可哀想にね

@kawaisounine

可哀想にね

 この扉に続いているのは地獄だ。

 終わりの見えない、長い長い地獄が続いている。その地獄を引き寄せたのは、間違いなく過去の自分だった。人生の短い期間、たった一時期の不理解に引き起こされた苛立ちに身を任せた結果、地獄に絡め取られている。

 扉の向こうにいるのは鬼だ。一癸が鬼にした人間が、いつだって甘やかな笑顔で待っている。

 鬼は、きっと一癸が扉の前で立ち尽くしていることに気がついている。そうして、一癸が部屋の中に入ってくるのを、今か今かと涎を垂らして待っている。

 喉が渇いていた。鬼に会いにくる前に、これでもかというくらい水を飲んできたのに、もうすでに喉はからからに渇いていた。唾を飲み込むと、乾燥した喉がじんと痛んだ。

 深い呼吸を繰り返す。吸って、吐いて、肺をしっかりと膨らませる。鬼の前では、うまく呼吸をすることが難しい。それまで無意識で行えたことが、鬼を前にするとどうにもできなくなってしまう。

 一癸は、鬼が怖かった。一癸のせいで、鬼は鬼になってしまった。一癸のせいで、鬼は人生を滅茶苦茶にされた。それなのに、鬼は一癸に会いたがる。一癸が顔を見せると、顔を真っ赤にして喜ぶ。

 一癸は鬼が怖かった。どうして、人生を滅茶苦茶にされた相手を目の前にして、そんなに嬉しそうな顔をするのか、理解ができなかった。鬼の両親にも、何度も頭を下げた。金ならいくらでも払う、と。一癸は、自分に対する鬼の執着が怖かった。自分に対する鬼の執着心は、ストックホルム症候群によるものではないか、と疑ったこともあった。けれど、鬼は一癸の発言を一蹴した。自分の気持ちはそんなちんけなものによるものではない、と言い切った。

 一癸は、鬼が怖い。鬼の執着は、蔦のように身体中に巻き付いている。

 かた、と扉の向こうから音が聞こえた。鬼が、早く部屋に入ってこい、と言っている。

 深く息を吐いて、自分に言い聞かせる。鬼は、決して一癸を逃してはくれない。鬼が鬼になったのは、一癸のせいだからだ。

 一癸は今日も鬼に笑顔を振りまく。決して鬼を怒らせないように。口を何度か開閉して、口角を大袈裟なほど持ち上げる。一癸が笑顔でないと、鬼は不機嫌になる。

 思い切り息を吸い込み、扉をノックした。コンコン、二回、軽い音が鳴る。地獄へと続く音だ。

「どうぞ」

 鬼の声は、男にしては少し高めではあるが、確かに男だと分かる声をしている。

 鬼は、今日もベッドにいた。介護用ベッドの頭側を持ち上げ、そこにゆったりと上体をもたれさせ、足は布団に入れたまま、真っ直ぐに伸ばして一癸を待っていた。鬼は、いつもこの格好で一癸を待っている。窓の外を眺めていた顔が、ゆっくりと一癸の方を向く。よく手入れをされているらしい黒髪が、顔の動きに合わせてさらさらと揺れる。部屋の中は、いつだって清潔な匂いがした。

「こんにちは、一癸くん。今日はいつもより少し遅かったね」

 壁にかけられた時計を、鬼の瞳がちらりと見る。この鬼は、多くの日本人と同じように黒い虹彩を持っている。奥二重の瞳を半月状に歪め、一癸を見つめる。日に当たることが少ないからか、病的なまでに青白い肌は薄く、皮膚の下に張り巡らされている血管が見える箇所が多々あった。あまり肉のついていない腕は一癸の三分の二程度の太さしかなく、一癸が本気で握れば今にも骨折してしまいそうだった。

 この鬼はこんなに弱々しいのに、一癸は鬼が怖くて仕方ない。恐ろしくて恐ろしくて、夢に出てくる。許してくれと何度懇願しても許されない。骨のような腕で、一癸の腰にへばりついている。

「…午前中、予定があったから」

 嘘だった。鬼に会わないといけないとわかっているのに、どうにも足が動かなかったのだ。少しでも鬼に会う時間を減らしたくて、家で時間を潰した。それでも、鬼のことを思い出すとやっぱり恐ろしくて、結局はいつも家を出る一時間後には、しっかり鬼の家へと向かっていた。

 嘘をついた気まずさから、視線を床にうつす。ふうん、と鬼が楽しそうに笑っているのが聞こえてくる。きっと、鬼には一癸の嘘がバレている。一癸の嘘に気がついた上で、一癸の反応を見て楽しんでいる。

「まあ、こうして会いにきてくれるなら、僕はなんでもいいんだけどね」

 鼻歌を歌うような軽やかさで鬼が言う。鬼の右手が持ち上がると、一癸を手招きした。うっすらと微笑みながら、ゆっくりと手招きを繰り返す。

 行きたくない。心が悲鳴をあげる。許してほしい。

一癸には、鬼が何を考えているのか、全くわからない。

許してほしいと一癸が土下座をしても、鬼はけらけら笑うだけだと知っている。

ゆらゆらと揺れる青白い手のひらから目が離せずにいると、鬼が口を開いた。

「一癸くん」

 ぎしりと体が軋む。言うことを聞け、と言外に伝えてくる。その声音は幼子のわがままを嗜めるように柔らかい響きを持っている。しかし、一癸にはそれが恐ろしくて仕方なかった。鬼は、何をするかわからない。

 鬼の方に踏み出すと、青白かった鬼の頬に僅かに赤みが差すのが見えた。心臓がじくじくと膿を吐き出す。

お前のせいで、一人の人間が鬼になった。お前が責任を取らないといけない。鬼が満足するまで、鬼のそばにいろ。

鬼の座っているベッドに腰掛ける。宙に浮いていた右手を取り、握りしめる。鬼の手は、いつだって冷たい。氷のように冷たく、死んでいるようにそこだけが硬い。頬も首も、細くても柔らかさを感じさせるのに、手だけがやたらと硬かった。

手を握ったままでいると、鬼が吐息で笑った気配がした。顔を上げると、鬼が一癸をじっと見つめていた。

「今日は、僕が全裸にさせられた日の話をしようか」

明るい声で囁かれる過去に目眩がする。一癸はどうしようもない馬鹿だった。自分の不理解を振り翳した結果、地獄を招いてしまった。

「ごめん、弥生。本当に、謝っても許されることじゃないけど、ごめん」

「どうして謝るの?僕たちの思い出話をしようって言ってるだけじゃない。いつもやってるでしょう」

 あの日は火曜日だったね、と鬼が語り始める。鬼の語る思い出話は、全て鬼が受けてきたいじめの話だった。脳みそのシワ一本一本に刷り込むように、何度も何度も思い出話を繰り返す。忘れさせてたまるかとでも言いたげな語り口とは裏腹に、明るい声のそれが恐ろしくて、一癸はいつも泣き出してしまう。それを見て、鬼は楽しそうに笑うのだ。

「ああ、泣かないでよ、一癸くん。楽しい思い出話はまだたくさんあるんだから、たくさん話そうね」

 一癸の頬に、鬼の指先が当てられる。頬に伝った涙を拭い取り、濡れた指をパジャマに擦り付けた。水色のパジャマが、涙で湿って紺色に変わる。鬼は笑いながら、それを何度も繰り返した。小さかった紺色が、どんどん大きくなっていく。

 鬼は、一癸が泣き出すととても嬉しそうにする。一癸のせいで満足に動かなくなった足では、大した娯楽もないのかもしれない。足がだめになったと同時に、脳みそもどこか壊れてしまったそうで、長い文章を読むことができなくなったと言っていた。

 一癸は鬼の人生を壊した。報いを受けているだけだ。

「僕の友達は、一癸くんだけだよ」

 一癸が鬼にした元クラスメイトの桜庭弥生は、お手本のように綺麗に微笑むと、一癸の頬に爪を立てた。


高校一年

 一癸は、自宅から電車で三十分程度の距離にある県立高校に入学をした。偏差値は五十四と、平均よりは良いが、高偏差値に分類するには中途半端な高校だった。

 一癸の住んでいる地区の周辺にある高校は、偏差値が五十程度の学校が二つあり、それ以外の高校は軒並み偏差値が四十程度か、逆に六十前半から七十程度と二極化していた。一癸は、本当なら偏差値六十三の高校に入学するつもりだった。しかし、一癸の成績では受かるかは五分五分と言われ、已む無く今の県立高校に入学することにした。

 不満がないわけではなかったが、高校で優秀な成績を残し、大学は推薦で楽に行こうと考えれば不満も飲み込むことができた。

 入学して半月も経てば、仲のいい友人もできる。数人と連むようになり、それなりに楽しい毎日を過ごしていた。

 少し偏差値を落としたことで、勉強に躓くこともなかった。初めての中間試験では、あまり勉強をしていないにも関わらず、学年二位を取ることができた。一位でなかったことは少し腹が立ったが、勉強をしていなかったからこんなものだろうと気にも留めなかった。

 しかし、何度試験を受けても一癸は学年二位から順位が上がることはなかった。廊下に張り出される成績順の名前は、三位から十位まではその時によって名前は入れ替わった。変わらないのは、一位の名前と、二位の一癸の名前だけだった。

 一位の名前は、桜庭弥生。名前から女だと思っていたが、男らしい。廊下で見知らぬ生徒が話しているのを聞いた。弥生と中学が一緒だったらしいその生徒は、あいつは東大に入る男だ、と笑っていた。それを聞かされている生徒はふうん、とつまらなそうに返事をしていて、それを聞かされた一癸も同じくつまらなかった。

 東大に入る男ねえ。そんな男がどうしてこんな学校にいるのか。どうせ大袈裟に言われているだけだろう。

 過大評価されていると笑ってやりたいところではあったが、自分よりも成績がいいのは間違いない。いつかは桜庭の成績を抜いてやろうと思った。


 高校生活にもすっかり慣れた頃、一癸には初めての彼女ができた。同じクラスの女子だった。クラスの中では可愛いとされる部類で、よく連んでいる友人が可愛いと口にしていた。クラスの女子の中では会話をする方だったし、話していて楽しいと思うこともあった。しかし、それは友愛の範疇を超えるものではなかった。決して恋慕ではなかった。放課後、下駄箱で誰もいない僅かな瞬間に告白された時、一癸はじわりと汗が滲むのを感じた。

 友人だと思っていた相手に告白されることほど、面倒なことはない。断り方を間違えれば酷い男だと女子たちに糾弾され、さらに面倒な場合は女子たちによく思われたい男たちからも同じように糾弾される。

 面倒でしかない。

 頬を赤らめ、期待に満ちた瞳で見上げてくる女子に、面倒だと思いながら、少し考えさせてくれ、とどうにか口にするので精一杯だった。

 一緒に帰りたがる女子になんだかんだと理由をつけて一人帰ることに成功した一癸は、女子への返事をどうするか、頭を悩ませた。

 告白してきた女子は、一癸やその友人と親しい間柄だ。もしかすると、友人たちは女子に一癸のことで相談を受けていたかもしれない。ともなれば、振った場合は詰られることは確実だ。

 考えれば考えるほど、付き合わなければいけない気がしてくる。返事を保留にしていることも、筒抜けかもしれない。

 うんうんと唸っていたが、結局家に帰ってすぐに付き合うことを了承するメッセージを送った。すぐに返事がきて、友人だった女子はあっという間に一癸の彼女になった。

 決して前向きな感情で付き合い始めた訳ではなかったが、一癸と彼女の交際は順調だった。

 元々友人としては良い関係を築くことができていたのだから、それに男女交際が入ろうと何も変わらないじゃないかと安心していた。

 時々彼女が一癸に手を繋ぐことを強請ったり、キスをせがんだりすることさえ除けば、友人としての付き合いとほとんど変わることはなかった。

 一癸と彼女の関係が一変したのは、夏休みが終わったばかりの九月のことだった。

 元々彼女とは漫画の貸し借りをすることがあった。借りる予定だった漫画を、彼女が家に忘れてきてしまい、学校帰りに家に取りに行くことになった。学校から駅で五駅ほど、駅からは十分も歩けば彼女の家に着く。玄関で待っていると一癸は言ったけれど、暑いから涼んでいこうと彼女に言われれば、それもそうかと思い素直に家に上がらせてもらうことになった。

 借りる漫画を受け取り、冷房で涼んでいると、隣に座っていた彼女が一癸の肩にもたれかかった。汗をかいた体はまだ暑く、人肌が触れると熱が篭る。離れて欲しいと思いながらも、きっとそう言えば泣き出してしまうだろうと我慢していた。

「ねえ、一癸」

 彼女の声に、背中がくすぐられたような感覚が襲う。

 今まで聞いたことのない媚びた声だった。視線を肩にやると、上目遣いで一癸を見る彼女と目が合う。熱に浮かされたような瞳だった。どろどろと今にも溶けてしまいそうな瞳で見つめられながら、媚びた声で名前を呼ばれる。

「今日ね、親、いないんだぁ」

 彼女の右手が、一癸の太ももを指先で撫でる。怪しい動きをした指先が、骨盤の出っ張りをかりかりと引っ掻く。

 ここまでされれば、彼女が何を求めているのかは、一癸にもわかった。

 体の関係を持ちたいと言外に訴えてきていることは明白だった。

 正直、付き合いはじめてからも彼女に対する感情は友愛のままだ。それでも別れなかったのは、彼女がいるというだけでステータスだったし、何より別れ話をするのが面倒だったからだ。それ以上でも以下でもない。

 彼女は、顔は可愛かったから、手を繋ぐこともキスをすることも嫌ではなかった。女でもあるまいし、初めてのキスは好きな人と、なんてことも考えていなかったから、求められればいつだって唇を押し付けた。そこに感情は欠片もなかった。

 けれど、彼女の方はそうではなかったらしい。

 まだ付き合って三ヶ月程度だというのに、一癸に体の関係を求める程度には、一癸のことを好いてくれているらしい。

 彼女を見ると、変わらず期待を滲ませた瞳で一癸を見上げている。視線をずらし、彼女の体を舐めるように見る。一癸よりも一回りは小さい。胸は大きい方だと思う。短いスカートから伸びる脚は細いのに、太ももだけが肉感的だ。

 制服を脱がし、胸を揉むことを想像する。柔らかい肉に指が沈む様はきっと気持ちがいいのだろう。頭の中には、友人から勧められて見たAVの映像が流れている。出演していた女優の顔が、彼女の顔にすり替わる。発情した猫のような甲高い声で喘ぐ姿を想像して、腰に熱が溜まる。

 ちら、と彼女を見ると、甘えた声で名前を呼ばれる。早く、と言っているようにも見える。

 リップで色づいた唇を見ていると、下半身の熱がどんどんと増していく。顔を寄せると、彼女が嬉しそうに顔を綻ばせながら、ゆっくりと目を閉じた。

 望まれているならいいか。セックスはものすごく気持ちがいいものだと聞くし、彼女がしたいと言うなら断る必要もない。

 ゆっくりと彼女の体を押し倒し、下半身の熱に身を任せることにした。


 初めてのセックスは、一言で言えばすごかった。すごかったとしか言いようがない。

 誇張ではなく、下半身が溶けるかと思った。

 自分の手で扱くのとは全く感覚が違った。女の泥濘に性器を挿入した時、神経が焼き切れるかと思うくらいに気持ちが良かった。彼女が痛くないように、と気を使っていたつもりだったが、吐精感が迫り上がってくるにつれて、そんな考えはどこか遠くへと飛んでいってしまった。

快楽を追いかけることに必死で、腰を振ること以外は考えられなかった。身体中から汗が噴き出て、周りの音がぼやけて聞こえるくらいに、射精することしか考えられなかった。

 彼女の泥濘の中で吐精した瞬間、もう一回したいと思った。彼女にそれを伝えると、嬉しそうに顔を赤くして頷いてくれたから、もう一度した。

 それからは狂ったように、セックスをした。

 彼女の両親は共働きで、十八時までは絶対に帰ってこなかった。放課後になれば彼女の家に行って、無我夢中で腰を振った。

 それまで、自慰の頻度は週に一回程度だった。性に貪欲な方ではなく、淡白な方だった。週に一度、抜いていたのはなんとなくでしかなかった。抜かないと体に悪いと聞いたことがあったから、事務的に金曜日、眠る前に抜くことが習慣だった。眠気が強ければ抜かないこともあったし、気分が乗らなければ一ヶ月抜かないことだってあった。それなのに、セックスの快楽を覚えてからは、毎日でもセックスをしたいと思った。

 女の泥濘に性器を入れると、足の先まで痺れるような快楽が体に拡がる。それは自慰では決して得られなかった感覚で、彼女を見ると下腹がずくんと疼いて仕方なかった。

 この時の一癸は、間違いなく頭がおかしくなっていた。

 セックスのことで頭がいっぱいで、それ以外のことは考えられない。猿と言われても仕方がないくらい、セックスに頭が支配されていた。

 セックスばかりの日々を送っていると、だんだんと放課後まで待ちきれなくなることが増えていった。帰りのホームルームが近づくにつれ、下腹のあたりにモヤモヤとした欲が溜まるようになり、彼女の家に着く頃には緩く性器が勃ち上がっている。幸いにもスラックスは腰で履いているから、周りから勃起しているのが見えることはない。しかし、勃起した性器のまま歩くのは、スラックスに擦れて歩きにくい。どうにか学校で発散できないだろうか、と考えるようになるまで時間は掛からなかった。

「ねえ、本当にするの?」

 一癸の太ももに跨った彼女が、小声で言う。少し不安そうではあるが、嫌がるそぶりもなく大人しくついてきたのだから、きっと彼女も乗り気なのだろう。

「大丈夫だって。こっちの棟、ほとんど使われてないからバレないって」

 でも、と続けようとする彼女にキスをしながら、一癸はスカートから伸びる太ももを撫で回した。

 特別棟の三階、一番奥にある視聴覚室に一癸は彼女を連れ込んでいた。一癸が入学した時には、既に教室すべてにプロジェクターが設置されており、視聴覚室を使うことはほぼない。特別棟の教室は全て施錠されているはずなのだが、前回使用した人が施錠を忘れたのか、視聴覚室は自由に出入りすることができた。それに気がついたのは偶然だったが、これを利用しない手はない、と一癸は喜び勇んだ。

 今日は趣向を凝らしてみようと彼女を誘い出し、視聴覚室でセックスをしてしまおうと言う算段だった。

 まともな頭をしていれば、そんなことはしない方がいいとわかる。特別棟で人通りはほとんどないと言っても、誰かに見られる可能性はゼロではない。学校でセックスをするなんて、頭がおかしい。

 そんなことが考えられないくらい、一癸の頭はおかしくなっていた。

 家まで我慢しなくてラッキー、とまで思っていた。セックスに、脳みそが溶けているとしか考えられないくらいには、浅慮だった。

 彼女を埃っぽい床の上に押し倒し、体を弄った。不安そうにしていたくせに、霰もない声をあげる彼女に下腹が熱を持ち始める。口の中に唾液が溜まる。溢れてくるそれを飲み下しながら彼女の体を暴き、泥濘に性器を挿入する。ぶるりと体が震えた。射精したいと頭がそればかりになる。腰を必死に振る。犬のように荒い息を吐き出し、吐精感が高まってきた瞬間だった。

 かたん、と扉の向こうから、確かに音がした。

 彼女に覆いかぶさっていた体を起こし、扉の方に視線をやる。黒い髪の毛が、ばたばたと廊下を走っていくのが見えた。それを見た途端、あれだけ体の中でぐるぐると渦巻いていた凶暴な熱がしゅるしゅると萎んでいくのを感じた。

「どうしたの?」

 甲高い声で喘いでいた彼女には、誰かが立てた物音には気が付かなかったらしい。彼女が体を起こした拍子に、泥濘から性器が抜けてしまう。呆気なく抜けたそれは、熱が萎んだと同時に勃起が収まってしまったようだった。

