものに触れるようにそっと、何度も指が太陽で焼けた表紙を撫でる。
「このアルバムにはね、結衣のお母さんが産まれた瞬間から成人式を迎えるまでの写真が入ってるの」
祖母がアルバムを開く。最初のページには、すっかり色褪せた写真が一枚、貼られている。布に包まれた、まだ産まれたばかりらしい赤子を抱えて涙を流している汗だくの女の人と、その女の人の肩を抱いて涙を流している男の三人が写っている。二人とも涙を流しているのに、その写真は確かに幸福に満ちていた。
私が黙ったままその写真を見ていると、祖母は幸福を体全体で抱いたような柔らかく暖かい声を出した。
「出産直後の写真よ。出産に丸二日かかったけど、あの子が産まれた瞬間、痛みなんてどこかに消えていったわ。本当に幸せで、こんなに幸せでいいのかって、恐ろしいくらいだった」
目尻を下げて語る祖母の目には、薄い水の膜が張っていた。瞬きをするたび、目の表面がゆらゆらと揺れて光を反射する。
祖母の皺だらけの指が、写真を愛おしそうに撫でる。幸せだった、と何度も噛み締めるように呟く。
「私の人生は、この子を産むために存在したのよ」
私に言い聞かせるというよりは、無意識のうちにこぼれ落ちたような声だった。
私は、どうして祖母がこんなにも幸せそうにしているのか、理解ができなかった。出産に丸二日かかるなんて、どう考えたってものすごく辛かったはずだ。経膣分娩には、陣痛という定期的に唸るような強い痛みがくるはずだ。それに耐えた上で、赤子を足の間から捻り出すなんてどう考えたって痛くないはずがない。幸せを感じたとしても、それまで感じた痛みの方が大きいんじゃないかと思う。
人工子宮を用いれば、陣痛の痛みも分娩時の痛みも、何も感じることなく自身の子供を手にすることができる。十分に胎児が大きくなったら、人工子宮から胎児を取り出すだけで、出産が終わる。こんなにも楽で安全なことはないだろう。それなのに、祖母は出産が幸せだったという。俄には信じがたかった。
「今は人工子宮なんて便利なものが存在してるけど、私は自分の時代に人工子宮が存在してたとしても、普通に出産したと思うわ。それくらい幸せだった」
「例えば、どんなことが幸せだった?」
私は、祖母が幸せだったと語るそれを聞いてみたかった。どう考えたって人工子宮の方が生活も体も何も変わらず、痛みも感じず、幸せであるはずなのに、痛みを感じても経膣分娩を希望する祖母がわからない。馬鹿にしているわけでも、見下しているわけでもない。ただ本当に、少しも理解ができなかった。だから、教えてほしかった。そんなに幸せだったと語るなら、それ相応の理由があるだろう。それを聞いて、確かに幸せなのかもしれない、と思いたかった。単に、自分が経験することのないものの話を聞いてみたいという興味もあった。
私の問いかけに、祖母は慌てたように顔の前で手のひらを振る。
「勘違いしないでね。人工子宮で出産することが反対なわけじゃないのよ。安全に子供を得ることができるなら、それはとても良いことだと思う。今までの出産だと、持病がある人はそれで亡くなることもあったから、悲しい思いをする人が減ったのは、本当に素晴らしいことよ」
早口で捲し立てられたそれにそうでしょう、と頷く。だからこそ、経膣分娩は減少の一途を辿り、今ではほとんど存在しない。人工子宮での出産が、経膣分娩よりも優れているから。
医療の発展は、本当に素晴らしいものだ。ここ十年でさらに進歩した医療は、知的障害や発達障害といった、脳に関与するそれらすら治せるようになっている。頭蓋骨を開き、脳を少しばかりいじり、二ヶ月ほど内服を続ければ、それらは治るようになった。もう少しすれば、人工子宮で成長する過程での治療も可能になるらしい。
昔、それこそ経膣分娩が一般的だった頃は、知的障害も発達障害も、産まれてみなければわからなかったらしい。治療法もなく、それを苦にした人も多くいたらしい。人工子宮の発展を描いたドキュメンタリーでそれを観た時、私はそんな時代に生まれなくて良かった、と心から安堵した。
祖母は写真を撫で、静かに目を閉じる。
「ただね、それでも、私はあの子が産まれて大きな声で泣いた時、感動して涙が溢れたの。私からこんなに尊いものが産まれたんだって。腹の底から、感動が溢れてきた」
結局、祖母の語る幸せは曖昧で、話を聞いてもうまく理解することができなかった。それは私と祖母と、歳が大きく離れているせいもあったのかもしれないし、私が経験していないからかもしれなかった。
祖母と話したのはそれが最期になった。
祖母が荼毘に付している間、私はずっと、幸せだったと語る祖母の顔を思い出していた。祖母と別れてからも、祖母との会話を何度も思い返していた。幸せだったと語る顔が、本当に心から幸せそうで、もう一度、祖母の口から幸せを語って欲しいと思っていた。結局、それは叶うことはなかったけれど。
小さな箱に詰められた祖母に幸せだったかと問いかけても、当たり前に返事は返ってこない。
祖母の葬式と通夜には、私だけが出席した。真人も出席すると言ってくれたのだけれど、祖母と真人は一度しか会ったことがなかったから、遠慮した。
祖母の通夜から帰った私に、真人は温かいココアを出してくれた。私に悲しいことがあると、いつも温かいココアを飲むことを彼は知っている。
差し出されたココアを受け取り、舐めるようにして飲む私の隣に真人が腰掛ける。微かに触れ合う右側面に、じんわりと彼の体温が伝わって、寒々としていた体が少しずつ暖まっていく。慰めの言葉をかけてくれるわけではなく、ただ隣に居てくれる。私が何かを話せば、ただ受け止めてくれる。そういう相手がいて、こうした時間が過ごせる。私はこれが幸せだと知っている。私の知っている幸せは、穏やかで、少しの痛みも、感情の揺らぎも感じないものだった。
祖母の言う幸せは、体は激しい痛みに苛まれ、同じように感情も荒れ狂う波のような激情に違いない。それでも、彼女は幸せだと言う。
ほとんど中身のなくなったココアを飲み切る。ねえ、と真人の太ももに触れる。何度も触れた彼の体温は、私の体によく馴染む。
「私、子供が欲しい」
元々、子供はそろそろ欲しいね、と話していた。結婚して四年になる。貯金も溜まってきて、子育てのために一旦私が仕事を辞めても問題はないだろう。
私の言葉に、真人が分かりやすく顔を綻ばせた。
「良いね。そうしたら、今度の休日に病院に行こうか。一番近い出生科は隣駅にあるし、そこで良いかな?評判も良かったし…。そうだ、僕は男の子でも女の子でもどちらでも良いんだけど、結衣は希望ある?もし希望があるんだったら、結衣の希望の性別で良いからね」
「違うの」
浮き足だった声を遮ると、真人が小さく首を傾げる。何が違うと言うのだ、とその顔に書いてある。子供が欲しいと言えば出生科にかかって、卵子と精子を採取する。性別も、自分の希望した方を選ぶことができる。出産は、生命の神秘ではなくなった。確かに過去は、神秘だった。人類の手には届かないものだった。随分と前に、それは手に入った。出産は、人類が弄ぶことのできるものに成り下がっている。
わざわざ自分の体を痛めつけなくたって、子供を得ることは誰にだってできるようになった。素晴らしいことだ。
深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。これから口にしようとしている言葉を、よくよく咀嚼する。本当にこれで良いのか、と頭の中で声がする。
この選択をすれば、きっと奇異の目で見られることは間違いない。感じなくて良い痛みも苦労も、たくさん感じることになる。それでも、私は選びたかった。最期に見た、祖母の幸せを語る姿を理解したかった。
「私、経膣分娩がしたい」
真人は、私が生きてきた中で一番優しい人間だと思う。相手の言ったことを受け止め、できる限り相手の気持ちに寄り添おうとする。それが意識的になのか無意識的になのかはわからないけれど、真人はそういう人間だった。だから、私が経膣分娩がしたいと言っても、受け入れてくれると思っていた。すんなり受け入れてくれるとは流石に思わなかったけれど、少し小言を言うくらいで、すぐに仕方ないなあと笑ってくれる。そう思っていたのに、真人の反応は思っていたものと違った。
「だめだよ、絶対にだめ」
一度はどんな言葉も必ず受け止めてくれていた真人から、初めて聞いた拒絶の言葉だった。彼の顔は強張り、怒っているというよりは、怯えているようだった。
「どうして?」
「どうしても何も、当たり前だろう?どうして経膣分娩なんてしたいんだよ。あんな危険で野蛮な方法、結衣が死ぬかもしれないんだよ」
真人の言葉を聞きながら、これが当たり前の反応よね、と経膣分娩をしたいと言ったのは自分にも関わらず、他人事のように思う。
返事をしない私に対して、真人は言葉を続ける。経膣分娩がどんなに危険か、過去の妊婦が出産を機に心身共に変化していったかを切々と語っている。
真人は総合病院で薬剤師として働いている。彼の働く病院には産婦人科は存在しておらず、あるのは出生科だ。死の匂いがしない、安全で清潔な誕生に慣れきった彼は、血液に濡れることが確定している経膣分娩など、野蛮の極みとしか考えられないのだろう。だらだらと垂れ続ける真人の言葉は私の脳みそに何も残さずに通り抜けていく。
「とにかく、僕は反対だから」
真人は間違いなく、正しいことを言っている。経膣分娩は時代遅れの野蛮な方法だ。だからこそ、人工子宮が生まれた。誰も死なない、安心安全の分娩。産まれてくる子供は、受精卵の時に遺伝子検査を行われているから、先天的な病気を抱えていることはない。幸せな、健康な人間しか産まれない。不幸せな人間が存在しないとされる分娩。
そうだよね、と声帯を震わそうとして、瞼の裏に祖母の笑顔がチラつく。母を産んで、幸せだったと言った祖母の顔。あれはきっと、同じ体験をしないとわからない。私は、祖母のあの笑顔を理解したかった。わかった気になるのではなく、心から、それを理解したい。理解しないと、いけない。
「馬鹿なこと言ってないで、ね?出生科で、子供を作ってもらおう。それが当たり前なんだから」
「嫌。私はどうしても、出産がしたいの」
まだ何も存在していない、薄い下腹を撫でる。子宮という臓器は、今までホルモンバランスを保つための臓器だった。子供は人工子宮で持つものとして教えられてきたし、それが日常の風景として当たり前だった。膨れた腹の中に子供を宿した人など、今までの人生で一度も目にしたことがない。哺乳瓶など、赤子の世話に必要なものを見ている人は、全員薄い腹をしていた。薄い腹をしていても、妊婦だった。
私は、祖母の言う幸せを理解するために、腹の中で子を育てたかった。
どうしてこんなにも祖母の気持ちを理解したいと思うのかわからない。けれど、どうにもこの衝動は止められそうにもない。自分の腹の中から子供が産まれ、産声を上げた時、私は祖母の言っていた通り、幸せだと感じるのだろうか。その瞬間を味わいたいと、そればかりが頭を占めている。
真人との話し合いは数日に渡った。
経膣分娩がしたいと譲らない私に、人工子宮での出産を進める真人。
お互いの主張は平行線で、毎日何時間にも渡るそれは時間の無駄でしかなかった。泣きながら人工子宮での出産しか認めないと言う真人に、どうしてそこまで経膣分娩が嫌なのか、問いかけた。
泣きじゃくった目は真っ赤に充血し、ぎろりと睨みつけられても少しも怖くない。それどころか、元々垂れ気味の彼の瞳はとろりと溶けて甘えているようにすら見える。私は真人の柔らかく、女性的な顔が好きだった。彼にそっくりな顔をした子供が欲しいと思ったことが、彼と付き合い始めたきっかけだった。
「当たり前だろう?どうして自分の好きな相手が痛い思いをして、それも死ぬかもしれないのに、それを認めてやろうと思うんだよ。少しでも痛い思いなんてしないで欲しい、死ぬかもしれないことなんてしないで欲しいと思うのが当たり前だろう。僕を何だと思ってるんだよ。僕は君のことが好きで、死ぬまで一緒にいたいんだ。子供は欲しいけど、どうしても経膣分娩をするって言うんだったら、君とは二度とセックスしない。セックスなんてしなくていい。それで君が僕のそばにいるんだったら、そんなこと些細なことだ」
しゃくりあげながら言う彼に、思っているよりもずっと、真人は私のことが好きなんだな、と違うことを考えた。
普段、私はなるべくなら真人に笑っていて欲しいと思っている。それは彼の顔が好きだからだし、彼のように優しい人間には、幸せばかりを味わって欲しいと思っているからだった。今、こうして彼が泣いていることは、私としてはとても悲しいことで、本当ならば今すぐにでも人工子宮で子供を産むと言ってやりたい。けれど、どうしてもその言葉は口から出せなかった。口にしようと少しでも考えるたび、祖母の笑顔と、産まれたばかりの母を抱き、涙を流しながら幸せそうに笑う祖母の写真がちらついた。
ついには声を上げて泣き出した真人は、どうして言うことを聞いてくれないんだ、ということを涙に濡れた声で切に訴えてくる。可哀想に、と思う。経膣分娩をして、私が死ぬかもしれない可能性に怯えている。
机の上に投げ出された彼の手を取る。指先だけが冷たく、手のひらは少し汗ばんでいる。触り慣れた真人の手のひらだ。柔らかいその手のひらは、いつも私を大切に扱ってくれる。だから私も、真人のことを大切にしたいと思う。
手のひらを握ると、涙をぼろぼろと流していた真人がゆっくりと視線を持ち上げ、その瞳に私をうつす。ごめんね、と言えば、ひっく、と喉が痙攣していた。
「真人の言いたいことはわかる。でも、私は死なないよ。死ぬわけないじゃん。今の医療って、すごく進んでいるでしょう。死ぬわけがない。だから、ごめんね。私はお腹で子供を育てたいの。真人が何を言おうと、経膣分娩がしたい」
真人の目をまっすぐ見て、ゆっくりと言葉にした。わかって欲しい。気持ちを込めて、言葉にした。冗談でも、気の迷いでもない。本気で、私が経膣分娩をしたいと思っていることが、彼に伝わって欲しかった。
真人は私の言葉を聞き、それを理解すると、痛みを感じたように顔を歪めた。嗚咽を漏らし、涙を絶えず流す。何度か口を開き、何かを言葉にしようとしていたけれど、それは言葉になることはなかった。声を発そうとすると、喘ぎが先に溢れてしまうようだった。私は何も言わず、真人が落ち着くのを待った。
自分が酷いことを言っていることは、十分に理解しているつもりだ。真人には死ぬわけない、と言ったけれど、実のところ、分娩時に何か異常が起これば、呆気なく私は死んでしまうだろう。医療は確かに進歩している。それは間違いない事実だ。医療業界で働いている真人なら、そんなことは私に言われなくたって理解しているはずだ。ただ、医療が進歩しているのは、産科以外の分野だった。産科は、人工子宮が普及してからその進歩を止めてしまった。必要がないからだ。人工子宮が普及するにつれて、経膣分娩は減少の一途を辿り、過去の産物と成り果てた。だから医療が発展したと言っても、この時代に経膣分娩で何かがあった場合、どうなるかはわからない。
真人はなかなか泣き止まなかった。落ち着いたと思えばその数秒後に激しく泣き声をあげ、また落ち着いたかと思えば蛇口が壊れた水道のように無表情のままだらだらと涙をとめどなく流す。
こんな風に、感情に激しい波のある真人を見たことがなかった。こうさせているのが私だということが申し訳ない気持ちになった。吐き出した言葉を撤回するつもりはない。私には、真人を慰めることしかできない。少し冷たくなった体に自分の体温が移れば良いと思いながら、彼の背中をしつこく摩った。
視線を落とし、さめざめと泣いていた真人が大きく息を吐き出した。自分を落ち着かせるために吐き出したのか、それとも私に呆れて吐き出したものか、判別はできない。真人の視線は、机の上を漂うままだ。私を見ようとはしない。
「お願いがある」
「何?」
三十分以上、泣いて口を閉ざしていた真人が私の手を握り返す。握られた手のひらは、あまりの強さにぎしりと軋む。少しばかり痛みを感じたけれど、それを感じさせないように、頬の肉を噛んだ。勝手をしたいと言っている私に対する不安や不満が、この痛みを思えば、甘んじて受け入れたい。
「け、経膣分娩をするなら、絶対に死なないで。死んだら、僕も死んでやる」
震える声が、命を人質に私に生きることを強要してくる。お願いだと言ったから、どんな願いことでも叶えてやろうと意気込んでいたのだけれど、真人のそれはお願いではなかった。強要であり、懇願であり、脅迫だった。
思わず笑いが溢れる。こんなに可愛い夫がいて幸せだと、場違いに思う。
濡れていない箇所がないくらい、涙で湿った真人の頬を撫でる。充血した瞳が、数十分ぶりに私を見る。
「わかった。約束するよ」
真人はもう一度顔を歪ませ、大きな声を上げて泣いた。
真人はやっぱり、優しい人だ。泣くほど嫌なのに、私の気持ちを考えて、嫌なことを受け入れようとしている。真人が優しいことを知っていて、私は自分のわがままを押し通そうとしている。
世界一優しくて、私を愛してくれている男を不幸にしても、私は経膣分娩をすることを選んだ。
真人はあんなにも涙を流していたというのに、経膣分娩をする、と決まってしまえば全ての動きが早かった。
まず、経膣分娩をすることに決まった翌日、仕事から帰ってくるなりいくつかの病院のホームページを印刷した紙を渡してきた。なにこれ、と聞けば、産婦人科のある総合病院や大学病院だと言う。それも、私たちの家から三時間圏内のものだ。
「一時間圏内で探したけど、流石になかったよ。やっぱり婦人科はあっても、産科が併設してる病院はほとんどない。現代の化石みたいなもんだよ。三時間圏内にして、やっと三箇所あるかな、って感じだった」
「すごいね。もうこんなに見つけてきたんだ」
三時間圏内で探しても、産婦人科のある病院は三つしかなかったらしい。それも毎日診療を行なっている訳ではなく、週に二、三度、といった程度で、ほとんど行っていないのが現状らしい。
手渡された紙を見て、真人の仕事の早さに感心していると、真人がぎろりと睨みつけてくる。なぜ睨まれているのかわからず首を傾げてみせると、意味がわかったらしい真人がわざとらしい大きなため息を吐いた。
「経膣分娩をしたいなら、すぐに動いたほうがいいでしょう?昔は不妊って言って、体に何か異常があって妊娠が難しい人がいたらしいから。僕たちがそうじゃないとは言い切れないんだから、万が一を考えて不妊治療もできる病院の方が良いと思う」
真人の言葉に、経膣分娩がしたいという気持ちばかりが先走り、それ以外のことは頭から抜けていたことを自覚する。人工子宮を用いた出産では、子供を希望した人全てが子供を授かることができるから、妊娠できないかもしれないということにまで気が回っていなかった。
「もし妊娠できなかった場合って、どうすればいいのかな?」
真人がカバンからクリアファイルを取り出す。そこから数枚の紙を取り出し、机の上に並べていく。子宮の絵が印刷されたそれを、指先で軽く叩く。
「受精卵を子宮に戻すんだって。人工子宮と同じだね。昔はもっといろいろ方法があったみたいだけど、今はもうこれしか残ってないって。で、これを行なっている病院は、この病院ね」
私の目の前に置いてある紙に、真人の指が伸びる。我が家から二時間ほどの場所にある大学病院だった。
「ここは三病院の中で唯一、不妊治療も行ってる。で、こっちの総合病院は家から一番近い。だけど不妊治療は行ってないし、経膣分娩自体、ここ数年は行ってないみたいだね」
「行ってないって言うのは?」
「患者が来ないから、分娩自体を実施してないってこと。だから、僕はこの病院はやめたほうがいいと思う。そんな感じなら、有事の際に対応がうまくいくとは思えない」
「ふうん」
真人がそう言うなら、この病院はなしだ。私はさりげなく、その病院が印刷された紙を端に寄せる。もう一つ残っているのは県を一つ跨いだ場所にある大学病院だった。
「ここは?」
「不妊治療ができないってことくらいかな。もう一つの大学病院も、この大学病院も、今年すでに分娩実績がある。だから後は距離かな。ここは二時間半くらいかかる」
「なら、さっきの大学病院で良いんじゃない?少しでも近いほうが楽だろうし」
元々選びたくとも選択肢はほとんど用意されていない。不妊のことを考えるなら、元より不妊治療を行なっている病院にかかるのが良いだろう。
こうして病院は決まった。あとは、妊娠をするためにセックスを連日のように行うだけだった。
私たちは元々セックスの回数は多い方ではなかった。二人とも性には淡白な方だったし、体の触れ合いよりも、穏やかな時間を二人で過ごすほうが性に合っていた。だから、妊娠するために排卵日周辺で連日セックスをするのは、なんだかおかしかった。いつもは軽いキスなどをしているうちに、そういう雰囲気になった時だけセックスをしていた。頻度で言えば、月に二、三度あれば良いほうだ。それが今では妊娠のために毎日体を重ねている。
真人の体が脱力し、私の体に彼の体重がかかる。しっとりとした肌が私の肌に触れ、耳元で荒い呼吸音が聞こえる。真人が私の中で精液を出したようだった。私にのしかかっていた体は少しの間、じっとしていたけれど、すぐに体を離してしまう。ずるりと私の中から真人が出ていくのをぼうっと見ていた。
人工子宮が普及するのと同時に、避妊はたった一錠の薬を飲むだけでできるようになった。それまで使用頻度が高かったとされるコンドームは、今はもう前時代のものだ。
真人が私の上から退くのを待って、私も上体を持ち上げる。下腹に力が入ると、吐き出された真人の精液が足の間からだらりとシーツに垂れるのが見えた。ベッド脇に置いていたティッシュでシーツを拭う。薬を内服するだけで避妊ができるようになったのは楽だけれど、精液が胎内から出てきてしまうのは、今の時代も昔も面倒で鬱陶しいのは変わらなそうだ。
セックスを繰り返して、私は二回目の排卵で妊娠することができた。いつもは予定通りに来る月経が五週間過ぎても来ず、妊娠の確認をするために婦人科にかかった。十二月のことだった。
昔、妊娠検査薬は、どこのドラッグストアでも手に入ったらしい。安価で手に取りやすかったそれは、時代が移ろうにつれて、手に入りにくいものへと変化していった。今では、どこのドラッグストアに行っても見つからない。人工子宮を用いない妊娠は、何かのトラブルに巻き込まれた、と考えるのが一般的になったからだ。わざわざ病院に罹らなければ妊娠の有無を確認できないのは、不便だった。
「妊娠しているか、確認して欲しいです」
婦人科の受付でそう言うと、受付の女性はハッとした顔をした後、わざとらしい笑みを浮かべた。診察は番号で呼ばれます、と手のひらに収まるくらいの小さい番号札を渡される。きっと、あの受付の女性は、私が性犯罪かなにかに巻き込まれたとでも思っているのだろう。真人は一緒に病院にかかると食い下がっていたけれど、他の女性の目を考えて家で待っててもらうことにしていたのだけれど、あんな目で見られるくらいなら来て貰えば良かった。おかしな疲労感が、病院に来ただけで体に積もっていく。
診察室に呼ばれたのは、一時間ほどしてからだった。初老の白衣を着た女性が、診察室に入るなり厳しい瞳を私に向ける。この人が、婦人科医らしい。首からぶら下げた名札には、婦人科医根本、と書かれている。
「あなた、警察には行ったの?」
挨拶もなしにぶつけられた言葉は、私を性犯罪に巻き込まれた被害者だと断定している。こうなることは薄々わかっていたけれど、それでも実際にそれを体験すると、胃の底に澱が溜まっていく。これから何度も、こういった視線と言葉に晒されることを考えると、早くも経膣分娩をしたいと言ったことを後悔しそうになる。
「違います。主人の子です」
根本先生は、私に胡乱な視線を向ける。ちくんと胸が痛む。昔は当たり前だった自然妊娠が、今はおかしなものとして扱われている。祖母はあんなに幸せそうだったのに、未来ではこんな風に扱われていると知ったら、きっと悲しむだろう。知らないまま、亡くなって良かった。
「本当に?自然妊娠をわざわざ選択したの?」
向けられる視線に、先ほど感じた胸の痛みがじくじくと疼きに変わる。私の選択が間違っていると責められているように感じる。相手はそんなこと、きっと微塵も考えていない。私の被害妄想だ。わかっているけれど、それでも辛いものがあった。
何度も犯罪に巻き込まれたわけではないことを確認され、目の前で真人に電話をかけさせられ、本当に真人の子供なのかを確認された。
どうしてそこまで確認されないといけないのかと、怒りが湧き上がった。真人に電話をかけさせられる前に
「医者としては、犯罪に巻き込まれた被害者だった場合、通報の義務があるんですよ」
と強い口調で言われた。そうだとしても、被害者だと断定された状態で話されて不快に感じない人間なんているのだろうか。はあ、とかなんとか適当な返事をして、自宅で待っている真人に電話をかけた。真人が電話に出ると、根本先生は変わるように言った。素直にスマートフォンを手渡すと、真人の子供かどうかを確認される。根本先生は、真人が無理矢理行為を迫って妊娠させたんじゃないかと疑っているようだった。何度も聞き方を変え、同じ質問を繰り返している。取り調べを受けているみたいで、口の中に溜まった澱が、どろどろと食道を伝って胃に落ちていく。
わかりました、と根本先生の声が聞こえて、ようやく電話が切れる雰囲気になった。やっと終わる、とほっとため息をついたのも束の間、息が詰まりそうになった。
「あなた、奥さんを妊娠させるなんて、何を考えているんですか?痛みを感じさせることになんの意味があるの。人工子宮が悪だなんて考えているんなら、それは間違いですから。あなたが奥さんに強いていることは、拷問と変わりないですからね」
自分の周りから一瞬にして、酸素が奪われたかと思った。息を吸い込めなくなり、肺がぎゅうぎゅうと締め付けられていく。喉を抑え、荒くなりそうな呼吸を堪えた。酸素がなくなったわけではない。ただ、そう感じただけだと頭の中で繰り返し唱えると、呼吸の仕方を思い出した体は、ゆっくりと酸素を取り込み始める。
根本先生はきっと、良いことをしたと鼻高々なのだろう。その証拠に、スマートフォンを差し出す顔は誇らしげで、悪い男にがつんと言ってやった、とでも言いたげだった。