「体調悪い?」

 彼女が宥めるように性器を触ってくるけれど、一度熱を失った性器はぴくりとも反応しない。柔らかいままで、今日はこれ以上セックスをしようとしても無理そうだった。

 身支度を整え、視聴覚室を出る。黒い髪の毛の持ち主は、当たり前だがすでに立ち去った後だった。

「今日家寄る?」

「いや、今日は帰る」

 彼女の話に相槌を打ちながら、一癸は内心焦っていた。

 セックスしている瞬間を見られたとすれば、それはかなりまずい。ただ目撃されていただけならいいが、もしも写真や動画を撮られていたら。そしてそれを流出させられでもしたら。高校生活は終わったと言っても過言ではない。

 どうにか廊下にいた相手を特定できやしないか、と思っていたが、相手を特定できそうなものが落ちているわけもなく、悶々とした日を過ごすことになった。

 セックスを目撃された翌日は、それは戦々恐々としながら登校したものだが、顔を合わせた友人もクラスメイトも、いつも通りだった。馬鹿にしているような様子を見せる人は誰もおらず、ほっとしたことを覚えている。それから数日間は、セックスをしていたと噂がいつ流れ出すか、いつ写真や動画が回されるだろうかとビクビクしていたが、一週間もするとまあ大丈夫だろうと思うようになり、二週間もすれば何事もなかったように振る舞うことができた。

 しばらく彼女とセックスする気分にもなれずに控えていたが、二週間が過ぎた頃には、毎日のように彼女の家に寄ってセックスする日々に戻っていた。

 転機が訪れたのは、セックスを目撃されて一ヶ月が経とうかという頃だった。

 その日は月曜日で、日曜日に彼女とテーマパークに遊びに行った疲れが残っていた。何度セックスをしても彼女に対して恋愛感情が芽生えることはなかったが、セックスする相手がいなくなることは嫌で、時々彼女の言うデートに付き合うようにしていた。

 欠伸を噛み殺しながら室内履きに履き替えていると、ちょっと、と声をかけられた。聞き覚えのない声だった。

 振り返った先には、見知らぬ男子生徒が立っていた。

 じろじろと男子生徒の姿を眺める。制服を着ていてもわかる貧相な体つきだ。墨を垂らしたように真っ黒な髪の毛は、男だというのにだらしなく肩の辺りまで伸びている。寝癖こそついてはいないが、こんなになるまで放置をしているのだから、無頓着なのかもしれない。長い前髪はすっかり瞼にかかり、髪の毛の僅かな隙間から瞳が覗いている。

 不躾な視線を向けていると、男子生徒がたじろぐ。悪いことをしたかもしれないと思ったのは一瞬で、見知らぬ奴にどう思われたって構わないという考えがすぐにそれを塗り替える。

 声をかけられたのは一癸で、声をかけてきたのは男子生徒だ。一癸は男子生徒に用事はない。用事があるなら話し始めろ、と思い、何も言わずに不躾な視線を投げ続けた。男子生徒は嫌そうに鼻の頭にシワを寄せた後

「平手って、君?」

と言った。どうして名前を知っているのかと聞きたい気持ちだったが、一癸は一年生の間ではそれなりに有名だった。

 万年二位ではあるが成績優秀で、それなりに見た目も整っているらしく、女子から騒がれることも多い。それでいて派手なグルーに所属しているのだから、話題になるのは至極当たり前のことだった。

 一癸と友達になりたい、と声をかけてくる他クラスの男は、これまでも数人いた。この男子生徒もそれと同じ部類だろうかと思いながら、そうだけど、と返事をした。もし友達になりたいと言われたら、無理だと返事をしよう。こんな根暗そうな男と話が合うとは、到底思えない。

 なるべく傷つけないように返事をしないと、と考えている一癸を前に、男子生徒は分かりやすくほっとしたように肩から力を抜いた。口を開き、一度言葉にすることを躊躇した後、拳を胸の前で握り締めて言った。

「一ヶ月くらい前、放課後視聴覚室にいたよね?」

 一ヶ月前、という単語に脳みそがチリチリと痛んだ気がした。忘れかけていた記憶が蘇ってくる。彼女とセックスをしていて、それを誰かに目撃された。何事もなく日々が過ぎていたから、すっかり過去のものとなろうとしていた。走り去っていった黒髪は、この男子生徒だったらしい。

 一気に身体中の水分がなくなった気がした。喉が渇き、うまく声を発することができない。辛うじて口腔内に残っていた唾液を飲み込み、申し訳程度に喉を潤した。

「…だったら何」

 平静を装ってはみたものの、制服の下はじっとりと重たい汗をかいていた。

 男子生徒の喉仏が、派手に上下するのが見えた。前髪で隠れた瞳がうろうろと彷徨い、一度強く瞬きをして、一癸を射抜く。

「ああいうの、良くないと思う。たまたま見かけたのが僕だけだったから良かったものの、時間帯が違えばもっとたくさんの人に見られてたかもしれないんだから。今度からは、家に帰るまで我慢した方がいいよ」

 男子生徒の口から飛び出した言葉に、一癸は口をあんぐりと開けてしまう。

 何も言い返すことができないままでいると、それじゃあ、と男子生徒は教室のある方向へと体を向けた。言いたいことだけを言って足早に去っていく後ろ姿は、一癸を脅してやろう、馬鹿にしてやろうという感情は一切ないようだった。校内で不適切な行為をしていたから注意をした方がいいだろうという善意であって、それ以上でも以下でもないようだった。

 男子生徒の後ろ姿が見えなくなっても、消えていった方向を口を開けたまま見ていた。変な奴、と思っていると、また声をかけられた。男子生徒に声をかけられた時と違うのは、聞き覚えのない声ではなく、聞き慣れた友人の声だった。

「おはよー。さっき桜庭と話してたけど、一癸って桜庭と仲良かったん?知らなかったわ」

 能天気そうな声の男は、よく連んでいる友人の一人、神林だ。

 神林はサッカー部に所属していて、部活に所属していない一癸と比べて友人が多い。後ろ姿を見ただけで、あの男子生徒の名前がわかるのは、神林の交友関係の広さ故だろう。

「あいつ、桜庭って言うの?」

 一癸の言葉に、室内履きに履き替えていた神林が小さく笑う。

「え、知り合いじゃなかったの?」

「全然。さっき突然話しかけられた」

「なんで?なんかしたの?」

 言葉に詰まった。神林の質問は尤もだ。名前も知らない相手に声をかけられたともなれば、何か理由があると思うだろう。それを聞きたくなることは当たり前のことだった。しかし、視聴覚室でセックスしていたのを見られた、と正直に伝えるわけにもいかない。まあ、と誤魔化し、神林に先を促す。

 神林は気になるじゃん、と少し食い下がる様子を見せたが、一癸が何も言わないままでいると諦めたように話し始めた。

「桜庭って、入学してからずっと試験で一位取ってる奴。桜庭弥生。わかるだろ?いつも一癸が負けたって言ってる相手だよ」

「え、あれ桜庭?」

「うん。桜庭だったよ」

「へえ…あれが…」

 話しかけてきたあの男子生徒は、一癸が一度も成績で勝ったことがない桜庭だったらしい。勝手に太ったメガネ姿の男を想像していた。想像とは裏腹に、実際の桜庭は少年のように細い体躯をしていた。長い前髪で隠された顔立ちは、どちらかといえば根暗そうではあったが、陰険な印象もコミュニケーションに難があるようにも見えない。勉強が得意でずっと一位を取るくらいだからきっと根暗なのだろうと思っていたが、それはただの偏見だったようだ。

「何、桜庭と話して楽しかったの」

 揶揄うような神林の声にうるせえな、と返しながら、桜庭の意志の強そうな瞳を思い出していた。

 怖いと言われることの多い一癸を見ても、多少たじろいだくらいではきはきと物を言う様は、連んでいる友人たちと同じ匂いを感じた。


 その日の放課後、一癸のクラスはかなり早い時間にホームルームを終えた。

 なんでも担任に予定があるらしく、ばたばたと教室に走り込んできたと思えば今日は終わり、と叫んで慌ただしく教室を出ていったのだ。あっという間の出来事に、一癸を含めた生徒全員が勢いよく締められた扉を見て呆然としていた。初めの一人が帰るために腰を持ち上げれば、それが波及してクラスメイトたちが次々に立ち上がる。一癸もがたがたと机や椅子の揺れる音で自分も立ち上がった。

 彼女に一緒に帰ろうと言われたが、なんとなく気乗りせず、その日は別々に帰ることにした。彼女は一癸のことが好きらしいが、一癸は全く彼女のことが好きではないから、一緒に帰らない方が、気が楽なくらいだ。

 久しぶりに一人で放課後を過ごすとなって、さっさと帰ってもやることもないし、どうしたものかと考える。このまま家に帰ってもいいが、帰ってもどうせだらだらと過ごすだけに決まっている。ロッカーを開け、授業で使った体操服をリュックに詰め込む。ロッカーを閉めようとしたところで、数学と英語の課題が出ていることを思い出した。

 課題の提出期限は来週の金曜日だったが、なるべき早く終わらせてしまった方がいいだろう。リュックに英語と数学の教科書を詰め込み、さあ帰ろうと昇降口に足を向けたところで方向転換をした。

 趣向を変えて、図書室で課題をやるのもいいかもしれない。図書室なら静かだし、誘惑の多い自室よりも集中して課題に取り組むことができるだろう。

 そうと決まれば、足早に図書室に向かう。

 図書室の中には、司書が一人と図書委員の生徒が二人いるだけで、自習を目的とした生徒の姿は見えない。ラッキーだと思いながら、図書室の一番奥に設置されたテーブルに足を進める。リュックから教科書とノート、参考書を取り出し机に広げる。

 課題はそう難しいものではない。数学の課題は、成績が危ぶまれる生徒のために出されたようなもので、授業で使っているワークをもう一度解くだけのものだ。英語も同じようなもので、教科書の長文二つをノートに写し、新出単語の意味、長文の日本語訳を記載するだけのものだ。長文とは言ってもせいぜい八百単語程度のもので、大した量ではない。集中して取り組めば、どちらもすぐに終わるものだった。

 英語は得意だから後回しにすることにして、数学のワークに取り組むことにした。

 数学は好きだ。必ず答えが一つであるところが美しいと思う。現代文のように、登場人物の心情を答えろ、というものは苦手だった。問題としては理解できるし、指示語を探せば答えを見つけることはできる。しかし、本当に登場人物の考えていることはそれなのだろうかと、どうでもいいことを考えてしまう。それが無駄だとわかっているのにやめられず、どうにも苦手意識があった。小説のような文章を読むことは好きだが、問題として差し出された文章を読むことは、いつまで経っても苦手だ。

 数学のワークを十ページほど終わらせたところで、がらりと図書室の扉が開く音が聞こえた。自分のことは棚に上げ、放課後に図書室に来るなんて物好きな奴、と思う。物好きをひと目見てやろうと顔をあげると、今朝見たばかりの顔がそこにあった。あ、の形で口が止まる。腕の中にある教科書を見ていた物好きの視線がゆっくりと持ち上がり、一癸と視線がぶつかる。

 物好きこと、桜庭も一癸を見つけると口をあんぐりと開けて、動きを止めた。

 視線はぶつかったまま、なかなか逸らされなかった。一癸も逸らさなかった。なんとなくという言葉以外では、どうして目を逸らさなかったのか、わからない。それどころか、なんとなしにシャーペンを持っていない方の手を、顔の高さまで上げてしまう。親しい友人に向けるようなそれを無意識で行ってしまい、少し恥ずかしくなる。こんなことされても、桜庭だって困るだろう。たまたまセックスをしているところを見かけた相手に親しげに振る舞われて、もし自分だったらどうしたらいいかわからない。現に、桜庭は一癸を見て動きを止めている。

 やらなきゃよかった、と後悔しながらゆっくりと手を机の上に戻し、視線を課題に戻す。遠くてよく桜庭の顔は見えなかったが、間違いなく困惑していただろう。恥ずかしくて、耳に熱が集まる。

 集中、と小さく呟いてシャーペンを握り直したところで、目の前で椅子が小さく音を立てるのを聞いた。

 顔を上げると、そこには桜庭がいる。苦虫を噛み潰したように唇を歪め、眉間には深いしわを刻んだ顔は、ものすごく不満そうだった。

 不満そうな顔をしたまま、桜庭は一癸の目の前の椅子に腰掛ける。腕に抱えていた教科書やノートを机の上に並べ、筆箱からシャーペンを取り出す。その間、視線は一度も上がることはなかった。

 図書室で勉強しているのは桜庭を除けば一癸だけで、席は大量にある。それにも関わらず一癸の前にやってきたということは、桜庭は何か一癸に言いたいことでもあるのだろうか。

 今朝のことを思い出すと、また小言をもらうのかもしれないと思いながらも、シャーペンの芯がかりかりとノートに文字を刻んでいく音が心地よい。自分からこの空気を壊す気には毛頭なれず、数学のワークに視線を落とした。

 数学のワークが半分程度終わり、一度肩を回す。時計を見ると、あと三十分もすれば完全下校時刻だった。そんなに集中してやっていたのかと驚く。窓の外を見ると、すっかり空は暗くなっていた。

 桜庭は、図書室に来てから一度も休憩をとっていないようだ。参考書を見ながら、ひたすら刻むようにシャーペンを動かしている。

 桜庭は姿勢が悪い。ほとんど顔を机にくっつけるようにして参考書を覗きこんでいる。あんな体勢でやっていたら体のそこかしこが痛くなりそうなものなのに、慣れているのか体を伸ばす素振りすら見せない。

 桜庭が腕を動かすたびに、ノートに落ちた前髪が揺れる。あんなに長い前髪で、書いた文字はしっかり見えているのだろうか。

 すっかり集中力が切れてしまい、一癸は大人しく片付けを始める。どうせあと三十分で課題が全て終わるわけはない。提出期限まではまだ余裕があるのだから、また今度手をつければいいだろう。

 すっかり片付けを終えると、後は帰るだけになる。今から帰れば、十八時前には自宅の最寄駅につけるだろう。しかし、一癸はそうはしなかった。だらしなく足を伸ばし、がりがりと音を立ててノートに文字を書き込む桜庭を見ていた。

 一癸の前に腰を下ろしたくせに、一つも話しかけてこないこの男が謎だ。何がしたいのかわからない。関わり合いになりたくないのなら、一癸から離れた席に腰掛ければいいだけなのに、それはせずに自分から近づいてくる。近づいたからといって、友好関係を築こうとするわけでもない。

 くあ、と欠伸が漏れる。がりがりと規則正しいシャーペンの音を聞いていると、だんだんと瞼が重たくなってくる。今日は体育の授業があったから、疲れているようだ。

 重たくなる瞼を持ち上げて、頬の内側を噛んで睡魔をやり過ごそうとする。しかしそんな抵抗も虚しく、一癸の意識は重たい泥の中に引き摺られていった。


 肩をトントン、と指先で叩かれたような気がして目を開けた。

 瞼を持ち上げると、いつの間にか桜庭の姿はなくなっている。時計を見ると最終下校時刻まであと十分ほどとなっており、部活動の生徒で駅が混雑する前に下校したのだろうと思う。

 桜庭がいた気配一つ残っていない目の前の席に舌打ちをする。一癸が眠っているとわかっているなら、一声かけてから帰ったっていいだろうに。自分から近づいてきたくせに、何がしたいのか本当にわけがわからない。

 苛立ちを抱えたまま、乱暴にリュックを背負うと昇降口へと向かった。

 桜庭の姿は、当たり前だが昇降口のどこにもなかった。

 次の日も、放課後になると図書室に向かった。まだ課題は終わっていなかったし、もしかすると桜庭がいるかもしれないと思ったからだった。

 桜庭とは何か言葉を交わしたわけではなかったが、なんとなく彼のことが気になった。昨日はただ向かい合って課題をこなすだけだったが、もしも今日、桜庭が図書室にいたら話しかけてもいいかもしれない。それこそ桜庭は入学してから一度たりとも首位から陥落したことがないのだから、課題でわからないところがあるとでも言えば、話すきっかけになるかもしれない。

 そこまで考えて、初めて桜庭に話しかけられた時とは随分立場が変わったものだと一人小さく笑う。

 あの時は、桜庭に友達になりたいなんて言われたらどうしようかと本気で考えていたのに、今では一癸が桜庭にどう声をかけようかと頭を悩ませている。

 大人しそうな見た目と裏腹に意志の強そうな瞳は、話しかけたらどんな色になるのだろうか。考えるだけで、気分が明るくなった。

 課題を持って図書室に向かうと、すでに桜庭の姿があった。

 昨日、一癸が座っていた席に腰掛け、机に上体を預けるようにしてシャーペンを動かしている。一癸が図書室に入ってきた音は聞こえているはずなのに、かなり集中しているのかその体が上向くことはない。

 わざと足音を立てながら桜庭の前の椅子まで歩いて行き、床に椅子を擦り付けるようにして腰掛けた。そこまで音を立てて、ようやっと桜庭の視線が持ち上がる。前髪が簾のように瞳を隠し、一癸から見えるのは鼻と口だけだ。

 一癸の姿を認めた瞬間、桜庭の口が歪む。げ、とでも言いたげに口角が引き攣り、首がゆらゆらと不安定に揺れる。何か話しかけてくるだろうかと思っていたが、一度首が右側に傾いただけで、すぐに視線はノートへと戻ってしまう。

 一癸には一切興味がないと言いたげなその仕草に、話しかけようと思っていた気持ちが一瞬にしてしゅるしゅると萎んでいく。そりゃあ、一癸と桜庭は一度しか言葉を交わしたことがないし、それだって一癸への注意だった。桜庭からすれば、一癸ともう一度話すことなんてないだろう。しかし、昨日といい今日といい、目の前にいるのだから少しくらい会話をしようとしてくれてもいいじゃないかと、理不尽な怒りを抱いた。

 桜庭はすっかり一癸に対する興味を失ったようで、シャーペンを持つ腕だけが勢いよく動いている。

 このまま帰ってしまおうかと腰を持ち上げかけたところで考え直す。リュックから数学のワークを取り出し、机に広げる。

 もしもここで帰れば、一癸が桜庭に用があったかのように思われてしまう。それはなんだか癪だった。実際、会話をしてみてもいい、と思っただけで、用があったわけではない。桜庭がいようがいまいが、元々図書室で課題はやるつもりだったのだ。

 一癸がワークに取り組み始めると、一瞬桜庭の手の動きが止まった気がした。しかし、疑問を感じた瞬間にはまたがりがりと動き出していて、勘違いだったようだ。

 集中して課題に取り組んでいると、時間はあっという間に溶けていく。チャイムが鳴って顔を上げれば、最終下校時刻まであと十分となっていた。

 帰るかと荷物をまとめ始めると、桜庭も同じように荷物をしまい始める。スクールバッグにぎゅうぎゅうに教科書や参考書を詰め込む姿を尻目に、一癸はさっさと図書室を後にした。

 数学の課題が終わるかと思ったが、数ページ残ってしまった。

 自宅でやるよりも、図書室で課題をこなした方がずっと集中できる。桜庭と顔を合わせることは癪だったが、課題が終わるまではしばらく図書室に通ってもいいかもしれない。


 ホームルームが終わるなり図書室に向かおうとする一癸に、彼女はつまらなそうに文句を言ったが、それを受け流してさっさと教室を出る。

 彼女と付き合ってそれなりに日数が経ったが、一癸の中には相変わらず恋愛感情は生まれていない。セックスをしたいがために付き合っている。デートがしたいだなんだと最近は口うるさくなっていたから、図書室に行くことは彼女から逃げる理由としても好都合だった。一癸の成績が良いことは、顔だけではなく頭もいい男と付き合っていると、彼女のステータスにもなっているようで、勉強したいと言えば不満そうな顔をするもののそれ以上に何かを言われることはなかった。

 図書室には、司書と図書委員の生徒以外誰もいない。桜庭に会いたくないと考えていたから、その姿が見えないことに内心でホッとする。

 一番奥の席に腰掛け、さあ課題に取り組むぞといったところで図書室の扉が音を立てる。自然と視線が音のした方へと向かう。スクールバッグを抱えた桜庭が立っていた。あ、と声を出しそうになって、唇を噛んだ。

 桜庭と一癸は友達ではない。経った一度、会話をしたことがあるだけだ。

 長い前髪で覆われた瞳は、一癸を見てどう変化をしたのか確認することはできない。扉を開けてからも唇は真一文字に引き結ばれたままで、少しの感情の揺らぎも見つけることはできなかった。

 桜庭から視線を逸らし、課題に取り掛かる。

 きっと桜庭は一癸から遠く離れた席に座るだろうと考えていたが、目の前の席ががたんと音を立てた。驚いて顔を上げると、唇を固く結んだままの桜庭が腰掛けて課題を取り出している。

 大量に席があるのにどうして、と思いつつも、心臓の辺りが真綿で擦られたように軽かった。会話をするわけではないのに、お互いの存在を感じながら勉強をする。視線がぶつかることもない。一体何を考えて、桜庭はこうしているのだろうか。


 一癸が図書室に通い始めてから二週間が過ぎた。

 二週間の間、桜庭と顔を合わせなかった日は一度としてなかった。先に来ているのは一癸の場合もあれば、桜庭の場合もあった。

 先に来ていた方が、図書室の一番奥にある椅子に腰掛け、後から来た方はその前に座る。二週間前から一度も言葉は交わしていないのに、二人とも必ずそうした。最終下校時刻まで課題をこなすか、自習をして、チャイムが鳴れば挨拶することもなく別れる。

 おかしな時間だった。

 どうしてこんなことをしているのかと一癸は何度も思ったし、おそらく桜庭も考えているだろう。それでも、二人とも止めることはなかった。どちらかが図書室に行かなくなる、もしくは別の席に座れば簡単に消えてしまう脆い繋がりは、どうしてだかどちらも壊すことはなく、気がつけば一ヶ月、二ヶ月とその時間を伸ばしていった。

 会話をしない、という暗黙の了解が破られたのは、冬休み前の定期試験が終わった当日だった。

 試験が終わった日くらい家に帰ろうか、とも考えた。しかし、毎日図書室に寄っては勉強をするルーティーンになっている体は、どうにも昇降口に向かう気にはなれない。

少し考えてから、試験問題の見直しでもすることに決める。もう試験は終わっているから、見直したところで仕方ないだろ、と神林あたりは言いそうだが、自分のミスしたところが分かれば復習することができる。苦手をコツコツ潰しておくことが、勉強では重要だと思う。

 リュックを掴んで立ち上がろうとすると、

「一癸」

と彼女が自分を呼び止める声がした。

 声のした方を向くと、彼女が甘えるように上目遣いで一癸を見ていた。サイズオーバーのカーディガンから指先だけを出し、媚びるように一癸の袖を掴んでいる。

「なに」

 鬱陶しいな、と思う。その感情が声に乗って、思っていたよりもうんと冷たい声音になった。薄いピンク色に塗られた彼女の唇が薄く開き、あのさ、と言葉を発する。口を開いただけで、彼女が何を言いたいかはわかった。

 家来ない、と言うのだろう。

 一癸がそう思った瞬間に、

「家、来ない?一癸の好きそうな映画、また配信されてたよ」

と、思った通りの言葉が鼓膜を揺らす。

「行かない。勉強したいから」

 苛立ちを隠さずにいると、彼女は何かをもぞもぞと口にした後、じゃあね、と落ち込んだ様子で教室から出ていった。

 後ろ姿の消えた扉をしばらく見ていたが、体の中の空気を思い切り吐き出し、図書室へと向かった。

 試験が終わった校内は分かりやすく浮き足立っている。連れ立ってどこかへ遊びに行こうと会話している生徒や、久しぶりの部活に急いで向かう生徒と様々だ。手を繋いで身を寄せ合っている男女が見えて、一癸は再度ため息をつく。

 最近めっきり家に寄り付かなくなった一癸の気持ちを彼女が疑っている、ということはすでに神林から聞いていた。

 元々彼女に対して恋愛感情など欠片も抱いていないのだが、彼女には一癸からの愛情を感じていたらしい。セックスをしている時にも、流石に感情が伴わずに好きだと言うことは躊躇われ、可愛いと囁いたことはあった。それを愛情だと勘違いしているのかもしれない。

 久しぶりにデートでもして、そのままセックスに傾れ込むことができれば一癸の気持ちを繋ぎ止めることができる、とでも考えたのだろう。

 日に何度も向けられる、彼女からの期待に満ちた視線が胃を重たくする。セックスができるからと軽い気持ちで付き合い続けた代償が、ここに来て一癸を苦しめている。

 そろそろ別れを切り出してもいいかもしれない。ここ最近はめっきりセックスをしたいという欲もないし、勉強が日課になったことで、わざわざセックスするために彼女の機嫌を取ろうとも思えない。

 一度別れのことを考えると、それが名案に思えて仕方がない。別れようかな、という気持ちが、別れよう、という前向きな気持ちに変わる。

 そうと決まれば善は急げだ、とスマートフォンを取り出すが、別れようと文章を打ったところで指が止まる。もし、今別れを告げたとして、すんなり別れることができればいいが、すんなり別れることができなかったらどうなるだろう。明日は土曜日だ。直接話がしたいだとかごねられでもしたら、休日だというのにわざわざ彼女の家に出向かなければいけなくなるかもしれない。

 もしもそうなれば、面倒なことこの上ない。

 すっかり別れを告げる気分だったが、明日外出しなければいけない可能性を考えると、今別れを告げることは得策ではない。画面に打ち込んだ文字を消去し、スマートフォンを制服のズボンに突っ込んだ。

 別れを告げるのは、日曜日の夜中にでもすればいい。この週末でよく考えた、とでも言えば夜中の送信にも理由ができる。我ながら名案だ。

 気分良く図書室の扉を開けると、すでに先客がいた。

 机に文字を刻むかのように上体を倒し、シャーペンを動かしている姿はすっかり見慣れた。

 桜庭の前に腰を下ろし、問題用紙を取り出す。どれからまず取り掛かろう、と机の上にそれを拡げて眺めていると、けほ、と小さく咳払いする音が聞こえた。ん、と喉の調子を確かめるように、小さく声が漏らされる。

「平手くんって、意外と勉強熱心だよね」

 自分に話しかけていると、一瞬気がつかなかった。長い時間声を発していなかったのか、掠れ気味の声は一度だけ聞いたことのある桜庭のものとは全く違っていたし、普段友人からは一癸と呼ばれていることで、平手くんという名称が自分のものだと理解するのに時間がかかった。

「ここ二ヶ月くらいかな、毎日図書室にいるから驚いちゃったよ」

 桜庭に話しかけられていると気がつき、顔を上げる。微笑んでいるのか、それとも苦笑いをしているのか判断しかねる笑みを浮かべた桜庭が、じっと一癸のことを見ていた。長い前髪の隙間から覗く瞳に、一癸のシルエットが映り込んでいる。

 今まで一度だって話しかけてくることはなかったのに、どういった風の吹き回しだろう。

「…別に、勉強嫌いじゃないし」

「ふうん。そうなんだ」

 含みのある笑いに、少しばかりイラッとする。

 一癸の見た目は、どちらかと言えば派手だという自覚はある。あまり勉強が得意そうでない見た目をしていると神林に揶揄われることもある程度には、そうなのだろうと思う。中学の時だって、同じことを決して少なくはない数の人間に言われてきた。

 桜庭も同じことを言いたいのだろう。話すのは二回目なのに失礼な奴だと思いながら、舌打ちをして睨みつける。

「ふふ、ごめんって。怒らないでよ」

 くふくふと喉の奥で桜庭が笑う。驚いて彼の顔をじいと見つめると、それが面白かったのか、さらに小さく笑い声を漏らす。

 舌打ちの一つでもすれば驚いて謝ってくるだろうと思っていたが、桜庭は少しも気にする様子がない。それどころか、面白そうに目を細めて一癸のことを見ている。

 以前話した時に感じた、連んでいる友人に似た匂いは間違いではなかったようだ。

「桜庭こそ、毎日図書室いるじゃん」

「僕は勉強、好きだからね」

「変な奴」

「それ、平手くんにも言えることだよ」

 前髪が邪魔だったらしく、桜庭が髪を耳にかける。晒された片目は、想像していたような重たい一重ではなく、目の形に沿うような、はっきりとした二重だった。思っていた数倍は大きい瞳に内心で驚き、少し反省をする。暗そうな奴だから、きっと一重だろうと思っていたのは偏見にも程があった。

 男のわりに、目が大きい。コンパスで描いたように、まあるい瞳をしている。赤子の瞳のようだ。

「俺はまあ、家で勉強するより、こっちの方が集中できるから」

 机に広げたままの問題用紙を指差して、桜庭が首を傾げる。

「今日試験が終わったばっかりなのに、もう復習するの?」

 心底わからない、といった様子に、嫌味が口から飛び出す。

「毎回一位取ってるお前にはわからんだろうよ。俺がどんなに勉強したって、お前はずっと一位なんだから。勉強方法教えて欲しいくらいだわ」

「あ、平手一癸って、平手くんのこと?」

「…そうだけど」

 お前は今まで誰と会話をしているつもりだったんだ、とその顔を見ると、納得がいった、とでも言いたそうな顔をしている。

 シャーペンを机の上に置き、床に置いてあったスクールバックに片手を突っ込んで何かを探している。

 あった、と机の上に置かれた桜庭の手には、四つ折りにされた紙が握られていた。

「これ、見てよ。クラスメイトが勝手に書いてたやつなんだけど」

 見せられた紙には、桜庭のフルネームと一癸のフルネームが横並びに書かれており、その下に正の字がいくつか書かれている。桜庭の下には正の字が三つに、書きかけのものが一つ。一癸の下には、正の字が一つに、書きかけのものが一つ。何かの投票のようだが、なんの投票なのかはわからない。

 紙に落としていた視線を桜庭に向けると、桜庭は一度眉尻を下げたものの、すぐに表情を戻して言った。

「怒らないでね。これ、今回の試験でどっちが一位になるかの賭け。平手一癸って名前は知ってたけど、まさか君のことだったなんて」

「…こんな見た目だから?」

「ううん、見た目っていうより、ほら」

 それまで饒舌だった桜庭の言葉が、突然痰が絡んだように止まる。瞬きを神経質に何度も繰り返し、言葉を選んでいるようだった。

 桜庭が言い淀んでいる理由は、一癸にだってわかっている。元々桜庭と話したきっかけでもある、視聴覚室でのセックスだ。それがなければ、クラスが一緒でもならなければ、卒業するまで言葉を交わすことはなかっただろう。

 実際、一癸は桜庭に話しかけられた時に陰気な奴だと見下していた。桜庭だって、一癸のように派手なグループ相手に会話をするようには見えない。偶然が重なった結果が、今なだけだ。

 奥歯に詰まった食べかすを舌で取ろうとしているように、もごもごと頬を動かしている桜庭に、セックス、と呟く。少しだけ気まずそうな顔をして、それ、と桜庭が頷く。

「あれ、学校でよくしてるの?」

 セックスとは是が非でも言いたくないらしい。中学生にもなれば、下ネタとしてセックスだなんだと、そういった単語に触れる機会は多かっただろうに、あれ、と言うだけで桜庭は少し恥ずかしそうにしている。もしかすると、今までの友人にそういった単語を面白おかしく話す人がいなかったのかもしれない。それならば、たかがセックスと言う単語一つに酷く恥ずかしそうにしている理由もわかる。

「まさか。あれが初めてだった」

「へえ…盛り上がっちゃったの?」

「いや、別にそういうわけでもない。なんとなく」

 小さく吹き出す音がした。司書が時折キーボードを打ち込む以外の音がほとんどしない図書室に、その音はやけに大きく響いた。まずいといったように桜庭の視線が困ったように彷徨い、一度ぎゅうと強く瞼を瞑った。

「なんだよ、なんとなくって…ちょっと、面白くて笑っちゃった」

 そんなに面白いことは言っていないだろう、と思いながらも、そんなことで笑う桜庭がおかしくて、一癸も笑った。

 一度会話をすれば、今まで頑なに言葉を交わさなかったのはなんだったのかと思うくらい、二人は顔を合わせるたびに会話をするようになった。

 廊下ですれ違えば、気がついた方が声をかけた。放課後はこれまで通り、図書室で向かい合って勉強をした。

 話すようになってよくわかったが、桜庭は一癸よりもうんと頭が良かった。一癸が参考書でわからないところで頭を悩ませていたら、解説を読むことなくさらさらと解いてしまった。すげえ、と一癸が思わずこぼすと、困ったように笑うのが印象的だった。

 桜庭は、頭がいいのに少しもそれを鼻にかけたところがなく、むしろ自身の頭がいいことを、どこか嫌がるようなそぶりを見せることすらあった。

 一癸からすれば、成績がいいことは未来の幅を広げてくれる素晴らしいことだと思うのに、桜庭にはそうではないようだった。

 頭がよくても仕方がないから。

諦めたように言われた言葉に、何か事情があることはわかったが、それを深く追求できるほど、桜庭と親しくなってはいなかった。

 結局、一年の間、一癸は桜庭の成績を抜かすことはできなかった。


高校二年

 昇降口に張り出されたクラス名簿に記載されている名前を見て、あ、と無意識のうちに声が出た。

 桜庭の名前が、同じクラスの枠内に記載されていた。

 成績上位者はなるべく各クラスにばらけるように配置されると小耳に挟んでいたから、きっと同じクラスになるとはないだろうと思っていたが、ただの噂だったらしい。元に、桜庭の名前は一癸と同じクラスに記載されている。

 桜庭以外にも、連んでいた神林に、同じクラスだった高嶺の名前があった。神林と高嶺は同じサッカー部に所属しており、仲がいいようだった。何事もなければ、去年同様神林と連むことになるのだろう。

 室内履きに履き替えてクラスに向かうと、新しいクラスに浮足だった喧騒が廊下中に響いている。去年、入学した時と同じような盛り上がり方になんとなくうんざりした気持ちになる。そんなに大騒ぎすることもないだろう、と小馬鹿にしながら、新しい教室の扉を開けた。

 教室内には既にいくつかグループが出来上がっていた。元々部活や委員会などで知り合いだった場合、なんとなく知っているもの同士でくっつくことが多い。仮で固まったグループは、早ければ一週間もしないうちにバラけて新しいグループを作っていたりする。

 教室内を見渡すと、桜庭の姿があった。一番窓側の列の、一番後ろ。桜庭は誰かと会話をするわけでもなく、文庫本に視線を落としている。勉強をするときは、机にべったりと上体を預けるようにしているのに、本を読む姿勢はしっかりと背筋を伸ばしている。姿勢が良いんだか悪いんだか、よくわからない。

 一度自分の席に荷物を下ろすと、桜庭の席に近づいた。空いている前の席に腰を下ろし、名前を呼ぶ。

 ゆっくりと持ち上がった顔は、やっぱり前髪で覆い隠されていた。大きくて丸い瞳は気弱そうではあるが人を遠ざけるようなものではない。目の上までバッサリと切り落としてしまえばいいのに、と何度も思ったが、言ったことはない。神経質そうに前髪を下に引っ張る癖があるのを見てしまっては、それが桜庭の心の拠り所になっているのではないかと思うからだ。

 無表情だった顔が、ゆっくりと柔らかい笑みを形作る。少し前まで、苦笑いをしているのかと思うくらい不自然だった笑顔は、いつの間に自然な笑みを浮かべられるようになっている。

「おはよう。今年は同じクラスなんだね」

「おー。桜庭と同じクラス、なんか変な感じするな」

「なんで?」

「知らんの?成績優秀者は、クラスバラバラにされるって噂だぞ」

「あくまで噂でしょ。現に、成績一位の僕と君が同じクラスになってるんだから」

 開かれたままの文庫本に視線をやる。ハムレット、と書かれたそれは、あまり本を読まない一癸でもわかる有名なものだった。内容は知らない。世界四大悲劇と言われているものの気がする。

「本、好きなん?」

 部の本を指差すと、桜庭は困ったように眉尻を下げた。何も困るような発言はしていないのに、どうしてそんな顔をするのか不思議だった。

「好きではないけど、必要があって読んでる」

「ふうん?」

 必要がある、とはどういうことだろう。

 聞いてみたいと思ったが、口を開く前に文庫本をスクールバッグの中に押し込まれてしまえば、触れてほしくないのだとなんとなくわかってしまう。

 言葉を交わすようになってしばらく経つが、桜庭は常に薄い壁を一枚隔てたところから、一癸を見ている気がする。自分のことを、あまり話そうとしない。他のことは言い淀むことなく答えてくれるのに、桜庭自身のことを聞くと、それまでの饒舌さが嘘のように口をまごかせる。

 いつかはその壁もなくなるだろうか。

 今日は新学年初日ともあって、学校は午前中で終わる。今日ばかりは図書室には寄らずに自宅へ帰ろうと思っているのだが、桜庭はどうするつもりだろう。もしも、桜庭も図書室に寄らずに帰るつもりなら、昼食を一緒に食べたい。

 なあ、と誘いをかけようと口を開いた瞬間、底抜けに明るい声が一癸を呼んだ。

「一癸!今年も一緒のクラスだなあ!」

 聞き覚えのある、神林の声だった。

 神林の大声に、それまでクラス内に満ちていた喧騒が霧散する。誰だ、と言いたげな視線を受けている張本人は、そんなことは露ほども気にせずに大股で一癸の元に向かってくる。

「今年もよろしく」

 へらへらと笑う神林に、おう、と短く返す。桜庭に視線をやると、それまで一癸と笑いながら会話をしていたのが嘘のように、表情を固くして前髪を執拗に引っ張っていた。かなりの力で引っ張っている。前髪の一部分だけ、抜け落ちてしまうのではと心配になるくらいだった。

 大丈夫か、と声をかける前に、桜庭に気がついた神林が口を開く。

「あれ、桜庭じゃん」

 視界の端で、桜庭の肩がぴくりと動いた。肩に力が入って、首を窄めるような動きをしたように見えた。それを確認する前に、なんだよぉ、という神林の笑い声が、桜庭と一癸に落ちる。

「仲良くないって言ってたけど、仲良かったんじゃん!言ってよ、もう」

 何に興奮しているのか、声を上擦らせた神林が一癸の肩を平手で何度も叩く。存外強いそれは、じんわりと決して弱くはない痛みを感じさせて、少し腹が立つ。

 桜庭に視線をやると、肩を窄めてはいないものの、前髪から覗く瞳が、どうしたらいいかわからないといった風に途方に暮れていた。桜庭がどんなタイプの友人とこれまで仲良くしてきたか知らないが、恐らく神林のように底抜けに明るい友人はいなそうだ。だから、こんな風に視線をうろうろ彷徨わせ、座りが悪そうにしているのだろう。

「いってぇな。殴んな。それにあのときはまだ仲良くなかったんだよ、あれ以降、話すようになった。お前に言ってなかっただけ」

「そうなんだ。でも、話してくれたってよかったじゃん」

 別にわざわざ言うことでもないだろう、と口にしかけ、やめた。

 なんとなく、桜庭の前でそれを言うのは憚られた。

 その代わりに、今にも席を立ってしまいそうな桜庭に、神林を紹介することにした。神林はうるさく、空気が読めないところがあるが、基本的には良い奴だった。悪人か善人かで言えば、間違いなく善人だ。

「こいつ、神林郁人。サッカー部。去年俺と同じクラスだった」

 まさか自分に声がかけられると思っていなかったのか、桜庭が驚いたように目を見開いたのが前髪の隙間から見えた。表情がわかりにくい。目が見えれば、もっと桜庭の感情の揺らぎがわかるのに。

「神林です。桜庭、有名だから俺は勝手に知ってたよ」

 神林が笑う。どうも、と桜庭が視線を向けずに言った。人見知りなのだとしても、挨拶くらいちゃんと目を見て言うべきだろう。神林に失礼だろ、と口にする前に、素早く立ち上がった桜庭が教室を出ていった。一癸が引き止める間もないほど、素早い動きだった。立ち去り際、小さく呟かれたごめんの言葉が耳にこびりついていた。