早く家に帰りたかった。今すぐに病院を飛び出して、真人に謝りたい。私が経膣分娩をしたいと言い出したせいで、真人のことを何も知らない相手に、真人を侮辱されている。つんと痛み出した涙腺が、今にも涙を溢れさせようとしている。目を閉じて、それを堪える。ここで泣き出したら、きっと根本先生は私が無理矢理妊娠させられたのだと強く思い込むに違いない。どんなに私がそれは違う、自分が望んだことだと伝えても、強いられていると思われる。
「大丈夫よ。妊娠しているか、確認しましょうね」
柔らかい、優しい声だ。真綿のように温かく、私を包み込もうとしている声だ。
こんな時でなければ、優しい先生だと思っただろう。けれど、今の私にとって、その柔らかい声はナイフのように胸に突き刺さる。柔らかい声をかけられるたびに、胸が痛みを増していく。
病院が終わるなり、家までの距離を全力で走った。婦人科は家から近い場所を選んでいたから、走れば十分もかからない。大人になってから、全速力で走ることなんてしていない。足がもつれそうになりながら、真人の待つ家に帰った。誰よりも優しい人を、私の我が儘のせいで傷つけてしまったことを謝りたかった。
「真人!」
「うわ、びっくりした。おかえり」
乱暴に靴を脱ぎ捨て、リビングに飛び込む。もしかしたらいないかもしれないと思っていた真人は、家を出たときと同じ草臥れたスウェット姿でソファに寝転がっていた。リラックスした様子に安堵し、そのまま近づく。眠たいのか、元々垂れている目がさらに下がっているように見える。
「どうしたの?」
電話口で言われた言葉など、少しも耳に入っていないような様子に蒸し返すように思われるかも、と思いながら、それでも謝ることを選ぶ。真人は優しい人だから、顔に出さないようにしているだけの可能性が十二分にある。
「ごめんなさい」
声が震える。奇異の目に晒されるのは、私だけだと思っていた。大きな腹を抱えて歩く私を、いろいろな人がじろじろと見てくるとは理解していたけれど、真人が悪い男だと思われることは、少しも考え付かなかった。頭を下げ、本当にごめんなさいと謝罪の言葉を繰り返し伝える。
「大丈夫だよ」
頭上に降ってくる声は、聞き慣れた私を甘やかしてくれる時の声だった。男性にしては高めの声が、さらに高くなる。子供をあやしているような、少し舌ったらずの声が、私を柔らかく包もうとしている。病院にいた時から堪えていた涙が、今度こそこぼれ落ちた。
辛い、嫌な思いをさせられたのは真人なのに、どうして私を労わる声を出してくれるのだろう。頬に落ちた涙を手の甲で拭い、顔をあげる。
垂れた目が、私を見ている。微かに微笑んでいるその顔が、私が泣いているのを見て、困ったように眉頭を寄せる。
「ごめんね。嫌な思いしたよね。行かなくて良いって言われたけど、無理言って着いていけば良かったね。電話であんなに強烈なんだから、対面だともっとすごかったでしょう?ごめんね、俺が防波堤になれれば良かったんだけど」
頭に乗った手のひらの重みが涙を誘う。
もっと強く、病院で自分が望んだことだと言えば良かった。傷ついた相手に、私のフォローをさせている。みっともなく、けれどそれに救われた。怒っていないと態度で伝えてくれる優しさに甘えているとわかっている。真人の優しさに甘えてばかりだとわかっていても、私はごめんねと謝ることしかできないのだから、その甘えに全力で寄りかかるしかなかった。
「妊娠はしてたの?」
真人の言葉に頷く。婦人科で検査をすると、妊娠九週ということだった。無事に子宮内での妊娠も、心音も確認できた。婦人科でもらったエコーの写真を見せると、真人は眉間に皺を寄せ、下唇を噛んだ。長く息を吐き出し、前髪を神経質そうに何度か引っ張る。
「ごめんね。本当は手放しに喜んであげないといけないんだろうけど、本心を言えば、妊娠できなければ良かったと思う自分がいるんだ。子供ができることは本当に嬉しいけど、結衣が痛みを我慢してまで経膣分娩を望む理由が本当にわからないんだ」
真人の目に、段々と薄い水の膜が張っていくのが見える。瞼を伏せた拍子に、涙が一粒、頬を転がり落ちる。
「でも、ありがとう。僕らの子供だね」
涙声だけれど、真人は喜んでいるわけではない。悲しんでいる。私は自分のエゴを貫くために、私を愛してくれている人を悲しませる選択をした。
ず、と鼻を啜る音がして、真人が両手で顔を覆う。泣かないで、と言いたいけれど、真人を泣かせているのは私で、原因である私が泣かないで、と言うことは、想像しなくても酷いことだった。
「早いとこ、大学病院にかからないとね。きちんと産婦人科の先生にかからないと」
「うん。私が有給取るから、真人の都合が良いところで病院に行こう」
真人の履いているスウェットに、ぽつぽつとシミができている。それに気がつかないふりをして立ち上がった。
出産をするまで、真人を傷つけ続けるのだろう。もしかしたら、出産を終えてからも、傷つけることになるのかもしれない。
少しずつ大きくなる腹を見て、ただの女から、腹に子を宿す母になる私を見て、真人は傷つくのかもしれない。
ごめんなさい、と再度呟いたそれに返事は返ってこない。宙ぶらりんになった言葉は、静かに啜り泣く声に押し潰されていった。
真人と大学病院にかかるまでは、ギクシャクとした日々を過ごした。私も真人もどこかぎこちなく、付き合い出したばかりの距離感に戻ってしまったようだった。付き合いが長くなるにつれて、お互いを当たり前の存在として感じるようになり、会話がなくとも傍にいるだけで心が満たされていた。それなのに、今は近くにいるとどうにも落ち着かず、真人が何を考えているのか、どんな表情をしているのかが気になって仕方がなかった。
腹の中に子を宿した私を、どう思っているのか、気になって仕方がなかった。
「出発しようか」
差し出された手をとって、家を出る。天気予報では快晴だったはずなのに、見上げた空には灰色の重たい雲が一面に拡がっている。それが自分の行く末を示しているようで、ほとんど朝食を食べていないはずの胃がグッと重たくなった。
大学病院に向かう車内は無言だった。私も真人も、ただ真っ直ぐ前を向いていた。色とりどりの車が視界に映るのをただ眺めていた。
妊娠していたことを伝えてから、真人とその話は一度もしていない。腹を少しでも撫でるようなそぶりを見せると、真人が体を硬くするのが見えていたから、私も口にすることはなかった。
まだ薄い腹を撫でる。私と真人の子供が、まだ人間とは言えない形で存在している。
ほとんど存在していないらしい産科医は、どんな先生だろう。優しいと良い。経膣分娩をしたいという私の選択を、自然妊娠をしたことを喜んでくれる先生がいい。考えてみると、誰も私の妊娠を喜んでくれていなかった。真人には妊娠しなければ良かったと直接言われたし、母にも同じことを言われた。電話で妊娠したことを伝えれば、半狂乱になっていた。
「真人さんに乱暴されたの?それとも犯罪に巻き込まれたの?」
鼓膜が痛くなるほどの大声で、母は泣き喚いていた。自分が望んで自然妊娠したことを伝えると、さめざめと泣いていた。馬鹿なことをするな、と言われた。母の口からは終ぞ、妊娠を喜ぶ言葉は出てこなかった。
おめでとうございます、と誰かから一言でも言って欲しかった。私はこの子が欲しくて、自ら望んだ。人工子宮で育てようが、自分の腹で育てようが、尊い子供であることは変わらないのに、私の腹にいる子供は祝福を一度だって受けていない。
今日会う先生には、祝福して欲しかった。
錦織先生は、エコーで妊娠しているか確認しますね、と言って、私を内診室に案内した。下着を脱いで、内診台に体を預ける。内診台の向こうはカーテンで遮られていて、白衣を着た看護師が数人、動いているのが見える。内診台に乗るのは、何度乗っても慣れない。
「台上がりますよ。しっかり捕まっていてくださいね」
台が上がり、機械によって足が開かれ、股間を空気が撫でる。内診をするためには必要なことだとわかっていても、普段は布に包まれているそこが人目に晒されると思うと、心臓がきゅうと締め付けられるような気がする。
「少し冷たくなりますよ。深呼吸です、ゆっくり吸って、吐いて、そうです、力抜いて」
先生の声に合わせて、胎内に機械が入ってくる。細くて冷たいそれは、深く息を吐いているのに、強い圧迫感と違和感を与えてくる。
胎内で、機械が少し動く。痛みはない。けれど、それが胎内を撫でるたびに、鳥肌が立つ。
「抜きますよ」
ずるりと抜け出した機械に、ほっとする。摩擦を抑えるために注入されていた潤滑剤が股間をぐしゅぐしゅに濡らしていて不快だった。
「身支度が整いましたら、診察室に戻ってきてください」
内診室から先生の出て行く音が聞こえて、一人残される。置いてあったティッシュを手に取り、股間を拭う。数回拭ったけれど、粘度が高いのか、どうにも股間の濡れた感覚が治らない。もう少し拭いたい気持ちはあったけれど、いつまでも先生を待たせるわけにはいかない。手早く身支度を整え、診察室に入る。
錦織先生と真人が同時に私の方を向く。真人はどうしてだか泣いていて、錦織先生は笑っていた。何があったのかが気になったけれど、それを真人に確認する前に、錦織先生が口を開く。
「おめでとうございます。妊娠していますよ。赤ちゃん、心臓がしっかり動いています」
錦織先生は、お手本のような笑顔で言った。口角がしっかり持ち上がり、目が細くなって、目尻は垂れ下がっている。声も、先ほどより僅かに高くなり、明るい声音だった。
「最終月経日から考えて、十一週ですね」
「あ、りがとう、ございます」
初めて向けられた祝福の言葉に、体が満たされる感覚がした。望んでいた言葉だった。私の腹の子を、誰も喜んでくれなかった。誰かに喜んで欲しかった。欲しかった言葉を、やっと与えてもらうことができた。突然向けられた祝福の言葉に、それを渇望していた体はごくごくと勢いよく吸収していくのがわかった。
「ありがとう、ございます」
喉が焼けるように痛くなる。腹の底に溜まっていた澱が、喉から飛び出してしまいそうだった。澱を体から追い出そうとしている激情は、間違いなく喜びだった。
目頭が痛む。視界が歪んでいき、堪えようとする間もなく、頬に涙が落ちる。
喜んで欲しかった。真人にも、母にも、私の腹に子が宿ったことを。
欲しいのは祝福だったのに、手渡される言葉は否定と拒絶で、一度も口にしたことはなかったけれど、辛く苦しい日々だった。錦織先生は仕事で、決まったセリフなのかもしれないけれど、こうしてなんの飾りもない祝福の言葉を向けられることが、嬉しくてたまらなかった。
だらだらと涙を流していると、錦織先生の手が肩を撫でる。布ごしでも感じる体温は、熱いくらいだった。柔らかい手のひらが、宥めるように肩を柔く擦る。
「ほら、泣き止んで。まだ泣くのは早いですよ。赤ちゃんが産まれたときに、涙は取っておきましょうね。ほら、旦那さんも。お父さんになるんだから、泣き止んでください」
化粧が落ちるのも気にせず、目尻を擦る。止まって欲しいと思うのに、涙は止まらなかった。錦織先生は少しも嫌な顔をせず、私を見て微笑んでいた。それがまた嬉しくて、涙が溢れた。
病室に入るまで、ずっと不安だった。この病院で良かったのか、考えて落ち着かなかった。
錦織先生から祝福の言葉を向けられて、この病院を選んで良かった、と思った。何かあっても、この先生ならきっと、どうにかしてくれると、漠然と思った。
「分娩は、どうしますか。これから人工子宮に切り替えることも可能ですし、そのまま自然分娩を行うこともできます。人工子宮での出産に切り替える場合は、当院の出生科での分娩になりますが、どうしましょう」
真人を振り返ると、安心したような顔をしていた。目が合うと、袖を引っ張られる。体を傾けると、耳元で小さく
「人工子宮に切り替えられるなら、そうしたら?」
と諦めの悪い言葉を囁かれた。何度も私は絶対に経膣分娩をしたいと伝えていたし、彼もそれを渋々ではあるが納得したと思い込んでいたけれど、実はそうではなかったらしい。ふう、と思わずため息をつくと、真人はだって、と先ほどよりも少し大きくなった声で何かをつづけようとした。けれど、私はそれを聞く前に錦織先生を見つめる。
「自然分娩でお願いします」
きっぱりと言い切った。袖を掴んでいた真人の指から力が抜けていく。最後の最後まで、私がいつかは人工子宮での分娩に切り替えると思っていたのだろう。顔も声も、真人の様子は何もわからないのに、酷く落胆していることだけはわかった。
錦織先生は私から視線を動かし、真人の方に視線をやる。いいのかしら、と言うように小首を傾げている。それには気がつかないふりで、話を進める。
「分娩は、自然分娩が良いんです。無痛分娩も、しなくて良いです。分娩は、この病院でお願いしたいです」
真人が口を挟む前に、自分の希望を言い切った。錦織先生の視線がまた、私を通り過ぎて、真人を見る。黒々とした瞳からは、何も感情は読み取れない。
「旦那さんは?何か言いたいことはありますか」
何も言わないだろうと思ったし、何も言わないでくれとも思った。もしもここで、僕は人工子宮での分娩を希望していますなんてことを言われでもしたら、収拾がつかなくなるに決まっている。
私の気持ちなど知らずに、錦織先生は真人の言葉を待っている。
「僕は、本当は、嫌なんです。結衣が自然分娩をすることが」
真人の声は、濡れてこそいないものの、震えて掠れていた。あんなに涙を流していたというのに、まだ涙が出そうになるのかと驚く。
真人はいつだって私の我儘を受け入れてくれていたのに、こればかりはどうにも受け入れ難いようだ。背後から聞こえる鼻を啜る音が、診察室に響く。
「嫌と言うのは?」
「自然分娩は、母体へのダメージがかなり大きいでしょう。死ぬ可能性だってある。人工子宮っていう、安全な分娩方法があるのに、どうしてわざわざそれを選ぶ必要があるんですか」
私は前を向いたまま、真人の方は見ない。彼が涙を流し始めたことは呼吸が荒くなったことで気がついていたけれど、気がつかないふりをした。私は真人がどんなに嫌がっても経膣分娩をやめるつもりは欠片もない。私には、真人に謝ることはできても、慰める資格はなかった。どんなつもりで、何を言えば良いと言うのだろう。
黒々とした瞳のまま、錦織先生がティッシュを手に取り、真人に差し出す。伸びてきた腕が数枚、ティッシュを引き抜き、鼻を啜る。
「旦那さん、人工子宮での出産のデメリットをご存知ですか?」
「は?デメリット、ですか?」
錦織先生は、泣いている真人に寄り添う訳でもなく、唐突にそんなことを言い出す。真人もそんなことを言われるとは思っていなかったのか、呆気に取られたような声を出した。
「はい。デメリットです」
錦織先生は柔和な笑みを浮かべたまま言う。頭上の棚からパンフレットを引き抜き、私と真人にそれを一冊ずつ手渡す。パンフレットの表紙には、赤ちゃんの絵と共に人工子宮での出産について、とタイトルが記載されている。以前かかった婦人科でももらった、人工子宮について詳しく記載してある冊子だ。子供が欲しいと思った人が、人工子宮での出産がどんなものかを簡単に学ぶことができる。一度目を通したことがあるから、その内容は私も真人も理解していた。
「あの、人工子宮にはデメリットなんてないと、書いてあったと思うんですけれど。僕も自分で文献を読んだりして調べましたけれど、これといった目立ったデメリットは見当たりませんでした」
真人の声からは、困惑の色を強く感じた。当たり前だった。人工子宮について、真人が読んだ文献は私も全て目を通している。自分の選択がどんなに馬鹿なことか理解しろと、読むように言われたからだ。十余り手渡された文献のどれもが、人工子宮は人類の最高傑作だとその安全性を崇めていた。
人工子宮を用いれば、先天的な傷害を持って生まれる可能性はゼロであり、自らの望んだ性別を生むことができる。男女間だけでなく、同性間でも子供をもうけることだってできる。まさに魔法のような代物だ。
デメリットなんて、調べても出てこなかった、どれもメリットしかないと、人工子宮の素晴らしさを語るものしか目にしていない。
「ありますよ、デメリット。ただ、人工子宮のデメリットというよりは、それに付随して起こることをデメリットとして考えています。これは私だけではなく、他の産科医も言っていますし、日本だけではなく世界で起こっていることです」
付随しておこると言われても、思いつく事象がない。
人工子宮が普及したおかげで子供を持つハードルはグッと下がった。人工子宮が普及する前よりも、出生率は大きく改善している。自然分娩が一般的だった頃は、やはり悪阻や陣痛の痛みをもう一度感じることが恐ろしく、妊娠に踏み切れないと考えている人は一定数いた。そういった層が、子供を持つ選択肢を取るようになったからだ。一時は国が百年前後で亡くなる可能性があるとまで言われた少子化が改善したことも、人工子宮の普及が一端にあると言われている。
人工子宮の素晴らしいところ、メリットはいくらでも思いつく。けれど、いくら考えても、デメリットは思いつかない。
私だけが思い付いていないのかと真人を振り返る。私と同じように、真人も思い付いていないらしく、困惑した表情を浮かべたままだった。
そんな私たちの様子を見て、錦織先生が微笑む。思いつきませんか、と問われ、私は素直に頷いた。考えることが面倒になっていたし、素晴らしいと持て囃されている人工子宮のデメリットとやらを、早く聞きたい気持ちになっていた。
真人も私と同じように頷いたらしく、錦織先生が頭上の棚に手を伸ばす。一番端に差し込んであったクリアファイルを手に取り、中身を取り出す。クリップで左上を止められているそれは、論文のようだった。
タイトルは、人工子宮を用いた分娩での愛着形成について、とある。
「これ、簡単に言ってしまえば経膣分娩を行っていた時代に比べて、子供と親の愛着形成が難しくなっている、ということなんですね。それを否定する声もありますけれど、実際に養護施設に預けられる子供の数は年々上昇しています」
どうぞ、と手渡された論文の概論だけに目を通す。サッと目を通した感じでは、錦織先生の言っている通りのことが書いてあるようだった。
「人工子宮を用いた出産は、とても安全です。けれど、その代わりに私たちは親になる前に子供を持つことになってしまった。腹の中でだんだんと大きくなる子供に、少しずつ親になる自覚が芽生えていく。その時間がなくなってしまったことで、親が親になりきれず、子供を手放す選択を取る人が多くなりました。自分の遺伝子を継いだ、紛れもない自分の子供だというのに、愛情が持てないんですって」
ふう、と錦織先生がため息をつく。瞼が伏せられ、その瞳が何を思っているのかはわからない。
「私のところにも、人工子宮で産んだ子供は可愛くないから、自然分娩がしたいんだとおっしゃるご夫婦がいらしたことがあります。その方達はもうご年齢的に自然妊娠は難しかったので、不妊治療を行いました。無事出産を終えて、ご自宅に帰ってから、やっぱり自然分娩をしたこの方が可愛いから、と言って人工子宮でご出産されたお子さんは養子にだしてしまったそうです」
錦織先生の視線は下を向いたまま。その口から語られる言葉には、少しばかりの悲しさが混ざっているようだった。
真人は論文を読み込んでいるのか、時折紙の擦れる音が聞こえる。私はただの文字より、錦織先生の言葉が気になって、彼女をじっと見ていた。きっと、語られた話は彼女が診てきた患者の一例でしかないのだろう。それでも、仔細を覚えていることから、彼女にとっては忘れられない分娩なのだ。
自分の腹で育てた子ではないから、愛情を抱けなかった。自分の腹で育てた子供には、愛情を抱ける。
十月十日、一心同体で過ごしてきた子供は、自分の一部のように感じるのかもしれない。人工子宮で育った子供は、いつでもネットでどれくらい成長したかを確認することはできるけれど、それだけだ。少しずつ大きくなっていくのを、視覚でしか感じることができない。
祖母の言葉が蘇る。
私からこんなに尊いものが産まれたんだって。腹の底から、感動が溢れてきた。
祖母の腹から溢れたものは、感動だけではなく、愛情もあったのかもしれない。
私が経膣分娩をしたいと思ったのも、祖母がとても満ち足りた顔をしていたからだった。自分の腹で子を育てたことで、祖母はあんな満ち足りた顔をしていたのかもしれない。もしもそうなら、私が経膣分娩をしたいと思ったことは、正しいのかもしれない。
そんなことを考えていると、怒りを纏った声が背後から飛んでくる。
「じゃあ先生は、人工子宮での分娩は間違いとお考えなんですか?」
苛立ちを隠そうともしない、乱暴な物言いに思わず振り返る。普段は垂れている真人の目が、今まで見たことがないくらいに吊り上がっていた。錦織先生の発言のどこに怒りを感じたのか、全くわからない。けれど、真人は間違いなく怒っていた。肩を震わせ、荒くなった呼気を、歯を食い縛ることで堪えている。膝の上で握り締められた拳は、強く握られているのかその部分だけ白くなっている。
「ちょっと、どうしてそんな言い方するの」
諌めようと手を伸ばした私を、真人が拒絶する。触るなと言うように、背を反らせて背後の壁に寄りかかるようにする。錦織先生を睨みつける瞳は、何日も寝ていないかのように激しく充血していた。
真人のこんな姿は、一度だって見たことがなかった。いつも穏やかで優しい真人が、目を吊り上げて声を荒らげる姿に茫然としてしまう。
錦織先生は、これまでに出会ったことのある患者の話をしてくれただけだ。それも、人工子宮にはこんなデメリットもある、と説明するために口にしたに過ぎない。それがどうして、こんなにも真人の怒りを誘ったのだろう。
真人の口腔内から破裂音がする。それが舌打ちだと気づく前に、真人が錦織先生に噛み付く。ほとんど怒鳴り声だった。
「先生は、僕が自然分娩に反対だからそんなこと言うんでしょう!そりゃあそうですよね、だって先生は産科の先生なんだから、分娩がなくなったら仕事がなくなるし、給料に関わりますもんね!」
「ちょっと!そんな酷いこと言わないで!」
「うるさい!結衣は自然分娩がしたいから、都合が良い言葉に転がされてるだけだろう!僕はちゃんと見極めないといけないんだ!この先生に、結衣の命がかかるんだから!」
「でも、だからって言って良いことと悪いことがある!」
言い返すと、真人は顔を真っ赤にして立ち上がった。私も、それに対抗しようと勢いよく立ち上がる。真人が初対面の相手に酷い言葉を言っているという事実が、堪え難かった。それも、無意識に言ってしまったのなら、まだ仕方ないと思える。きちんと謝罪をして、二度と口にしないように言うだけに留める。けれど、今回は違う。明確に、錦織先生に傷をつけようとして発せられた言葉だった。我慢がならなかった。祝福の言葉を初めてくれた相手だとか、そんな理由で錦織先生を庇っている訳ではない。私は、優しい真人が好きだった。誰にでも優しい真人が、人を傷つけようとしていることが、堪え難かった。
それをわかっていない真人は、私の言葉に顔を歪める。うるさい、と子供が癇癪を起こしたように繰り返すその姿に、どうしてだか涙が出そうになった。悲しくて堪らない。こんな風に、人を傷つけようとするのか。言い返せずにいると、真人が片側の口角だけを上げて歪に笑う。
「あなたは結衣が死んだって、なんの責任も取らないんでしょう。無責任に、人に夢を見させようとしないでください」
「真人!」
涙が頬に落ちた。酷すぎる。私はこれから錦織先生に診てもらいたいと思っていたのに、こんな言葉で傷つけたら、二度と診てもらえなくなる。せっかく、錦織先生に診てもらいたいと思ったのに。
ぽろぽろと涙を流し始めた私を見て、真人は驚いたように僅かに目を見開く。ばつが悪そうに視線を彷徨わせ、けれどすぐに錦織先生を睨みつける。私は真人を止めないといけない、謝らせないと、と思うのに、体から力が抜けてしまって、立っていることがやっとだった。
真人にこんな言葉を吐かせてしまったことが悲しい。妊娠できて、自然分娩ができるとなって嬉しかったのに、それを喜んでいたのは私だけだった。真人が喜んでいないのはわかっていたけれど、それでも、私が死ぬと思うくらいに嫌がっていたなんて。私の我儘は、許されない我儘だったかもしれない。
腹の中に子供がいる。それが嬉しくて仕方なかった。でも、真人はこの子供のせいで不幸になっている。祝福の言葉を父親から向けられないこの子は、産まれてはいけない子供なのだろうか。
下腹がきゅうきゅうと締め付けられるように痛む。無意識のうちに、下腹に手が伸びた。まだ薄い腹の中にいる子供を慰めるように腹を撫でると、それまで黙ったままだった錦織先生が私を呼ぶ。
「中本さん、お腹痛いですか?」
「ちょっとだけ…」
「それはいけない。このベッド、使って良いですから、ゆっくり横になってください」
だんだんと増してくる痛みに、素直にベッドに横になる。下腹の痛みは横になっても治らず、それどころか段々と痛みを増していくようだった。
「興奮して、赤ちゃんがびっくりしちゃったんでしょうね。ゆっくり深呼吸して、力を抜いていてください。しばらくしても痛みが治らなかったら、また教えてもらえますか?」
頷くと、先生は口元を緩ませた。下腹に乗せられた先生の手のひらは温かく、痛みが遠ざかっていく気がする。それでも痛いことには変わりがなかったので、言われた通りにゆっくり深呼吸を繰り返す。痛みで力が入っていた体から、少しずつ力が抜けていく。
私の体から力が抜けたことを確認した先生は、ほっとしたように息を吐く。柔らかい笑みに、思わず私も笑ってしまう。
「笑顔は大事ですよ。お腹の赤ちゃんも、お母さんが笑顔なのが一番嬉しいですから。なるべく笑顔でいてくださいね」
深呼吸を繰り返していると、熱を持っていた体から少しずつ熱が引いていく。だらだらと流れ落ちていた涙も、いつの間にか止まっていた。熱が引いていくにつれて、痛みも少しずつ、弱まっていく。もう大丈夫だろうと思い、上体を起こそうとすると、錦織先生が首を振る。
「大丈夫だと思っても、まだ休んでいた方が良いので。気にせず横になっていてください」
「でも、次の診察とか、大丈夫ですか?」
「今日は産科担当なので、大丈夫ですよ。だから気にしないでください」
私が横になったのを確認すると、錦織先生はさて、と小さく呟いて真人に向き直った。真人は私が横になるところを見ていたのに、気遣う言葉一つなかった。視界の端に映る彼は、よほど錦織先生のことが気に食わないのか、瞬きもせずにじっと睨みつけていた。気遣いの言葉一つ口に出来ないほど、怒りを覚える意味がわからない。
錦織先生の言った、親と子の愛着形成が難しくなっているというのは、事実として間違いなく存在しているのだろう。年々養護施設に預けられる子供が増えたことが、それを示している。
その事実から、錦織先生は人工子宮にもデメリットはあると伝えただけだ。どうも安全で母体に影響がなく、確実に健康な子供が生まれるということで、真人は人工子宮での出産を崇拝しているような気がする。錦織先生の言葉を聞いて、否定されたように感じてしまったのかもしれない。だから、こんなにも錦織先生に対して攻撃的な視線を向けている。
真人に向き直った錦織先生は、考えるように握った右手を顎につける。少しの間、そのままの状態でいたけれど、五分もしないうちに、右手を膝の上に置いた。
「旦那さん、まずは一旦座りましょう。座っていた方が力みにくいので、まずはそこから。座ったら、何度か深呼吸してください。そうしたら、お話ししましょう」
真人は胡乱な視線を錦織先生に向けていたけれど、錦織先生が椅子を示したまま口を閉ざしたため、渋々と言った様子で腰を下ろした。それでも錦織先生は黙ったままで、真人が深呼吸するのを待っている。黙って真人を見ている錦織先生に負けじと真人も彼女を睨みつけていたけれど、いつまで経っても口を開かない錦織先生に嫌な顔をした。
「嫌がらせですか」
棘のある言葉に、思わず真人、と非難めいた声をあげてしまう。それを錦織先生に制されて、文句を言ってやろうと勇んでいた口が閉じる。
「そうではありません。ただ、お話をさせていただくには少し頭に血が昇っているようだったので、リラックスしていただきたくて。せっかくお話をするなら、落ち着いて話せる方が良いでしょう」
真人がどんなに嫌な態度を取っても、錦織先生は少しも気にしていない様子だった。内心では苛立っているのかもしれないけれど、少しも表情に出ていない。
真人はしばらく黙っていたけれど、錦織先生を見ながら嫌そうな顔で、深く息を吸った。吸い込んだ息をゆっくりと吐き出し、
「これで良いでしょ」
と吐き捨てる。
「ううん、本当は何度かして欲しかったですけど、まあ良いことにしましょうか」
錦織先生が椅子に深く腰掛ける。背もたれに体を預け、リラックスしている様子だった。
真人が怒気を纏っているのはわかっているはずなのに、少しも意に介していない様子に、思わず笑ってしまいそうだ。
「ええと、まず、私は人工子宮での分娩を悪いものだとは思っていません。デメリットの話をしましたけど、人工子宮のデメリットは一つ、愛着形成がしにくいだけです。でも、自然分娩は旦那さんがおっしゃったように、亡くなる可能性があります。それ以外にも、デメリットはたくさんあります。それこそ言い切れないくらい大量に。自然分娩と人工子宮での分娩を比較したときに、自然分娩が優れている要素は一つもありません。子供を産みたいと思う人は、ばんばん人工子宮を用いれば良いと思っています。それから、お産を取り扱わなければ給料が減るような認識をされていましたけど、それで言えばいくらお産を扱っても給料は変わりません。ここに常勤として勤めているので、お産をたくさん取り扱おうが、一年で一件も取り扱わなかろうが、何も私に利益はありません」
一気にそこまで言い切ると、錦織先生は真人を見て、困ったように笑った。これまでほとんど感情の揺らぎを見せなかった彼女から、初めて感情が発露した瞬間だった。
「私はただ、自然分娩をしたいという女性の手助けをしたいだけです。人工子宮での分娩が当たり前の世界で、困難を選んだ人を手伝いたい、ただそれだけです。旦那さんが、私を敵視する理由も意味も分かりますけど、あなたが中本さんを大切に思っているのと同じように、私も中本さんを大切に思っています」
黙ってそれを聞いていた真人の纏う空気が揺れる。怒りに満ちていた顔から、怒りが少しずつ抜けていくのが見てわかる。真人が口を開く。はくはくと力なく何度か開閉を繰り返し、下唇を噛む。真人が何を言おうとしたのかはわからない。ただ、何かを言おうとして、うまく言語化できなかったことだけはわかった。
眉間に皺を寄せ、苦しそうに胸元を掴む。
「…結衣は、絶対に大丈夫ですか?」
医療に絶対なんて存在しない。それはどんなに技術が発達した今でも変わらない。昔に比べれば、全ての生死に関わる手術で死ぬ可能性は激減した。けれど、激減しただけで、判断ミスが起これば亡くなる可能性があるのは変わらない。時々、医療ミスだとして、医療訴訟のニュースがやっている。
絶対は存在しない。そんなこと、私でもわかっているのだから、医療業界に身を置いている真人は私以上によくわかっているはずだ。それでも絶対という言葉を使っているのだから、彼は自分を納得させるために、どうしても絶対という言葉が欲しいのだとわかった。
私が経膣分娩をすることを、自分自身に納得させるために、絶対という保証が欲しい。
言外に、真人は錦織先生にそれを求めている。それは無理だろう、と私が真人を諌めるために口を開くよりも先に、錦織先生が口を開いた。
「大丈夫です。私が助けますから」
こんな風に言ってしまって大丈夫なのだろうか。錦織先生を見るけれど、その表情は穏やかなままだ。少しも不安を感じていないような表情だった。どちらかと言えば自信に満ち満ちた表情を浮かべている。
「中本さん、私と一緒に頑張りましょうね」
向けられた視線は、どこまでも嘘がなかった。何があっても、絶対に助けると、心から思っているそれだった。この病院を選んだのは偶然だったけれど、選んで良かったと思わせる力強さがそこには存在していた。
大学病院を出たのは、診察を受けてから二時間後のことだった。これまで大学病院や総合病院といった大きな病院に一度もかかることなく生きてきたから、会計までこんなに時間がかかるのかと驚いた。
「なかなか呼ばれないね」
診察室を出てから俯いたままの真人に声をかけると、その肩が小さく震える。話しかけても頷くか首を横に振るかで、一切の言葉を発していない。自分の診察室での行いを振り返って恥じているのか、それとも錦織先生に言われたことを反芻しているのか。何も語ることなく、むっつりと黙り込んだ様子からは、何を考えているのか、察することはできない。ただ、時折私を伺うような視線が投げられているのは感じていた。真人の中で考えがまとまれば、きっと言葉にしてくれるだろうと話しかけずにいた。ただ、まさか会計で一時間以上待つとは思っておらず、スマートフォンを見るのにも飽きた。周りをきょろきょろ見るのも憚れるし、もう一時間は黙っていたから、そろそろ話しかけても良いかと思ったのだけれど、まだ早かったかもしれない。
ふう、とため息をつき、下腹を撫でる。まだ小さい、人間の形をしていない私の子供がそこにいる。これから出産まで、錦織先生のところに定期的に通うことになる。頑張りましょうね、という言葉を思い出す。この子を産むために、私は頑張らないといけない。何があっても、この子のことを第一に考えて、頑張る。
病院の中は、暑いくらいに暖房が効いている。体を冷やさないように、と着込んできたのが仇となっていた。腹を締め付けないようにとワンピースを着ていたから、ダウンを脱ぐ以上、薄着になれず、額に汗が滲む。一度外に出て涼もうか、迷っていると、黙ったままだった真人が腰を上げた。何も言わずすたすたと歩き出し、私を置いてさっさとどこかへ行ってしまう。遠ざかる後ろ姿にポカンとしていたけれど、私から離れて考えたいのかもしれない。話し相手になって欲しかったと少し残念に思いながら、真人が戻ってきたときに隣に座れるように、脱いだダウンを置いておく。
しばらくは、仕切りの向こうで忙しなく動く会計職員たちの動きを見ていた。体に熱が篭り、喉が乾く。何か飲み物を持って来れば良かったと後悔した。袖を捲り、少しでも体の熱を下げようとしていると、真人が歩いてくるのが見えた。考えが纏ったのかもしれない。
「おかえり」
声をかけると、真人は眉間に皺を寄せたまま、片手に持っていたビニール袋から何かを取り出す。無言のまま差し出されたそれは、私が好んで食べているチューブ型のアイスクリームだった。
「暑いかと思って」
ぼそりと呟かれたそれはぎこちない。それには気がつかないふりをしてありがとうと笑顔で受け取ると、ほっとしたように眉間の皺が薄くなった。アイスクリームを口に含むと、口腔内が一気に冷たくなる。体温で溶け出したそれが喉を通ると、体の熱が少しずつ引いていく。何も言わなかったのに、私が暑いことに気がついて、わざわざ買い物に出てくれる。真人はそういう人だった。そういう人だから、私は好きになって、結婚したいと思ったのだ。
「座ったら?」
真人が座れるようにダウンを退かす。ゆっくりと腰を下ろす姿を横目で見ながら、アイスクリームを吸い込む。食べ慣れたチョコレートの味が、熱った体に染み込んでいく。
「あのさ、さっきは、その」
言い淀む真人を遮って口を開いた。
「さっきの、錦織先生に対する態度は良くなかったと思う」
「…ごめん。結衣の言う通りだ」
皺がすっかり無くなっていた眉間に、再度皺が寄る。きっと、謝罪の言葉を口にしたかったのだろう。首がゆっくりと下がり、顔が俯く。はあ、とため息が横から聞こえたけれど、私は真人を責めたい訳ではなかった。
「でも、真人が嫌だってわかってたのに、自然妊娠を選んだ私も悪い。それはごめんね。真人が協力してくれたし、いつかは受け入れてくれるだろうと思ってた」
「いや、でも一回は納得したように振る舞ってたから僕が悪いよ」
真人の声が震えていた。どうにも、私が妊娠してから真人は涙もろくなった気がする。
「真人が、私が死ぬかもしれない可能性に怯えてるのはわかってた。なのに、わかったふりをするだけで真人の気持ちに寄り添ってあげられてなかったんだと思う。それはごめんなさい」
腹の中にいる子供は、真人にも愛されて欲しい。死ぬつもりは少しもないけれど、もしも私が死んでしまったときに、真人には私の分までこの子を愛して欲しい。性別もわからない。どんな子供に育つのかもわからない。それでも、この子には幸せになって欲しい。愛して欲しい。
「でも、この子は幸せにしてあげようよ、二人で、たくさん愛情を注いであげよう。万が一、私が死んでしまっても、この子のせいだとは思わないで、愛してあげて欲しい」
私の伝えたい言葉は言い切った。真人の様子を横目で伺う。噛み締めた唇が、血の気を失って白くなっている。難しい顔をして、考え込んでいるようだ。
本音で言えば、すぐにでも頷いて欲しい。けれど、真人が隠そうとしていた心の内を聞いてしまった今では、そう簡単に頷いてはくれないこともわかっていた。
「今すぐにそう思うのは難しいってわかってる。この子が生まれるまで、考えてみて欲しい」
真人が思い詰めないようにと思って口にした言葉は、私のためでもあった。
真人にそれでも難しいと言われてしまったら、私はどうしたら良いのかわからなくなってしまうから。
真人の首が僅かに上下したのが視界の端に見えて、細く息を吐いた。
今時珍しい。
私が妊娠したことを告げると、多くの人はそう言った。
まだ僅かにしか出ていない私の腹を見て、ここに子供がいるんだねえ、と物珍しいものを見るように目を丸くする。
初めの頃は、珍獣を見るような視線に嫌気が差していた。人工子宮を用いない私が珍しいというのは百も承知の上だったけれど、それでも舐めるような視線を向けられることは不快だった。
「産休かあ。まあ、人事に確認してみるよ」
「お手数おかけしてすみません。よろしくお願いします」
直属の上司に妊娠したことを告げ、産前休暇と育児休暇の両方を取得したい旨を告げると、上司は面倒臭そうに大きくため息をついた。
事前に社員規則の中に、その二つともが存在していることは確認済みだ。育児休暇は子供のいる社員ならほとんど全員が使用しているだろうけれど、産前休暇など、とっている人はいない。人工子宮での分娩は、母体になんの影響ももたらさない。子供の誕生日は、自分達で決められるものだからだ。事前に誕生日を決めておいて、そこでちょうど、十月十日になるように受精卵を人工子宮に移植する。それが今の当たり前だ。だから、生まれる日に休暇を取得するだけで十分なのだ。朝に産みたい、午後に産みたい。そんな要望だって、人工子宮であれば叶えることができる。
自然分娩ではそうはいかない。いつ破水するかもわからないし、いつ陣痛が起こるかもわからない。全てが不明確で、それらは全て腹の中の子供が決めるのだ。
錦織先生が、そう言っていた。
「陣痛も破水も、全てはお腹の中の赤ちゃんが主導権を握っています。そろそろお外に出ようかな、と思えば破水や陣痛が起こります。そうそう、前駆陣痛と言って、陣痛の練習のような痛みが数日続くこともありますよ」
先生からは、破水や陣痛を待つのではなく、計画分娩を勧められている。
理由としては、自宅から病院までが遠いことが挙げられる。初産の場合、陣痛が始まってから分娩が始まるまで十時間近くかかることが多いらしいけれど、必ずしもそうとは限らない。早ければ、初産でも五時間余りで分娩も終わってしまうこともあるらしい。
「なにかがあった場合、近くに対応できる病院はありませんから。計画分娩の方が安心です」
本当は自然に陣痛が始まるのを待ちたかったけれど、先生の言うことは最もだった。真人からも、先生の言う通りにして欲しい、と頭を下げられた。
お腹の子の誕生日は、八月十日だ。
その三日前から入院をして、陣痛を誘発させ、出産する。
産前休暇は、出産予定日の二ヶ月前から取得することが可能になっている。私で言えば、六月九日までは仕事をして、十日からは休暇に入ることができる。人工子宮が普及した結果、産前休暇を使用する人はほとんどいなくなっているけれど、できるならその規定通りに休暇をもらいたかった。錦織先生から、出産が近くなればなるほど、腹が大きくなると言われている。フレックス勤務や在宅勤務が可能だとしても、腹が大きくなった体で仕事を続けるのは一苦労だろう。休めるのなら、休みたいに決まっている。
自分のデスクに戻ると、二つ後輩の女の子、佐久間さんが話しかけてくる。
「産前休暇、もらえると良いですね」
「そうだね。産前は大変みたいだし、しっかり休みたいな」
佐久間さんは、妊娠したことを告げた時、社内で唯一祝福の言葉だけを差し出してくれた。
他の人が口を揃えて珍しい、大変だね、と口にするなか、おめでとうございますと他意を一切感じない笑顔を向けてくれた。彼女の視線だけが、私を不快にさせなかった。
「産まれたら、写真送ってくださいね」
社内の人で、私のことを好き勝手噂している人がいるのは知っている。実は暴行されてできた子供だの、性に奔放でできてしまっただの、避妊に失敗してしまっただの。一体誰がそんなことを言い出したのかと呆れてしまったけれど、一度広まった噂を収束させることは難しい。人の口には戸が立てられないとは、よく言ったものだ。
佐久間さんもその噂を聞いているだろうに、何も知らないような顔で接してくれている。元々感じの良い、優しい子だとは思っていた。けれど特別親しい訳ではなかった。こんな子なら、もっと親しくしておけばよかったと思う。
そういえば、錦織先生に続いて、この後輩は二人目だ。私の腹に子供ができたことに、祝福の言葉を向けてくれたのは。
産まれたら写真を送って欲しいというのは、多分社交辞令のようなものだと思う。けれど、祝福の言葉を渡してくれた佐久間さんには、産まれる子供を見て欲しい、と思った。あなたが祝福した子供が産まれた、ということを、少しでも早く伝えたい気持ちがある。
玄関を開けると、室内にはシチューの香りが漂っていた。そういえば、真人が夜勤明けだったことを思い出す。南蛮漬けでも作ろうかと思って出して冷凍庫から出しておいた鶏胸肉は、今頃くつくつと鍋の中で煮られている。
扉を開けた音はリビングに届いているはずだったけれど、意識して少し大きな声を出す。
「ただいまあ」
少し時間をおいて、間伸びした
「おかえり」
が聞こえてくる。リラックスしているのがわかる声に、ほっとしながら自室へと向かった。ダウンを脱ぎ、カバンをクローゼットの中にしまう。洗面所に向かい、手洗いとうがいを済ませると、リビングへと向かった。もう一度ただいま、と言いながらリビングへと続く扉を開けると、少し眠そうな顔をした真人と目が合う。
「夜勤お疲れ様。待っててくれれば、ご飯作ったのに」
「いや、暇だったから気にしないで。もう少しで出来上がるから、座って待っててよ」
その言葉に甘えて、先にテーブルに着く。すでにテーブルの上には薄切りにされたフランスパンとサラダ、ハンバーグが置いてあった。まだ湯気の立つそれは、私の帰宅時間に合わせて準備されたのだろう。
キッチンで鍋をかき混ぜる真人をぼんやりと見ながら、私は下腹を撫でていた。
大学病院には、あれから一度もかかっていない。まだ胎児が小さいからと、次は四週間後に来てください、と言われた。次の診察は、二週間後の火曜日だ。大学病院には三人、産科の先生がいるらしい。週替わりで診察をしていると言っていた。できることなら錦織先生にずっと診て欲しいと思うけれど、自然分娩が少ない今では、それは難しいのだろう。
錦織先生は産科以外にも、婦人科の診療も行っているそうだ。
「産科だけじゃ、閑古鳥が鳴いちゃいますから」
笑いながら言われたその言葉に、私はどう反応すればいいのかわからず、曖昧に笑った。この言葉は、真人の分娩がなくなったら仕事がなくなる、という言葉に対する返答だろう。確かに産科だけなら私の分娩がなくなれば暇になるけれど、それ以外にもきちんと仕事があると言いたかったのだと思う。
真人とは、大学病院で会計を待っている時に、子供の話をして以来、一切子供の話をしていない。大学病院にかかる前も、子供の話をしない期間があったけれど、また同じようなことになるとは思ってもいなかった。
真人から何かアクションがない限り、私から子供の話をすることはない。大学病院で吐露された気持ちを聞いてしまえば、私のように喜び、子供の成長を楽しみにすることはできないだろうとわかってしまった。
彼なりに、何かを考えてはいるようだった。
仕事の関係上、真人は専門書を多く持っている。そのため、自宅の一番大きな部屋を、真人の書斎兼、寝室にしている。私の部屋は、真人の部屋の半分程度の大きさしかない。
真人が仕事をしている間は、寝室には立ち入らないようにしている。真人が仕事を終えるよりも先に睡魔が来てしまった時は、なるべく音を立てないようにしてそろりと部屋の中に入り、ベッドに寝転がる。大抵は私に気がつかないまま、煌々と灯りの灯る中、優しい泥の中に沈んでいく。ただ、時々、私が入ってきたことに気がついた時は、スタンドライトだけで仕事をしてくれる。オレンジ色の光が微かに部屋の中で輝いているその瞬間が、真人の優しさを可視化したようで好きだった。
私が妊娠してからは、どういった心境の変化なのかは知らないけれど、いつでも真人はスタンドライトのみで仕事をするようになった。
オレンジ色の、温かい光の中で眠ることが当たり前になるまで時間はかからなかった。
その日は、次の日が土曜日だったことと、ちょうど観たいと思っていた映画が放送されるということで、少しだけ夜更かしをしていた。一緒に映画を観ないかと真人を誘ったけれど、仕事が残っているから、と眉尻を下げて申し訳なさそうに断られた。ちょうど学会の準備があると聞いたばかりで、論文を読んだり文献を集めたりするのだろうと思い、特に気にもしなかった。
映画が終わり、眠気で重くなった瞼を擦りながら寝室に向かうと、室内はオレンジの光に包まれていた。私がいつ来るかわからないから、眠りやすいようにそうしてくれていたようだ。静かにベッドに潜り込もうとしたところで、はたと気がついた。いつだって背筋を伸ばしている真人が、猫背になっていた。キーボードを打つ音も聞こえなければ、専門書のページを捲ることもない。もしやと思い、顔を覗き込むと、思った通り、寝入っているようだった。すうすうと規則的な寝息を立てていることから、ついさっき眠りに落ちたというわけでもなさそうだった。このままでは風邪をひいてしまう。肩を揺すって起こそうとした時、机の上に広げられている数枚の紙に目が行った。
論文だと思っていたものは、論文ではなかった。妊娠してから何度も見た、胎児の絵だった。臍の緒を通じて母体と繋がっている胎児の絵だ。起こさないように気をつけながらそれに手を伸ばす。胎児の絵が描かれているのは一枚目のみで、それ以降は医学書のようだった。真人の仕事に関わりがあるとは到底思えないそれは、わざわざ職場で印刷をしてきたのだろう。
経膣分娩について書かれたそれは、何度も読み込まれているようだった。紙の隅が擦り切れて、シワが寄っているところもある。
彼なりに、私の気持ちを理解しようとしているのだと思った。理解しようと努力をしているのがわかっただけでも、私は充分だった。
頭ごなしに否定された訳ではない。理解しようと努力をした上で、理解ができないと言われるなら仕方がないと諦めることができる。真人に喜んで欲しいと願うことは、辞められる。
理解しようとしているのは、私を愛しているからだろう。愛しているからこそ、到底理解できないことをしようとしている相手を理解しようと苦しんでいる。その姿が見られただけで、充分すぎる。
真人と幸せだねと笑い合いながら、子供の成長を楽しみにすることができれば、それはとても幸せなことだと思う。ただ、そうしたいと願うのは、私の我儘でしかない。真人が、彼なりに決着をつけるのを、私はただ待つことしかできない。
「おまたせ」
目の前に、なみなみに注がれたシチューの入った皿が置かれる。甘い匂いが湯気と共に立ち上ってきて、唾液が溢れてくる。
「美味しそう」
笑えば、真人も笑い返してくれる。
今のままでも、私は充分に幸せだ。私を大事にしてくれる夫がいて、それだけで満足しないといけない。これ以上を望むのは、分不相応だろう。
出勤するなり、上司から声がかけられた。いつもは遅刻ギリギリに出社をしてくる癖に珍しい。給湯室に連れて行かれると、しかめ面をしながら何かを言い淀んでいる。催促したい気持ちを抑え、辛抱強く言葉を待っていると、大きなため息が吐き出される。
「…産休のことなんだけど」
「ああ」
そのことか、と合点がいく。人事から回答が返ってくるまで数日かかるかと思っていた。まさか産前休暇が欲しいと言った翌日に返事が返ってくるとは思っていなかった。わざわざ給湯室に呼ばれたのは、よくわからない。違う部署の人は、私が妊娠していることを知らないから、それで気を使ってくれたのかもしれない。
「産休、ダメだって」
申し訳なさそうに言われた言葉に、一瞬思考が停止する。ダメだって。言われた言葉が、頭の中で反響する。
「どうしてですか」
社員規則の中には、産前休暇についてしっかりと記載されていた。拡大解釈をしないように、何度も規則を読み込んだはずだ。二ヶ月前から休暇が取れると明記されているのに、取得できないとはどういうことだろうか。
どうしてという気持ちが強く、上司に問いかけた言葉が強くなってしまった。上司を責めても仕方ないとわかっているのに、怒りと困惑で感情をうまく隠すことができない。
上司も人事からの返事に納得がいっていないのか、眉間に皺を寄せている。
「人工子宮での分娩が一般的になっているのに、自然分娩を行いたいっていうのは自己都合だから、っていうのが人事の回答だった」
「…それを言ったら、育児休暇だって自己都合っていうことになると思うんですけど」
上司に文句を言ったって仕方がないことはわかっていても、口から文句が飛び出してくる。人事の回答は、つまり社員規則にはあるけれど、イレギュラーなものだから使用させないということだ。そんなの、間違っている。人工子宮を用いた出産が一般的なことは間違いないけれど、人間として、出産の機能は備わっているのだし、自然分娩を希望する可能性だってあるだろう。それなのに、自己都合だから使えないとは、一体どういう了見だろう。
「そうなんだけどね。人事はそう言ってるみたいだから…」
それじゃあ、と上司はそそくさと給湯室から出て行ってしまう。一人取り残され、行き場のない感情を壁にぶつける。壁を殴りつけた拳がじんと痛む。話し声が近くで聞こえてくるまで、壁を殴る手を止められなかった。
経膣分娩をしたいと思った私が間違っていると言われている気分だ。
結局世間的には人工子宮での分娩が一般的だから、人事からすればわざわざ自然分娩を利用して子供をもうけようとしている私を理解するつもりがないのだ。だからこそ、制度があるにも関わらず利用することができない。
「顔色、悪いですよ。大丈夫ですか?」
いつ、自分のデスクに戻ったのか、記憶がはっきりしていない。気がつけば、デスクに座ってぼんやりとデスクトップを眺めていた。キーボードの上に指は置いているけれど、画面には書き途中の企画書が表示されているだけで、最後に保存した時から一文字も進んでいない。
仕事をしないと、という気持ちだけはしっかりあったらしい。何も覚えていないくらい、頭が真っ白になっていたらしいのに、おかしなところで真面目さが出た。
「お腹に赤ちゃんがいるんですから、無理しないでくださいね」
佐久間さんの声に、目頭がツンと痛くなる。それには気がつかないふりをして、口角を持ち上げた。
「大丈夫。少し、寝不足なだけ」
もし、私が人事に泣きつけば、産前休暇はもらえるのだろうか。人事部に飛び込んで、大声で酷いとみっともなく泣き喚けば、事態は変わるのだろうか。
冷静な頭が、そんな訳ないと下らない考えを一蹴する。わかっている。この世は、マイノリティには冷たい。当たり前だ。マイノリティに合わせていたら、世界は回らなくなってしまう。マイノリティは、マジョリティの影に隠れていくしかない。でも、私の妊娠は、人間として当たり前に備わっている機能なのに、どうしてマイノリティとして扱われないといけないのだろう。昔は私がマジョリティだったはずなのに。時代が変われば常識が変わる。人間としての機能がマジョリティになるなんて、誰が想像していただろう。
まだ何かを言いたげな顔をしていた佐久間さんの視線から逃げるように立ち上がった。