「なんだぁ、あれ?俺なんかしちゃった?」

「いや、なんもしてないと思うけど」

「だよなぁ?」

 桜庭が逃げ出した理由は、一癸にだってわからなかった。口にしていたごめんの理由もわからない。

「ま、これから仲良くなればいいかぁ」

 神林が物事を深く捉えない性格でよかった、とこの時ばかりは思った。

 教室に戻ってきたらどうして逃げ出したのか、理由を聞こうと思っていたが、予鈴がなるまで、桜庭は戻ってこなかった。予鈴が鳴り終わる寸前に走り込んできた桜庭の顔は、朝とは打って変わって強張っていた。


 教科書類の配布や明日以降の予定を担任が話している間、一癸はずっと胸にモヤモヤとしたものを抱えていた。

 休み時間になるたび、一癸が席を立つよりも早く桜庭はさっさと教室を出て行ってしまう。予鈴が鳴る少し前に戻ってくるから、会話をしようにもできない。少しずつ溜まっていく苛立ちと困惑が、桜庭に向ける視線をどんどんと鋭くさせていく。

 何を考えてごめんと言ったのか、それだけでもいいから聞きたかった。

 神林は桜庭と話したことはないと言うから、神林との間に何かがあって苦手意識を抱いているわけでもないだろう。放課後、図書室で話しかけてきた姿からは、人見知りだとも思えない。桜庭の怯えたような表情が気になった。一癸と話している間、一度も見せたことのない表情だった。

 せっかく同じクラスになったのだから、親しくしたい、と思う。

 一癸は一番後ろの席で、左斜め前方向に桜庭の席があった。背筋をしゃんと伸ばして顔を正面に向けている姿は堂々としているのに、どうして神林を前にしたとき、罵声を浴びせられたような顔をしていたのか。

「それじゃあ今日はここまで。明日から授業始まるから、教科書忘れるなよ。ロッカーに置いて帰るのも良いけど、ほどほどにしろよ」

 担任の間伸びした声が、ホームルームの終了を告げる。

 教科書を持ち帰るつもりのない一癸は、すでに机とロッカーの中に詰め込んである。桜庭が立ち上がるよりも早く、一癸は席を立ち上がった。桜庭の席は廊下とは真逆なのだから、逃げられることはないだろう。

 急いで立ち上がり、桜庭の席へと向かう。ほとんどの生徒がロッカーや机に教科書を詰め込んでいるのに、桜庭だけはバカ真面目にスクールバッグに押し込んでいる。スクールバッグは大量の教科書を入れるには小さすぎるようで、チャックを閉めようと四苦八苦している。

「無理にやったら壊れるぞ」

 声をかけると、勢いよく振り返った桜庭が眉間にシワを寄せた。唇をもごもごと動かし、それから諦めたようにため息をついた。

 その様子が一癸と話したくないと言っているように見えて、無意識のうちに舌打ちをした。小さいが、確かにその破裂音は桜庭の耳に届いたらしい。桜庭の肩が揺れる。

「…悪い」

 舌打ちの音を聞いて、あからさまに桜庭の体が強張ったのが見えた。チャックを握る指先からは色味がなくなり、かなりの力で握り込んでいることがわかる。

 一癸の言葉に、桜庭がへらりと笑う。

「ううん、僕が悪かったから」

 へらへらとしたその笑みは、今まで一度も見たことがないものだった。媚びを売っているようにも見えるし、怒りをこれ以上買わないようにと仕立てに出ているようにも見える。

こんな顔をさせてしまったことに、胸がずきりと痛んだ。桜庭とは自分の馬鹿な行いがきっかけで話すようになっただけで、何か共通の話題があるわけではない。それでもぽつぽつと交わす言葉が心地よかった。

こんなことで、疎遠になることは避けたい。

もう一度悪かった、と告げる。少しばかり桜庭の強張りが取れたことを確認してから、一癸は本来の目的を口にした。

「今日、予定なかったら昼飯、一緒に食いに行かんか」

こうして桜庭を誘うのは初めてだった。今までは、図書室で会話をするだけだった。

 いつも放課後、勉強をしながら合間合間に言葉を交わすことが当たり前になっていたから、こうして誘うことに少し緊張した。

 桜庭はうろ、と視線を彷徨わせた後、少し頬を紅潮させる。先ほどまでの媚びを売るような表情から一転して、嬉しそうに口角を持ち上げた。

「行きたい」

 返事にほっとする。怯えた顔をさせてしまった後では、断られるかもしれないと思っていた。

 怖がられることの多い一癸に話しかけたときはあんなに堂々としていたのに、たった一度舌打ちをしただけであんなにも怯えたような表情をすることが気になった。理由が知りたいと思ったが、自分が舌打ちをしないように気をつければいい。

 一癸が安堵の息を吐き出すと、ちょっと待ってて、とスマートフォンを取り出した。画面を何度かタップしているのを見て、そういえば連絡先を知らないことに気が付く。

「お待たせ。家族に連絡したから、もう大丈夫だよ」

 それに返事をしながら、一癸は自分のスマートフォンを取り出した。メッセージアプリを起動させ、画面を桜庭に差し出す。

「連絡先、交換しよう」

 口にしたとき、柄にもなく手汗が滲んだ。これまでの友人たちとは、そんなことを言わなくとも自然に交換する流れになっていた。

 交換しようと口にすることは、自分はあなたと仲良くなりたいです、と遠回しに告げているようでどうにも気恥ずかしかった。頬に熱が集まっているのがわかる。スマートフォンを差し出していない方の手で顔を隠したい衝動に駆られたが、そうはしなかった。

 一癸の言葉を理解した瞬間、前髪の下で嬉しそうに目を細める桜庭の顔を、網膜に焼き付けておきたかった。

 無事に連絡先を交換した後、ゆっくりと教室を出て昇降口へと向かった。新しいクラスに浮き足だった雰囲気は、生徒がほとんど下校しても未だに残っているような気がする。新しい人間関係を構築するという点は、確かに興奮材料にはなるのだろうと理解はしている。しかし、一癸は今まで新しいクラスになることを楽しみだと思ったことはなかった。新しい人間関係を構築することが面倒だという気持ちばかりで、どちらかと言えば憂鬱な気分になることが多かった。

 しかし、今年は違った。

 クラス名簿に記載された桜庭の文字を見た瞬間、それまで抱いていた面倒だという気持ちが一転、少しばかり体が軽くなったような気がした。

 これを浮き足だった、というのだと、身を持って体験した。

 横を歩く桜庭は前髪が邪魔なのか、耳にかけていた。神経質に引っ張るような素振りを見せないことにほっとしながら、何が食べたいかを聞く。

「うーん、特に好き嫌いないからなんでもいいかなあ」

「そんじゃ、カレー屋は?ナンが美味い店あるんだけど。しかもおかわり自由」

「わ、いいね。僕カレー好きだよ」

「おー、じゃあそこ行こう」

 一癸の言うカレー屋は、高校とは反対方向にある。正門を出て、ゆっくり歩いても十五分もかからない場所に建っているカレー屋は、ナンのおかわりが自由という理由で人気だった。育ち盛りの男子高校生の無限の食欲を満たすには、ぴったりの店だ。

 元々は神林がサッカー部の先輩に教えてもらった店で、サッカー部が休みの放課後、連れて行ってもらった。カレー自体は辛さを選べ、辛いもの好きな一癸は一番辛くしてもらった。インド人の営むカレー屋ともあって、一番辛くするとさすがに口に含むとぴりぴりと舌が痛んだが、スパイスが効いていて美味しかった。神林とは、予定を合わせて何度か足を運んだお気に入りの店だった。

 桜庭も気に入ってくれるようであれば、今度は神林も誘って三人で行くのも良いかもしれない。

 そこまで考えて、桜庭が神林に向けていた表情を思い出す。

 自分の存在が相手にとって邪魔だと思われるかもしれないとでも思っていそうな顔。今すぐどこかに行きたいと言いたげだった。

 神林は桜庭に対して、冷たい視線を向けてなどいなかったし、むしろ好意的な言葉を向けていた。それにも関わらず、桜庭は居心地が悪そうだった。

 横目で桜庭を見ると、わずかに口角が持ち上がっていて、機嫌が良さそうだった。普段は隠されている瞳も、柔らかく弧を描いている。

 どうしてあんな顔をしていたのか、聞いてもいいだろうか。

 踏み込んだことを聞くのは、初めてだった。今までは、そんな話をしようとも思ったことがなかった。いつだって桜庭は笑っていたし、感情が負の方向に揺らぐのを見せたことはなかった。

 なあ、と声をかける。

 桜庭の瞳が、一癸を見る。丸い、大きな瞳だ。

「神林のことなんだけど」

 瞬間、桜庭の顔が曇った。それまで纏っていた、楽しげな空気が重苦しいものに変わる。下唇を噛み、視線が地面に落ちる。耳にかけていた前髪に右手が伸び、神経質に何度も下に引っ張った。何度も何度も、激しく前髪を引っ張るせいで、人差し指に髪の毛が絡みついている。

 地雷を踏んだ。

 誰に言われずともわかった。

 この話は、してはいけないものだった。

 神林が覚えていないだけで、桜庭は神林に何かをされたのかもしれない。そうでなければ、こんなに激しく髪の毛を引っ張ったりしないだろう。ぶちぶちと何本も指に絡みついているのに、桜庭はそれをやめようとはしない。むしろ、激しさを増すばかりだ。

「ごめん、桜庭。聞かれたくないこともあるよな。無神経に突っ込んでごめん。もう聞かないから」

 焦ったように言うも、聞こえていないのか桜庭は前髪を引っ張る。

 引っ張るたびに、ぶちぶちと前髪が頭皮からちぎれていく。抜けた髪の毛が指に絡みついて、地面に落ちて、痛みを伴うはずなのに、それでも桜庭はやめようとしない。

「桜庭!」

 どうにか前髪を引っ張る仕草をやめさせたくて、手首を掴んだ。それでも手のひらは前髪を掴もうとして、背筋がゾッとする。

 何が、桜庭を追い立てるのか。

 一癸の腕を振り払おうと、自由な左手が一癸の腕を掴む。鶏ガラのように細いくせに、力強いそれに腕を引き剥がされそうになる。柔らかい肉に、桜庭の爪が刺さって痛かった。

「痛い!」

 声を上げると、一癸の腕を掴んでいた左手の力が緩む。それまでの力強さが嘘のように、だらりと一癸の腕に垂れ下がるだけになる。一癸の腕よりもずっと細いのに、力の抜けた腕は重たかった。

 前髪を引っ張る動作も止まり、安堵のため息をつく。

 桜庭の顔を見ると、今にも泣き出してしまいそうに歪められていた。

「…ごめん」

 聞き逃してしまいそうなくらいの小さな謝罪は、しっかりと一癸の耳に届いた。

「いや、俺が悪かったから」

「でも、僕が平手くんに痛い思いさせちゃったから」

「いいって。俺が無神経なこと言ったのが悪かったから」

 でも、とまたもや食い下がろうとする桜庭の言葉を遮る。

「それより、同じクラスになったんだし、平手って呼ぶの、やめろ。一癸でいい。友達、みんなそう呼ぶから。桜庭もそう呼んで」

 二人の間に流れる重たい空気をどうにか変えたくて、無理矢理話題を変えた。桜庭はまだ謝り足りないような顔をしていたが、それには気がつかないふりをする。このままの空気感でカレー屋に向かえば、せっかくのカレーの味がわからなくなってしまう。美味しいものを食べた時は、しっかり美味しいと感じたい。桜庭にも、美味しいと思って欲しい。

 なんとも思っていないことが伝わるように、顔中で笑った。

 突然笑い出した一癸の様子に桜庭は戸惑っているようだったが、それでも一癸が笑みを浮かべたままでいると、釣られたように笑った。ぎこちない笑みだった。


 桜庭、と神林の声がする。

 教科書とノートを持った神林が、桜庭の席に向かうのが見える。

 神林は、これから仲良くなれればいい、と本心から言っていたようで、よく桜庭に話しかけている姿を見る。声をかけられた桜庭は、初めの頃こそ肩をびくつかせていたが、一週間、二週間と時間が過ぎると次第に神林にもぎこちなさは残るものの、笑顔を向けるようになっていた。

 ぎこちないながらも友好関係を築こうとしている姿は、野良猫のようだ。

 桜庭は攻撃性こそないものの、神林に怯えて動向を窺っているようだった。神林から敵意がないことを理解して、そろそろと自分から歩み寄っている。

 後二週間もすれば、すっかり仲良くなるだろう。

 結局、未だに神林に対するぎこちない理由は聞けていない。気にならないわけではないが、もしもまたあんな風になったらと思うと、恐ろしかった。

 神林に対するぎこちなさがいつまで経っても残るのなら、また声をかけた方がいいかもしれないと思っていたが、この様子だと必要はなさそうだった。

 神林との会話を終えた桜庭が、スクールバッグを抱えて一癸の席にやってくる。

「お待たせ。図書室行こう」

「おー」

 返事をして立ち上がる。

 二年に進級してからも、桜庭と一癸は放課後図書室に行くことをやめなかった。

 勉強をするのに、静かな図書室は都合がよかった。

 数学の課題を終わらせると、一癸は手持ち無沙汰になった。桜庭はすでに数学の課題を終え、自習に入っている。

 一癸も自習をすることはあるが、基本はその日に習ったことの復習をして終わりだ。基本的に、図書室では課題をこなしたら、あとはぼんやり時間が過ぎるのを待っていることの方が多い。図書室で自習をするのは、気が向いた時だけだ。

 足をだらしなく伸ばし、終わった課題をリュックにしまう。机に齧り付くようにしている桜庭は集中しているようで、まだしばらく顔をあげそうにない。

 右巻きの旋毛を見ていると、悪戯芯がむくむくと風船のように膨らみ始める。

 ちょっかいをかけてやろうと、机の下を覗き込む。寝こけているんじゃないかと疑うくらい姿勢が悪いくせに、桜庭の足はきちんと膝をくっつけてお行儀良く纏っている。上半身とのアンバランスさに吹き出しそうになるのをグッと堪え、足を伸ばし、つま先を軽く蹴る。

 ぴく、と桜庭の方がわずかに動いたが、すぐに何事もなかったようにシャーペンが動き始める。偶然ぶつかったと思ったらしい。もう一度、さっきよりも強い力でつま先を蹴り飛ばす。

 机の下に向けていた視線を桜庭に動かすと、やや頬を赤らめた桜庭が、一癸を睨みつけていた。前髪の隙間から見える瞳が、一癸を睨みつけている。

 じとり、という言葉が似合いそうな瞳だ。思わず吹き出すと、一癸の足が蹴られる。こつ、と軽い音が足下から聞こえる。

「なんだよ」

 小学生のようなやり取りに、思わず笑い声が混じる。

「一癸くんが先にやったんだろ」

 顔を顰めてはいるものの、桜庭の声は少しも不機嫌そうではなかった。むしろどこか楽しげで、このくだらない応酬を楽しんでいるようだった。

 くつくつと喉の奥で笑うと、わざとらしく顔を顰めていた桜庭の顔がだんだんと体裁を保っていられなくなる。少しずつ崩れた表情は、ついには笑顔になって、一癸と一緒に声を顰めて笑った。

 自分とは正反対に思えた桜庭と過ごす時間は、これまでのどの友人と過ごす時間よりも楽しかった。

 知り合ったきっかけは最悪だったが、あれがなければこうして話すこともなかっただろうと考えると、あの行動をとってよかった。そんなことを言えば、桜庭には何を考えているのかと怒られそうだったが、腹の底からそう思った。

「なあ、暇なんだけど」

 こつこつとつま先を蹴りながら言う。言外に遊びに行こう、と誘ったつもりだったが、桜庭には伝わらなかったようだ。明日の予習でもすれば、とすでに参考書に視線が戻っていた。少しも自分を見ようとしない視線に、ふんと鼻を鳴らす。

 もう一度足を伸ばして、つま先を蹴った。今度は、少し強く。痛みを感じはしないだろうが、体が多少揺れる程度の力を込めた。

 桜庭の視線が上向く。薄い唇に隙間ができる前に口を開いた。

「遊び行こ」

「え?」

「まだ試験も先だし、いいだろ。今日くらい」

 一癸の一言で、二人は高校から数駅のファッションビルに向かうことにした。

 何か買い物がしたいわけではなかったが、ファミレスに行くのは図書室で喋るのと変わらないだろうと、色々なテナントの入ったビルに足を向けることにした。

 桜庭は初めて来たのか、物珍しそうに辺りをきょろきょろと見回している。

 一癸は彼女と何度か来たことがあった。彼女の好きなファッションブランドがいくつか入っており、新作が出たらしいとなれば、せがまれて足を運んだ。

「なんか見たいもんあったら言って。俺も言うし」

「わかった」

六階建てのファッションビルは最上階がレストラン街、三階から五階がファッションブランド、二階が雑貨店と本屋、一階がコスメ売り場とカフェといった配置になっている。女性向けの店が多いが、五階には一癸たちくらいの年齢の男が好んで着るようなブランドもいくつか入っている。二階の本屋はかなり大きく、参考書の取り揃えがよかった記憶がある。五階から下っていって、目ぼしいものがなければ本屋に足を向ければいいだろう。

一癸がなんとなくのルートを考えていると、隣を歩いていた桜庭が少し気まずそうな声を出す。

「…なんか、女の子多いね」

 すれ違う客のほとんどが、一癸たちと同年代だろう女だ。男と女の組み合わせは店内にいくつもあったが、一癸と桜庭のように男二人で来ている客はどこにもいない。肩身が狭そうにしている桜庭がおかしくて、喉の奥で笑う。

「笑うなよ」

 不貞腐れた声に、今度は笑い声が口から飛び出す。ちょうど横を通りがかった女の二人組が、一癸を見てこそこそと何かを言っていた。あの人怖い、とかなんとか言っているのかもしれない。女が多いこのビルで、確かに男二人組は異物に違いなかった。

 笑い声が収まると、一癸はエレベーターに向かって歩き出す。その後ろを、桜庭が歩く。革靴が、こつこつと床を蹴り上げる。

 エレベーターの中は、香水と化粧品の匂いが充満していた。人工的な甘い香りに、鼻の頭にシワが寄る。彼女は香水をつけていなかったし、化粧もうっすら施す程度だったから、エレベーター内に満ちる混ざり合った香りに辟易する。

 桜庭も顔を顰めているだろうと思って横を見ると、平気そうな顔をしている。

同じクラスになってわかったことだが、桜庭は男とは会話をするものの、女はほとんど会話をしない。それも必要に駆られたときに渋々といった様子で、会話をしている最中は無表情だ。女に話しかけられたときもそれは変わらない。女が苦手なのだろうと勝手に思っていた。

女が苦手なら、人工的な甘い香りはさぞ苦手なのだろうと思っていたが、そうでもないらしい。

一癸はなるべく匂いを嗅ぎたくない一心で呼吸をできる限り我慢しているのに、桜庭は平然としている。

「臭くねぇの」

「ん?臭いよ?」

「あ、くせぇんだ。普通にしてるから、臭くねぇのかと思った」

 桜庭がぎこちなく笑う。

「僕、妹がいるんだけど、妹が香水使うんだ。だから慣れてるってだけで、臭いとは思うよ」

「あ、妹いんの?」

「うん。一つ下のがね」

 あまり仲が良くないのか、桜庭は視線を下にやった。

 一つ年下ということは、高校一年になったばかりの妹だ。高校一年ともなれば、反抗的な態度を取ることも往々にしてあるだろう。一癸は、あまり折り合いの良くない弟を思い出した。

 弟の伊月は、一癸とよく顔立ちや雰囲気は似ていたが、勉強がとにかく苦手だった。楽しいこと、面白いことばかりをしたがって、努力を嫌う。勉強をしろと言われれば乱暴な言葉で両親を威圧し、家を飛び出した。初めの頃は、そんな態度をとる伊月を両親は心配していた。家を飛び出せば一晩中探し回ったし、何か問題を起こせば飛んで謝罪に出向いた。それもこれも、伊月に対する愛情からだった。