「ごめん、ちょっとお茶買ってくるね」
お茶なんて、欲しくなかった。社会人になってから、毎日水筒を持ってきている。ただ、一人になりたかった。佐久間さんの優しさを浴びていたら、大人気なく泣き出してしまいそうだった。
その日は、進めたいと思っていた仕事は少しも進まなかった。文字を打ち込んでは消して、という作業をひたすら繰り返していた。ぼんやりとした頭で思いつく文字は、どれもが嘘くさく馬鹿みたいに見えた。いつもは自信を持って打ち込めるそれらが、小学生でも思いつくように思えて仕方がなかった。
家に帰ってからも、頭は靄がかかったようだった。真人は夜勤で家に帰ってはこない。帰ってくるのは明日の十時ごろだろう。食事の準備をして、出しておいた洗濯物を取り込まないといけない。風呂の準備もして、明日の仕事に備えないと。そう思うのだけれど、体に力が入らない。
胃がムカムカする。三日ほど前から、夕方になると胃がムカムカするようになった。多分、悪阻だと思う。何かを食べると、そのムカムカは収まるけれど、それも食べている間だけだ。食べていない間、うっすらと胃の気持ち悪さが継続する。
何か、簡単に口に入れられるもの。
ふらふらと立ち上がり、冷蔵庫を開ける。買い置きの納豆と、豆腐がある。常備菜は、機能食べ終わってしまった。米が食べたいと思ったけれど、米を炊くことすら面倒だ。
納豆と豆腐を手に取り、ソファに戻る。胃の中に収まればいい、そんな気持ちで、口の中に豆腐を詰め込んだ。
産前休暇が取れないとなったら、私はどうすればいいのだろう。陣痛が来るまで、職場にいるしかないのだろうか。病院までは、一時間以上かかるのに。
もう一度、人事に産前休暇を取得したい旨を相談しよう。もう一度相談して、それでもダメだと言われたら、真人と相談するしかない。どうしても経膣分娩をしたいという気持ちは変わらないから、休職の形を取るしかないだろう。ため息が口から溢れた。落胆が色濃く滲んだそれは、リビングの冷たい空気の中でいつまでも漂っている気がする。
腹の中に子供が宿って、嬉しい。子供ができたことは素晴らしいことのはずなのに、ただ、私の腹の中に子供がいるというだけで、おかしいものと扱われる。私はただ、祖母の言っていた幸せを感じたいだけなのに。
いつもなら何かを食べれば、胃の不快感はなくなるのに、今日に限って不快感は増すばかりだった。
産前休暇が取得できないかもしれない、と真人に告げると、どうしてだかほっとしたような表情を浮かべた。どうしてそんな顔をするのかわからず、首を傾げる。笑うのを堪えているのか、口角がひくりと痙攣するのが見える。
「休暇が取得できないんだったら、人工子宮での分娩に切り替えたら?」
ああ、と合点がいった。自分を悪者にせずに、経膣分娩をやめさせられると思ったのか。
何を言われようとも、経膣分娩をやめるつもりはない。腹に子供がいるとわかってから、その思いは強くなっている。
まだ薄い腹の中に、本当に子供がいるのかと思うこともあった。けれど、エコー写真に写る豆粒のようなそれが子供だと思うと、途端に胸が締め付けられるようだった。少しずつ大きくなって、人間の形を取るようになる。だんだんと腹が大きくなっていくところを想像すると、胸の締め付けは一層苦しくなった。いとおしい、という言葉がぴったりだと思った。
早く、この薄い腹が膨らんで欲しい。腹の中で動いて、内側から手足を伸ばして欲しい。
腹が動くことを考えると、それだけで目頭がつんと痛んだ。
経膣分娩をしたいと思ったのは、祖母がきっかけだった。幸せだと語るその顔が、心底幸福に満ち満ちていたから、私もそれを体験したいと思った。
でも、今はもう、祖母のことはあまり関係ない。私が、この子を腹の中で育てたい。ただ、それだけだった。
「切り替えないよ」
分かりやすく、真人の顔が曇る。休暇がもらえないとなれば、経膣分娩を諦めると思っていたのだろう。
「でもさあ、計画分娩にするって言ったって、それより前に破水する可能性だってあるんだろう?休暇がもらえないなら、どうするんだよ」
「休業する」
「休業?」
「まだ人事には話してないけど、休業するつもり。産前休暇が取れる時期から取ろうと思ってる」
そこまでしなくても、と言いたげな真人には気がつかないふりをした。
何を言われても、人工子宮での分娩に切り替えるつもりはない。
はあ、と真人が大きくため息をつく。諦めたような瞳が私を見た。何を言っても無駄だとやっと理解してくれたようだった。
「…勝手にすればいいよ」
そうする、と返事をすると、真人は私を一瞥して、リビングから出ていった。体の中に迸る怒りと諦めといった色々な感情が、大きな足音になって私に向かってくる。
数年間、真人と過ごしてきたけれど、この数ヶ月で彼の知らなかった表情をいくつも知った。全てマイナスの感情に起因していることが申し訳ないと思う。幸せになろうと誓って結婚したのに、彼は今、幸せじゃない。
私の我儘が、全てをおかしくしているとわかっていても、この子を今更腹の外に追いやることはできそうになかった。
何をするでもなくソファに座っていると、スマートフォンを耳に当てた真人がどたどたと大きな足音を立ててリビングに入ってくる。出ていった時と同じように、怒りや諦めの感情が瞳に浮かんでいる。誰かと電話をしているらしく、うん、うん、と相槌をうつ声が聞こえる。わざわざリビングにやってきて電話をしなくても良いだろうと思わないこともなかったけれど、何をしているわけでもなく、ただぼんやりとしていただけだったから、黙ったままソファに座っていた。自分が関与しない会話というのは耳障りに感じる。そうなんだよ、と電話口の相手に言う真人の瞳が、嬉しそうに下がっている。こんなに嬉しそうな顔は、妊娠してから始めて見たかもしれあい。最近、家で見る真人の顔はいつだって不機嫌そうで、悲しそうで、何かを我慢している顔だった。
幸せになろうと結婚したのに、真人はきっと、今は幸せではないのだろう。私のせいで。
真人が笑うためには、私が我慢をするしかないとわかっているから、私は真人が悲しむことを選ぶしかない。それしか選べない。
「結衣、ちょっと良い?」
電話を耳につけたまま、真人が小さく手招きをする。ソファから立ち上がると、スマートフォンを差し出された。
「僕のお母さん。結衣と話したいんだって」
普段はあまり、義母と関わりはない。真人も、ほとんど連絡は取っていないようだ。年に二回、自宅に顔を出せば良い方で、ほとんど没交渉と言って良い。それなのに、どうしてこんな日にわざわざ電話をしているのか、よくわからなかった。
待ってるから早く出て、と急かされるまま耳にスマートフォンを当てる。聞き覚えのある、甲高い声が耳に飛び込んでくる。
「結衣さん、子供ができたんですって?おめでとう!もっと早く言ってくれれば良かったのに」
聞こえてきた声に、勢いよく真人を見た。笑っているのに、その顔は意地の悪さが滲んでいた。口をぱくぱくと動かして、話してあげて、と言っているのが見えた。
しらばっくれたように笑う真人に、体が一瞬で熱を持つ。怒りが沸々と腹の底から湧き上がってくる。
妊娠したことは、まだ言わないでと伝えておいたのに、義母に伝えたようだった。電話口の義母は、きゃあきゃあと頭が痛くなるような甲高い声で孫が産まれることを喜んでいる。相槌を打ちながら、どうして真人は義母に妊娠を伝えてしまったのだろうかと頬の肉を噛んでいた。
義母は、結婚当初から早く孫が欲しいとしつこかった。まだ二人で過ごしたかった私たちは、それに曖昧に返事をしてやり過ごしていた。自分達のタイミングで子供を持ちたいというのは、二人の共通の思いだったから。経膣分娩をしたいと私が言ってからは、子供が出来たとしても安定期とされる妊娠五ヶ月に入るまでは伝えないでくれと口酸っぱく言っていたのに。裏切られた気分だ。
一体いつ呼吸をしているのかと思うくらい、義母はこれから生まれてくる孫について捲し立てている。やれどこそこに行きたいだの、どんな洋服を着せたいだの、名前はこうしたいだの。まだ性別もわかっていない、私の子供を、自分に与えられたおもちゃのように思っているようだ。
怒りが声に出ないよう、意識して柔らかい声を出すように努める。電話が終わったら、真人と話をしないと。どうしてこんなことをしたのか、彼の気持ちを聞かせてもらわないといけない。
「それでねえ、結衣さん」
それまで甲高い声を出していた義母が、声を低くした。内緒話をするようなそれに、思わずこちらも声が小さくなる。
「なんでしょうか」
「真人に聞いたんだけど、あなた、人工子宮じゃなくて、自分で産むことにしたらしいじゃない」
非難めいた口調に、あ、と小さく声が漏れた。
真人がどうして、ほとんど連絡を取ることのない義母に電話をかけていたのか、わかってしまった。
どうしても経膣分娩がしたいという私を説得するために、義母まで引っ張り出してきたのだ。真人や実母の言うことをきかなくても、義母の言うことならきくだろうと考えたに違いない。
腹の底でぐつぐつと煮えていた怒りが、喉元まで迫り上がってくる。真人を睨みつけると、へらへらと少しも悪びれる様子がない。こんな人だったかと、怒りと共に呆れが出てくる。私は真人と結婚して、新しく二人で家族を作ったつもりだった。真人は納得していないようだけれど、それでも妊娠するとわかっていて、私とセックスをしたのも彼だ。自分の思い通りにならないからと親を出してくるのは、ルール違反じゃないか。
「人工子宮での分娩に切り替えなさいよ。そっちの方が絶対に良いわ。あなたの体も楽だし、それに、ねえ」
言葉に何かの含みを感じた。喉を震わせる、小さな笑い声は私を嘲っているようだった。
「腹が膨れていくなんてみっともないし、そんな大きなお腹、セックスが好きなはしたない女だと思われたら、真人が可哀想じゃない?」
怒りで目の前が真っ赤になる、とはこういうことを言うのだと思った。義母の言葉が鼓膜を通り、脳で処理されて理解した瞬間、視界が赤く染まった。指先が震え、奥歯が軋む。
濁流のように怒りは体から溢れてくるのに、言葉にならない。この怒りをどう表現すれば良いのか、思いつかない。
感情のまま、怒鳴りつけてやりたい気持ちを堪えて何度か深呼吸を繰り返した。わざわざ喧嘩を売る必要はないとわかっているのに、口を開けば間違いなく罵声が飛び出す。何度も深呼吸を繰り返して、どうにか怒りを少しでも鎮めるように努める。
ぺらぺらと好き勝手話す義母の言葉が止まったタイミングで口を開く。怒りが滲まないように、拳を握りしめた。
「ご心配ありがとうございます。でも、私は人工子宮に切り替えるつもりはありませんので。では」
返事を待たずに通話を切った。そのままソファにスマートフォンを放り投げると、真人がおい、と声を荒げる。何か文句を言っているのは聞こえていたけれど、少しも聞こえない。
「あのさあ!」
体に満ちている怒りを呼気に混ぜる。自分が出した声に、鼓膜がじんと痛む。声量を抑えないといけないと、冷静な自分が言う。けれど、止まらなかった。一度口から飛び出した怒りは、そのまま勢いに乗って濁流のように溢れ出す。視界がチカチカと点滅して、呼吸が荒くなる。頭がずきずきと鈍い痛みを訴えているのは、血圧のせいだろうか。
「どうしてお義母さんに言ったの」
「…母さんにだって、孫が産まれることを知らせたって良いだろ。結衣のお母さんには、もう伝えたんだし、僕の母親にだって」
だらだらと言い訳を続ける真人を睨みつける。
「私は!言わないでって言った!」
体が震える。胸が苦しい。言い表しようもない怒りや悲しみが、体の中で暴れ回っている。自分を抑えていないと、今にも真人に殴りかかってしまいそうで、自分の体を強く抱きしめた。クソ野郎、と呟く。聞こえていても良かった。こいつはクソ野郎だ。私が、言わないでと言ったことを破って平然とした顔をしている。人工子宮での出産とは違って、私の腹の中で育っているこの子はいつ成長を止めてしまうかわからない。だからこそ、安定期と呼ばれる時期まで、真人の両親には伝えないで欲しいと言ってあったのに。
「あなたはただ、人工子宮での分娩に切り替えて欲しくて、お義母さんに軽い気持ちで電話したんでしょう。お義母さんから言われれば、私だって人工子宮での分娩に切り替えるだろうって。お義母さんが私を説得してくれるだろうって思ったんだよね?」
息が苦しい。義母に言われた言葉が頭の中で何度も繰り返す。
セックスが好きなはしたない女。
こんなに酷い罵倒を今まで耳にしたことはなかった。
どうして人工子宮での分娩を希望しただけで、こんなことを言われないといけないのか、理解ができない。たった五十年ほど前は、自然分娩が当たり前だった。その時代に妊娠をしていたとしても、そんなことを思いつく人はきっといなかった。大きく膨らんだ腹を見ても、妊婦だと思うだけだったろう。少し時代が違えば、こうも悪意を持って捉えられるのか。
妊娠したと会社で告げた時、向けられた瞳は確かに物珍しいものを見る目だった。けれど、実際は違ったのだろうか。義母のようにはしたないと思われていたのだろうか。
「私がお義母さんになんて言われたと思う?」
真人は、どうして私がこうも感情を露わにしているか、皆目見当もつかないと言ったように困惑した表情を浮かべていた。その顔を見ていると、こんなにも激情に身を委ねている自分が馬鹿馬鹿しく思えてくるのに、それでも怒りが体を動かす。
「セックスが好きな、はしたない女って言われたのよ!妊娠は一人じゃできないのに、私だけが馬鹿みたいな言い方されて、怒らないとでも思った?」
口を大きく開けているのに、うまく酸素を吸い込むことができない。苦しくて胸を掻きむしる。
真人が傷ついたような顔をしているのが見えて、どうしてお前がそんな顔をするんだと怒鳴りたい気持ちになった。酸素を取り込むのに精一杯で、罵声は喉の奥で絡まって出てこない。
経膣分娩をしたいと願うことは、そんなにいけないことなのだろうか。酷い罵倒を浴びなければいけないくらい、最低な願いだというのか。
脈に合わせて、下腹がずきずきと痛み出す。ごめん、と心の中で腹の子に謝った。こんな酷い言葉を聞かせてごめん。こんな酷い言葉を吐くおばあちゃんがいてごめん。腹の中から追い出そうとする人が父親でごめん。
謝罪の言葉を繰り返して、違う、と思い直す。そもそも私が悪かった。真人が反対した時点で、人工子宮での分娩を選んでいれば良かった。
「ごめん、そんなこと、母さんが言うと思わなかった」
「思わなくてもお義母さんは私に言ったの!酷すぎると思わないの?確かに私はセックスをしたから子供ができたけど、私一人じゃ子供は出来ないのに!私だけが悪者みたいに言われて!」
目頭がツンと痛んで、視界が滲んだ。堪えろ、と唇を噛み締めても、あっという間に体から涙が溢れ出し、頬をしとどに濡らした。滂沱の涙を流しながら叫ぶ私に、真人は大きな体を小さくして謝るばかりだった。
軽い気持ちで、私の愚痴を言ったのだろう。こんな大事になるなんて、欠片も思っていなかったに違いない。
溢れる涙が頬を、首筋を濡らしていく。涙を吸い込んだ襟元はぐっしょりと湿り気を帯びて、重たくなっている。
真人が眉尻を下げて、手を差し出してくる。その手を取れば、きっと何度も謝られて、私の機嫌がなおるよう、甘やかしてくれるのだろう。そうやって、絆そうとする。今までは、それで許せた。手を差し出されるときは、とても小さい喧嘩ばかりだったから。私が怒って、それに困ったように笑った真人が手を差し伸べる。二人の間で、言葉を交わさずとも仲直りをするための儀式だった。
真人と視線がぶつかる。その顔に、ほっとしたような色が浮かぶ。ごめんね、と小さくつぶやくのが聞こえて、体がぶわりと熱を持つのを感じた。涙となって溢れ出たはずの怒りが再燃する。
真人は、私がこの手を取ると思っている。いつものように私を絆すことができると、信じている。そんなはずないだろう。こんなに泣いて、怒っていることを訴えているのに、なにも伝わっていない。人の気持ちがわかる人だと、真人のことを思っていた。人の気持ちを慮ることのできる優しい人だと、ずっと思っていたのに、実は違ったのかもしれない。人に優しいわけではなくて、自分に怒りのような、負の感情を向けられた場合に対処することが上手いだけの、自分可愛さが先立つ人なのかもしれない。そうでなければ、涙を流しながら怒っている相手の怒りを受け止めることもせず、曖昧なままで終わりにしようとはしない。
信じられないものを見ている気持ちだった。
いつまでも手を取ろうとしない私に痺れを切らした真人が、腕を掴む。掴まれた箇所から、鳥肌が全身に広がっていく。触れる体温を、初めて気持ち悪いと思った。
「触らないで」
腕を振り解く。一瞬、何が起こったのかわからない、といったように、真人は振り解かれた腕を見ていた。ぼんやりとしていた瞳が、次第にはっきりしていく。再度伸ばされた腕を避けると、リビングから飛び出した。背後から、真人が私を呼び止める声が聞こえていたけれど、聞こえないふりをした。
自室に飛び込み、鍵をかける。引っ越してきてから、鍵を使ったのは初めてだった。今は一人になりたかった。
鍵をかけて少しすると、ドアノブが上下するのが視界の端に映った。がちゃがちゃとドアノブが音を立てるけれど、鍵がかかったそれは侵入者をしっかりと拒んでくれる。扉が一枚あるというだけで、逆立った心は少しずつ凪いでいった。
結衣、と名前を呼ぶ声が聞こえる。開けて、と続いた声に懇願が滲んでいることには気がついたけれど、返事はしなかった。せっかく凪いだ心が、また逆立ってしまう。今度こそ、声を荒げて罵倒してしまう。
「今日は話したくない」
続いていたノックが止んだ。扉の向こうの気配は、しばらくすると諦めたようにリビングの方へと消えていった。足音が聞こえなくなってから、自分が呼吸を止めていたことに気が付く。思い切り息を吸い込むと、熱を持っていた体が少しずつ冷えていく。
下腹を撫でる。私の子供。確かにここにいる。
止まりかけていた涙が、またぼろぼろと流れ出す。
この子は私の腹に存在してはいけないのだろうか。
こんな時だからか、錦織先生を思い出した。おめでとうございます、と彼女から向けられた透明な祝福が、私の在り方を肯定してくれたことが救いだった。
診察室に入ると、錦織先生が口角を上げる。
「こんにちは。今日はお一人で?」
「はい。ちょっと、夫は都合が悪くて」
「あら、そうなんですか」
錦織先生は、真人がいないことを特に気にした様子もない。何か言われるだろうかと気にしていたけれど、杞憂だったようだ。
妊婦健診には真人も一緒に来る予定だったけれど、予約を早めて一人で来てしまった。
真人からは何度も謝罪の言葉をもらっていたけれど、どうしても、義母から告げられた言葉が許せなかった。何度も、それは真人に言っている。許せない、直接謝罪をして欲しい、と。真人からの謝罪は受け取った、義母からも謝罪をして欲しいと訴えているのに、真人は困ったように眉を下げるばかりだった。
義母に謝罪をさせるつもりがないらしいと気が付いてからは、彼との会話を避けるようになった。何が悪かったのか、なぜ私が怒っているのかを根本的に理解していないのだと思うと、何度謝罪の言葉を聞かされても許そうという気持ちには到底なれなかった。
内診室に移動し、下着を脱ぐ。内診台に腰掛けると、少し遅れてやってきた錦織先生が台動きますよ、と声をかけてくる。体が斜めになり、尻を置いていた座面がなくなる。足が開かれて、股ぐらがすうすうする。二度目の体験だけれど、これはいつまで経っても慣れることはないだろうと思う。必要だとわかっているから受け入れることができるだけで、そうでなければ屈辱でしかない。
内診が終わり、診察室に戻ると、錦織先生はにこにこと微笑んでいる。
「赤ちゃん、元気ですよ。これから日に日に大きくなっていきますからね、無理せず生活してください。お腹はまだ大きくなってはこないでしょうけど、うつ伏せで寝ると赤ちゃん苦しくなっちゃうから、うつ伏せは控えてください。あとは、ストレスを溜めないように」
わかりました、と返事をすると、診察はあっという間に終わった。二時間かけて病院に来ているのに、診察は十分もかからずに終わる。
家に戻ると、まだ昼を少し過ぎた頃だった。残り物で昼を済ませ、ソファに横になる。最近はやたらと眠たかった。夜は早く寝ているというのに、十四時を過ぎると耐え難いほどの眠気が襲ってくる。ミントの強いガムを噛むことで眠気をどうにか堪えてはいても、少しでも気を抜けば瞼が閉じてしまいそうだった。
時計を見ると、まだ十五時を過ぎたばかりだった。真人が帰ってくるまではしばらく時間がある。本当はソファではなくて布団でしっかりと眠ってしまいたかったけれど、風呂を入れる気力はない。泥に落ちたように体は重く、意識を保っているのがやっとの状態だ。重たい体を動かしてアラームを十七時にセットすると、ぷつりと意識が途切れた。
トントンと包丁がまな板を叩く音で目が覚めた。まだ眠気で重たい体を起こし、音のするキッチンに視線をやると、真人と目があった。真人は気まずそうに視線を彷徨わせた後、ただいま、とへらりと笑った。
「おかえり。早かったね」
時計を見ると、まだ十七時になっていない。真人が日勤の時、帰宅は大抵十八時を過ぎる。どうしてこんなに早く帰ってきているのか問いかけようとする前に、言い訳のように真人が早口で言う。
「時間休が余ってて、今月中に使わないと消滅するやつだったから、今日使ったんだ」
「そう。お疲れ様」
少し眠ったおかげか、あれだけ体にまとわりついていた眠気は多少マシになっていた。けれど、ソファで眠ると体が軋む。若い頃はソファで眠ってもそんなことはなかったのに、日常の些細なことで老いを感じるようになった。
「夕飯、作ってるから」
「わかった、ありがとう。そしたら、洗濯物取り込んでくるね」
ソファから立ち上がると、規則的だった包丁の音が止まる。キッチンからは、コトコトと何かが煮える音がする。残り物で昼を済ませたからか、その音を聞いているだけで腹がくうと鳴った。寒いから温かい汁物がいいな、と考える。ベランダへと向かう私の背中に、真人があのさ、と声をかけた。
振り返ると、眉尻を情けなく下げた顔が私をじっと見ていた。
彼の顔を正面からしっかりと見るのは久しぶりだった。真人との会話を避けるようになってから、食事は一緒に摂っていても常に俯いているような状態だった。会話も、さっきまでのような必要なものしか交わさない。寂しい、という感情はあった。一緒に暮らしているのに、他人行儀に過ごすことは悲しくて寂しい。けれど、義母から言われた言葉は私にとってはとても屈辱的で、義母からの謝罪がなければ許すことはできそうにない。早く謝ってくれないかと思う程度には、冷戦状態が続いていた。
言葉の先を待っていると、キッチンから真人が出てくる。視線は落ち着きなく彷徨っているのに、その足はまっすく私に向かって来ている。また謝罪をするつもりだろうか、と正直うんざりしてしまった。
真人に伝えた通り、真人に謝ってもらうのは、もう良い。彼に伝えた通り、私が謝って欲しいのは義母だからだ。
「結衣」
真人の声が、恐々と私の名前を呼ぶ。部屋の中は暖房が効いていて暖かいというのに、真人の唇は寒空に放り出されているように白っぽかった。黙ったまま真人を見ていると、私から少し離れたところで立ち止まる。ゆらゆらと落ち着きなく上半身が揺れている。
「僕の母さんから謝って欲しいって言ってたと思うんだけど、それはできない」
やっと義母の話が出たかと思えば、その口から出てきた言葉は望んでいなかったものだった。
「どうしてできないの?」
できないにも、種類があるだろう。義母が嫌がっているからできないのか、義母にそんなことをさせられないからできないのか。
どうして、と言った私の声に、真人の息が詰まる。できないと言われて素直に頷けるなら、もっと早く冷戦状態が終わるとわかっているだろうに、どうしても誤魔化したいのだろう。ちらちらと私の様子を伺う姿に、思わずため息が出た。
私と真人は一週間近く、まともな会話をしていない。同棲を始めて、結婚してからも、一度もそんなことはなかった。喧嘩をしても口を利かない時間は、長くても一日だった。それが一週間だ。それだけで、私が大きな怒りを抱いていることがわかるだろう。それでも義母を庇うというのなら、今後のことを考えなくてはいけないかもしれない。義母を尊重して私を蔑ろにするのなら、そんな男はいらない。
真人はええ、とかああ、とかよくわからない言葉を吐き出す。何かを言い淀んでいることはわかった。
「はっきりして」
意識して冷たい声を出すと、踏ん切りがついたのか、うろうろと部屋の中を彷徨っていた視線が私を射抜く。薄茶色をした瞳には、怒った顔の私が写っている。
「結衣から母さんの謝罪が欲しいって言われた日、母さんに謝って欲しいって、伝えたんだ。そうしたら、母さんは笑って自分は間違えてないから謝らない、謝るのは結衣の方だって…」
「さっきのできないっていうのは、お義母さんが謝るつもりがないからできないってことね?」
うろ、と視線がまた彷徨う。頷いて良いものか、迷っているようだった。黙ったままでいると、諦めたように真人が頷いた。
「そっか。わかった。それなら、もう仕方がないね。お義母さんに謝ってもらうことは、諦めるよ」
私の言葉に、ほっとしたように真人の視線が和らぐ。義母が謝らないと言うのなら、それはもう諦めるしかない。他人を帰ることはできないし、嫌嫌謝られても納得はできない。謝罪をしてもらうなら、心からのそれが欲しい。
それじゃあ、と明るい声を出した真人を遮って、私は冷たい声のまま言った。
「でも、それならお義母さんにはこの子は会わすことはできないね」
私の言葉が理解できなかったのか、真人がそれじゃあ、と言った口のまま固まった。義母からの謝罪を受け取ることを諦めた私が、一体何を言うと思っていたのだろう。お義母さんに理解してもらえるように頑張るね、と殊勝なことを言うとでも思っていたのだろうか。もしそうなら、やはり真人は私の怒りを少しもわかっていない。
わかりやすく安堵し、緩んで持ち上がった口角が馬鹿みたいだ。私が我慢すれば良いと、真人は思っているから、義母からの謝罪を諦めると言ってすぐに、そんな風に笑うことができるのだ。
「だってそうだよね?セックスが好きなはしたない女の子供なんて、見たくもないでしょう?」
義母から言われた言葉を口にすると、真人の顔から微かに浮かんでいた微笑みが消える。その代わりに、脅えにも似た表情が浮かんだのが見えた。ようやっと私が本気で怒っている、ということがわかったのかもしれない。今更わかったとしても、膨れ上がった怒りは変わらない。腹の中でぐつぐつと煮えたぎるばかりだ。
どう言葉を掛ければ良いのかわからないのか、真人の口がぱくぱくと開閉を繰り返す。視線がまたうろうろと落ち着きをなくし、この場を収めるための言葉を探し出す。
「絶対にお義母さんには会わせない。無理矢理この子と会わせようとするなら、私はあなたと離婚する。絶対に」
真人が言葉を見つける前に吐き捨てた。結衣、と呟く声が聞こえたけれど、そのままリビングを出る。
この家にはいられない。真人と顔を合わることがもう億劫だ。私の望んでいる経膣分娩をしたいという気持ちを理解しようとしないことはまだいい。それは私の勝手な希望で、受け入れられないと言う気持ちも理解できる。私が死んでしまうことが怖い、と言う真人の気持ちはよくわかる。自分が真人の立場だったとしても、同じように考えると思う。
けれど、自分では説得ができないからと義母を使って私を説得しようとした挙句、酷い言葉をぶつけて来た義母に対して怒ることもしない姿は、許せなかった。
ストレスを溜めないようにと言われているのに、この家にいたらストレスが溜まって仕方ない。
数日分の洋服と下着類、銀行の通帳や印鑑、普段使っている化粧品だけをボストンバックに突っ込むと、部屋を出る。部屋の前には情けない顔をした真人が立っていたけれど、その横を素通りした。義母に謝罪をさせるか、義母に子供を会わせないと言質が取れるまで、話す必要を感じない。
「どこ行くの」
縋るような声だった。聞いたことがないくらい、しょぼくれた声に一瞬絆されそうになる。自分の母親のせいで私が出て行くことになるなんて少しも思いつかなかったこの男が可哀想に思えてくる。だからと言って、家を出て行くことを変えるつもりはない。
「待って、出て行くなんて、大袈裟だろう!」
まさかこんなことになるなんてと思っているのだろう。焦った声が、何度も考え直すように言ってくる。ちゃんと話そうよ、と言うけれど、こうなる前に私は何度も言葉にして伝えていた。義母に謝って欲しい、それができないなら、子供は会わせないとはっきりと伝えた。伝えたにも関わらず、それを躊躇ったのは真人だ。会話で解決できる局面ではもうなかった。
真人を無視して扉に手をかけると、ボストンバッグを奪われそうになる。思い切り引っ張られ、体勢を崩しそうになる。
妊婦相手に乱暴しやがって、と舌打ちをしながら、バッグを握る手のひらに力を込めた。バッグを掴めば大人しく家に戻ると思ったら大間違いだ。真人に向かってバックを押し出し、真人がバランスを崩したところで勢いよくバックを手前に引いた。
真人の手が、ボストンバッグから離れる。軽くなったボストンバッグを握りしめ、外に出る。
私には、腹の子がいれば良い。この子がいれば、私は強くいられる。
背後から真人が叫ぶ声が聞こえる。どたどたと廊下を走る音も聞こえてくる。お腹にあまり良くないとわかっていたけれど、走り出した。直人に捕まって、また同じ話をしたくはない。
エレベーターの前に来ると、ちょうどこの階で止まっているようだった。エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。ガラスの向こうには、真人が見える。足を縺れさせながら、私に手を伸ばしている。結衣、と扉の向こうから聞こえたけれど、私は何もしない。真人がエレベーターの開ボタンを押す前に、エレベーターが滑らかに下降を始めた。
ボストンバッグを握りなおし、マンションを出た後は、大通りに出ようと考える。
大通りに出れば、タクシーがいくつも走っている。ちょうど来たそれに乗って、どこかのホテルにでも泊まれば良い。明日からのことは、明日考えれば良い。
大通りに出ると、ちょうどタイイミングよくタクシーを捕まえることができた。もしタクシーがなかなか来なかったら、直人に捕まっていたと思うから、すぐに捕まったことは僥倖だ。
最寄り駅近くのホテルに泊まることも考えたけれど、最寄り駅で待ち伏せをされては意味がないと考え直し、職場近くのビジネスホテルに止まることに決めた。向かう道すがら、ホテルの宿泊プランについて調べると一週間素泊まりの割安パックがあった。真人から連絡をもらっても、少なくとも明日明後日、家に帰るつもりは毛頭ない。タクシーの中から電話をかけ、一週間素泊まりの宿泊パックの予約をする。これでしばらくの宿はできた。
勢いで始めた家出だったけれど、それは沈んでいた私の心を柔らかく浮上させるには十分な効果を持っていた。
仕事を終えて職場を出る。定時ということもあり、他のフロアからも続々と人が溢れ出てくる。混雑したエレベーターに乗り込み、鮨詰めになりながら一階まで降りる。押し出されるようにして外に出ると、深く呼吸をした。
最近は、仕事が終わっても胸の中がモヤモヤとしていた。真人と冷戦状態だったからだろう。家に帰っても、その日あったことを面白おかしく話す相手がいないというのは、とても寂しい。真人と久しぶりにまともな会話をしたかと思えば、喧嘩になって家を飛び出しているのだから、寂しさよりも苛立ちが勝ってはいるのだけれど。
ホテルまでは、会社の最寄り駅から三駅離れている。都心に向かう上り方面のため、定時に退勤しても混雑していないのはありがたい。三駅とはいえ、仕事で疲れた体は少しでも座って休ませたい。
夕飯はコンビニで買って帰ろうか、と考えていると、腕を掴まれる。いきなりのことに驚いて振り返ると、真人の姿があった。一日家に帰らず、大量に来ていた連絡を無視していただけなのに、目の下には黒々としたクマができていた。
私の顔を見た真人は、下唇をぎゅうと噛み締める。白くなった唇が、その強さを物語る。
「…何」
たった一日、家を空けただけで憔悴した様子を見せられて、動揺した。どんなに忙しくとも睡眠はしっかり取ろうとする真人が、こんなにも弱々しい姿を見せている。一睡もできなかったのかもしれない。
大丈夫、と喉から飛び出しそうになるのを飲み込んで、心配していることが気づかれないよう、意識してぶっきらぼうな声を出す。
「昨日はごめん」
「…だから、謝るんじゃなくて、どうするのか教えてよ。私は昨日、ちゃんと選択肢を出したじゃない」
謝って欲しい訳ではないことは、昨日でしっかり伝わったと思っていたけれど、この後に及んでまだ謝ればなんとかなるとでも思っているのだろうか。呆れてため息をつくと、真人が慌てたように私の名前を呼ぶ。
「ちゃんと考えてる。結衣が言ったこと、ちゃんと考えてるよ。でも、子供を母さんに会わす、会わせないって、僕たちだけのことじゃないでしょ?そんなにすぐ、答えは出せないよ」
わざわざ会いにきたのだから、答えを出せたのだろうと期待をしていたのだけれど、そうではなかったらしい。落胆のため息が口から溢れる。
「すぐに答えが出せないなら、答えが出てから話をすれば良いんじゃないの?」
答えが分からないなら、答えが見つかるまで考えることが筋だろう。真人の言っていることは、ただ問題を先送りにしていることに他ならない。
私の言葉に黙り込んでしまった姿を見て、もう一度ため息をついた。元々すぐ家に帰るつもりはなかったけれど、家に帰るのは予想以上に時間がかかりそうだ。いっそ思い切って、マンスリーマンションを契約しても良いかもしれない。家電付きのところを選べば、自炊も洗濯もできてちょうど良い。
「私、帰るね」
駅に向かって歩き出すと、慌てて真人が隣に並んで歩き出す。ちらちらと伺うような視線が鬱陶しい。私の求めていることがわかっているのに、それに応えようとしないのは不誠実だ。求めていることの答えをくれれば、すぐにでも家に帰るのに。
「ねえ、帰ってきてよ。ちゃんと話そう?誤解してるんだって、ちゃんと話せばわかるよ」
「誤解?誤解って何?あなたのお義母さんが私をはしたない女だって言ったこと?セックスが好きなはしたない女って言われたことが、誤解だって言うわけ?」
「ちょっと、声が大きいよ」
わざと周りに聞こえるよう、大きな声を出すと真人が腕を掴む。小声で咎められると、腹の底で鎮まっていた怒りが再沸騰するようだった。触らないで、と掴まれた腕を叩き落とす。
「頭冷やしたいから帰って」
駅の方を指差し、地面を睨みつけた。真人の顔を見たら、先ほどと同じように怒声を浴びせてしまいそうだった。
真人はしばらく私の名前を呼んでいたけれど、顔を上げずにいるとゆっくりと駅の方向へと歩き出した。遠ざかっていく姿に、再燃していた怒りが落ち着いてくる。
誰かと話したいと強く思った。頭の中で話してばかりいて、自分の考えが正しい、と思考が凝り固まっている気がする。妊娠について、他人と会話をしていない。実母や義母、真人のように私の妊娠に直接関わることのない他人と言葉を交わした方がいい。私は経膣分娩をしたいという希望が強く、視野が狭くなっているし、真人も同じように私に経膣分娩をさせたくないという思いが強い。今の状況は、お互いの主張をただ繰り返しているだけだ。義母の発言が許せないことは、いくら他人と話しても変わらなそうだけれど、真人とのあれそれは、他人の解釈で解決する気がした。
思い立ったら即行動、とスマートフォンの電話帳を開く。スクロールを繰り返し、お目当ての名前を見つけるとメッセージを送信した。
メッセージを送った相手は、中学時代からの友人である、榎本咲だった。
咲から返信はすぐに返ってきた。何度かメッセージのやり取りを繰り返し、三日後の土曜日に会うことに決まった。
スマートフォンの電源を落とし、カバンの底に突っ込む。直人からも何かメッセージが来ていたけれど、見るつもりはない。あんな様子だったのだ、今日の今日で結論を出せたとは思えない。送られてきたメッセージは、泣き言に決まっている。せっかく家出をしたのだから、なるべく真人のことを考えずに過ごしたかった。
せっかく咲と会う約束をしたのだから、楽しいことを考えよう。待ち合わせ場所と時間を決めただけで、どこに出かけるかはまだ決めていない。
これからお腹が大きくなることを考えて、ゆったりとした服を買いに行こうか、それとも美味しいものを食べておこうか。考え始めると、沈んでいた心が暖かくなっていく。久しぶりに、気分が浮き足立つのを感じた。
「えっ、家出してんの?」
「うん。冷戦を経てホテルの一週間宿泊パックで家出中」
「中学の時から猪突猛進なところあったけど、今も相変わらずなんだねえ。いきなり連絡きてびっくりしたよ」
隣を歩く咲は、呆れたように笑う。彼女の言う通り、私は以前からこれと決めたことは意地でも完遂する節がある。経膣分娩を是が非でもやり遂げたいのも、そのせいだ。やると決めたからには、途中で投げ出すことは考えない。出産に関しては、お腹の中で育っている姿を見て、このまま腹の中にいて欲しいという気持ちが芽生えたから、というのもある。
未だ薄いままの下腹を撫でる。妊娠十五週ともなると、痩せ型体型であればお腹が出てくる人もいるらしい。私はいつ、下腹が膨らんでくるだろうかと、楽しみだった。
咲には、これから妊娠していることを告げる。彼女は、私の決めたことに対していつもあっけらかんとしながら良いんじゃない、と笑ってくれる相手だった。私があまりにも無茶なことを言い出し、咲以外の全員が止めたとしても、咲だけは止めなかった。笑いながら、やってみなよ、と言ってくれた。
一度、どうしてそんなに私のことを肯定してくれるのかと聞いたことがあった。その時も咲は少し笑ってから、だってやりたいんだから仕方ないじゃん、と言った。聞こえようによっては、どうでもいい相手だから投げやりになっているとも取れる言葉だ。けれど、私には投げやりには聞こえなかった。私が何かに成功しても、失敗しても、同じ熱量で喜び、悲しんでくれたのは彼女だけだったからだ。
だから、私は咲のことが好きだったし、何かがあれば彼女を頼っている。
昼食をとるために入ったイタリアンで、咲はパスタを、私はオムライスを注文した。店員が下がるのを見届けると、水を口に含んだ。
妊娠していることを告げるのが、少しだけ怖かった。
今まで咲はなんでも、いいじゃん、と笑ってくれていた。きっと、妊娠したことを告げてもいいじゃん、と笑ってくれる。でも、もし真人や義母のように否定の言葉を吐かれたらどうしよう。なんでもいいじゃんと言って否定をしてこなかった彼女だからこそ、否定の言葉を吐かれた時に崖から突き落とされたような気持ちになるのは間違いなかった。
どう話を切り出そうかと考えていると、咲がさっきの話だけどさあ、と口を開く。
「なんで家出なんてしてんの?さっきは家出してるってことだけ聞かされてびっくりしたんだけど、そういえば理由聞いてないなって」
「真人と喧嘩してて。お義母さんに酷いこと言われて傷ついたんだけど、お義母さんに謝って欲しいだけなのに、そうしてくれなくて…」
「ははあ、嫁姑問題だ」
咲の言葉に曖昧に笑って返す。嫁姑問題と言ってしまえばそれまでだけれど、この問題は私が経膣分娩を希望しなければ起こらなかったことでもある。義母の言葉は間違いなく酷いものだと断言はできるけれど、これまで義母との関係は悪くなかった。悪化をさせたのは、私なのかもしれない。
せっかく咲といるのに、黒々とした重苦しいものが胸に溜まり出す。最近は、真人や子供のことを考えるといつもこうだった。子供が腹の中にいることは、心から嬉しいのに、この子を腹に宿してから周囲が騒がしい。いっそ経膣分娩を諦めてしまえばいいのかと考えたこともあったけれど、腹の中からこの子を出すことは到底考えられなかった。
咲は大学を卒業すると、高校から付き合っていた彼氏とすぐに入籍をした。結婚に拘るようなタイプではないと思っていたから、結婚報告を受けたときは驚いて声を上げてしまった。
咲とは高校が違うため、旦那さんである男性には一度も会ったことがない。けれど、咲の話してくれる旦那さんは常に咲のことを優先して、自身の母と咲が険悪になると、必ず咲の味方をしてくれるのだと言っていた。義母との関係が悪くなかったときは、妻を義母よりも優先することは当たり前だろうと思っていたけれど、自分が同じ立場に立たされるとそう簡単なことでもないと痛感させられる。
咲と姑が揉めたのは、今の私と義母と同じように、子供のことが原因だった。
咲は本好きが高じた結果、出版社に勤めている。今は少女漫画を担当する部署にいるらしいけれど、入社当時から文芸部門に移動したいと語っていた。出版社に勤めてしばらく経つが、未だ文芸部門への移動は叶っていない。
咲は旦那さんにプロポーズをされたとき、子供は文芸部門に移動して、三年経ってから欲しい、と伝えたらしい。理由としては、文芸部門に移動になる前に子供を作ってしまったら、仕事をセーブしないといけなくなる、ということが大きいらしい。移動して三年経ってからが良い、というのも同様の理由からだそうだ。
それを聞いた義母は激怒したらしい。けらけらと笑いながら咲は話してくれたけれど、聞いているだけでも義母の怒りようは凄まじいものだった。話を聞いた私がそう思うのだから、目の前でそれを見せられた咲と旦那さんは驚いたことだろう。
結婚の挨拶に訪れた咲たちが子供を作る時期について伝えると、それまで愛想良く笑っていた義母が金切り声を上げて咲に掴み掛かったらしい。それも、騙しやがって、という罵声と共に、だ。
元々咲と旦那さんの両親は面識があった。お互いの両親公認の付き合いをしており、結婚が決まるとそれは大層喜ばれた。旦那さんも咲も子供は好きで、従兄弟たちとも良く遊んでいる姿を見ていた義母は、結婚したらすぐに子供を作るだろう、と勝手に思い込んでいた。それが蓋を開けてみれば、希望部署に移動して、更に三年経ってから、と言われたのだ。希望部署に移動できる時期はわからず、果たして本当に移動できるかもわからない。ともなると、子供も持つのは果てしなく遠い未来のように思えてしまったのだろう。勝手な思い込みを起因とした暴走は、咲と義母の間に確執を残した。
「姑ってめんどくさいよね。好きな相手についてきただけの存在なのに、無視できなくて鬱陶しい」
咲が結婚してからそこそこの年月が経過し、少しは関係性も落ち着いたかと思っていたけれど、確執は変わらず存在しているようだった。
「今日は言いたいこと言いな!旦那も味方してくれないんでしょ?全部吐き出して、スッキリした方がいい!」
妊娠したことがきっかけで関係性が悪化した、と言葉にしようとして、口腔内が酷く乾燥していることに気がついた。舌が張り付き、うまく動かすことができない。唾を飲み込もうにも、その飲み込む唾がない。水を口に含み、嚥下をすると、少しばかり乾きがマシになる。喉を鳴らして、グラスに入っていたそれを一気に空けた。
咲にさえ、経膣分娩をやめた方がいいと言われることを恐れて、体が緊張している。たった数文字、口にすれば一分にも満たないそれを伝えることがこんなにも恐ろしい。
ほらほら、と私の口から愚痴が溢れるのを待っている咲が、珍獣を見るような瞳を向けてきたらどうしよう。
妊娠したことで拗れた真人との話を聞いて欲しかったのに、肝心の妊娠したことを伝えられないのは元も子もない。
ごく、と喉が鳴った。震える指先を、拳を握ることで誤魔化す。咲なら、と思って連絡をしたのだから、大丈夫だ。私は今まで過ごしてきた咲を信じている。
「そもそも、義母に酷いことを言われる前に真人と喧嘩してたんだよね。それで、私を説得して欲しかった真人が義母に連絡して、って感じなの」
「人様の旦那にこんなこと言うのもあれだけどさ、旦那、情けないね。妻と喧嘩して言いくるめられないからって、わざわざ自分の母親出してくる?子供じゃないんだから、ちゃんと二人で話せばいいのに」
「それには、理由、があって」
「理由?」
咲が首を傾げた。言うなら今しかなかった。
「私が、絶対に譲りたくないことがあって、でも真人はそれをやって欲しくないって言ってて…」
妊娠の一言が、喉に詰まって出てこない。声の出し方なんて、今まで一度も考えたことがなかった。無意識でやってのけているそれが、突然記憶喪失になったようにわからなくなってしまう。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
咲はそんな私を不思議そうに見ていたけれど、茶化すことも急かすこともなく、続く言葉を待っている。
「に、妊娠、してて…お腹に、子供がいるの…」
息も絶え絶えに言うと、咲は目を丸くして、私の顔をじっと見つめた。驚いているようにも、珍しいものを観察するようにも見えるその瞳から逃げるように瞼を伏せた。
周りの喧騒が、壁を一枚隔てているように遠くに聞こえる。自分達のいる席だけが周りから隔絶されたようで、苦しい。咲がどんな顔をしているのか確認したかったけれど、それと同時に顔を見るのが怖かった。
咲は何も言わない。十秒、二十秒と時間が過ぎるにつれて、身体中の内臓が捻れたように痛みを訴え出す。言わなければ良かった。どう誤魔化せば良いだろうか、と考え始めたところで、テーブルがガタン、と揺れた。驚いて顔を上げると、身を乗り出した咲が頬を赤らめ、顔中で笑っていた。呆気に取られたまま咲を見ていると、肩を叩かれる。
「おめでとう!教えてくれてありがとうね!」
鼓膜がびりびりと震えるような声だった。肩に触れる手のひらから、咲の体温がじんわりと伝わる。
よくよく咲の顔を見ると、微かにではあるけれど、目尻がきらきらと光っているのが見えた。
「本当におめでとう!私まで嬉しい」
興奮しているのか、咲の声は店内によく響いた。隣に座っている客からは咎めるような視線が向けられていて、謝らないといけないと頭ではわかっているのに、どうしても咲を注意することができない。自然と口角が持ち上がってしまう。
全身で祝福してくれる咲の姿に、不安がっていた自分が馬鹿に思えた。咲はやっぱり咲だった。私の決めたことを否定せず、受け止めてくれる彼女のままだった。
妊娠したことを告げてしまえば、その後はするすると口から言葉がこぼれ落ちた。
祖母の写真を見て経膣分娩をしたいと思ったことから、妊娠前に真人と話していたのに、真人から経膣分娩をやめて欲しいと言われて喧嘩になったこと。義母から言われた言葉がどうしても許せずに、こうして家出をしたこと。
注文した食事が届いても、言葉が迸るのを止められない。
真人を悲しませるとわかっていても、どうしても経膣分娩をしたい。他人から珍獣を見るような目で見られても気持ちは変わらない。真人は私の経膣分娩をしたいと言う気持ちを一度は受け入れたように見えたけれど、実は納得しておらず、今になって人工子宮での分娩に切り替えて欲しいと言われて怒りが湧いたこと。
なるべく私の感情については、話さないようにした。話している途中で怒りが湧いてきたら、深呼吸をして気持ちを落ち着けてから話すように努めた。話している間にも、どんどん言いたいことが増えて、いつまで経っても終わらない。
やっと私の口が止まったのは、話し始めてから三十分近く経過してからだった。随分と前に届いた食事は、私のものも咲のものもすっかり冷たくなっている。
「ご、ごめんね、もう冷めちゃったよね…ここ、お詫びに私が払うから」
食事がすっかり冷めるまで話し続けたのは自分の責任だ。感情が昂るたびに話を中断し、落ち着いてはまた口を開くと言うことをしたらこんなにも時間が経ってしまった。
入った店は、咲が事前に調べてくれていた店だった。食事が美味しいのはもちろんのこと、フルーツタルトが評判らしい。店の入り口には宝石のようにキラキラとしたフルーツタルトがケースの中にいくつも陳列していた。
きっと咲は久しぶりに会うからと、美味しい店を探してくれたのだ。それなのにこんな風になってしまって申し訳ない気持ちになる。
「本当、ごめんね」
咲はずっと黙ったままで、難しい顔をしている。冷めてしまった食事に怒っているのかもしれない。途中で話が終わらないと気がついて、何度か食べ始めて良いと伝えたのだけれど、私が話し続けていたから気をつかって食べなかったのかもしれない。もっと強く言えば良かった。咲の顔を見ていられなくなって、自分の膝に視線を移した。
ううん、と頭上で唸り声が聞こえる。何を言われても謝ろう、と身を硬くしていると、予想もしていない言葉が降ってきた。
「とりあえず義母は殴って良いとして、旦那とはしっかり話した方がいいだろうね」
勢いよく顔を上げると、咲は腕を組み、難しい顔をして考え込んでいる。少しも怒った様子が見えず、呆気にとられていると、咲がまた口を開く。
「でもさあ、一回はやって良いって言われたのに今更ダメって言われても困るよねえ!そこは旦那に怒っとこ!」
私なら殴ってる、と咲が笑い声をあげる。
「お、怒ってないの?」
「…なんで怒るの?」
「だって、ご飯冷めちゃったから…」
おずおずと言うと、そんな事か、と咲が軽く笑った。カトラリーに手を伸ばし、すっかり冷めてしまったパスタを口に運ぶ。大きく空けられた口の中に、くるりと一纏めにされたパスタが吸い込まれ、喉を落ちていく。
「冷めたって美味しいものは美味しい!ほら、結衣も食べなよ。赤ちゃんも、お腹空いたんじゃない?ちゃんとご飯食べないと!」
私もカトラリーに手を伸ばし、オムライスを口に運ぶ。咲の言う通り、冷めていても美味しかった。ケチャップライスは口に含むと、トマトの甘みがじんわりと拡がった。話すことに夢中になって、空腹に気がついていなかったけれど、一口食べたら空腹を強く意識した。唾液腺が痛み、じゅわりと口の中に唾液が溢れてくる。
それからは、夢中になって食事をした。真人と冷戦状態になってから、彼と向かい合ってとる食事は味気なかった。いつも通りに作っているはずなのに、食べても腹が膨れず、胃にぽっかりと穴が空いているようだった。このオムライスが特別美味しいのかしら、とふと思ったけれど、きっと違う。一緒に食事をとっている相手が咲だからだ。私を案じ、私に寄り添ってくれる相手だから、こんなに美味しく感じている。
真人との食卓は、最近は冷めきっていた。暖房をつけていても、二人の間に流れる空気は冷え切っていた。会話もぎこちなく、相手の様子を窺ってばかりいた。妊娠するまでは、二人で過ごす時間は好きだった。激しい熱はなくとも確かに穏やかで暖かい空気が流れていたのに、妊娠をしたことで全てがガラリと変わってしまった。
最後に見た真人の顔は、酷く憔悴しきった様子だった。
あの時、もう少し優しい言葉をかけてあげても良かったかもしれない。頭ごなしに帰れと言うのではなく、一緒に食事でもして、話せば良かったかもしれない。
目頭がつんと痛み、視界がぼやける。気付かれないように鼻を啜り、目元を押さえた。
「私はどうしても結衣の味方をしちゃうけどさあ、旦那の気持ちもわかるなあ」
「へ?」
顔を上げると、咲はすでにパスタを食べ終えて、メニューを睨みつけている。
「結衣はどれにする?タルト」
なんのことかと思っている間に話題が変わる。目の前にメニューが差し出される。キラキラ、写真でも輝いているタルトたち。一口残っていたオムライスを口に突っ込み、咀嚼をしながら写真に目を滑らせる。タルトにふんだんに乗せられたフルールたちは、シロップがかかっているのかつやつやと輝いている。見ているだけで、フルーツの甘さを思い出して喉が鳴る。いちごにいちじく、ブルーベリーにレモン。色とりどりのタルトたち。
どれにしようかと考えていたら、頭の隅で真人の声がした。この声は、付き合い始めて初めて喧嘩をした日のものだ。喧嘩の理由はもう忘れてしまったけれど、私がわあわあと泣いていたことだけはよく覚えている。
私を落ち着かせようとする真人に対して、触らないで、と声を荒げた。肩に触れる手を振り払うと、自分でも思った以上に大きな音が鳴って驚いた。真人を見ると、傷ついた顔をしていて、やってしまったと血の気が引いた。謝罪の言葉を口にする前に、真人は家を飛び出してしまって、驚きで引っ込んでいた涙がまたぼたぼたと溢れる。好きなのに、別れないといけないかもしれない。追いかけようと玄関を出るも、走って出ていったのか何処にも真人の姿は見えない。当てもなくふらふら探すより連絡をしようと、部屋に戻り何度も電話をかけたけれど一度も繋がらず、もう終わりだと一人さめざめ泣いていた。