 中学三年になり、酷い反抗期が来たのだと、両親は笑っていた。ここでしっかり伊月を受け止めてあげないと、と。

 側から見ていた一癸には、両親の深い愛情がよくわかったが、当事者の伊月は少しも感じなかったらしい。

 両親に対する態度は日を追うごとに酷くなった。

 伊月を愛することをやめたのは、まず母だった。親の責任があると言っていたのに、その愛情がぽっきりと折れるのは簡単だった。伊月に頬を殴られたことで、母は伊月に対して愛情ではなく恐怖を抱くようになった。

 伊月を愛せなくなった母を支え、最後まで伊月を愛そうとした父も、母が愛情を失った半年後に、伊月を見限った。

 幼い頃、一癸と伊月が両親に送った手紙やプレゼントを、父は両手で抱える程度の大きさの白いボックスに大切に仕舞い込んでいたらしい。仕事で辛いことがあればそれを取り出して眺め、自分を奮い立たせていたと言っていた。

 一癸はそんな箱があることを知らなかったが、伊月はたまたま父がそれを取り出しているところを目にしたことがあった。

 事が起こった日、伊月は父に酷く叱られていた。高校に入って初めての定期試験で、一科目を除いて全て赤点を取ってきたのだ。

 元々、中学の頃から成績は悪かった。入学した高校も名前を書けば誰でも受かるような、言って仕舞えば馬鹿で有名な高校だった。そんな高校でさえ赤点を取ってくるのかと、父は激怒していた。

義務教育の中学校とは違い、成績が足りなければ留年する。それをわかっているのかいないのか、怒声を浴びせる父に伊月はわかってる、とへらへら笑って言ったらしい。父の言葉を聞いてはいるものの、その意味を理解しようとはしていない伊月の頬を、父は強かに打った。その現場に、一癸もいた。

 頬を打たれた伊月は呆然としていたし、頬を打った父は顔を真っ青にしていた。

 殴るつもりはなかったのだろう。ただ、自分が心を削っているのに、少しもそれに気がつかない伊月に腹が立って、無意識で拳を握ってしまったのだと思う。

 顔を青くしたまま立ち尽くす父の横を通り過ぎ、伊月は部屋を出て行った。

 がさがさと物音がしたと思ったら、白い箱を抱えた伊月が部屋に戻ってきた。

 そのボックスを見た父があっと声を上げる前に、伊月は箱の中身にライターで火をつけた。

 父も母も煙草を吸わないのにどうして伊月がライターを持っていたのかとか、このままじゃ火事になるとか、考えることは色々あった。しかし、我に返った父の絶叫に鼓膜がびりびりと痺れ、それ近方で考えていたことは全てどこかへ消えてしまった。

 ボックスを床に放り投げ、それをニヤついた顔で眺める伊月が、他人のように見えた。絶叫しながらボックスに飛びつき、洗面所に抱えて走った父の姿。それを呆然と眺める母と自分。

 洗面所からは父の啜り泣く声が聞こえてきて、それを嘲笑うようにざまぁみろ、と口にした伊月は、本当に自分の弟だったか、と思った。

 それから、父は伊月を見なくなった。

 家族の中で伊月を見るのは一癸だけになった。

 年が近いからか、伊月はまだ一癸に対してはそれなりに会話をしてくれる。もちろん威圧的な程度を取られることもあるし、暴言を吐かれることもあるが、仕方ないと割り切ってしまえばストレスにはならなかった。

 父と母にとって空気になった伊月はさらに荒れたが、誰も相手にしなかった。伊月は、家にほとんど寄り付かなくなった。一週間に一度、洋服を取りに帰ってくるだけだ。それ以外の日は、どこで何をしているのか、全くわからない。知ろうとも思わない。

 伊月は、家族ではあるが一癸にとっては害を為すものだった。

 それを気取られると面倒なことになるだろうとわかっているから、会話をするときは笑うようにしているが、できることなら会話すらしたくなかった。

「俺も弟いるよ。一つ年下」

 俺も弟と仲良くない、と口にしようとして止めた。桜庭は、妹と仲が悪いとは言っていない。勝手に一癸が思っただけだった。

「そうなんだ。弟だと、妹とはまた違う感じになるのかな」

「さあ」

 ポン、と軽い音がして、エレベーターの扉が開く。まだ目的の五階ではない。開いた扉の向こうには、ピアスをいくつも耳たぶからぶら下げた金髪の男と、制服をだらしなく着崩した茶髪の女が立っていた。

 馬鹿そうな奴らだ、と思っていると制服の女が声を上げた。

 エレベーターの中には、一癸と桜庭しか乗っていない。こんな派手な男女と桜庭が知り合いとも思えない。他人の空似で勘違いしているのか、と桜庭を振り返ると、神経質に前髪を引っ張り、顔を青くした姿があった。

 おい、と一癸が声をかける前に、甲高い女の声がする。

「弥生じゃん!なんでこんなところいんだよ」

 心底馬鹿にしたような声だった。女に続いて、男も弥生久しぶり、と笑う。女と同じ、下卑た声だった。

 こいつらは誰だと思っている間に、女と男はエレベーターに乗り込んでくる。男物の香水と女物の香水の匂いが混ざり合って、元々臭かったエレベーター内が更に悪臭が充満する。鼻で呼吸するのが辛い。口で呼吸をすると少しマシになったが、鼻にこびりついた香水の匂いで気分が悪くなりそうだった。

 男が桜庭の肩に腕を回す。桜庭の体が大きく揺れた。金髪の男が、桜庭にグッと顔を近づける。桜庭は、顔を下に向けて視線から逃げようとしている。

「お前、まだ友達いないんだろ?一人でこんなとこ来て、悲しいなぁ」

 男の言葉に、女がげらげらと笑い出す。汚らしい声だ。甲高いばかりで脳みそが入っているのか疑わしいほどに、軽い声だ。

「俺と一緒に来てるけど」

 一癸が不機嫌さを隠さずに言うと、金髪の男は驚いたようで目を見開いた。睨みつけたまま、桜庭の肩に乗った手を退かす。抵抗されるかと思ったが、男は素直に桜庭から身を引いた。

 怖いと言われることの多い見た目で良かった、とこの時ばかりは思った。もし、一癸がひょろひょろとした体型で大人しそうな顔立ちだったら、金髪の男が素直に身を引いたとは思わない。恐らく、桜庭を馬鹿にした時のように、下卑た笑いを浮かべていたはずだ。

 早く五階につけ、と思うが、こんな時ばかり時間が経つのが遅い。途中階でエレベーターが止まり、数人の女子高生たちが会話をしながら乗り込んできた。エレベーター内の重苦しい空気に気がついていないようで、一癸たちと金髪の男の間に乗り込んでくれたのが有り難かった。

 金髪の男と、その連れとの女とどういった関係なのかわからないが、あの二人が現れてからの桜庭は、間違いなく怯えている。体を縮こませ、二人と視線が合わないように前髪を引っ切りなしに引っ張って目が隠れるようにしている。只事ではなかった。

 ポン、と軽い音がした。やっと五階についたとホッとする。

 降ります、と真ん中に立っている女子高生たちに声をかける。固まったまま動こうとしない桜庭の腕を引っ張り、外に出ようとすると、二人の背を追いかけるように甲高い声がした。

「弥生、友達できたんだね。良かったね!」

 掴んでいた桜庭の腕が強張るのを感じた。エレベーターの扉の隙間から、女と男のけたたましい笑い声が聞こえた。悪意に満ちた声は、一癸の背中を粟立たせた。

 少しでもここから離れたい。あの二人がいる場所に居たくない。

 一癸がそう思うのだから、桜庭はより一層強く思っているだろう。

 エレベーターの下に向かうボタンを押す。早くこのビルから出たかった。エレベーター内のように香水や化粧の悪臭がするわけではないのに、息苦しかった。

 やってきたエレベーターに飛び乗り、一階のボタンを押す。黙ったままの桜庭が何を考えているのか、苦しい思いを抱えているなら、早く吐き出させてやりたかった。

 ファッションビルを出ると、やっと自然に呼吸ができる気がした。それまでは、肺が握りつぶされているようで、呼吸をしているのに酸素が体の中に入っていく気がしなかった。

 人心地つくと、桜庭の腕を掴んだままだったことに気がついた。腕を離し、謝るために振り返ろうとすると、ぷは、と水から顔を上げたような音がした。

 前髪の隙間から見える瞳が、どこかすっきりとしているように見える。男たちの前では怯えた表情をしていたのに、一転して清々しそうな表情だった。目が合うと、桜庭の瞳がぐっと弧を描く。

「見た?あの顔」

 初めて見る顔だった。

 純粋に喜んでいて、かつ嘲りの混じったそれが、桜庭の顔に張り付いている。

 思わず体が固まった。どう反応すればいいのかわからない。桜庭の顔を見たまま何も言えずにいると、ぐっと腕を伸ばした桜庭が辺りを見渡した。

「喉乾いちゃった。どこかの店に入ろう」

 スマートフォンを取り出して操作をすると、桜庭がさっさと歩き出す。慌ててそれについて行くと、カフェチェーン店があった。

 店内に入ると、席はまばらに空いていた。席取りをせずとも問題なさそうだと判断し、先に注文をした。桜庭はカフェラテを、一癸はホットチョコレートを注文した。

「甘いの好きなんだ、意外」

 椅子に腰を下ろすと、すっかり元の表情に戻った桜庭がホットチョコレートをまじまじと見ながら言う。

「まあ」

 特別甘いものが好きなわけではないが、時々無性に飲みたくなることがある。それが今だっただけだ。わざわざそう説明するのもなんだかおかしな気がして、曖昧に返事をする。

 カフェラテを舐めるようにして飲んでいる桜庭の顔は、学校で見る時のような柔らかいものに戻っている。金髪の男と、制服を着た女を前にした時の強張った表情は、嘘のように消えている。

 あの二人とはどういう関係なのか。

 聞きたくて仕方がなかった。

 桜庭のことを下の名前で呼んでいたから、顔見知りなのは間違いない。中学の同級生だろうか。それにしては、金髪の男は老けていたような気もする。あの二人に怯えた表情を浮かべていたのは、何かトラブルがあったからだろうか。

 頭の中に疑問が浮かんでは泡のように消えていく。

 どう切り出せばいいのかわからない。

 どちらかと言えば一癸は口下手で、言葉選びが下手くそだった。

 切り出し方を間違えると桜庭を傷つけてしまう気がして、思いついた言葉を口にしようとしても、本当にそれでいいのかと考えては喉の奥で詰まってしまう。

 普段は少しも気にならない無言の時間が、この時ばかりは胃を重たくさせた。ホットチョコレートを飲む速度が異常に早くなるのは、二人の間に流れる重い空気を誤魔化すためだった。

 ホットチョコレートの残りが僅かになった時、桜庭が口を開いた。

「あれ、僕の妹なんだ」

 鼓膜を震わせた声が頭の中で反響する。

 あれ、とは、制服を着崩した女のことだろう。僕の妹と桜庭は言った。あの、見るからに馬鹿な茶髪の女が、桜庭の妹。

 元の顔立ちがわからないくらいに化粧が濃く、鼻が痛くなるほどに香水をつけていた。下着が見えそうなほどに短いスカートは、彼女の頭の悪さを表しているようだった。

 馬鹿っぽいな。

頭の中に浮かんだ言葉だったが、さすがにこれは返しとしては酷いだろう。あの一瞬だけでも、仲が良くないどころか悪いのはありありとわかったが、身内を悪く言うのはなんとなく気が引けた。

 一癸が何も言わないままでいると、それを気にせずに桜庭がぽつぽつと話し始める。桜庭が口を開くたび、カフェラテの少し甘い香りがした。

「美優、あ、妹の名前ね。美優は、すごく両親に甘やかされてるんだ。うちの親は二人とも女の子が欲しかったみたいで、美優を猫可愛がりしてる。小さい頃からワガママばっかりで、勉強もろくにしないし、親がなんでもいいよって許してきたから、最低限の礼儀も持ち合わせていないような馬鹿なんだよ」

 自動音声を聞いているようだった。すらすらと淀みなく口から吐き出される言葉は、原稿が用意されているのかと思うくらいになんの感情も宿っていない。桜庭がどんな表情を浮かべているのか確認したかったが、俯いていてわからなかった。

「美優はね、両親が僕のことを蔑ろにするかた、自分も蔑ろにしていいと思ってる。自分の機嫌が悪ければサンドバックにしていい人間だと、本気で思ってるんだよ。それで、その考えを周りにも撒き散らすから、あいつの歴代彼氏も僕をサンドバックにしてきた」

 そこで一度、桜庭の言葉が止まった。俯いていた視線が、一癸を見た。その瞳は真っ暗な穴のようだった。

「金髪の男の顔、覚えてる?」

「いや、ピアス馬鹿みたいにつけてるなってことしか印象に残ってない」

 素直に覚えていないことを言うと、桜庭が小さく吹き出した。

 どこに笑うところがあっただろうかと思っていると、くつくつ笑いながらそうだね、と頷いている。

「確かにあいつ、ピアス馬鹿みたいにつけてるもんね。初めて会った時、僕もすごいなと思ったよ」

 一頻り笑うと、涙を拭った桜庭はカフェラテを一気に煽った。喉を鳴らして飲むものではないのでは、と一癸が思っている間にも、喉仏は何度も上下を繰り返す。カップを口から離した桜庭は、ナプキンで口を拭うと小さく息を吐き出した。

 カップを机の上に置くと、その手がゆっくりと前髪に伸びる。一度だけ、前髪を強く引っ張る。

「あいつ、神林に顔がそっくりなんだ」

「え、そうだったか?」

「うん。金髪だから分かりにくいけど、本当にそっくり。初めて神林見た時、あいつかと思ってびっくりした」

 初対面であるはずの神林を見て固まっていたのはそういった事情があったらしい。挨拶するなり逃げ出した桜庭に、どうしてだろうと二人で首を傾げていた記憶が蘇った。

 金髪の男の顔を全く覚えていないから、本当に神林とあの男の顔が似ているのかは判断がつかないが、わざわざこんな嘘をつく必要もない。初めの頃は神林に対してぎこちなさが残っていたが、それも今はほとんど感じられないくらいになっている。桜庭が似ていると言うのだから、きっと本当に似ているのだろう。

「あの男は何」

「美優の彼氏。僕らと同い年だけど、中学卒業して働いてる」

 高校進学率が百パーセント近い現代で中卒か、と考えていると、それが顔に出ていたのか、桜庭が信じられないよね、と笑った。

「美優が僕に対してあんな態度だから、あの男も僕のこと馬鹿にしてくるんだ。今までも、その」

 一度、言葉が途切れる。どこまで話そうか。一癸を見ていた視線が彷徨う。何度も瞬きを繰り返す様子は、目に入った小さなゴミを取り除こうとしているようだった。

 黙ったまま桜庭の言葉を待つ。言いたいことがあるなら、途中で口を挟んでしまうと勢いを失って話せなくなってしまうだろう。

 再度口を開いた時、桜庭は前髪を強く掴んで言った。

「…痛い、ことを、されて。だから、あいつのこと、苦手なんだ」

 痛いこと。曖昧な言葉で誤魔化されていたが、なんとなく想像はつく。その痛いことは、桜庭を萎縮させるには十分な痛みを伴っていた。

 本当はもっと詳しく話を聞きたかった。面白がりたいわけではなく、話せば少しでも楽になるだろうかと思ったからだったが、前髪を引っ張っている姿を見て、ふうん、と言うだけにしておいた。傷を抉るようなことはしたくない。

「まあ顔が似てるだけで神林は悪い奴じゃなかったし、もう平気だけどね」

 軽く言って、桜庭は席を立った。財布をスクールバッグから取り出し、飲み物をもう一つ買ってくると言い残して、その場を離れる。

 桜庭の話を聞いている間、気がつけば背筋が伸びていた。

 一方的に、桜庭の体の中で、じくじくと膿んでいる場所を晒させてしまったという申し訳なさがあった。ただ一緒に居合わせて見てしまった。一癸が桜庭の立場なら、家族との仲の悪さだけでなく、蔑ろにされているところを見られたら、その場で蹲るくらいに恥ずかしい。一気に呼吸がしにくくなって、視界が狭まって、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。

 カップの中に残ったホットチョコレートを舌先で舐める。すっかり緩くなったそれは熱かった時よりも甘さが増したような気がして、顔を顰めた。

 桜庭の話を聞いてか、それともホットチョコレートを飲んでか、なんだか胸がムカムカした。さっぱりしたものが飲みたい。オレンジジュースがメニューにあったはずだ。桜庭が戻ってきたら、交代して買いに行こうと思った。

 戻ってきた桜庭は、今度はホットチョコレートを注文したようだった。

「見てたら甘いの、飲みたくなっちゃって」

 へらりと笑った顔が無理をしているように見えて、胸にちくんとした痛みがはしる。

「…俺も飲み物買ってくる」

 オレンジジュースを手に戻ると、桜庭は口を半分開けたまま、だらりと体を弛緩させていた。投げ出された四肢が人形を思わせる。店内は寒くもなく暑くもない、ちょうどいい気温のはずなのに、桜庭の唇は薄紫色をしていた。具合が悪いのかと思い、声をかけようとすると、閉じられていた瞳が勢いよく開く。

「あ、オレンジジュースにしたの?ここの美味しいよね」

 にこにことしているのに、痛々しさが拭いきれないのは一癸の思い過ごしなのだろうか。

 オレンジジュースを口に含むと、冷たさに舌が痺れた。ホットチョコレートの甘さが酸味のある甘さに置き換わる。

「俺に、弟がいるって話をしたと思うんだけど」

 飲み物は飲んでいるはずなのに、喉が酷く乾いている。原因はわかっていた。今から、自分の恥部を曝け出そうとしている。誰にも話したことのない、伊月の話をしようとしている。

 弟がいることは、神林にも伝えてあった。しかし、伊月のことを聞かれた時は、曖昧に誤魔化していた。昔は仲のいい兄弟だったが、今はもう伊月が何を考えているのか、一癸には欠片もわからなくなっていた。

 伊月がおかしくなったのは、高校受験を控えた中学三年のことだった。伊月がおかしくなったのは、まだたった一年ほど前だと言う事実に驚き、それよりも長い日々、暴言を聞かされていた気がする。幸せなことはあっという間に過ぎ去ってしまって、辛いことは長く感じる。こんなところで、それを痛感していた。

 口の中がべた付いている。舌を動かそうとすると、頬の内側にくっついて話しにくいほどだった。

 オレンジジュースで口を湿らせ、どこから話そうか、と伊月のことを思い浮かべた。

 最後に伊月の顔を正面から見たのは、一週間以上前になる。それも、お前は良いよな、と訳がわからないままに吐き捨てられて、さっさと家を出て行ってしまった。あの言葉は一体なんだったのか、今でもわからないままだ。

「桜庭のところと同じで、出来が悪いんだ。頭が悪くて、楽な方に楽な方にって逃げていく奴だったんだけど、それでも昔は愛嬌があったから、家族仲良く過ごしてた。でも、突然、本当に突然、暴言を吐くようになって。俺も両親も、どうして伊月がそんなふうになったのか、さっぱりわからないままなんだ」

 伊月は、一癸にとって隠したいものだった。知られたら恥ずかしいことで、できれば誰にも話さずにいたいと思っていた。誰かに話せば、羞恥で吐き気を催すだろう、と。しかし、話してみれば、胸の奥で溜まっていた澱が、言葉と一緒にどろどろと放出されているのを感じる。見ないようにしていたそれが吐き出されることで、体が軽くなるのを感じていた。

「伊月のことが、わからなくて。俺も両親も、どう接したらいいのかわからない」

 本当はもっと、話したいことはたくさんあるような気がする。

 伊月に言われたこと、伊月がやったこと。伊月にされた酷いことは、両手足の指を使っても数えきれないほどにある。いくらでも思いつくのに、言葉にならない。恥部を晒したくないわけではない。どう接したらいいのかわからないと語っている時点で、伊月との関係性が最悪なことはわかるはずだ。今更隠そうとも思わない。伊月との出来事を話したところで、一癸の言いたいことは変わらない。