連絡の返ってこないスマートフォンを放り出して泣いていると、玄関からどん、と音がする。誰かが押し入ろうとしている。ゾッとして、スマートフォンに手を伸ばした瞬間、インターホンが鳴った。そろそろとインターホンの液晶に近づくと、そこには肩を上下させている真人の姿があった。転がるようにしながら玄関へと向かい、勢いよく扉を開けると、額を汗で濡らした真人が立っていた。
「ごめんね、時間かかちゃった」
顔の高さまで持ち上げられた白い箱を軽く左右に振って、真人が笑う。
「仲直り、しようよ」
部屋の中に入ると、真人は白い箱をテーブルの上に置き、洗面所に向かった。じゃあじゃあと水の流れる音と、うがいをする音が聞こえてくる。白い箱の中に何が入っているのかが気になったけれど、私は正座をして真人が戻ってくるのをじっと待っていた。
真人は戻ってくると、白い箱をぱかりと開ける。開けたその中には、宝石のように艶々と輝くいちごをたっぷりと乗せたタルトが二切れ、入っていた。思わずわあと声が出た。
その後は、二人で美味しいねと言いながらタルトを食べた。たっぷりと乗ったいちごは甘酸っぱくて、口に含むたびに甘さで舌が焼けそうなくらいだった。
いちごが好きだと真人に言ったことは一度もない。フルーツで言えば、一番好きなのは桃だった。多分、季節的に桃のタルトがなかったから、ちょうどその時に時期だったいちごのタルトを買ってきたのだと思う。
いちごの旬は一月から三月の寒い時期だ。コートを羽織っていて、皮膚が寒さで痛む時期に、汗だくになるくらい走ってタルトを買ってきてくれたことがすごく嬉しかったことを覚えている。
まだ付き合ったばかりで何が好きかもよくわかっていないのに、何か仲直りになるきっかけを探して走り回ったのだろう。嬉しいに決まっている。後日友達にこの出来事を話したら、物で誤魔化そうとしているみたいで嫌だと顔を顰められたけれど、私はそれでも嬉しかった。確かに友達の言う通り、物で釣ろうとしているようにも思えたけれど、それよりも汗だくになっていたことの方が私には大切だった。どうにかして仲直りがしたいという気持ちの表れに思えたから、それで良かったのだ。
あの日から、私の一番好きなフルーツはいちごになった。
メニューの上を彷徨っていた視線が、いちごに釘付けになる。甘酸っぱい、仲直りの味。舌がじんと痛んで、真人の愛情を感じさせた味。
「いちごのタルトにする」
気がつけば、そう口にしていた。あの甘酸っぱさが恋しかった。
咲は店員を呼び止めるとタルトを注文し、メニューをテーブルの端に置いた。
タルトはすぐに運ばれてきて、目の前に艶々と輝くいちごのタルトが置かれる。咲はブルーベリータルトを頼んだようで、紫色のそれが目にじんと痛かった。
タルトにフォークを突き刺し、切り取る。口の中に拡がる甘酸っぱさは確かに欲しいと思った味なのに、何処か物足りなさを感じる。物足りなさを誤魔化すように、タルトを切っては無言で口に運び続けた。
最後の一口を飲み込んだタイミングで咲が口を開く。咲も、最後の一口のようだ。小さい一欠片が器用にフォークの上に乗せられている。
「人工子宮じゃないから、何かあったら、結衣は死んじゃう可能性もあるわけだよね」
「そう、だね。それは先生にも言われたよ」
突然何を言い出すのか。何か意味があって、言葉を発していることはわかるけれど、意図が読めない。
「旦那が反対したのは、それが理由な訳でしょ?それは受け止めてあげた?」
受け止めた、と思う。どうしても私が経膣分娩をしたいと言ったら、真人が折れてくれた。だから、妊娠している。
「その時点ですれ違ってたんじゃないの?結衣の良いところでも悪いところでもあるけど、一回決めたことは周りに何を言われてもやるじゃん」
「でも、良いよって言ってくれたし…」
「まあそうなんだけどさ。もうちょっと、歩み寄ってあげても良いかもね、難しいかも入れないけどさ」
歩み寄り。口の中で呟いた言葉は、唾を飲み込んだ時に胃の底に沈んでいった。
ホテルに宿泊するようになって、一週間が経とうとしている。もう一週間、同じホテルに宿泊しても良いし、思い切ってマンスリーを借りることも可能だった。けれど、そのどちらも気が進まなかった。家を出た瞬間はあんなに輝いていた魅力的な選択肢も、今では少しも魅力的に感じない。
真人からは、なんの連絡も来ていない。家出をした翌日に会ったきり、職場に来ることもない。
たった一日で酷くやつれていたけれど、体調は大丈夫だろうか。しっかり眠っているだろうか。食事は摂れているだろうか。
喧嘩をしているのに、ここ最近は真人のことばかり考えていた。それも、いちごのタルトを食べてからだ。あれは私にとっては仲直りの味で、真人と食べる物だった。無性に甘酸っぱさを味わいたくて注文したは良いものの、食べ終えてからは仲直りをした時の真人の顔ばかりが浮かんでくる。
家出をしたときはストレス源と離れられて良かった、と思っていたけれど、今では真人のことが気になって、姿が見えないことがストレスになっていた。
まだ喧嘩をしているし、謝ってもらったわけでもないのに家に帰るのは、なんとなく負けたような気がする。けれど、真人のことが気になるというのは、気になってしまった方が負けなのだから、もう諦めるしかないのだろう。
仕事を終え、一週間ぶりに帰った自宅は、少しばかり散らかっているようだった。テーブルの上には真人の仕事に使うものなのか、専門書が二冊放置されているし、椅子の背もたれには膝掛けがぐちゃぐちゃの状態で引っ掛けられていた。
普段はきっちりとしている真人は、リビングにものを置かない。読みかけの本も雑誌も、肌寒いときに羽織るような上着も、必ず自室に持っていって一日を終える。対する私は、いちいち部屋に取りに行くことが面倒で、読みかけの本はテーブルの上に放置するし、上着はソファの上に丸めて置いておく。いつも真人に呆れられて、それにごめんねと謝るまでがセットだ。
今日はゴミの日だったはずなのに、紙屑を捨てる用の小さなゴミ箱はぱんぱんだ。床には埃の塊がひとつ、落ちているのが見える。時間がなかったのかもしれないし、気がいかなかったのかもしれない。綺麗好きな真人にしては珍しいこともあるものだ。
荷物を部屋に片付けた後、冷蔵庫を覗いた。真人が帰ってくるまで、後一時間程度時間がある。やつれた顔を思い出すと、満足に食事をしていないことが想像できる。何か栄養のある食事を作ってやろうと考えた。
野菜室を覗くと、買い物にはしっかりと行っていたようで、野菜はふんだんにあった。大きめに野菜を切ってくたくたに煮て、コンソメスープを作ろう。ベーコンを入れれば、脂で野菜の甘みが引き立つ。冷凍庫にあった鱈は、キノコと一緒にホイル焼きにすることにした。
メニューが決まってしまえば、後は手を動かすだけだ。ざくざくと野菜を切っては鍋に放り投げる。アルミホイルの上に鱈を置き、その上に手でちぎったキノコを置いていく。アルミホイルで蓋をした後は、グリルに放り込んで終わりだ。スープもコンソメキューブと水を入れ、火にかければ後は放置で出来上がる。
時計を見ると、真人が帰ってくるまでに二十分程度ありそうだった。風呂掃除やら洗濯物の整理を終え、一息つくためにソファに腰を下ろすと、玄関の開く音がした。
ばたばたと廊下を走る音が聞こえて、勢いよくリビングに繋がる扉が開けられた。ばたん、という音が部屋の中で反響する。
「おかえり」
振り返ると、口をぽかんと大きく開けた真人が立っていた。私の姿を見つけると、見開かれた瞳がぎゅっと細められる。眉間には深くシワが刻まれるのが見えた。
手放しに喜んでもらえるとは少しも思っていなかったけれど、少しも嬉しそうではない様子に、真人を案じていた自分が馬鹿に思えてくる。おかえりと言った私の言葉に、ただいまの四文字すら返してくれない。
口を開けば可愛げのない皮肉が飛び出してしまいそうで、下唇をぎりぎりと噛んだ。
真人から向けられる視線を黙ったまま受け止めていると、突然真人の膝が折れ、床に腰をついてしまう。
「ちょっと、大丈夫?」
力が抜けた、といった様子の真人に慌てて近づくと、やっぱり真人の目の下には黒々としたクマが居座っていた。最後に会った日よりもずっと色濃いそれが、しっかりと睡眠が取れていなかったことの証明になっている。
「体調悪いなら無理しないで、さっさと寝たら?」
上着を脱がせようと手を伸ばす。肩に触れる前に、真人が私の手を掴んだ。外から帰ってきたばかりの指先は、氷のようにきんと冷たい。痛いくらいに握られた手のひらに思わず顔を顰め、振り解こうと軽く腕を動かすと、それを拒むように握る力が強くなった。
ちょっと、と文句を言う前に、直人が何かを呟いた。ぼそぼそしたそれは聞き取れず、聞き返す前に、直人が大きくため息をついた。
「よかったあ…」
真人と視線がぶつかった。目の表面には、今にも溢れんばかりに涙が溜まっている。瞬きをすれば、今にも頬に幾筋も涙がこぼれ落ちそうだ。
そんな顔をするなんて到底思っていなかった私は、真人の顔をじいと見つめてしまう。それをどう捉えたのかわからないけれど、真人は力の抜けた笑みを浮かべた。
「帰ってきてくれてありがとう。もう帰ってきてくれないかもって思ってたから」
「…家出のつもりだったけど、いつかは帰ってくるつもりだったよ」
「うん。そうだろうなとは思ってたけど、でも、結衣は強情だから、もしかしたらそのまま家の契約とかしちゃうかもって思ったんだ」
弱々しい声に、真人の顔をしっかり見たくなって、私も腰を下ろした。間近で見る真人の肌は、少し吹き出物ができていた。寝不足が祟っているのか、肌もやけに乾燥している気がする。
目元を指で擦る。こんなにクマが濃くなるくらい、私のことを考えていたのかと思うと、胸の奥が痺れるようだった。結婚してから、なかなか言葉でも行動でも示されることがなくなった、いわゆる愛情というものが可視化されたようだった。
冷たい風に晒されていたせいで、指先だけでなく肌も冷え切っている。私の体温が少しでも移るように、手のひらを頬に押し当てる。直人が私の手のひらに擦り寄り、ごめんね、と囁いた。聞き逃してしまいそうな、小さい声だった。
家出をする前の私なら、そのごめんねは何に対するごめんねだと目を吊り上げて問い詰めていただろう。
今は、そんなことはどうでもよかった。私がいないことを気に病み、こんなにも弱っている真人を、詰る気持ちにはならない。
好きな相手をこんなに弱らせてまで、私は何をしているのだろう。目に見えない幸せを追い求めて、目の前にある幸せを壊そうとしているのかもしれない。
祖母の言う幸せを知りたいがために、私は冷静さを失っていたかもしれない。
真人の頬に寄せた手のひらが、涙で湿っている。生暖かいそれは手首を伝い、腕を冷やしていく。
「ごめんね、強情で」
泣いている真人を見ていたら、目頭が痛くなった。
図、と鼻を啜る音がする。
「いいよ、結衣が強情なのは知ってるから。強情じゃなかったら、結衣じゃないもん」
真人の言葉に私が笑うと、真人も笑った。ぼたぼたと涙を流して、それでも楽しそうに笑う顔を見ていたら、幸せの形は祖母と違うけれど、私にとっての幸せはこの人の笑顔なんじゃないかと思えてくる。
私たちは暖房の効いた部屋で、しばらくお互いの顔を見てへらへらと笑い合っていた。何も考えず、気まずさを感じることもなく、二人の間に流れる空気に、自然と笑顔になっていた。
私が思っていた通り、真人は一人で生活している間、散々な暮らしをしていたようだった。食事は栄養ドリンクが主で、空腹を感じることがあればプロテインバーを口に突っ込むだけの食生活を送っていたらしい。掃除や洗濯も、しないといけないと頭でわかっていても、体が動かずそのままにしていたらしい。ゴミ箱のゴミを捨てていなかったのも、そのせいのようだった。
「結衣が帰ってくるってわかってれば、ちゃんと綺麗にしてたんだけどね」
涙が止まると、真人はまず掃除に取り掛かった。苦笑しながら専門書を腕に抱え、手早くテーブルの上を整えている。私も手伝おうと腰を上げると、僕が汚したから、と言って許してはくれなかった。普段、私が部屋を汚しても真人が掃除をしてくれているのに、と思いながら、その言葉に甘えてソファに座っている。
私の腹は、目に見えて分かる程度には膨らんでいた。とは言っても、言われれば、という程度ではある。元々が痩せ型の体型だったから、分かりやすいのだろう。私の腹を見て、赤ちゃんが疲れちゃうから座ってて、と真人はリビングを出ていった。
私の少し膨れた腹を見て、真人は僅かに口角を持ち上げていた。目元は前髪で隠れていて見えなかったけれど、その微笑みがポジティブなものだと嬉しいと思いながら、ネガティブな感情由来のものだとしたら立ち直れる気がせず、それに言及はしていない。
リビングに戻ってきた真人は掃除機を手早くかけ、テーブルの上をクロスでサッと吹く。そうして一息つくと、キッチンへと足を向けた。
「あ、ごめん、スープは温めればいいだけだけど、鱈のホイル焼きは冷蔵庫に入れたままだ。グリルにいれて焼けば食べられるよ」
「わかった。もう焼いちゃうね」
ホイル焼きが出来上がるまでには、少し時間がかかる。ホイル焼きをグリルに放りこんだらしい真人は、私の座るソファまでやってくると、そこに腰掛けた。いつの間にかセットしたらしいタイマーが、右手の中でカウントダウンをしている。
「話をしようか」
「そうだね」
私は真人と会話をしているつもりだった。けれど、つもりでしかなかった。だからこそ、今の私たちはこんなにもすれ違って、つけなくてよかった傷をつけている。
ソファの背もたれに体を預けた直人が両手で顔を覆い、ゆっくりと息を吐く。気持ちを落ち着ける時の、彼の癖だった。言いたいことは、たくさんあるだろう。今まで、私ばかりが自分の考えを押し付けてきた。真人の考えが、気持ちは産婦人科にかかった時に吐露されたのに、私はそれを蔑ろにした。錦織先生に対する言いようにばかり腹を立てて、どうして直人がそんな言い方をするのかまで、考えが及ばなかった。
やりたいことがあると、それにしか目が向かず、周りを気にしなくなるのは私の悪いところだ。
直人ならわかってくれる、甘やかしてくれると甘えた結果が今だった。
真人の言葉をしっかり受け止めようと、直人がしているように深く息を吐いた。息を吸って、吐いて、気持ちを落ち着かせる。
タイマーが鳴るまで、後十分。
「家出してた間は、どこにいたの?」
世間話のような話題が飛んできて、呆気に取られてしまう。話をしようとかしこまっているくらいだから、すぐに本題に入ると思っていた。真人も緊張しているのかもしれない。タイマーを握りしめる手のひらが白くなっている。
「職場から三駅離れたビジネスホテルに泊まってたよ」
「そっか。よく眠れた?」
「うん。久しぶりに一人で寝て、ぐっすりだった」
「はは。それなら良かった」
妊娠してから、どうも眠りが浅くなっていた。同棲を始める時に購入したベッドはダブルサイズなのに、二人で眠るとどうも窮屈に感じる。眠っていても、真人の腕や足が体に少しでも触れるだけで、目が覚めてしまうようになっていた。一度目が覚めてしまうと、なかなか再度眠りにつくことが難しくて、一時間以上眠れないことも多々あった。
錦織先生に相談すると、どうも妊娠するとホルモンの影響で眠りが浅くなることもあるとのことだった。
自然妊娠について調べていたとはいえ、悪阻以外にも色々な症状が自分の体に襲い掛かってから、こんなに大変なことを昔の人はやっていたのか、と思うくらいだった。おかげで、昼食を食べた後、キーボードを打つ手がたびたび止まるようになったのは仕方がないことだと思う。私がうとうとし始めると、佐久間さんが小さく机を指の関節で叩いて起こしてくれるのが日課になっている。
家出をしていた数日間は、セミダブルのベッドに一人で眠っていたから、よく眠ることができた。家出をした初日、精神的な疲労もあって夕飯を終えるとすぐにベッドに入った。その日は朝に鳴るまで一度も起きることなかった。久しぶりにスマートフォンのアラームで起きた感動は、言葉に表せない。
「真人はあんまり眠れてなさそうだね」
直人が苦笑いを浮かべ、目の下を擦った。
一体何日まともに眠れていないのだろうと思うほど、クマが酷い。私が出ていった翌日には、もう黒々としたクマができていたから、もしかすると初日から全く眠れていないのかもしれない。
「結衣が心配で、寝られなかった」
「私ばっかりスッキリして帰ってきてごめんね」
「本当だよ、もう。よく寝られたんなら、良かったけどね」
二人の間に笑いが起こる。こんなに穏やかな時間を過ごしているのは、いつぶりだろう。
私と真人の間に流れる空気はいつだって穏やかだった。ぎすぎすした空気が流れたことなんて、覚えている限りではほとんどない。
ピピ、とアラームが鳴る。あっという間に五分、経ってしまった。本題に入らないといけないのに、私も真人も、まだこの穏やかな時間に身を任せていたいと思っている。
「ご飯、作ってくれてありがとうね」
「ううん。私こそ、家出してごめんね。ご心配おかけしました」
軽く頭を下げると、直人が慌てたように私の肩に触れる。冷たかった指先はすっかり体温を取り戻していた。真人の強張っていた表情も、柔らかいものになっている。
寒いことと、眠れないことは良くないことだ。体が冷えると、それだけで気持ちが沈む。眠れない日が続くと、頭の中に靄が溜まって、悪い考えばかりが思いつくようになる。真人も私も、そうだったのだと思う。
「僕の母さんが、ごめん」
直人が笑顔をくしゃりと歪めた。明るかった声が一転して、真面目な声音になる。私を見つめる瞳は、今までとは違っていた。どうにか誤魔化されてくれないだろうかと、私に媚びるような視線ではなく、心から申し訳なさそうに思っている瞳だ。
うん、と頷いて、真人の言葉を待つ。
「母さんには、結衣に謝ってほしいことはちゃんと伝えた。でも、何回話をしても、おかしいのは結衣だから謝らないって怒ってて…だから、結衣の言った通り、子供は母さんに会わせなくていい。会わせたくないと思うのが当たり前だ」
「会わせないって言うのは、今後一生ってことだよ」
「わかってる。それでいい」
真人の瞳に瞼がかかって、どんな感情を抱いているのかわからなくなる。意図的に私から視線を逸らしているようだ。瞬きを二回、ゆっくりとしてから、口を開く。自分に言い聞かせているような声だった。
「それでいいんだよ」
自分から言い出したことなのに、実際真人にそれを受け入れられてしまうと、果たして本当にそれでいいのだろうかと迷いが出てくる。我ながら難儀な性格をしている。
義母の言葉はどんなに時間が経ったって到底許せるとは思えないのだから、真人の言葉を喜んで受け入れればいいのに、馬鹿みたいに迷っている。私は、いい人でいたいのかもしれない。
「わかった。じゃあ、お義母さんには会わせない。それでいいね」
もう少し考えてから、と口にしようとして止めた。会わせてもいいと思ったなら、その時に言えばいい。今は、直人が私の気持ちを優先してくれたことだけを嬉しがって受け取っておけばいい。
ピピピピ、と先ほど鳴ったアラームとは違い、けたたましい音が部屋に響く。あっという間に十分が経ってしまったようだった。
真人がソファから立ち上がる。キッチンの方へと歩いて行き、グリルの火を止める音が聞こえた。
まだ話したいことは他にもある。私は自分の気持ちばかりを押し付けていたし、真人は自分の気持ちを押さえつけすぎていた。お互いに言いたいこと、聞いてほしいことはたくさんある。でも、その前に、空腹を満たすことが先だった。
ソファに戻ってこようとする真人に、テーブルの椅子に座るように促す。
「ご飯、先に食べよう」
作った食事は簡単なものだったけれど、それでも口に運べば美味しく感じた。温かいものは、それだけで心も柔らかくさせる。心がささくれ立っている時は、美味しいものと温かいものを体に入れると、随分楽になることを、私は知っている。
食事の間は、特にそう決めたわけではないのに、昔の話をしていた。二人で行った旅行のことや、何度も食事に行っているレストランの話をした。
食事を終え、片付けまですっかり済ませると、私たちはまたソファに戻った。
お互いの体温を感じることのできる距離に腰掛け、黙っていた。どう言葉にすれば、うまく私の気持ちが伝わるだろう。
口を開いては、本当にこの言葉でいいだろうかと迷いが生じる。それを何度も繰り返していると、私よりも先に直人が話し始める。
「前に、先生に暴言吐いたこと、あったでしょう」
私の様子を伺うような声だ。私がまた怒り出すんじゃないかと恐れているような声音に、彼をこうしてしまったことを悔やんだ。激しく糾弾されたことを覚えているから、こんなに恐る恐る口にしている。このままだと私ばかりが気持ちを吐き出してすっきりする時間になってしまう。それでは意味がなかった。咲と話して、歩み寄ろうと決めた。今までの私は、真人に私を受け入れるように強要していた。わかってもらえたと思っていたのは私だけで、真人は無理矢理頷かされていた。すれ違うのも当たり前だった。
「大丈夫だから、言いたいこと、全部言ってほしい」
真人の手の甲に触れた。肩がびくんと揺れて、真人の顔が私の方を向く。普段から垂れている瞳が、いつも以上に垂れているように見えた。ゆらゆら、瞳が揺れる。私の言葉を聞いても、どこまで本音を言ってもいいものか、悩んでいるようだった。
日常的にアルコールで手指消毒を行う真人の手はざらついている。ハンドクリームをつけても、すぐに洗い流してしまうことが多く、年中荒れている。乾燥する冬は特に酷い。今も、手の甲はざらざらと細かく皮膚が逆立っている。労わるようにして、指を滑らせる。
頑張っている手だ。仕事だけでなく、家事も率先してやってくれる手だ。真人は夜勤があるから、私にばかり負担がかからないようにと休みの日はほとんどの家事をこなしてくれている。目に見えてわかる優しさが、私は好きだった。この手は、その優しさの表れだ。
「教えてほしいの、真人の考えてること、全部」
真人の喉から、引き攣ったような音が聞こえた。瞳の輪郭がじわりと滲むのが見える。それを、綺麗だと思う。感情の揺らぎが、どうしようもなく愛おしい。
「ぼ、僕、は」
真人が顔を伏せた。揺れる瞳をもっと見ていたかったけれど、それは諦めることにした。真人の手の甲を何度も撫でて、体温から私の気落ちが伝わらないかと思う。
勢いのまま家出をした時、私には腹の子さえいればいいと本気で思っていた。私の気持ちが少しも伝わらないような相手と一緒にいても仕方ないと本気で思っていた。けれど、それはとても自分勝手で、同時に世界に自分しかいない孤独でもあった。つまり、私は子供のように自分の言うことを聞いてくれないと癇癪を起こしていたようなものだった。
私がもっと、真人の話に耳を傾けることができていたのなら、こんなに拗れることはなかっただろう。
真人の口が少し開いて、唇が震える。
「結衣がいない間、毎日考えたけど、やっぱり、人工子宮での分娩に切り替えてほしい」
だんだんと小さくなっていく声は、私がまた怒り出すことを恐れている。大丈夫、と伝えるために、手の甲を撫でた。伏せられていた瞳が持ち上がって、私を見る。
「結衣がどうしても、自分の腹で子供を産みたいって気持ちはよくわかってる。だから、これはただ僕の気持ちだから」
風船が萎むように、後半にいくにつれて口元に耳を寄せないと聞こえなくなる声に、どれだけ我慢を強いてきたのかがわかって、苦しかった。
自分のやりたいことばかりに目がいって、真人のことを考えているようで少しも考えていなかった。
「ねえ、次の妊婦健診、ついてきてくれる?」
私の言葉に、真人が目を瞬かせる。
「いいけど…」
困惑した声に、私は笑いかけた。
私と真人の願いは、どう足掻いたって交わることはない。人工子宮で子供を為したい真人と、自分の腹で子供を育て、産みたい私。
お互い自分の気持ちをぶつけあうだけでは、これまでの二の舞になる。私たちができることは、どうにか妥協点を見つけることだ。
その日の話し合いはそこまでにした。
二人とも素直な気持ちを伝え合うことのできる空気を壊さない方が良いのでは、と思わないこともなかったけれど、話し合いを続けるには、真人のクマが濃すぎた。メイクでもしているのかと見間違うくらいのそれを解消するべく、睡眠を取ってもらうことが急務だった。
真人は眠たくないと話し合いを続けようとしたけれど、無理矢理風呂に押し込み、話し合いはベッドでしようと嘯いて布団に体を沈めさせると、あっという間に寝息を立て始めた。電池が切れたおもちゃのように、枕に頭を預けた瞬間に瞼を閉じてすうすう安らかに息を立て始めるものだから、思わず笑ってしまった。
たった一週間でひどくかさついた肌を指の腹で擦ると、真人が小さく唸りながら身を捩った。起こしてしまったかと思ったけれど、すぐにその息は落ち着いたものになっていく。
真人の横に、自分の体も滑り込ませた。自分と真人の匂いが混ざり合った柔らかい布団に包まれると、体から力が抜ける。ホテルの、ノリのしっかり効いた布団も悪くはなかったけれど、やっぱり自宅の方がいいな、と思った。当たり前だけれど、私の居場所はここなのだ。居心地がどうしたって良い。捨ててやろうと思っていた過去の自分を馬鹿だと笑った。
次の検診までに、何度か真人と話をした。
一度素直になってしまえば、お互いの感情を吐露することはそう難しくはなくなっていた。けれど、今度は別の問題が発生するようになっていた。
真人は、経膣分娩をやめてほしいけれど、私が望むのなら止めない。
私は、真人の願いをなるべく受け入れられるように努力したい。
こうなってしまうと、私の経膣分娩をしたいという希望だけが叶えられる形になってしまう。それは嫌だと伝えても、真人は食い下がるばかりだった。結衣のやりたいようにやるのが一番だと繰り返すばかりで、一向に話が進まない。また我慢をしているんじゃないかと問い詰めてみても、今度は本心から言っているようで、問い詰めれば問い詰めるほど困った顔をした。
以前と比べれば、お互いの心の内を曝け出すことができている。けれど、本当に真人はこのままでいいのだろうか。
初めて私が経膣分娩をしたいと告げた時、私が死ぬことが怖いとあんなにも泣いていた彼は、もう存在しないと考えてしまっていいのか、判断がつかなかった。
結局、妥協点を見つけたいと意気込んだのはいいものの、妥協点を見つけることができないまま、妊婦健診に向かうことになった。
この頃になると、私の腹は以前にも増して膨れるようになっていた。洋服を着ていると、なんとなく下腹が出ているな、といった程度ではあったけれど、服を脱げば明らかに膨れていた。
そろそろ胎動、腹の中の子供が動くのを感じることができる場合もあるらしい。私はそれらしいものを一度も感じたことがなかった。小さな手足が腹を蹴る様を、今か今かと楽しみにしていた。
腹がだんだんと膨れていく様は、言葉に表し難いほど愛おしかった。自分の血肉を分けた子供が、自分の腹の中で成長していることを日々感じることができた。
真人に以前、人工子宮にこの子を移せばと祝えた時、なんてとんでもないことを言うものかと驚き、怒りを感じた。その気持ちは、正直に言えば今でも変わらない。私の腹の中で大きくなっている子供を人工子宮に移してたまるかという思いはある。ただ、もしも真人がもう一度、人工子宮にこの子を移したいと言ったときは、そうしてもいい、と思えるくらいにはなっていた。
真人と何度話しても見つけることのできなかった妥協点がそれなのだとしたら、私はそれを受け入れるつもりだった。
真人が私の気持ちを尊重しようとしてくれている気持ちは十二分に伝わった。今度は、私が直人を尊重する番だ。
真人とは、健診に向かう道中で話し合い、二人の妥協点として考えられるものをいくつか錦織先生にあげてもらおう、ということになっていた。私も真人も、出産については素人だし、子供を人工子宮に移す以外の手段がもしかしたらあるかもしれない。そんな希望と、願望を持っていた。
診察室から名前を呼ばれて立ち上がる。周りの好奇心に満ちた視線が私と真人に突き刺さった。
この病院に来たのは片手で足りる回数しかないけれど、自分以外に産婦人科にかかっている人間を一度も見たことがない。わかってはいたことだけれど、人工子宮での分娩が当たり前なのだ。
腹があまり目立たない今ですら、こんなに好奇の視線を向けられているのに、もっと腹が出てきた日にはどうなってしまうのだろう。
扉をノックして診察室に入る。錦織先生は私を見て微笑んだ後、後ろに立っている真人に視線を向けた。
「こんにちは。今日は旦那さんも一緒なんですね。もういらっしゃらないかと思ってました」
真人が体を縮こませ、頭を下げる。
「前回は失礼なことを言ってすみませんでした」
「あ、ごめんなさい、嫌味を言ったわけじゃなかったんです」
慌てたように、錦織先生が顔の前で手を振った。少し考え込むように顎を撫でる。
「私は前回、旦那さんの気持ちを否定するようなことを言ってしまったので、中本さんの付き添いはしても、診察室にまで入ってはこないんじゃないかと、勝手に思っていたんです」
そこまで言って、錦織先生は真人に向かって頭を下げた。
「もう少し、旦那さんの気持ちに寄り添うべきでした。申し訳ありません」
「あ、いや、僕も酷いことを言ったので…すみませんでした」
私以外の二人が頭を下げているという状況に、我慢できなかった笑いがこぼれた。真人が顔を上げ、錦織先生も顔を上げ、私を見る。くふくふと喉の奥で笑っていると、錦織先生が再度微笑んだ。
「よかった。前回いらしたときは、何かを思い詰めているような顔をしていましたけど、今はすっきりした顔をしてますね。旦那さんとしっかり話し合いができましたかね」
「あ、そのことなんですけど、相談があるんです」
ちらと直人に視線を向けると、先を促すように頷くのが見えた。
「経膣分娩をしたい希望はあるんですけれど、主人はやっぱりして欲しくないと言っていて…どこかで妥協点を見つけられないかと思っているんですけれど、何かありませんか?」
「妥協点、ですか」
「はい、妥協点」
腕を組み、錦織先生の視線が上を向く。ぶつぶつと何かを呟いている。私たちは、黙って錦織先生の言葉を待った。
五分ほど、待っていただろうか。
上を向いていた視線が、唐突に私に向けられる。
「人工子宮に胎児を移すのが一般的ですけれど、それは?」
真人から以前言われたことだ。人工子宮に胎児を移すのは、今の医療技術を考えると容易らしい。腹と膣を切らなければいけないということを考えると、なかなかハードではある。人工子宮に胎児を移す手術は、在胎週数が短ければ短いほど、手術の侵襲性が低くなる。胎児の大きさに合わせて腹と膣の傷が変わるからだ。もしこの方法を選ぶとすれば、すぐに手術の日程を決めることになるだろう。
けれど、私は経膣分娩ができないのなら、なるべく腹の中で子を育てたいという気持ちがあった。それは、すでに真人に伝えてある。
「できれば、子供は腹の中で育てたくて」
「なるほど。人工子宮は使用したくないということでいいですか?」
「まあ、はい。そうですね」
ふむ、と錦織先生が喉を鳴らす。
我儘を言っている自覚はあった。
経膣分娩をせず、人工子宮も用いたくない。
面倒な患者極まりない。
先ほどよりも考え込む錦織先生に、申し訳ない気持ちになってくる。思わずすみません、と謝罪の言葉が口から飛び出してくる。
それに慌てたように錦織先生が口を開いた。
「謝らないでください。私たちは患者さんの希望をなるべく叶えることも仕事の一つですから。ただ、中本さんの希望だと、お腹の赤ちゃんに負担がかかる可能性があって、どうお伝えしたらいいか、考えていたんです」
「負担ですか?」
それまで黙っていた真人が口を開いた。
病院に来る道中、真人は経膣分娩をして欲しくないとしつつも、同時に私と腹の子供に負担がなるべくかからないようにしたいと言っていた。だからこそ、錦織先生の言葉に黙っていられなかったのだろう。
「それは、どういうことでしょうか」
真剣な声音で、真人が言う。錦織先生は、私に向けていた体を直人の方に向けた。
「腹の中で子を育てたいと言うのなら、分娩は帝王切開になります。帝王切開というのは」
真人が錦織先生の言葉を遮る。
「あの、お腹と膣を切るんですよね。それは調べました。人工子宮に子供を移動させるのと変わらないと思うんですけれど、それが子供にとって負担になる、というのは…」
会話に入ることができないまま、話が進んでいく。二人は真剣な顔をしていて、帝王切開について詳しく聞けるような雰囲気ではなかった。会話の中で腹と膣を切る、と言っていたし、なんとなく想像はできる。
「人工子宮に移す場合は、胎児を鎮静状態にして行います。腹と膣を切り、酸素も栄養供給も行えるようにしてから胎児を腹から取り出し、人工子宮に移動させます。大体腹から取り出して人工子宮に入るまで、三分程度です。その間、酸素も栄養もしっかり胎児には行っていますから、胎児に影響はありません。母体には、傷口ができるので、傷口が回復するまでの痛みと出血による貧血が考えられます。ただ、切り口は必要最低限にしますから、一週間もすれば日常に戻ることができます。帝王切開に関しても、母体にかかる負担は今申し上げたものとそう大差ありません」
ここで一度言葉を区切り、息を吐き出す。淀みなく口から出てくる言葉に目眩がしそうだ。置いていかれないように、錦織先生の言葉を必死に咀嚼する私とは違って、真人はその全てをしっかりと理解しているようだった。薬剤師として働いているから、私よりもずっと理解が早い。
「胎児は、膣を通って外に出てくると、産声をあげます。肺が膨らんで、初めて呼吸を始めます。帝王切開の場合、産声をあげないことがあります。その場合は呼吸ができていないということなので、何か障害が出る可能性が考えられます。大抵の場合はすぐに処置に入るので、何も起こらないことがほとんどですけれど、全くないとは言い切ることはできません」
「でも、それって治療で治せますよね?発達障害も、知的障害も治すことができるって…」
確かに、真人の言う通り、ほとんどの障害は医療の発展により治すことが可能になっている。身体的障害だって、細胞を培養することで完治させることができるようになっている。それなのに、錦織先生は何を重く捉えているのだろうか。
錦織先生が真人の言葉に頷く。やっぱり、とほっとしたのも束の間、眉間にシワを寄せたまま、言葉を続ける。
「確かに、おっしゃる通りです。医療の発展で、身体障害も知的、発達障害も治療が可能になりました。これは素晴らしいことです。これまで悲しんできた、苦しんできた人たちが、救われました。ですが、それは最低でも二十歳を迎えてからの治療になります。それまでは、障害を抱えたまま、生きなくてはならないんです」
二十歳を迎えてから、という錦織先生の言葉に、私は息が詰まりそうになった。
手術で障害が治ることは知っていたけれど、その手術は障害に気がついた時、すぐにできるのだと思っていた。
頭の中でぐるぐると思考が走り出す。
もしも障害が残ってしまった時、私はこの子を愛せるだろうか。
経膣分娩で障害があったのだとしたら、元々そういう風に生まれる子供なのだと諦めもつく。けれど、帝王切開をしてこの子を産み、それで障害があったとしたら、私はやり場のない感情をどこにぶつけてしまうだろう。
もしも、少しでも呼吸が止まってしまう可能性があるのだとしたら、帝王切開をせずに経膣分娩をした方が良いのではないだろうか。
でも、ここで経膣分娩をしますと私が言い切れば、それはまた直人の気持ちを裏切ることにならないだろうか。
「必要であれば、帝王切開を行うことは有益ですけれど、必要がないのであれば、私は危険だと思います。医学的にも、です」
錦織先生の真面目な声に、私も真人も黙り込んでしまった。
物事を軽く考えていたかもしれない、とその時初めて思った。
経膣分娩を止めるのは、簡単だと思っていた。医学が進歩しているのだから、なんの問題もなく腹から子供を出せるだろうと思っていた。たった今、それは私が勝手に見ていた夢だと思い知らされた。
「よく考えてみてください。考えがまとまったら、妊婦健診よりも先に予約をとっていただいていいですから」
必要な検査を終え、診察室を出る。会計を待っている間、私も真人も無言だった。言葉は交わさずとも、二人とも同じことを考えていることは明白だった。
真人の気持ちを優先させたいことは山々だけれど、人工子宮に子供を移すことは、やっぱりどうしても抵抗があった。私の腹の中で大きくなっているこの子を、わざわざ外に出す。感情論でしかないけれど、可哀想だと思った。腹の中でゆったりと過ごしていたのに、母体から引き離される。もちろん、人工子宮が優れていることはわかっている。栄養も酸素状態も、母体にいるよりずっといいだろう。二十四時間モニターで管理され、何かがあればすぐに医師が対処する。子供が育つ上で、こんなにも恵まれた環境はないとわかっている。それでも、私の腹の中にいて欲しかった。私の腹の中で大きくなって、生まれて欲しかった。
隣に座っている真人にバレないよう、その顔を視界の端に入れる。
思っていた通り、難しい顔をしていた。眉間にシワを寄せ、下唇を噛み締めている考え事をする時の、真人の癖だった。
静かに肺に溜まっていた空気を吐き出す。
妥協点を探していたけれど、そんな都合のいいものは存在しないようだ。心なし痛み出した目元を両手で覆う。
家に帰ったら、また真人と話し合いをしないといけない。今度は妥協点ではなく、腹の子をいつ出すか、の話し合いになるだろう。帝王切開ができず、経膣分娩をして欲しくないという真人の気持ちを優先するなら、腹から取り出して人工子宮に移すしかない。
錦織先生は、在胎週数が伸びれば伸びるほど、胎児が大きくなり腹を切る量も増えると言っていた。それを考えると、すぐに腹から取り出してしまうのがいいのだろう。でも、せめて胎動を感じたい。腹の中で、この子が元気にしているのを実感したい。それさえ感じさせてもらえることができるなら、私はこの子を腹から取り出したっていい。
週数的には、いつ胎動を感じてもおかしくないのだから、それくらい待ちたいと言ってもバチは当たらないだろう。
病院に行く準備をしながら、真人に再度確認をする。
「本当にいいの?」
車内で飲むお茶を用意していた真人が、眉尻と目尻を下げて笑う。
「何回聞くんだよ、もう。大丈夫だって。ちゃんと話し合ったでしょう?僕はもう、納得してるから」
「本当?無理してない?」
「してないってば。ほら、早く病院行こう、ね?」
急かされるまま玄関で靴を履き、車に乗り込む。私が身支度を整えている間に空調を効かせてくれていたようで、車内は快適な温度だった。私がゆっくりできるようにと、後部座席には枕にもできるようクッションと、膝掛けが用意されていた。以前よりも膨らんだ腹を圧迫しないよう、シートベルトを緩めにつける。
「病院まで長いから、寝てていいよ」
「ううん、運転してもらうから、起きてるよ」
「気にしなくていいのに」
車で二時間、真人は文句ひとつ言わず運転をして、病院まで連れて行ってくれる。大変だろうから電車で行こうと伝えてこともあるけれど、電車だと私が横になりたい時になれないからと、車で行くと言って聞かない。
真人が運転してくれる代わりに何かをしてあげたいと思うのだけれど、それすら最近では遠慮されてしまって、私は真人に甘えるばかりだった。
「…やっぱり嫌だってなったら、言ってね。診察室に入る前なら、変えられるからね」
「しつこいなあ。僕は大丈夫だって言ってるでしょ。何回も聞いてきて、結衣がそうしたいみたいじゃん」
「そういうわけじゃないけど…」
「したくないんでしょ?ならいいじゃん。僕が血迷ってそれでいいって言ってると思ってるのかもしれないけど、結衣は僕が血迷ってるならそれを利用すればいいんだよ。血迷ってようが血迷って無かろうが、二人で決めたことなんだから」
この話はおしまい、というように、無言だった車内に音楽が流れ始める。真人の好きなバンドの新曲だった。
真人に話しかけてもよかったけれど、頭がまわっていないのか、特に話題を思いつかなかった。窓の外から差し込んでくる太陽の光が暖かく、だんだんと瞼が重たくなってくる。眠ってしまいそうだ。昨晩はあまり眠れなかったから、そのせいかもしれない。一度睡魔を自覚すると、それは質量を増して襲いかかってくる。
欠伸を噛み殺していると、その呼吸音が聞こえたのか、真っ直ぐ前を向いたまま真人が言う。
「寝ちゃいな。お腹大きくなってから、あんまりよく眠れてないでしょ」
「んー…」
かかっていた音楽の音が小さくなる。バンドのアップテンポな曲が、クラシックに変わった。
車の振動と太陽光の暖かさに体を委ねているうちに、手足を動かすのが億劫になってくる。背もたれに体重を預け、何度か瞬きをして睡魔を逃そうとしたけれど、無駄な足掻きだった。気がつけば意識はどろりと溶けていて、目が覚めた時には、大学病院の駐車場だった。
荷物をまとめている真人の頭頂部が見えて、自分がすっかり寝入っていたことに気が付く。
涎の垂れていた口元を拭い、手櫛で髪の毛を整える。
「ごめん、寝てた」
二時間ほど眠っていたから、随分と体はすっきりしていた。あんなに体に重く纏わりついていた眠気は、すっかりどこかへ消え去っている。
「よく寝てたね」
「うん。かなりすっきりした」
「それはよかった。じゃ、行こうか」
車を降りた真人を追いかけ、産婦人科まで足を進めた。
産婦人科にかかる人は、私たち以外にはいないから、いつだってすぐに呼ばれる。
今日もそれは変わらず同じで、すぐに私の名前が呼ばれる。
診察室に入ると、いつも通り、穏やかに微笑んだ錦織先生が私たちを待っている。
「こんにちは」
意識していなかった心臓が、突然存在を主張し始める。規則的だった鼓動が、どくどくと早鐘を打ち始める。体の中心から少し左側が痛いくらいだった。
斜め後ろに立っている真人を見る。視線がぶつかると、真人は肩をすくめる。自分には関係ない、とでも言いたげに、一度はぶつかったはずの視線が全く噛み合わない。私が真人を見ていることはわかっているはずなのに、意識して視線がぶつからないようにしていた。
本当にいいのか、という意味を視線に込めたつもりだった。きっとそれをわかった上で、視線がぶつからないようにしているのだと思う。好きにしろ、と言外に言っているのだ。車内でも言っていたように、真人は二人で話し合った結果に納得している、ということなのだろう。
「前回お話されていたこと、気持ちは決まりましたか?」
見ていないだろうとわかっていたけれど、最後にもう一度真人に視線をやる。思った通り、真人は私の方を向いていなかった。何が面白いのか、診察室の壁をじいと見つめている。
「はい。ちゃんと話し合ってきました」
関係ないとでも言いたげな真人の手を取った。ごめんね、という気持ちをこめて、力一杯握りしめた。真人からも、ゆるく握りかえさえる。
言葉にしたら、もう戻れないだろう。すっかり腹の子は大きくなった。ぽこぽことよく腹を蹴って、自分は生きていると主張をしている。
私の腹の中で、すくすくと大きく育っている。
息を吸い込み、肺を膨らませる。
「経膣分娩をします。この子は私の腹の中で育てます」
言ってしまった。
真人と話し合って決めたことだけれど、ついに言ってしまった、と思った。
錦織先生は、喜ぶわけでも難しい顔をするわけでもなく、ただ
「わかりました」
と凪いだ声で言った。
ぽこん、と腹を蹴られる感覚がした。腹の子が、私にしっかりしろ、と言っているようだった。
妊婦健診は特に問題なく終わり、車に戻るとどっと疲労が押し寄せてきた。
座席に腰を下ろすなり、背もたれに体を凭れさせ、目を瞑った。ただ、経膣分娩をすると言っただけなのに、こんなにも疲れたのは、以前とは抱いている感情が違うからだろう。
以前は、ただ自分の感情のままに放った言葉だった。
今日発した言葉には、真人の優しさと苦悩が乗っている。正しくは、以前も真人の感情は乗っかっていたはずだけれど、それを感じ取れていなかった。だから、ただ無邪気にそれを口にすることができたのだ。
「ちょっと、大丈夫?」
目元に影が落ちる。目を開けるのも億劫だった。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
「それならいいけど…もし、体調悪くなったらすぐに言うんだよ」
車が滑るように走り出す。行きではかかっていたクラシックは、帰りは流されなかった。タイヤの回転する音が、ガラス越しになんとなく聞こえてくるだけだ。
これで私は、望んでいた通り経膣分娩ができる。祖母の言っていた幸せをわかりたいと思っていた。わかることができる。
それなのに、どうにも気持ちが重たかった。
真人の気持ちを大切にしたいと思っていたはずなのに、結局は私の思い通りになっている。
真人は納得していると言っていたけれど、本当にそうだろうか。私が腹の中でなるべく子を育てたいと言ったから、納得しているように見せているだけではないだろうか。
人の心は見えない。
なんとなく、声音や表情から察することができることもあるけれど、それでもなんとなくでしかない。他人が考えていることは、言葉にしてもらわないと理解はできない。
私は、真人の気持ちを本当に理解できているのだろうか。心を見せてもらえているだろうか。
「真人」
運転している背中に声をかける。瞼を開けると、ぴんと伸びた背中が見える。
んー、と喉の奥で転がされた声が私に投げかけられる。
「ごめんね」
何を謝っているかはわからなかったけれど、謝らないといけないと思った。優しいこの男に、私は謝らないといけない気がしていた。
ふ、と吐息で笑った音が聞こえた。
「いいよ」
柔らかく暖かい声に、目頭がじんと痛んだ気がした。目を閉じる。じわりと眼球が濡れた気配がしたけれど、それには気がつかないふりをした。私にできるのは、この男を理解したいと思うことではなく、ただ子供のようにこの男の甘さに身を委ねるだけだった。
腹の子は、三十週をすぎると一気に大きくなった。
うっすらとしか出ていなかった下腹がぐっと迫り出し、誰が見ても腹の中に子供がいるとわかるようだった。
一度、鏡で自分の全身を見た時、あまりにも腹が迫り出しているのを見て餓鬼みたいだ、と思った。
腹の中で子が育つにつれて、私の体はどんどんと変化していった。胸が大きくなり、乳首の色が濃くなった。大きくなった下腹は、皮膚が伸びたことでひび割れができた。胎児が大きくなったことで、一度に食べられる量が減った。トイレに行く回数が増えた。
そのどれもが小さいことだったけれど、確かに私の腹の中で子が大きくなっている証明だった。
ぽこぽこと日に何度も蹴られる腹は、痛みを伴うこともあったけれど、喜びの方が大きかった。
大きくなった腹を抱え、玄関に向かう。スリッポンに足を入れていると、真人が急いでリビングからやってくる。
「行ってらっしゃい。今日が最終日だよね?」
「うん。明日からは休み」
「そっか。今日までお疲れ様。明日から、入院まではゆっくりしなね」
「そうさせてもらう。じゃあ、行ってきます」
玄関を出ると、外は眩しいくらいの快晴だった。すっかり季節は夏に足を踏み入れており、鼻から入ってくる空気は暑いくらいだった。
電車に乗り、空いていた座席に座る。隣に座っていた中年の男性が、私の膨れた腹をじろじろと見ているのがわかった。
腹が大きくなるにつれて、こうした奇異の視線を向けられることは多くなった。それもそうだろう。妊婦は珍しい。人工子宮が普及する前なら、頻繁に目にすることもあっただろう腹の膨れた女は、今では一生に一度、目にするかどうかも怪しい。
ぽこ、と腹の子が腹を蹴った。最近は、洋服を着ていても、視認できるくらい力強く腹を蹴り上げてくる。思わず痛みに呻き声が出るくらいだ。
私をじろじろと見ていた男が、腹がぽこんと出っぱったのを見て、肩が跳ねていた。
人工子宮が一般的で、胎動というものがあることすら知らないのだろう。何が起こったのかわからないといったように瞬きを繰り返している男に気が付かれないよう喉の奥で笑った。男が不思議そうに私の腹を見ているのを面白がっているうちに、会社の最寄り駅についた。
席を立ち上がると、ぽこん、と腹の子がまた腹を蹴る。最近は、私が何かをするたびにぽこぽこと腹を蹴っている。
会社とは何度か話をして、規則にあるから、と渋々ではあるけれど産前休暇をもらうことができていた。渋って休暇をもらえないようであれば、錦織先生に診断書を書いてもらおうと思っていたから、これは僥倖だった。
産前休暇なんて、と最後まで人事は文句を言っていたけれど、休暇が取れるならどんなお小言でも気人らなかった。
会社に着き、自分のデスクに向かう。佐久間さんが少し遅れてやってきて、挨拶をすると満面の笑みを返してくれる。
「おはようございます!」
「おはよう。今日はよろしくね」
「こちらこそです。お願いしますね」
私が始業の準備を始めると、佐久間さんもすぐに同じようにした。
大きくなった腹を抱えて仕事をするのは思った以上に大変だった。夜あまり眠れず、睡魔に耐えながらキーボードを睨みつける日々も今日でおしまいだ。明日からは昼寝もし放題で嬉しい。
けれど、佐久間さんと会えなくなることは、寂しかった。
腹が大きくなるにつれて、私を嘲る噂はどんどんと広がった。妊娠したばかりの時もおかしな噂を流されたけれど、腹が大きくなってから流されたそれはさらに酷いものだった。
不倫の末にできた子供だ。強姦されてできた子供だ。数人と乱行してできた子供で、人工子宮に移してしまうと夫の子供ではないことがバレてしまうから腹の中に留めているんだ。
耳にしようとしなくても、悪い噂はそこかしこでおもしろおかしく話されているから、私の耳にも自然と飛び込んできてしまう。
給湯室に温かいお茶を淹れに行った時、私よりも四つ下の男性社員が
「あんな大人しそうな顔してるのに、好きものだよなあ。腹がでかくなかったら、お相手してほしいもんだわ」
と蔑むように笑っているのを耳にした。気が大きくなっているのか、給湯室から少し離れた場所にいてもはっきりと彼の声が聞こえてきた。
給湯室近くのデスクに座っている顔見知りの社員が、ちらちらと私に視線を向けてくるのも鬱陶しかった。噂が真実か気になるのか、私を気遣うような瞳の中に、わずかに好奇心が見え隠れしている。
全て嘘だからと、好き勝手に拡がる噂を放置していたのが悪かったかもしれない。今更後悔したところで、一度拡まった噂は拡散を続けるだけだ。
そのまま給湯室に突っ込んで行ってもよかったけれど、日に何度もぶつけられる奇特なものを見る視線に疲れていた私は、くるりと踵を返した。ああいう輩には、関わらないことが一番だ。どうせ自分が何を口走っているのか、しっかり理解をしていない。私が酷いと口にしたところで、冗談だとへらへら笑うに決まっている。
悪意を放っている張本人ほど、自分が口にしているそれが悪意だとは気が付かないものだ。
あんまりにも噂が酷くなるようなら、上司や人事に相談した方がいいかもしれない、と考えていた。
デスクに戻ろうとした私の横を、佐久間さんが勢いよく通りすぎる。おっとりとした性格の彼女には珍しく、目を釣り上げて怒っているようだった。彼女が通りすぎたあと、前髪がふわりと浮いた。どうして怒っているのだろうか、何か嫌なことでもあったのだろうか。考えているうちに、佐久間さんの怒鳴る声が聞こえた。
「さっきから人の噂話ばっかりして下品な人たちですね。恥ずかしいと思わないんですか?中本さんが何も言わないのをいいことに好き勝手言って」
苛立ちをたっぷりと乗せた佐久間さんの声が給湯室から聞こえた。
どうして佐久間さんが、と思っている間に、舌打ちの音がここまで聞こえてくる。人の舌はそんなにも大きな音が出せるのかと驚くくらいに大きな音だった。
「噂話ばっかしてるから、周りから嫌われるんですよ。気が付いてませんか?原さん、経理の藤田さんにアプローチしてますけど、彼女、原さんみたいに悪口ばっかりで下卑た人は嫌いですって」
嘲笑混じりの声に続いて、男の喚き声が聞こえた。私の噂話を嬉々として話していた男だろう。
喚き声がフロア内に響いたことで、それまでちらちらと給湯室を伺うだけだった人たちの中から、数人が小走りで給湯室に向かうのが見えた。
ばたばたと数人の男と女が給湯室に向かう間にも、給湯室から男の喚き声と、それに隠されてほとんど聞こえないけれど、佐久間さんの声もする。デスクの方を向いていた体を動かし、私も急いで給湯室に向かった。