 どう接したらいいのかわからない。

 ただそれだけだった。

 ある一時を境にして、伊月は知らない誰かに代わってしまった。電池を交換した人形がシャキシャキ動くように、中身が入れ替わってしまったのかと思うくらいだった。

 桜庭は黙ったままだった。前髪で隠された瞳は、どんな表情を浮かべているのか。

 同情的な色を浮かべているのか、それとも仲間意識を抱いているのか。

 どちらの色を浮かべていても、全く別の色を浮かべていても、どうでもいい。

 伊月の話をしたのは、桜庭の恥部を見てしまったから、自分も曝け出そうと思っただけだ。なんとなく、そうした方がいいと思った。

 話し始める前はあんなに喉が乾いていたのに、話し終わった後はすっかり喉の渇きは無くなっていた。オレンジジュースを口に含むと、いつの間にか温くなっている。

 これ以上温くなったらあまり美味しくなさそうだと思い、一気に飲み干した。

 空になったグラスをテーブルの上に置くと、桜庭がちょうど口を開いた。

 唇が薄く開くのを見ながら、何を言われるのか考えた。お互い大変だね、と傷を舐め合うようなことを言われるかもしれない。

「弟の名前は?」

 しかし、桜庭が口にした言葉は思ってもいないものだった。

 名前を聞かれるとは思っておらず、吃ってしまう。吃っている一癸を全く気にせず、桜庭はもう一度、名前は、と言った。

「い、伊月。伊達の伊に、空に浮かぶ月で、伊月」

 ふ、と吐息の漏れる音がした。

「綺麗な名前だ」

 本心からそう言っているように見えた。伊月くん、と口の中で転がすように名前を呟いている。

 鼻歌でも歌い出しそうな様子だった。どうしてそんなに楽しそうなのかわからなかったが、きっと、桜庭に対する返事はこれが正解なのだろうと口を開く。

「妹の漢字は?」

 それまで緩やかな弧を描いていた唇が噛み締められたのが見えた。しかし、それも一瞬のことで、すぐに

「美しいに、優しいで、美優」

と囁くように言った。

「綺麗な名前だ」

 桜庭が言った言葉と同じ言葉を返せば、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。ぶつかったままの視線がなんだかおかしく感じてくる。

 先に笑いを堪えきれなくなったのは一癸だった。

 喉の奥でくつくつと笑うと、桜庭も小さく笑い声を漏らす。店内は静かで、大きな声を出して笑うことは他の客の迷惑になる。お互い、大きな声を出して笑いたいのを堪えて、しばらく笑った。

 お互い大変だね、と言われるよりも、ずっと苦労していることがわかるような気がした。

 名前ばかりが美しい、お互いの兄弟。

 一頻り笑うと、随分伊月に対する靄がかった重たい感情が軽くなっているような気がした。桜庭も、そうだといい。


 二年になって、初めての定期試験が終わった。

 桜庭と図書室で勉強する習慣がついていたからか、以前よりも点数は上がっていたが、順位は変わらず二位のままだった。一位はもちろん、桜庭だ。

 答案が返されるたびに点数を競い合っていたが、主要教科はもちろんのこと、保健体育や美術といった科目を含めても一つとして点数が上回るものはなかった。ここまでくると、もはや悔しいという感情も湧いてこない。努力しても無駄だ、と自棄になったわけではないが、勝てるわけがないと思ってしまう。

 それを伝えると桜庭は勉強だけが取り柄だからと、困ったように笑う。

 妹の美優に馬鹿にされることが多いからなのか、桜庭は自虐めいた言葉を言うことが多かった。

勉強だけが取り柄だと本人は言うが、一癸は桜庭の良いところをたくさん知っている。本人に伝えるのは恥ずかしくて言ったことはないが、それこそ両手では足りないくらいに。自虐めいた言葉を言っている姿はつきつきと胸を刺すものがあるが、治した方がいいと言うのもおかしな気がする。長年の癖は、誰かに言われたくらいでは簡単に治らない。

「今日、図書室行く?」

 ホームルームを終え、リュックの中に荷物を詰め込んでいると、一足先に準備を終えた桜庭が言った。

 今日くらいは図書室に寄らずに帰ろうかと思っていたが、どうしようか。桜庭に視線をやると、迷っているのがわかったのか

「僕は行くけど」

と告げられる。桜庭が行くなら行ってもいいか、と思う気持ちと、少しめんどくさいと思う気持ちが共存している。んー、とはっきりしない声を出していると、神林の声がした。

「ちょ、ちょっと二人にお願いがるんだけど…」

 媚びを売る声と上目遣いのそれは、見覚えがあった。自然と一癸の眉が上がる。

「お前、もしかしてまたか?」

「はい、すみません…」

 舌打ちをした一癸と、両手を顔の前で合わせた神林の顔を、桜庭が交互に見ている。一体なんのことかわからないと顔に書いてある。一癸だって、わかりたくてわかったわけではない。神林のこの顔は、忘れるわけがなかった。この顔をしてきた時は、神林だけでなく、一癸も必死だった。必死にならざるを得なかった。

「なに?僕にも教えてよ」

 すっかり神林に慣れた桜庭が、神林の肩を叩く。肩を叩かれた神林は、眉尻を下げて桜庭に抱きついた。桜庭からぎこちなさがなくなったことで、神林も以前のような遠慮はなくなっていた。一癸がいないときでも、気がつけば二人でげらげらと笑っているのだから仲良くなったものだ。

「学年一位と二位にしかできない!俺を助けてくれ!」

「え?いいよ、別に。一癸くんも、いいよね?」

 ちょっと待て、と一癸が桜庭を止めようとする前に、

「やった!明日からよろしくな!」

と神林はさっさと部活へと向かってしまう。本当に焦っているなら部活に出るなと言いたいが、生憎とそれを言う相手はすでにここにはいない。明日から頑張ろうと楽観的に考えて、試験期間で鈍った体を動かしに行ってしまった。

 はあ、と一癸はため息を吐き出した。

 神林が上目遣いでお願いがある、と言った日のことを思い出す。まだ数ヶ月しか経っていないのに、もう一度あの日々を過ごすのかと思うと、眩暈がしてくる。あの日々は本当に大変だった。

 頭を抱えた一癸の姿を見て、桜庭が恐る恐るといった風に声をかけてくる。

「なんか、僕、もしかして安請け合いしちゃった?」

「…かなり」

「まじかぁ…」

 心なし痛み出した頭を押さえる。以前よりマシなのは、今回の試験が期末試験ではないことだろう。あとは、一癸が一人で神林の面倒を見る必要がないことだ。

「一癸くんは、神林のお願いが何かわかってるの?」

「多分、というか確実に、勉強を教えてくれってことだと思う」

 強張っていた桜庭の顔に笑みが浮かぶ。そんなことか、と言いたげな姿に、お前はわかっていないんだ、と内心で毒付いた。

「勉強教えるくらいなら、どうってことないじゃん」

「桜庭は神林に教えるのがどんなに大変かわかってない」

「いや、神林ってそんなに成績悪いわけじゃないでしょ?二人でやれば大丈夫だよ。そんな嫌な顔しないであげて」

 宥めるように桜庭の手のひらが背中をさする。神林に勉強を教えるのは本当に大変だった。どこからどう説明すればいいのかわからなくなるくらい、全部が抜け落ちているような有様だった。お前は虫食い算のつもりかと怒鳴りたくなるほどだった。

 わかりやすい参考書持ってこよう、と少しワクワクしているような桜庭を見ながら、一癸は明日のことを考えて気が重くなった。

翌日、昼食を早めに食べ終えた桜庭と一癸は、手渡された神林の答案を見て、言葉を失った。

一癸が予想していた通り、神林のお願いは勉強を教えて欲しいということだった。部活に熱中しすぎた結果、試験勉強を疎かにしたせいで、赤点を下回っている。去年、同じように勉強を教えて欲しいと言われた時は、赤点は二教科しかなかった。それが今年は主要教科、全てが赤点。成長するどころか後退している。

どうしたら学年が上がってすぐの試験でこれほど悪い点数が取れるのかと頭を抱える。横目で桜庭の様子を伺うと、二の句が継げないようだった。

ほら見たことかと言いたくなるのを堪え、口を開いた。

「どれが一番やばいんだ」

 主要教科全てを教えるのは、時間の関係で難しい。神林が部活を休むなら、放課後にみっちり教えることができるが、本人にそのつもりはさらさらないに決まっている。

 眉間を揉みながら言うと、危機感を持っていない声が、馬鹿みたいに元気な声で言った。

「全部!」

「…お前、馬鹿にしてんのか?」

「ま、まあまあ」

 苛立ちを露わにした一癸を慌てたように桜庭が宥める。神林はもう一度、力強く

「全部わからん!」

と言う。清々しいほどだった。

 怒りで目を吊り上げる一癸を見ても、神林は去年同様、一癸が勉強を教えてくれると信じて疑っていない。

 どうして勉強をしなければ赤点を取るとわかっているのに勉強をしないのか、さっぱりわからない。勉強をしなければ、それこそ部活停止になる可能性だってあるし、留年、最悪は退学だ。

 誰かが教えてくれるだろうと甘えているのか、それとも温情をかけてもらえると思っているのか、その思考が理解できない。

 机に置かれた答案に目を通す。

 再試までは、あと一週間しかない。去年は二教科だけを教えればよかったから間に合ったものの、今年は悠長なことは言ってられない。昼休みだけでなく、放課後を使っても間に合うかどうか。

 舌打ちしたい気持ちを堪え、神林に向かって

「お前、部活休め。今週一杯」

と低い声で言った。もしも休まないと言うなら、もう勉強を教えるつもりはなかった。案の定、神林からは不満の声が上がる。現状が理解できていなさすぎると声を荒げる前に、桜庭が援護射撃をする。

「いや、一週間しかないんだから部活やってる場合じゃないでしょ…留年するよ、神林」

 呆れたような声に、それまで堂々としていた神林の背が僅かに丸まった。

「そんなやばい?」

「やばくないわけないだろ。お前、全部赤点だぞ。どうしたらこんな悲惨なことになるんだ」

「僕、赤点取ってる人初めて見た」

「でも、一週間あるんだったら、間に合うんじゃ…」

「間に合わんかったら、留年にリーチかかるんだぞ。それでもいいなら、そうしろよ」

 一癸と桜庭、二人の言葉を受けた神林は、ようやっと事態の悪さを理解したらしく、部活を休むことを約束した。それでも、渋々といった様子ではあったが。

 顧問に一週間部活を休むことを伝えてくる、と言った神林を見送り、一癸たちは先に図書室に向かうことにした。

 思いきりため息をつくと、横を歩いていた桜庭が笑い声を上げる。随分と楽しそうな姿に胡乱な視線を向けると、笑い声混じりに桜庭がごめんね、と言った。

「本当に嫌そうだなって思って」

 嫌に決まっている。神林に勉強を教えるのは本当に大変だった。去年は二教科だったから耐えられたものの、今年は主要教科全てときた。耐えられるかどうかわからない。桜庭がいるからまだましだと思えるが、神林に勉強を教えることの大変さを身を持って知れば、桜庭も途中で逃げ出したくなるかもしれない。

「去年本当に大変だったんだよ。もう二度とやりたくないと思ったらこれだよ。幸先悪いな、今年」

 またため息が出る。これからの数時間を思うと、眩暈がしそうなくらいには、憂鬱だった。ぼやきをまた零そうとした時、真面目な顔をした桜庭が一癸の肩を叩いた。やけに重々しい雰囲気を纏った姿に、曲がっていた背筋が伸びる。ごく、と桜庭が唾を飲み込む音がして、一癸は思わず息を止めた。

「一癸くん…神林に勉強教えるのと、美優に勉強教えるの、どっちが大変だと思う?」

「……はぁ?」

「ちょっと、僕真面目に言ってるんだからちゃんと考えて」

 一度だけ見たことのある美優の姿を思い出す。下着が見えそうなほど短いスカートに、だらしなく開けられたシャツのボタン。伸ばされた髪の毛先は遠目から見てもわかる程度には痛んでいた。人は見た目ではないとは言うが、美優を見た十人中十人が、頭の悪そうな子だと思うだろう。

 美優に勉強を教えることと、神林に勉強を教えること、どちらが大変か。

 勉強しようとしている神林に対して、美優は勉強するどころか机に座ることすら嫌がりそうだ。

 思ったことを素直に口にすると、

「僕も同じこと思った!」

と桜庭が笑い声混じりに言う。

「絶対神林に勉強教える方が楽だから!そんな嫌そうな顔しないでよ、ね?」

 続けて吐き出された言葉に、自分を励ましてくれたらしいことに気が付く。

「そうだな。伊月は顔を合わせる前に逃げ出しそうだし、神林の方がマシか」

「伊月くん、逃げそうなの?」

「ん。あいつはめんどくさそうだと思ったら逃げ出す」

「美優よりひどいな?」

「おー。伊月の方がひどい」

 お互い、兄弟との仲は少しも改善していない。消化ができているわけでもない。こうして口にすると、小さな棘が刺さったみたいに心臓がちくちくとする。それでもこうして口にすることができているのは、偏に桜庭の存在があった。

 一度恥部を曝け出して仕舞えば、もう一度口にすることは容易い。

 それは桜庭も同じだったようで、美優に会って以降、家庭で何か嫌なことがあるとぽつぽつ愚痴を溢すようになった。愚痴を言われた時は、正直驚いた。お互い恥部を曝け出したことでなんとなく、仲間意識のようなものが芽生えたのは感じていた。しかし、それがあるからと言って、直接的な話をすることはないだろうと思っていたから、天気の話をするような空気感で美優の名前を口にされた時、聞き間違いかと思うくらいだった。

 何度もそれを繰り返していくうちに、一癸も伊月の話をすることに抵抗は無くなった。

 美優と伊月に勉強を教える想像をしていたからか、神林に教えている間、あまり苛立たなかった。小さな火種が胸の中で爆ぜても、伊月ならまず逃げ出してるか、と考えればありもしない想像で笑えた。

「なんか、今日一癸優しいな?」

「前と変わんねぇわ」

 疑問を投げかけてくる視線を受け流し、隣に座っている桜庭の足を蹴った。言いたいことに気がついた桜庭が小さく噴き出す。

「えっなに?なんか面白いこと言った?」

「いいから早く次の問題解け。一週間しかないんだから、時間無駄にできないぞ」

机の下で行われていることは、一癸の顔を見ている神林に気づかれることはない。くつくつ喉を震わせて笑う桜庭を無視して、一癸は教科書を指差した。

 桜庭と一癸にしかわからないことがある、というのは、少し不思議な感じがしたが、嫌な感覚ではなかった。元々セックスを見られたことでお互いを認識して、また秘密を共有していると考えれば、自分達らしい気もした。

 最終下校のチャイムが鳴るまで、一癸たちは図書室にいた。

 想像していたよりも、神林の出来は悪くはなかった。どの教科も基礎はわかっているようで、応用が効かないだけだった。応用問題が多く出るこの高校において、それが命取りなのは間違いないのだが、応用問題を何度も解かせれば赤点は回避できそうだった。

「ありがとうな!また明日もよろしく!」

 大袈裟に感謝を伝えてくる神林に少しうんざりしながら、

「ちゃんと勉強しろよ」

と一癸は声をかけた。暗記するしかない科目は、家で復習するよう、口酸っぱく伝えていた。

「わかってるって!じゃあな!」

 神林の家は、高校から歩いて十分ほどの距離にある。電車を使う一癸と桜庭とは、正門で別れた。

 神林を見送り、駅へと歩き出すと、桜庭が口を開く。

「思ったより、神林の覚え悪くなかったね」

「去年はもっと酷かったけどな」

「そんなに?」

「おー。何回ぶん殴ってやろうかと思ったかわからん」

 下らない会話をしていると、駅まではあっという間だ。逆方向の電車に乗るため、改札を通り、桜庭と別れた。


 一週間、みっちり放課後を使って勉強を教えてやったことで、神林は赤点を取らずに済んだ。

 うっすらと涙の膜で眼球表面を湿らせる姿を見て、言おうと思っていた小言が喉の奥で萎む。去年も、これに懲りたらしっかり勉強しろと小言を言うつもりだったのに、神林のやりきった顔を見たら言えなくなってしまったのだ。

「お礼に飲み物奢るわ!中庭行こ!」

 喜色満面の神林が、昼食を食べ終わったばかりの一癸と桜庭に向かって言う。満腹で動きたくない一癸は渋ったが、桜庭が乗り気だったために仕方なく腰を上げる。

 しつこいくらいに感謝の気持ちを述べる神林に少しうんざりしながらも、自販機のある中庭まで歩いた。

 自販機の前には、先客がいた。見覚えのある後ろ姿に、少しだけ関節が硬くなった気がする。先客は、紙パックの紅茶のボタンを押している。このまま自分に気づかずに、教室に戻ってほしい。一癸がここにいることに、気がついてほしくない。

「一癸はどれにする?」

 底抜けに明るい声が、一癸の名前を呼んだ。

 しまった、と思った瞬間、ゆっくりと先客が振り返った。桜庭や神林を越えて、二人の後ろにいた一癸に視線がぶつかった。

 先客は、一癸の彼女だった。すでに数ヶ月前に別れているから、正しくは元彼女だ。

彼女の視線が、一癸を見てゆらゆらと揺れている。久しぶりに正面から見た彼女の姿は、最後に見た時と少しも変わっていない。

何か言いたげな視線が、一癸にぶつけられる。アイメイクで飾られた瞳から香る媚びた匂いが、鼻にこびりつくようだ。一癸に寄りかかって甘えたいと訴えるその瞳を好ましく思ったことは、付き合っている間一度もなかった。別れる直前には、それが鬱陶しくて堪らなくなっていた。付き合っている間も、別れてからも、彼女のことは美人だと思う。しかし、それだけだった。結局、一度だって恋心を抱くことはなく、もたれかかってくる肉の重さに嫌気が差して、別れを選んだ。

視線を逸らしたのは、申し訳なさと言うよりは面倒臭さからだった。

「緑茶。俺、先に戻ってるわ」

 このまま中庭にいれば、彼女から何か言われるのは火を見るよりも明らかだ。

 話すつもりはないとわかるように、さっさと踵を返して教室に戻ろうとする。あ、と背後から声が聞こえたような気がしたが、気がつかないふりをした。

 一癸が教室に戻ってから数分後に、神林と桜庭が戻ってくる。桜庭の手にはイチゴ牛乳が握られており、こいつ甘いもの好きだな、とどうでもいいことを考えた。

 神林がどこか落ち着かない様子だった。緑茶を差し出す時も、隠しきれない好奇心が一癸に突き刺さる。気がつかないふりをして緑茶で口を湿らせたが、遅かれ早かれ何かを聞いてくるに違いない。

 バレていないとでも思っているのか、チラチラと投げかけられる視線が不快だ。あの中庭にいた女との関係は、と一言言えばさっさと答えてやるのに。ストローに口をつけているだけで、神林が少しも紅茶を飲む気がないのはわかっている。

 もぞもぞと体を動かしている様が、悪戯がバレないか気にしている幼子のようだった。

 三人の間に流れる微妙な空気に耐えかね、口を開いたのは一癸だった。何も聞いてこないならそのままにしておくこともできたが、神林の落ち着かない様子が鬱陶しく、これが何日も続く可能性を考えると、自分から言ってしまった方がいいと思った。

「あれ、元カノ。一年の時に別れてからそれっきり。以上」

 端的に伝えると、神林が水を得た魚のようにイキイキとし出した。神林は噂話が好きだ。桜庭の話を持ってきたのも、そう言えばこいつだったと思い出す。

 元々神林と一癸は、彼女と面識がある。面識があるというにはもっと近しい間柄だった。三人とも一年時は同じクラスで、神林も彼女とよく会話をしていた。

「神林は知ってたんじゃねぇの。あいつから聞いてるかと思ってた」

「いやいや!聞いてない!教えてくれればよかったのに!」

 初めて知ったよ、とわざとらしく驚いた表情を浮かべる姿を見て、彼女が自分との付き合いを明かしていなかったらしいことに気がついた。一癸はわざわざ彼女ができたことを友人に言う必要がないと思っていたから、付き合いだしたことも別れたことも、誰にも言ってない。しかし、彼女は言っていると思っていた。女ってそういうものだろうと、勝手に思っていた。彼氏ができたら友人に伝えてきゃいきゃいと集まって、何かがあるたびに一喜一憂する生き物だと思っていた。