給湯室を除くと、顔を真っ赤にした男が、男二人に両腕を抱えられていた。拘束されている男は顔を真っ赤にし、ふうふうと荒い息を吐き出している。身開かれた瞳は真っ赤に充血し、爛々とおかしな光を纏っていた。その男とは別に、拘束されているわけではないが、顔を俯かせている男の姿もあった。拘束されている男と、顔を俯かせた男が私の根も葉もない話を嬉々として語っていたのだろう。
自分よりも背の高い男を相手に、佐久間さんは腕を組み、下から睨め付けていた。
歯を剥き出して唸る男に、佐久間さんがせせら笑う。
「怒らないでくださいよ。事実じゃないですか、事実。原さんが悪口ばっかり言ってるのも、佐野さんがそれに迎合してることも」
「お前さあ!馬鹿にするのもいい加減にしろよっ!」
ぎゃあぎゃあと怒鳴る男に少しも気圧されることなく、佐久間さんは相手を淡々と詰った。第一声こそ声を荒げていたけれど、それ以降は凪いだ海のように波ひとつ立たない声音で相手を詰った。
それを見た相手はどんどん怒りで我を忘れ、声を荒げる。それを佐久間さんが嘲る。
それの繰り返しで、事態は収束するどころかどんどんヒートアップしていった。
事を見守っていた女性社員が、ぱたぱたと駆け足でどこかにかけていく。
「いい加減にするのはあなたです。中本さんの噂、嘘しかないものをどんどんばら撒いて。嘘だったら何言ってもいいと思ってるんですか。中本さんに失礼ですよ」
彼女の口から飛び出した自分の名前に、息が止まりそうになった。
「中本さんの噂、広めるのやめてください」
私は噂を流されても仕方ないと諦めているのに、全く関係のない佐久間さんが噂を止めさせようとしている事実に、喉が締め付けられたようだった。腹の底がうんと熱くなり、喉元から悲鳴が迸りそうになる。
それを必死で飲み込んで、私は佐久間さんの背を見続けた。
男と佐久間さんの言い争いは、途中でどこかへ向かった女性社員が人事部長を連れてくるまで終わらなかった。
以前から私の噂話を面白おかしく語っていたらしい男たちは、人事部長にこっぴどく叱られていた。なんでも、数人から与太話を聞かされて迷惑だと苦情があったらしい。人事部としては少し様子見をしていたところらしかったのだけれど、佐久間さんと揉めたことでその苦情が真実だとわかった。真実ならばと勇んでやってきたのが人事部長だったというわけだ。
佐久間さんも注意を受けていたけれど、それはどちらかといえば彼女自身の身を案じての言葉だった。人事部長はつらつらと何かを言い連ねてはいたけれど、逆恨みをした男は怖いぞ、と脅されているように聞こえた。
給湯室から一人、また一人と人が消えていって、ついには私と佐久間さんだけになった。
佐久間さんにどう声をかけるべきか迷った。ありがとうと言うのがきっと正しいのだろうけれど、私のために怒ったわけではなく、佐久間さんが彼らの行いにただ苛立っただけかもしれない。
口を開いては閉じ、伸ばそうとした手を胸に寄せ、もたついていると、佐久間さんが私の方を向いた。
佐久間さんの瞳には、怒りが滲んでいると思ったのに、そこに浮かんでいたのは悲しみだった。やるせないと言いたげに眉間には深いシワが刻まれていた。視線がぶつかると、佐久間さんが微かな声で
「すみませんでした」
と言った。聞き間違いかと思い、反応できずにいると、黙ったままの私を見て佐久間さんの頭が下がる。
それを見てやっと私は慌てて彼女の頭を上げさせた。感謝こそすれど、謝ってもらう理由は一つもない。
顔を上げさせ、間近で佐久間さんと視線が交わる。どうしてそんなに辛そうな顔をしているのかがわからない。どうしたの、と私が口にするのと同時に佐久間さんが話し始めた。
「中本さんが反応してないのに、私が過剰に反応してしまって。すみません。好き勝手に言われてるのが我慢、できなくて」
足元を彷徨う視線は、悪戯がバレてお説教をされている子供のようだった。
怒るわけなんてないのに、怒られるかもしれないと思っている佐久間さんが、とても可愛く感じた。本当は彼女の手を握りたかったけれど、触られるのが嫌かもしれないと思い直す。
「佐久間さん」
下を向いていた視線が上向いた。
「私、嬉しかったよ」
本当に嬉しかった。私が好き勝手に言われていることは、社内の誰もが知っていたと思う。それがただの噂に過ぎないと、ほとんどの人がわかっていた。それでも噂がいつまで経っても社内で語られていたのは、誰もそれを止めようとしなかったからだ。
私の同期ですら、面白がって噂を口にしていた。
この時代に自然妊娠をしたとなれば、娯楽として消化されることはわかっていた。だから、噂に対して怒ろうという感情がなかった。けれど、私は怒ってよかったのだ。自分のことではないのに、怒っている彼女を見て気が付いた。仕方ないと受け入れることが正しいわけではなかった。どうしてそんな酷い事を言うんだと怒鳴り散らしてもよかった。佐久間さんを見ていたら、私の態度はむしろ噂を助長させるものだったのだと気が付いた。
もしも私が本気で怒っていたら、こんなに噂は長続きしなかったかもしれない。
「ありがとう、佐久間さん」
佐久間さんは私の顔をじっと見て、力が抜けたようにへにゃりと笑った。
あの日から、私は噂に対して寛容な態度を取ることをやめた。少しでも耳に入れば、嘘を流すのはやめてくれと言った。
私の言葉に慌てて謝罪を口にする人もいれば、冷笑を浮かべる人もいた。冷笑を浮かべる人には、続けるようなら人事部に報告すると冷静に言えば苛立った表情を浮かべながらも渋々謝罪の言葉を口にしてくれた。
そんなことを続けていると、少しずつ、噂を話す人は減っていった。
パソコンを立ち上げた佐久間さんが身を寄せて小声で話しかけてくる。
「最近、噂聞かなくなりましたね!」
佐久間さんの笑顔は、太陽のようだと思う。底抜けに明るくて、見ていると自分まで自然と笑顔になる。何もないのに、嬉しくなってしまうのだ。
「佐久間さんのおかげだよ。佐久間さんが怒ったの見て、私も怒らなきゃって思えたから」
ふふ、と佐久間さんが笑う。
「褒めても何も出ませんよ」
「わかってるよ。でも、本当に嬉しかった。ありがとうね」
始業時間になるまで、佐久間さんと他愛のない話をした。
佐久間さんだけが、妊娠した私を見て態度を変えなかった。
優しい子だと思う。今日が終われば、しばらく佐久間さんに会えなくなることが、本当に寂しい。
仕事が終わり、帰り支度をしていると、先に支度を終えていた佐久間さんが立ち上がった。
最後に挨拶をしたい、と思って慌てて顔を上げると、佐久間さんがすぐそばまで来ていて仰け反った。びっくりして声も出せずにいると、佐久間さんが私に小さな紙袋を差し出した。
「これ、選別です。今日までお疲れ様でした。元気な赤ちゃん、産んでくださいね」
差し出された紙袋は、子供服の有名ブランドだった。紙袋にはぱんぱんに洋服が詰まっている。
「こんなにもらえないよ!」
慌てる私に、佐久間さんは胸の前で両手をぶんぶんと振る。
「いいんです!私が中本さんの赤ちゃんに着てほしくて買ったものなので、返されても困ります!ほら、私付き合ってる人もいないですから!まだしばらく子供は持ちませんし、もらってください」
「でも…こんなに悪いよ」
渡されたのが一枚や二枚であれば、ありがたく受け取ることもできる。けれど、紙袋の大きさからいって、入っているのはそんな枚数ではないことが確実だ。一着一万円以上することの多いブランドを、そう何枚ももらうことは申し訳ない。
できるなら少しでもお金を受け取ってほしいと私が言うと、佐久間さんは顎に手を当てて少し考えるそぶりをする。
三十秒ほど唸った後、思いついた、とばかりに声を上げる。
「そしたら、赤ちゃんと中本さんの写真送ってください。二人で写ってる写真。お礼はそれがいいです」
写真なんて、お礼になるわけがない。反論しようと口を開く前に、佐久間さんがそれを制するように口を開く。
「私が望んでるので、それでお願いします。それ以外はいらないので!それじゃあ!」
佐久間さんは、私が声をかける間もなくさっさと走ってフロアから出て行ってしまった。走って退勤をする姿なんて、今まで一度も見たことがない。
あっという間にエレベーターに消えていった後ろ姿にしばらく口を開けて呆然としてしまった。
デスクの上に放置された紙袋を見てから、私は自分のデスクの引き出しから小さな紙袋を取り出した。
雑談の中で、チョコレートが好きだと言っていた佐久間さんのために買っておいたものだ。今までのお礼に渡そうと思っていたのに、渡す前にさっさと出ていってしまった。たった六粒で八千円もしたそれは、自分が食べるようなら絶対に買わない高級品だ。佐久間さんにだから、購入を決めた。私のために怒ってくれた彼女に、喜んでほしかった。
本当は直接渡したかったけれど、付箋に名前を書いて冷蔵庫にしまっておくことにした。
喜んでくれるといいな、と思いながら、正方形の付箋に今までのお礼とチョコレートが冷蔵庫に入っている旨を記載して、彼女のパソコンに貼り付けておいた。付箋が何かの表紙に落ちてしまったら困ると思って、少しだけセロハンテープを上から貼り付けた。
さて、と腰を持ち上げて帰ろうとすると、他のフロアから同期が数人でやってきていたようで、声をかけられた。
お疲れ様、赤ちゃん楽しみにしてるね、と通り一遍の言葉をもらいながら、彼女たちはどんな顔をして私にこんな言葉をかけているのだろうと考えてしまった。
目の前にいる同期は全員が例に漏れず、私の噂を面白おかしく話していた人たちだ。私にバレていないとでも思っているのか、浮かべている笑顔が白々しい。
ありがとうと言葉を返しながら、この会話は佐久間さんで終わりにしたかった、と悔しくなった。
妊娠が三十七週になったその日、私は錦織先生の勧めで入院することになった。
妊娠三十七週を超えると、いつ陣痛や破水が起こってもおかしくない時期になる。家にいるときに何かが起こった場合、病院に着くまでに母体にも胎児にも危険性がある、と言うことだった。
元々計画分娩の予定ではあるけれど、念には念を入れて、というわけだ。
分娩自体は、二週間後の金曜日に行う。前日の木曜日に分娩を誘発する薬を使用し、子供の通り道である子宮口を開く処置を行う。
入院初日、処置について聞かされた私は子宮口に風船を入れる、と聞かされたとき、想像してその痛みに顔を青くした。経膣分娩をしたいと言ったのは私なのに、いざそれが間近に迫ってくれば、私は分娩の痛みにも陣痛の痛みにも恐怖を感じていた。
錦織先生は
「途中で麻酔使うこともできますから」
と言ってくれていたけれど、なるべくなら祖母のように産みたいと、麻酔は私がしてほしいと言うまで使用しないことになった。
入院中は、することがなくて暇だった。
入信中に読もうと持ってきていた文庫本数冊は、あまりの暇さに入院して三日で読み切ってしまった。となると後はネットの海に溺れるしかない。特に興味もないサイトに目を通し、時間を潰した。一時間くらい経っただろうかと時計を見てもまだ三十分程度しか経っていない、なんてこともザラにあった。
自宅から病院までは二時間以上かかるため、真人もそう簡単に見舞いに来ることもできない。
暇で暇で仕方なかった。
散歩をして時間を潰そうにも大きく膨らんだ腹では立ち上がることも億劫だったし、子が大きくなったことで股関節に重みがかかり、少し歩くだけでも酷く痛んだ。
一日の大半をベッドの上で過ごし、眠った。腹の子供は、私が暇を感じているとわかっているのか、入院してからぽこぽことよく動いた。
入院してからちょうど一週間が経ったその日、私は目覚めると股座がじっとりと湿っていることに気がついた。まさかこの年になっておねしょか、と焦った。色の変わった布団を鼻に寄せ、匂いを嗅いでみる。恐れていたアンモニア臭はせず、無臭のようだった。これはなんだ、と寝ぼけたままの頭で考えていると、病室に看護師がやってきた。
「おはようございます。どうかされました?」
布団を鼻に寄せたままの体勢で固まっている私に、看護師が首を傾げる。
「あの、起きたら股間が濡れてて。でも、多分おねしょじゃなくて」
濡れた布団を差し出して言うと、看護師が小さく声を上げた。
「中本さん、それ破水!破水です!」
そこからはあっという間だった。
まだ朝の七時だというのに錦織先生が飛んできて、あれやこれやと看護師に指示を飛ばす。指示を受けた看護師も、病室を出ていってはすぐに戻ってきて、私の下着や入院着を取り替えていく。
「中本さん、これから赤ちゃんが出てこようとして陣痛きますからね。だんだんと痛くなって、痛みを感じる間隔も狭くなってきます。痛くても、力んじゃダメですよ。深呼吸で痛みを逃してくださいね」
心臓がどきどきとうるさかった。
お腹の子が産まれようとしている。もう少しで、腹の子に会える。
嬉しくて、笑い出してしまいそうだ。緩む口元を堪えていると、錦織先生が私を見て微笑んだ。
「一緒に頑張りましょうね」
もう少しで腹の子に会える高揚感と多幸感で胸が苦しかったのは、陣痛が始まるまでだった。
陣痛が始まり、十分間隔で来ている時は元気だった。痛いけれど、我慢ができる程度だった。時々様子を見に来る看護師と笑顔で雑談を交わすことができていた。
陣痛の感覚が五分、三分と短くなるにつれ、痛みは増していく。深呼吸で痛みを逃そうとしても、そもそも痛みでうまく呼吸することができない。上体を曲げ、ベッドの柵を強く握りしめて痛みに耐える。うう、と唸り声が自然と飛び出る。
真人には、破水していると錦織先生に言われてすぐに連絡をした。元々分娩時には付き添えるよう、事前に職場に伝えておいたらしい。すでに病院に向かっていると連絡があったけれど、朝の通勤ラッシュと重なって、まだ病院には到着していない。
陣痛が始まって、三時間が経とうとした頃、廊下から足音が聞こえた。ばたばたとうるさいそれは、だんだんと近づいてくる。
「結衣!」
足音の正体は真人だった。
ちょうど陣痛の波がきていた私は歯を食いしばって、痛みが去るのを待っているところだった。
大丈夫かと声をかけられても、返事ができるわけもない。ふうふうと息を吐きながら、何度も名前を呼ぶ魔人が鬱陶しかった。
痛みが去って、曲げていた上体を持ち上げる。真人は青白い顔をしていて、陣痛で苦しんでいる私よりも、よっぽど具合が悪そうに見えた。
「今はまだ陣痛がきてるだけだから。痛くて唸ってただけ」
そう伝えても、真人の顔は青いままだ。唸るほどの痛みを想像して、恐ろしくなっているのだろう。
「いつ頃産まれそうなの?」
「まだまだだって。子宮口、三十分くらい前に診てもらったらまだ五センチだって」
「五センチかあ…」
「十センチで全開だから、やっと半分だね」
きゅ、と真人の唇が引き結ばれる。痛みに耐えるために握りしめていた拳に、右手が添えられる。もう力んでいる必要などないのに、かなり力んでいたらしい拳をゆっくりと真人の指が解いていく。柔らかい手のひらには、うっすらと血が滲んでいた。
「頑張ろうね」
真人の手が、ぎゅうと力強く私の手を握った。
「そうだね、頑張ろう」
頑張って、ではなく、頑張ろうと言われたことが嬉しかった。
この子を産むのは私だけれど、真人も自分のことのように考えてくれていることが嬉しかった。頑張ろう。もう一度呟いて、私は陣痛の痛みを逃すために息を深く吸った。
陣痛が始まって六時間が経った。
看護師が私の体内に指を入れ、子宮口を触って、どれくらい開いているか確認をする。
「八センチかなあ。もう少しですね」
ええ、と大きく声が漏れる。痛みはかなり強くなっていて、脂汗が滲んでくるほどだった。こんなに痛いのだから、きっともう子宮口は開ききっただろうと思っていたのに、まだこの痛みに耐える必要があるのか。
弱音を吐く前に、また痛みの波がやってきて喉から唸り声が飛び出る。小学生の頃、骨折してことがあった。あのときよりもずっとずっと痛い。強く拳を握っても、歯を食いしばっても、深呼吸をしても、体から痛みが消えてくれない。涙が滲んでくる。祖母はこの痛みを耐えて、母を産んだのか。何時間も波のある痛みに耐えて、自分の体から子供を産み出した。
私の腰をさすっている真人が泣きそうな顔をしていた。
「…ごめんね」
今にも泣き出してしまいそうな声に、真人の考えていることがわかってしまって、私まで泣いてしまいそうだった。
優しいこの男は、私に嫌われても人工子宮での分娩に切り替えればよかったと後悔している。自分がもっと強く言えば、私がこんなに痛みに身をよじることもなかった、と。
この選択をしたのは私だ。直人が悪いことなど一つもないのに、私が選んだこの男は、優しいから全てを自分のせいだと考えてしまう節があった。
「謝らないでよ」
瞬きをした、たった数秒の間に真人の目は真っ赤に充血していた。目の表面はゆらゆらと揺れ、視線を動かせば今にも涙がこぼれ落ちてしまいそうだ。
「楽しみだね、この子が産まれてくるの」
痛みに顔が歪みそうになる。歪でもいい、無理矢理口角を持ち上げた。真人に泣いて欲しくない。笑って欲しい。
それなのに、真人の目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「泣かないで」
腕を伸ばし、頬に落ちた涙を拭う。湿った指を振って涙を飛ばし、また頬を拭う。
「泣き止んでよ、もう」
いくら拭っても、後から後から涙がこぼれ落ちてくる。呆れたように笑うと、真人の唇が歪に持ち上がった。不器用な笑みだった。私が笑って欲しいと願ったように、真人も私に笑って欲しいと思っているのかもしれない。
「ごめん、泣けてきちゃって」
腹がきゅうきゅうと収縮する。痛い。がんがんと腰を鈍器で殴られているようだ。
早く子宮口が開いて欲しい。この痛みから解放されたい。
子宮口が開ききったのは、陣痛が始まってから十時間が経過してからだった。
私はすっかり汗だくで、あまりの痛みに胃液を吐いていた。ただ痛みに耐えているだけなのに、息が荒くなってうまく呼吸することができない。
真人も懸命に腰をさすってくれていたけれど、皮膚の上を何かが滑っている、と思う程度でなんの気休めにもなっていなかった。
子宮口の開きを確認しにきた看護師が
「先生呼んでくるので、まだ息まないでくださいね」
と言い、急いで部屋を出ていく。
声を出すのも辛かった。こくこくと首を上下に動かし、早く先生を呼んできてくれと叫べるものなら叫んでいた。
錦織先生がやってくると、真人に話しかける。
「立ち合いますか?外で待ってていただいても構いません」
青い顔をした真人が私を見る。視線だけで、真人が何を言いたいのかわかる。
真人は、病院に勤めているというのに血や内臓のようなものが苦手だ。付き合い始めの頃、話題だからと観に行った映画で派手に出血するシーンが流れた時、真人は小さく声を上げて目を強く瞑っていた。
ただの作り物じゃないかと思うのだけれど、真人にとって、作り物かどうかは関係ないらしい。派手に血が飛び散れば恐ろしいし、内臓が見えれば痛みを感じるらしい。感受性が強くて大変だなあ、と思ったのを覚えている。
作り物を見る時ですらそんな状態なのに、立ち合い出産なんてできるわけがない。
青い顔で固まってしまった真人に代わって、一人で産みます、と口にしようとした瞬間、私を遮って真人が叫んだ。
「立ち合います!」
震えているくせにやたらと大声のそれに耳が痛くなりながら、大丈夫なのかと声をかけようとした。口を開いた瞬間に強い痛みがやってきて、唸り声が口から飛び出す。
「わかりました。そしたらご主人は中本さんの頭の方に。手を握っててあげてくださいね」
目を開けていないといけないのに、痛みで目が閉じてしまう。うう、と唸っていると、握りしめていた拳に温かくざらついた指が絡む。真人のそれだった。汗をじっとりとかいていて、緊張しているのがよくわかる。恐怖もあるだろう。痛みに唸り声をあげる私を見て、痛みの想像でもしているのかもしれない。
「結衣、頑張れ。頑張ろう」
震えるくらいなら、立ち会うなんて言わなければよかったのに。
細かく震えている指に、少しばかり痛みが和らいだ気がした。
痛みを堪えている間にも、腹にいろいろな器具が付けられていく。痛みを我慢するのも、そろそろ辛くなってきた。陣痛がきてから、一睡もできていない。かろうじて水分を取ることはできていたけれど、食事をできておらず、早くこの痛みから解放されたくて仕方がなかった。
痛みの和らぐ一瞬で深く息を吸い込むと、それを合図にしたように錦織先生が声をあげる。
「次の痛みがきたら、お腹に力入れてくださいね。赤ちゃん、外に出してきましょう」
錦織先生の視線がモニターを見ている。その横顔は真剣そのものだった。
「はい、息んで!」
錦織先生の声に合わせ、腹に力を入れる。ただ痛みに耐えているよりも、うんと楽だった。痛みを逃そうとしなくていいことがこんなにも楽なのかと驚くくらい、それまでの痛みが嘘のようだった。
「もう一回!」
腹に力を入れる。うう、と声が出た。私の手を握る真人の力が強くなる。結衣、と泣きそうな声が耳元でする。
「赤ちゃん出てきましたよ!もう一回息んで!」
ううん、と声をあげる。真人の手を握りしめ、思いっきり腹に力を入れた。下からばつん、という派手な音が聞こえる。なんの音だ、と思っている間に、錦織先生が息んで!と声をはりあげる。
ひ、と声が漏れた瞬間、あれだけ体を支配していた痛みが嘘のように消えた。はっはっと犬のように荒い息を吐いたのと同時に、ぎゃあ、と泣き声がした。ああん、ああん、と部屋の中に響く、まだ弱々しい泣き声。
その声を聞いた瞬間、体の奥から何かが迸った。視界がじわりと滲み、ぼたぼたと滂沱の涙が溢れる。
産まれた。私の腹で育った子が、産まれた。
私の子。
泣き声が小さくなったと思ったら、すぐにまた泣き声が大きくなる。体を捩り、私の子を見ようとする。
すぐ側にはいなくて、どこにいるのだろうと思っていると、私の子を抱えた看護師が口元に笑みを浮かべてやってくる。
「おめでとうございます、元気な女の子ですよ」
真っ赤な顔で、大きく口を開けて泣いている私の子は、小さな拳を強く握りしめていた。
泣いている私の子は、胸の上で抱き抱えると大人しくなった。深く呼吸をし、私の肌を確かめるように小さな手を動かす。入院着の上から肌を擦られて、少しくすぐったい。
産まれたての子供はどこもかしこも柔らかくて、少しでも強く触れば今にも壊れてしまいそうだ。真綿を抱き締めているような感覚で、少し恐ろしい。
頭皮にへばりついている頭髪を逆立てるように撫でると、くすぐったいのか子供が身を捩る。ぱちぱちと瞬きをする様が、とても愛らしい。
ねえ、と真人に声をかけようと顔を上げると、 頬にぽたりと滴が一つ落ちてくる。
真人が静かに涙を流していた。しとどに頬を濡らし、脱力したように両腕をだらりと下に垂らした様相は、意識がどこかに飛んでいってしまったようにも見えた。
真人、と名前を呼ぶ。一度目は反応がなくて、二度目でやっと、その瞳が揺れた。薄ぼんやりとしていた瞳が明確なる。下に垂れていた腕が、細かく震えながら私の胸で丸まる子供に伸ばされる。
砂糖菓子に触れるかのように、人差し指の先端で、子供の肩に触れた。肉が凹み、側から見ていても肉の柔らかさが伝わってくる。子供はむず痒そうに小さく唸ったけれど、すぐに目を閉じて大人しくなる。
「あ、あり、ありがとう」
その声を聞いて、私は笑ってしまった。涙が頬を濡らすことも構わず、けたけたと笑う。真人は酷い鼻声で、一瞬で鼻風邪でもひいたのかと思うほどだ。彼の瞳から溢れる涙は頬を伝い、首を濡らし、襟を濡らしている。首元だけ色が変わった洋服は滑稽なのに、真人が顔を歪めて泣いている対比が面白かった。
「本当に、ありがとう」
肩に腕が回される。ゆっくりと抱き寄せられて、真人の匂いが鼻に充満する。
譫言のように繰り返されるありがとうという言葉に、私は笑った。ぼたぼたと流れる涙が止まらない。
幸せだった。
あんなに痛くて苦しくて仕方なかったのに、幸せだった。私の胸の上ですうすうと呼吸をしている子供を抱いて、子供の父親に抱かれて、私はこの瞬間、世界で一番幸せな女だと確信していた。
愛したいと思う生き物を抱いて、自分を愛している生き物に抱かれて、幸せでないわけがなかった。
美味しいものを食べたとき、たくさん眠れたとき、たまたま観た映画がすごく面白かったとき、手に取った本がとても好みだったとき。
いろんな種類の幸せがある。そのどれもが違う色をしていて、どれとも比べようがない。
これが一番、と言い切れる幸せはないと思っていたのに、間違いなく私の人生の中で、この子を抱いて、抱き締められている今が一番幸せだった。
祖母の写真を思い出す。祖母の顔は、幸福で満ち満ちていた。きっと、今の私も同じ顔をしている。
子供の名前は、朝陽にすることにした。
顔を見たときに、この子は朝陽だ、と思った。
この子を産んだとき、ちょうど太陽が昇る時刻だった。分娩室には窓がなくて、太陽が昇ったかどうかはわからなかった。けれど、この子は私にとっての太陽だった。
産まれたばかりの浮腫み、赤黒い肌をした柔らかい肉に包まれた子供は、私の胸を温かくしてくれた。産まれた瞬間から、今日までずっと、朝陽は私を温かくしてくれている。
真人は、朝陽と名付けたいと言うと、良い名前だねと笑ってくれた。
ふにゃあ、と泣く声がする。
皿を洗っていた手を止め、朝陽の寝ているベッドに向かう。私に抱かれて昼寝をしていたのに、起きたら私がいなくてびっくりしたのだろう。
大丈夫よ、と声をかけながら体を揺らす。まだ眠かったのか、ゆらゆら左右に揺れていると、またうとうとと瞼が開いては閉じるのを繰り返す。
柔らかく、温かい朝陽。
顔を寄せると、母乳の匂いがした。
朝陽が欠伸をして、そのまま寝息を立て始める。
祖母は、自分の人生は母を産むために存在した、と言っていた。そんなわけないと思っていたけれど、朝陽を産んでわかった。
私の人生は、朝陽を産むためにあったのだと、強く思った。
私は私の人生を大切にしたいと思っているし、大切にするつもりだ。それでも、私の人生は朝陽のためにあった、と思うくらい、幸せだった。
私の腕の中で眠る彼女は、幸せが可視化した生き物だった。
朝陽 @kawaisounine
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