 それは一癸の思い違いだったらしい。

 キスもセックスも足早に駆け抜けていったから、きっと話のネタにされているだろうと思っていたのだが、彼女は自分の中だけに留めていたようだ。誰か一人くらいには言ったかも、と頭の中で声がするが、すぐに否定する。内緒だよと言ったはずの話がいつの間にか広まっているのと同じで、面白い話は水を溢したようにあっという間に広がる。人の口に戸が立てられないとはよく言ったものだ。彼女とも、彼女の友人たちとも親しかった神林が知らないのなら、誰にも話していないに違いない。

「別に言うことじゃなかっただろ」

「いや!俺ら友達じゃん!話してくれてもいいじゃんか!」

「必要ないと思った」

「冷たい奴だなぁ、お前。知ってたけど」

「別にいいだろ、もう。終わったことだし」

 でもさぁ、と未だ不満げな神林が言葉を続けようとした瞬間、それを遮るように五限の予鈴が鳴った。

 これ以上、特に話すこともなかった一癸が小さく息を溢す。渋々といった様子で自分の席に戻って行く神林の背中を見送った。

そういえば、彼女の話をしている間、桜庭が何も言わなかったことが少し気になった。桜庭は決して口数が少ないわけではない。どちらかと言えば、よく喋る。特に、気に入った本の話になると、いつ呼吸をしているのか心配になるくらいブツブツと早口に感想を言い出す。一癸や神林が話している時も、よく相槌を打っている。そんな桜庭が全く口を挟まなかったことを考えると、恋愛の話は苦手なのかもしれない。考えてみると、桜庭から女の話を聞いたことがない。好きなアイドルや女優、可愛いと思う同級生の話すら、一度として聞いたことがなかった。

 考え込んでいると、荷物を抱えた桜庭が席を立つ。

「じゃあ、僕も戻るね」

 片手を上げて返事をしながら、向けられた視線に背中が粟立つ感覚がした。

 彼女から向けられる、媚びた視線と同じ湿っぽさを感じた気がした。じっとりと重たく、温いそれがなめくじのように素肌を這い回るような気味の悪さ。

 五限の担当である初老の男性教師が背中を丸めたまま教室に入ってきたことで、一癸は勘違いだと自分に言い聞かせた。それでも腕に生温い感触が残っているようで、制服の上から腕を掻きむしった。

 次に桜庭と視線が絡んだ時、その瞳には湿っぽさの欠片もなく、からりと乾いていた。


 ホームルームを終え、リュックに荷物を持って立ち上がる。普段なら桜庭と図書室に向かうのだが、今日はどうしても向かう気にはならなかった。家に帰るのも億劫だが、今日はそれ以上に図書室に行きたくなかった。

 勘違いだとわかっている。たった一瞬、桜庭から湿っぽい視線を向けられた気がしただけだ。次に目が合った時には、普段通りの目をしていた。彼女と昼休みに会ったことで、その瞳が瞼に焼き付いていただけに決まっている。

 そう自分に言い聞かせても、足が重たい。床に根が張ったように、その場から動けなかった。

 そうこうしているうちに、桜庭がやってきてしまう。

 いつの間にか短くなっていた前髪は、もうその瞳を隠すことはない。丸々とした瞳に、一癸の顔が写っている。

「今日、図書室行く?」

 いつも答えは決まっている。行く、と一癸がそれに答えて、二人で雑談しながら図書室に向かう。今日もそうなると少しも疑わない視線が向けられている。

 匂い立つような欲の雰囲気は、その瞳にはない。

 やっぱり、思い違いだろう。

 答えずにいると、それをおかしく思ったらしい桜庭が首を傾げる。

「一癸くん?」

 男にしては長い黒髪が、首の動きに合わせて揺れる。それまで意識したことのなかったシャンプーの清潔な匂いが鼻腔にこびりつく。

「…おー。行く」

「ん。今日は何の教科やるの?」

 一癸よりも少しだけ低い桜庭の姿が、どうしてだか彼女の姿と重なった。桜庭は男にしては細身ではあるが、その骨格はどこからどう見ても男でしかない。例え暗闇だったとしても、女に間違えることはないだろう。それなのに、桜庭を見るたびに彼女の姿がチラついて、瞬きを繰り返す。

 ぎゅうぎゅうと何度も強く目を瞑り、違和感を消し去ろうとした。

「…そういえばさぁ」

 前を歩いていた桜庭が振り返る。西日が窓から差し込んで、表情が見えない。のっぺらぼうと対峙しているようだ。

 のっぺらぼうが喉を震わせる。その声は少しも感情が乗っていない。

「いつ彼女と別れたの。あれ、視聴覚室でセックスしてた人でしょう」

 春が終わり、夏の匂いが混じり始めた空気が一瞬にして重たくなる。爽やかだった空気に、欲の匂いが混じり出す。肺に入るとずっしりと重たく、胸焼けを起こしそうなほど甘い匂いだ。欲の匂いが体にまとわりついて、その場から動けなくなる。

 どうして桜庭と同性の自分に対して、欲を纏った瞳を向けてくるのかがわからなかった。何かの間違いに決まっている、勘違いだろうと思うのに、二度も欲を向けられてしまえば、それはほとんど核心めいたものになる。

 桜庭は、一癸に恋愛感情を抱いている?

 別れた彼女のように頬を染めて迫ってくる桜庭を想像して、身体中の血液が一瞬にして蒸発したような気がした。

 もし、もしも本当にそんなことがあったとしたら、一癸が今まで友人だと思ってきた日々は桜庭にとっては片思いの甘酸っぱい日々になるわけだ。

 冗談を言い合って笑い合った日も、一緒に勉強をした日々も、二人で放課後遊びに行った日も、全て桜庭と一癸では感じ方が変わることになる。

 それは、ルール違反じゃないか?

 ふつふつと怒りが湧き上がってくる。本当にそうだと決まったわけではないとわかっていても、一度燃え始めた疑問は簡単には鎮火しない。

「悪い、やっぱり今日は帰るわ。体調悪い」

 返事を待たずに、昇降口に向かった。今は、桜庭の顔を見たくなかった。


 家に帰ってからも苛立ちは腹の底でぐつぐつと煮えていた。

 意識を他のものに向けようと読みかけの本を取り出しても、桜庭の瞳が瞼の裏にチラついた。ぐつぐつと煮えた怒りが胸の辺りまで湧き上がってきては、深く息を吐いてガス抜きをした。

 十八時を過ぎても、家には誰も帰ってこず、一癸は物音のしないリビングで桜庭のことを考えた。

 勘違いかもしれないと自分に言い聞かせようとするが、頭の中でアラームが鳴っている。あれは勘違いではない、とけたたましく鳴り響くそれは、野生の勘と呼ぶのが相応しい。

 明日からどうしようか、もしもまた、欲の孕んだ視線を向けられたら、どう振る舞うのがいいだろうか。

 頭を悩ませていると、玄関の開く音がした。母かもしれない。スマートフォンには何の連絡も来ておらず、冷蔵庫には夕飯のおかずらしきものがいくつかしまってあった。コンロに置かれたままの鍋には水が張られたままで、汁物を作ろうとしていた形跡があった。味噌か何かを切らしていて、それを買いにスーパーに出掛けたのだとしたら、もう帰ってきてもおかしくはない。米は一癸が帰ってきてから炊飯しておいたから、母も少しは楽だろう。

 おかえり、と玄関に向かって声を張り上げる。いつもなら、声をかけるとただいまと返ってくる声が飛んでこない。聞こえなかったのかと首を傾げたが、まあいいかとソファから立ち上がる。

 廊下を歩く足音がリビングに近づいてくる。ガチャ、と扉を開ける音がして、一癸は扉の方へ首を傾けた。

 おかえり、と口にしようとして開いた唇が固まった。

 リビングに入ってきたのは、母ではなかった。

「…伊月」

 数日前から家を留守にしていた、伊月だった。

「おかえり、一癸、なんか、顔見るの久しぶりな気がする」

 数日家に帰ってきていなかったというのに、伊月はなんてことない顔をしている。毎日この家に帰ってきていると言いたげな顔で、一癸に向かって微笑みかける。

 最近では見ることのなかった、穏やかな微笑みだった。

「今日は荷物取りに帰ってきたんか?」

 一癸が話しかけると、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した伊月が側にやってくる。そのまま素通りするのかと思いきや、一癸が座っていたソファに腰を下ろし、テレビのリモコンに手を伸ばした。タレントのわざとらしい明るい笑い声がリビングに響く。ごく、と伊月の喉が鳴る音がした。

「んーん。今日は普通に帰ってきた。久しぶりに母さんのご飯食べたいなと思って」

 あっけらかんとして吐かれた言葉に、何を今更、と内心で毒吐く。

 伊月が母のことをババアと呼ぶようになってから、もう半年以上が経っている。母はもう、伊月を見ていない。今更改心して擦り寄ったところで、両親は伊月を見ようとはしないだろう。

「母さんどこ行ったの?」

 きょろ、と伊月がリビングを見渡す。朝、家を出る時に庭に干してあった洗濯物が取り込まれているから、夕方までは確実に家にいたのだろう。その後は、一癸にもわからない。

 知らないと素直に答えれば、伊月はわかりやすく眉尻を下げた。見覚えのあるその表情は、母がいないことを寂しがる小学生の頃と同じだった。

「せっかく帰ってきたのに」

 拗ねているのがわかる声に、一癸は血の繋がった弟ながら心底気持ち悪さを感じた。

 あれだけ虐げてきた相手に甘えを滲ませることのできる厚かましさ。まだ子供だから許されるだろうという傲慢さが、言動の端々に滲んでいる。

 流石に苦言を呈そうと口を開きかけた時、玄関の開く音がした。

「ごめんね!帰ってくるの遅くなっちゃった!駅途中の八百屋さんが安くてさ、スーパーで味噌買ってすぐに帰るつもりだったのに遅くなっちゃった!ご飯、ほとんど出来上がってるから、すぐに食べられるよ」

 母の声だった。野菜が安く買えたことが嬉しいのか、その声がわかりやすく弾んでいる。どたどたと廊下を歩く音がして、一癸が何かを言う前に、リビングに続く扉が開いた。

「今日は一癸の好きななめこの味噌汁」

 母の声が、不自然に途中で止まった。リビングに向けられた瞳には、伊月の姿がしっかり見えているだろう。中途半端に扉を開けた姿で、母がリビングを見ていた。

「おかえり、母さん」

 伊月が当たり前のように言った。数日前も、母のことをババアと言った声で、甘えるように母を呼ぶ。

 母の顔から、一気に血の気が引いたのがわかった。

 母の視線が、助けを求めるように一癸を見る。

 どうして伊月がいるの?と言いたげな表情をしている。野菜のたっぷり詰まったエコバッグを握る指は、可哀想なほどに力が込められて血の気を失っていた。

「おかえり、手伝うよ。荷物持つから」

 固まってしまった母の元に行き、エコバッグを持った。ずっしりと重たいそれは、可視化した母の愛情だ。一癸と、夫に美味しくて栄養のあるものを食べさせたいという母の、純粋なそれだ。

 母にとって、伊月はその愛情を与える相手ではなくなっている。それを伊月は理解しておらず、自分にも当たり前に愛情が与えられると思っている。

 さながら、巣立つ前の雛鳥のようだ。口を開けていれば、親鳥が餌を与えてくれる。

 過去に自分がどんな暴言を吐いていたとしても、それが当たり前に適応されると思い込んでいる。

 可哀想なほど顔を青くした母が、荷物を台所に運ぼうとした一癸の袖を小さく引く。辛うじて一癸の耳に届く程度の声量で、恐れと怯えを吐き出した。

「どうしてあの子がいるの」

 普段の朗らかな母からは想像もできないくらいに硬い声だった。当たり前だ。

 自分を蔑み、罵倒してくるような相手とは、なるべく距離をとっていたい。それが腹を痛めて産んだ子供だとしても、愛情は有限だ。何もしなくとも、どんな言動をとっても溢れ出てくるものではない。

「わからない。でも、母さんのご飯が食べたいって」

 伊月の言葉をそのまま伝えると、母の喉から押し殺した悲鳴が飛び出た。ひぃ、と引き攣れた声は、伊月を全く歓迎していない。

 母が下唇を強く噛む。年相応だったはずの母の顔が、ものの数分で老け込んだ気がする。それもこれも、突然帰ってきた伊月のせいだ。

「あの子の分なんて、用意してないわよ」

 母の怒り混じりの声に、そりゃあそうだろうな、と頷く。

 伊月は家に帰ってくることがほとんどなく、帰ってきたとしても数分で出て行く。そんな人間のために、食事を用意しようと思うわけがない。しかし、母の料理が食べたいという伊月の願いを叶えることができなければ、何をされるかわからない。罵倒されるだけならまだしも、暴力を振るわれることだけは避けねばならない。

 一癸と同じ想像をしたのか、母の体がぶるりと震えた。

「嫌だわ」

 思わずといった風に溢れた言葉が、母の本心に違いなかった。

 大きくため息をついた母が、一癸の腕からエコバッグを奪い取る。乱暴に床に置き、野菜を野菜室に詰め込んでいった。投げ入れられる野菜に、苛立ちをぶつけていた。

「こっちは大丈夫だから。申し訳ないけど、伊月の話し相手してやってくれる?また癇癪起こされても困るから」

 ひそひそと告げられた言葉は、伊月に欠片でも聞こえたら、それこそ癇癪の原因になる。

 ソファに腰を下ろした伊月は、一癸と母がそんな会話をしていることには気が付かずにテレビを眺めている。あまり面白くないのか、眉間には僅かにシワが寄っていた。

「隣、座っていいか?」

 声をかけると、テレビに向いていた視線がちら、と一癸を見る。

「いいよ。座れば?」

 隣に腰を下ろすと、伊月側の筋肉が変に力む。

 伊月が突然暴れ出すのを何度も目にしているから、どうにも構えてしまう。それが悟られないように、と普段通りの口調を務める。

「夕飯、すぐに準備できるってよ」

「本当?嬉しいな、結構腹減ってんだよね」

 母の言葉の通り、夕飯は二十分もかからずに出来上がった。

 久しぶりに三人で囲ったテーブルは、味がよくわからなかった。向かいに座った母も硬い表情で、規則的に白米とおかずを咀嚼するだけだった。父がいなくとも、母と一癸、二人の食卓は会話が絶えなかった。母が一癸に学校の出来事を聞き、一癸がそれに答えるだけだったが、息をするのも辛いような重たい空気が流れていることは一度としてなかった。

 伊月はそれに気がついているのか、それとも本当に気がついていないのか、笑顔のまま美味しいと食事を口に運んでいる。

 得体の知れない化物を見ているような気持ちになっているのは、一癸だけだろうか。

 同じ言語を使用しているのに、全くこちらの理屈が通用しない。ダメだ、やるなと伝えているのに、自分は大丈夫だから、嫌じゃないから、平気だからとへらへら笑って突き進んでいく狂人。さながら伊月は、その狂人だ。

 食事を終えた母は、洗い物もそこそこにそそくさと風呂に行ってしまった。どんな時だって湯船に浸かりたがる母が湯船を張らず、シャワーで済ませようとしている。それくらい、伊月と同じ空間にいるのがストレスなのだろう。

 伊月がいる空間は、音と動きが常にワンテンポ遅れているような気持ち悪さがあった。当たり前であるはずなのに、そうであってもおかしくないのに、どうしても違和感が拭えない。一年前は、伊月も含めた三人で食事を取ることだって多かった。今でこそ罵声ばかりを吐き出す伊月の口は、楽しそうに友人たちとの出来事を紡いでいたのに。

 食事を終えて満足そうにする伊月の体温を片側で感じながら、桜庭と話したい、と思った。

 あんなに欲を孕んだ視線を向けられたと怒っていたくせに、今は会いたくて仕方なかった。我ながら現金な奴だ。

 一癸の気持ちがわかるのは、桜庭しかいない。一癸と同じように、兄弟とうまく行っていない桜庭にしか、こんな感情を吐き出すことはできない。神林のように、兄弟仲のいい人間に対して、伊月に抱いている違和感を話してもみろ。どうせ、兄弟だからわかりあえるよ、なんて綺麗事を言うに決まっている。一癸や両親がどんな仕打ちを受けてきたかも知らず、一癸に大人になれと言い出す。

 吐き気がする。

 年上だからと、年下のしでかしたことに寛大であれと言われる現象が。どうしてたった一年、早く生まれたからと言って、無礼なことをしてきた奴に対して寛容でいなければいけないのか。許したくないと思うことは、許したくない。それには年が上も下も関係ない。

 立ち上がった一癸に、スマートフォンをいじっていた伊月が

「あれ、部屋戻んの?」

と言う。自分が母にも、一癸にも疎ましく思われていることなんて、欠片もわかっていないような顔で、平然と座っている。自分の居場所はここにあると信じて疑わない。傲慢で、暴慢な弟。

「課題、残ってるから」

 嘘だ。課題など、試験が終わったばかりの今は何も出ていない。

「へぇ。やっぱ進学校は大変だな。頑張って!」

 うるせえよ、と喉から飛び出しそうになった言葉を飲み込んだ。もしも一癸が感情のままにそれを吐き出せば、間違いなく伊月は怒声を吐きながら殴りかかってくる。それがわかっていて、口にするほど馬鹿ではない。

 さっさと伊月が家を出ていってくれれば、普段通りの日常に戻るのに。

 気がつけば、風呂に入るのも忘れて眠りこけていた。目が覚めた時、日付はすっかり回っていた。汗でベタつく体は不快だったが、もう一度目を閉じた。今更シャワーを浴びたところで布団は汚れてしまった。体を綺麗にしても、布団が汚れているなら意味がない。早起きしてシャワーを浴び、母にシーツと布団カバーを洗ってもらうように頼むことにする。母はきっとめんどくさそうな顔をするが、お礼といって何かケーキでも買って帰れば機嫌を直してくれるだろう。

 そんなことを考えているうちに、一度浮上した意識はまた浮き沈みを繰り返す。欠伸を一つして、一癸の意識は泥濘に飲まれていった。


 シャワーを浴びると、少しではあるが気分がスッキリした。

 ドライヤーで髪の毛を八割がた乾かし、身支度を済ませる。

 リビングの扉を開けると、朝だと言うのに重苦しい空気が室内に漂っている。

「おはよう。どうしたの、朝からそんな険しい顔して」

 眉間にシワを寄せたまま朝食を取る父に声をかける。聞こえているはずなのに、父は返事をしなかった。母は、台所で忙しなく動き回っている。時計に視線をやり、時間を確認する。一癸が家を出るまで、まだ一時間近くある。この時間帯は、母も食卓について一緒に食事を取っている。それなのに、今日はがちゃがちゃと朝から包丁を握り、食事の下拵えをしているように見える。テーブルの上に弁当が二つ、一癸と父の分が並んでいるから、弁当を作っているわけではないようだった。食卓につきたくないと、荒々しい動きが物語っている。

 二人の様子に、まだ伊月がいるのか、と気が付く。

 まだ部屋で眠っているようだったが、昨晩はどこにも行かず、この家で睡眠をとったらしい。

 伊月が家で眠るのは、一癸の記憶が正しければ一ヶ月以上も前だ。夜まで家にいたと思っても、翌朝には姿が見えないことも多々あったから、正確な日数はわからない。それでも、こんなに長時間伊月が家に留まっているのは、考えられないことだった。

 母には申し訳ないが、朝から伊月と顔を合わせたくはない。何も考えていないようなへらへらとした笑い顔を見たら、苛立ちが顔に出てしまいそうだ。

 手早く食事を済ませると、シンクに食器を下げた。一癸がリュックを手に戻った時には、すでに父は家を出ていた。伊月の部屋は、まだ扉が閉じている。学校に行くつもりなのか、休むつもりなのかはわからないが、そろそろ起きないと遅刻する。しかし、声をかけるつもりはない。伊月が遅刻しても、一癸には関係ない。

「ごめん、俺ももう出るわ」

 台所に立っている母の顔が歪んだ。置いていくな、と言っているようだった。お前たちは家を出られていいな、と言っているようにも見えた。

 母は仕事をしていない。父の稼ぎだけでやっていけるからと、父が家事をやるよう、母にお願いしている。母も働くよりは家事をこなす方が楽だと言い、我が家は分業制だった。それがこんなところで仇になるとは、母も思わなかっただろう。もしも母が働いていたのなら、それが正社員ではなく、パートだったとしても、仕事があるからと伊月を放り出して家を出ることができただろう。それができない。母を家に囚われている、と思ったことは一度としてなかったが、この時ばかりは囚われている、と思った。朝の七時半、仕事をしていない母は、家を出られない。仕事もないのに、まだ寝こけている伊月を放置して外出すれば、それが伊月から逃げるためだと伊月にだってわかってしまう。

 玄関を出ると、外はすでに暑いくらいだった。春と夏の匂いが混ざり合った中途半端な季節のはずが、気がつかないうちに夏の匂いが増している。

 駅までの道中で、肌着がわりに着ているTシャツが汗で湿った。


 普段よりも二本早い電車で学校に着くと、当たり前だが人の姿はまばらにしかなかった。

 野球部の声や、サッカー部の声が遠くから聞こえてくる。校舎の中は静けさに包まれているのに、校舎の周りは色々な音がぶつかり合っている。校舎だけが、薄い膜のようなものに包まれているようだ。

 静かな廊下を進んでいき、教室の扉を開くと、先客がいた。

 すっかり見慣れたおかしな姿だ。机に上体をくっつけるようにして、膝はしっかりとくっつけて足を地面に垂直に下ろしたおかしな姿勢。何度目にしても、苦しくないのか、と心配になる。

 顔を合わせたくないと家に帰る原因になり、それでも話したいと思った相手。

 扉に手をかけたまま、一心不乱にシャーペンを動かしている姿を見ていた。視線に気がついたらしい上体が、ゆっくりと持ち上がる。

「おはよう、一癸くん」

 桜庭は一癸の姿を認めると、きつく結ばれていた唇を緩めた。丸くて大きな瞳を細くして、嬉しそうに破顔する。

「おはよう、桜庭」

 昨日桜庭に対して感じた欲の匂いは少しも感じない。やっぱり勘違いだったのか、と思うくらいに、桜庭から漂う匂いはからりと乾燥している。

 少し自意識過剰になっていたのかもしれない。彼女から久しぶりに向けられた欲の匂いが鼻にこびりついていて、それが桜庭から香るものだと誤認したのだろう。そもそも自分も桜庭も、男同士だ。普通に考えれば、男に対して欲を抱くことはないだろう。もしあるとすれば、何かの間違いか、同性愛者だ。桜庭は進んで女の話こそしないものの、神林の誰それが可愛い、といった話を面白がって聞いている。その様子からは、どうしても男に興味があるようには思えなかった。

 桜庭はすぐに視線を机の上に戻してしまう。そうしてまた、刻むようにシャーペンを勢いよく動かす。遠くに居ても、がりがりと芯の削れる音が鼓膜に届きそうだ。

 リュックを下ろしてから、桜庭の前の椅子に腰掛けた。気がついているだろうに、桜庭の顔は持ち上がらない。

「昨日、家に帰ったら弟がいた」

 絶え間なく動いていたシャーペンの動きが止まった。

「ふうん。で、弟くんがどうしたの?」

 下を向いていた桜庭の視線が、一癸を見る。その瞳は透明な色をしていた。ガラス玉のような瞳には、一癸の姿しか写っていない。この瞳に射抜かれている時だけが、心の内を曝け出すことができる。他の友人たちにも、両親にも漏らすことのできない、黒く濁った感情を吐き出すことができる。吐き出しても、問題ないと思わせてくれた。

「母さんの料理が食べたいっていう理由で帰ってきたみたいで、気持ち悪いなって思った」

 傲慢だと思ったことは言わなかった。言わなくても、なんとなくわかってくれるような気がしたし、もしもそれを口にしてしまえば、体の中で押しつぶすことのできている不快感が、迸ってしまいそうだった。

桜庭が一癸に美優の愚痴を溢すように、逆もあった。その数は一度や二度ではない。

お互い、愚痴を聞かされた時は、ただ相槌だけを打っている。むかつくね、なんて言葉は間違っても二人の間では交わされない。少なくとも、一癸は同調して欲しいわけではなかった。ただ、吐き出させて欲しかった。桜庭が愚痴を履いている時、一癸は自分がゴミ箱になった気分でいる。ただ感情を吐き出す場所でありたいと思うし、桜庭にもそうであって欲しかった。

校庭から金属バッドがボールを叩く音が聞こえた。ふ、と桜庭が吐息で笑った。

「それはちょっと、気持ち悪いかも」

 くつくつと喉を震わせて、気持ち悪いな、ともう一度言った。伊月の愚痴を言って、初めて相槌以外が返ってきた瞬間だった。相槌以外が返ってくる瞬間はきっと、沸騰した怒りがぶつけられると思っていたのに、楽しそうな声に思わず一癸も笑った。

「気持ち悪いよな」

「うん、すっごく気持ち悪い」

 胸の奥で抱えていた重苦しい感情がほろほろと崩れていく。呼吸をするたびに、体から砂のように細かくなったそれが出ていくような気がした。

「体調は大丈夫?」

 集中力が切れたのか、背もたれに体を預けた桜庭が言う。机に広げていた参考書やノートを乱暴にスクールバッグに詰め込み、窓の外に視線をやる。一癸もつられて窓の外に視線をやると、サッカー部がボールを追いかけている姿が見えた。神林の姿があるはずだが、教室から見下ろす部員たちは、どれも同じに見える。

「おー。大丈夫。家帰って寝たら、すぐ治ったわ」

「よかった。いきなり帰ったから、心配したんだよ」

「連絡すればよかっただろ」

「体調悪い人にどうかなんて連絡できないよ。体調悪いんだったら、スマホいじらずに寝てて欲しいもの」

 ふうん、と鼻を鳴らす。心配してヤキモキするくらいなら、一癸はさっさと連絡をしてしまう。桜庭のように、連絡を躊躇うことなどしない。どうだったろうかと気に病み続けることは、捨てたくても捨てられない荷物をずっと抱えているようなものだ。たった一言、聞けば楽になるのなら、それを選んでしまう。今までそうして過ごしてきたから考えたこともなかったけれど、自分勝手かもしれない。

「まあ、体調悪かったとしても、弟くんがいたんならそれも吹っ飛ぶか」

 確かにそうだった。家に帰った時は胸の辺りがざわついて気持ちが悪かったのに、伊月の姿を見たら、それらはどこかに飛んでいってしまった。

 教室内に、だんだんと人が増えていく。入ってきたクラスメイトたちは、一癸たちを一瞥するだけだ。特に会話をすることはない。小学生や中学生の頃とは違い、全員で仲良くしようという雰囲気がないのが楽だ。誰かが来るたびに挨拶を交わすことは、一癸にとっては苦痛だった。耐え難いわけではない。靴の中に小石が入ってしまったような僅かな痛みと不快感が、おはようと口にするたびに体をピリつかせた。それが無くなった今は、随分と気が楽だ。

「伊月、もう家出たんかな」

「登校してないの?」

「俺が家出るまでに起きてこなかったから知らない」

「へえ。美優より悪だね、伊月くん」

 揶揄する声に茶化すな、と返す。からりとした笑い声が、一癸の鼓膜を揺らした。

「今日、家帰った時に伊月いんのかな。嫌だわ」

 伊月が家にいた時の空気を考えるだけで、気が重くなる。昨日の夜が、瞼の裏で勝手に蘇る。母が黙り込み、その空気の中で伊月だけが馬鹿みたいに楽しそうにしている。美味しい美味しいと大口を開けて料理を食べ、皿を片すこともなく風呂に入り、ソファに陣取る。母の顔は、わかりやすく強張っていた。取り繕うことすらせずに、不愉快だと顔に貼り付け、唇を噛み締める姿。

 あれをもう一度、と考えると、一日が終わらないで欲しいと思ってしまう。

 母には悪いが、もしも伊月がまたあの家に帰るのなら、逃げ出してしまいたい。数日おきに伊月が帰ってくるのなら耐えられるが、連日となると話は変わってくる。

 伊月と普通に話すことができるが、そこに嫌悪感がないわけではない。

 両親に罵声を浴びせる弟は、両親にとって化け物である様に、一癸にとっても化け物だ。

「家でよかったら、来る?」

 スマートフォンに視線を落とした桜庭が、ぽそりと呟いた。人が増え、僅かに騒がしくなった教室の中で、その声は周りの音にかき消されてしまいそうなくらい小さかった。聞こえても聞こえなくてもいい、と思っている様だった。

 え、と声が溢れる。一瞬だけ、桜庭の視線が持ち上がった。一癸の顔をちらりと見て、すぐに視線はスマートフォンへと戻っていく。何を見ているのだろう。桜庭は、休み時間でもあまりスマートフォンを使うことはないのに、今はやけに熱心に画面を睨みつけている。指が、下から上へ何度も動く。

「両親はいないだろうけど、美優はわかんないな。もしかしたら彼氏と遊び行ってるかもしれないし、彼氏を連れ込んでるかもしれない。それでもよかったら、だけど」

「行く」

 口から勝手に言葉が飛び出した。桜庭の言葉に被せる様になってしまったと考えていると、桜庭が笑った。

「食い気味」

 少しだけ、恥ずかしくなる。桜庭の声が凪いでいるのが、一癸との温度差を表していた。

「伊月を見た時、桜庭に会いたいと思ったから。今日も伊月の姿見たら、多分桜庭に会いたいと思うだろうから、前借り的な感じで」

 誤魔化すように言葉を続けた、桜庭に会いたいと思ったことは本当だったし、そう言われて悪い気はしないだろうと考えてのことだった。やけに早口になってしまったそれを言い切ると、余計に恥ずかしいような気がしてきて、顔を俯かせた。

 桜庭から言葉はなかなか帰ってこず、沈黙が息苦しい。どう会話を切り出そうかと考えていると、神林の声が教室に響いた。

「桜庭と一癸、おはよ!今日あっついな!俺もう汗だく!」

 朝から騒がしい奴だと顔を上げると、確かに言葉の通り汗だくだった。部活を終えて急いで着替えてきたのだろう。髪の毛がシャワーを浴びた後のようにしっとりと湿っている。

「お前、絶対臭くなるだろ」

 今はまだ汗の匂いはしないが、湿ったそれが乾けば嫌な匂いを放つだろう。そうでなくとも男は女に比べて匂う。それが運動後ともなれば尚更だ。

 嫌な顔を向けると、神林はウインクをした。

「大丈夫!着替え三枚あるから!」

「多いな」

「汗かくからね!いくらあっても困らないからさ」

 タオルで額を拭った神林が首を傾げた。一癸に向いていた視線がずれ、桜庭を見たのがわかった。つられて一癸も桜庭に視線をやる。

「桜庭、なんか首だけ赤くない?日焼け?」

「あ、日焼け止め、塗り忘れてた。やば。焼けやすいんだよね、僕」

 確かに桜庭の首だけが、顔と比べてやけに赤かった。真っ赤になっているというよりは、風呂に入って血色が良くなった時のように、じんわりと肌に赤みが差している。言われるまで気が付かなかった。

 首を手のひらで擦った桜庭の顔に、へらへらとした笑みが浮かんだ。


 桜庭の家は、コピーしたように外観が全く同じ家が五つほど並んだうちの一つだった。

 小さい庭は荒れ放題で、他のコピーされた家と比べて、薄汚れているように見えた。手入れをされていないと一目でわかる。

御伽噺に出てくるような外観が、薄汚れていることでうっすらと不気味さを感じさせるがそんなことは言えるはずもなく、桜庭の後ろを黙ったまま追いかけた。

家の中に入ると、まず鼻にツンとした刺激臭がした。昼休みに神林から僅かに香った刺激臭と同じだ。つまり家の中に充満しているのは、汗の匂いだろう。

鼻で呼吸をするのが辛い。薄く口を開けて口呼吸をしていると、桜庭が振り返った。急いで口を閉じ、素知らぬ顔を浮かべる。

「ごめん、臭いよね。母さんが洗濯物放置してどっか行っちゃったみたいだ。僕の部屋は空気清浄機あるから、マシだと思う。本当ごめん。もし、厳しそうだったら外でもいいよ」

 外がいいと考えなしに口走りそうになるが、すんでのところで思いとどまった。

 外がいいと言えば、臭いと言っていることと同じだ。家の中は臭いが、せっかく家に来ないかと誘ってくれた桜庭の好意を踏み躙る気がして躊躇う。空気清浄機があれば、この酷い臭いもマシだろう。

「いや、家でいいよ」

 鼻から息を吸い込んだ時、どうしてだかやけに酸っぱい臭いが鼻を叩き、思わず咽せそうになった。洗濯物を放置していると言っていたが、いつから汚れ物を溜めているのだろう。いくら夏に近づいているとはいえ、この臭いは一朝一夕のものではない。熟成された臭いがする。

「そう?無理しないでね。また体調悪くなるかもしれないし、無理だってなったら早めに言うんだよ」

 桜庭の部屋は二階にあった。二階には部屋が三つと、トイレが一つある。トイレに一番近い部屋が桜庭の部屋で、真ん中が美優の部屋のようだった。閉められた扉に、美優の部屋、と書かれたプレートがぶら下がっている。ガキ臭い、と思った。あの妹なら、ガキ臭いのも仕方がない気がする。一度会っただけでも、精神年齢の幼さを感じた。

 一番端の部屋は、恐らく空き部屋なのだろう。階段を登り切った時に室内が見えたが、段ボールが入り口近くにいくつか積まれているのが見えた。物置のようにして使用しているのかもしれない。

 部屋に入ると、桜庭はまず空気清浄機をつけた。窓も開け、扉を閉める。じめついた熱気が部屋の中に閉じ込められ、肺に入る空気が重たい。

「エアコンつけるから、涼しくなるまで待って。空気清浄機つけてもさ、下が臭いから締め切らないと意味ないんだよ」

 眉尻を下げて笑う桜庭はもう慣れっこのように口にする。

 夏になりかけの空気は、夕方になっても汗ばむほどには熱を持っている。その熱い空気が、階下にある洗濯物の匂いを二階に充満させていた。空気清浄機をつけても、しばらく部屋の中はすえた臭いがしていたが、しばらくすると、他の匂いがするようになる。それは時折桜庭から漂う、男にしてはうっすらと甘い匂いだった。香水のような人工的な香りではないから、桜庭自身の体臭なのだろう。

「好きな場所に座っといて。僕、コップ持ってくるから」

 扉の向こうに桜庭の姿が見えなくなると、一癸はベッドの向いに腰を下ろした。

 部屋にはいわゆる勉強机と呼ばれるものはなく、ローテーブルと座椅子が部屋の真ん中にぽつんと置かれている。普段、桜庭はここで勉強をしているのだろう。ローテーブルの真上に照明があり、机に覆いかぶさるようにして勉強をしている様子を想像すると、目が悪くなりそうだと思った。

 部屋の中を見回す。ベッドとローテーブルに座椅子、小さい本棚以外は何も置かれていない。やけに生活感のない殺風景な部屋だと思う。狭い部屋の中に大量に物が詰め込まれた一癸の部屋とは正反対だ。

 ぼうっとしていると、桜庭がコップとペットボトルに入ったお茶を持って部屋に入ってくる。

「お待たせ。お茶でよかった?」

「おー。なんでもいいよ。ありがとう」

 コップの中には氷がいくつか入れられていたが、外気に晒されて既に少し溶け始めている。冷房をつけたとはいえ、部屋の中はまだ暑い。あっという間に溶けて、お茶の味が薄くなるのだろう。

 並々と注がれたお茶に口をつけた。喉を落ちていくお茶の冷たさに、案外喉が渇いていたことに気が付く。一気に半分ほどを飲んでしまうと、すぐに桜庭が追加を注いでくれた。今度は舐めるようにしてお茶を飲みながら、隣で同じようにコップに口をつけている桜庭に視線をやった。

 ごうごうと空気清浄機の音がやけに室内で響いている。

 図書室での無言の時間はなんとも思わないのに、桜庭の部屋という特異なシチュエーションだからか、少しばかりぎこちなさを感じていた。桜庭は普段通りに見えるし、自分の部屋だから、恐らくそれを感じているのは一癸だけだった。

 会話の糸口を探していると、コップから口を離した桜庭がさて、と口を開いた。聞き慣れたはずの声に、ぎくりと体が軋む。

「勉強しよっか」

 床に放り出されたスクールバッグに桜庭の手が伸びる。慌てて一癸もリュックからノートや教科書類を取り出し、ローテーブルの上に広げた。ローテーブルはそこまで大きくないため、邪魔にならないように、ノートだけをテーブルの上に広げ、教科書は膝に置くことにした。

 ローテーブルに齧り付くようにして勉強し始めた桜庭に、少しだけ残念な気分になった。

 普段はホームルームを終えると、図書室で勉強するのが日課になっている。家に帰りたくないと言った一癸を連れ出したのだから、気晴らしに何かゲームでもするのかと勝手に思っていた。今日は勉強ではなく遊びたいと言えばいいのだが、既に集中して勉強している桜庭に声をかけるのは、なんとなく悔しい。声をかけることで、一癸だけが遊びたいと思っていたことを痛感させられるのも嫌だった。

 仕方なく問題集を取り出し、ゆっくりとした速度で解き始める。勉強するモードに体がなっていないからか、なんとなく頭の回転が鈍い。普段ならさして時間のかからない問題にも、やたらと時間がかかって仕方がなかった。

 がりがりとノートに文字を刻むシャーペンの音と、空気清浄機の音だけが部屋の中に満ちている。お互いがいることはわかっているのに、透明になっているようだ。桜庭は一癸がいることをすっかり忘れてしまったように、少しも顔を持ち上げることがない。一癸ばかりが桜庭を気にしていて、小さく舌打ちをする。それでも桜庭の顔が持ち上がることはなく、一癸が一人相撲を取っている状態だった。

 勉強を始めてから一時間が経過しようとしたところだった。すっかり勉強に飽きていた一癸はスマートフォンをいじりながら、時々問題集に視線を落としていた。ローテーブルに張り付くようだった桜庭の上体が持ち上がり、シャーペンをノートの上に放り出した。腕が天井に向かって伸び、強張った筋肉を伸ばしている。

 その様子を見ていると、はたと視線がぶつかる。無機質な瞳が、それまで集中していたことを表している。

「ちょっと疲れたね」

 桜庭の笑顔につられて笑みを溢す。勝手に拗ねて言うもんか、と思っていた感情がむくむくと膨れ上がる。勉強もひと段落ついたようだし、遊びたいと言えば、桜庭も参考書やらをしまってくれるのではないだろうか。何をしたいのかと聞かれると困るが、ただだらだらと会話をするだけだっていい。そうすれば、家に帰った時に伊月がいたとしても、顔に笑顔を貼り付けることができる。

 勉強やめないか、と口にしようとしたところで玄関の扉が開く音がした。

 誰だ、と思い、見えないとわかっていても振り返ってしまう。ああ、と桜庭の面倒臭そうな声が聞こえた。

「美優だ」

 ため息混じりの声が、心底鬱陶しいと訴えている。

 階下から聞こえてくる声は、美優が他の人を伴って帰ってきたことを伝えてくる。美優の声と一緒に、男の声が聞こえた。以前会ったときに一緒にいた彼氏だろうか。

「彼氏と一緒に帰ってきたみたい。ちょっと声かけてくる」

 桜庭が嫌そうな顔をして腰を上げたのを見計らったように、階下から女の泣き声が聞こえた。聞き覚えのある声に、心臓が大きく跳ねた。桜庭も階下の声が聞こえたようで、中途半端に腰を持ち上げた体勢のまま固まっている。強張った顔に浮かぶ表情は、妹に対する軽蔑が浮かんでいる。その間も、美優の甘えたような泣き声は続いていた。言葉にせずとも、階下で何が行われているかは一癸も桜庭もわかっていた。それを指摘していいものか、お互い迷っているのも、空気でわかる。

 美優たちは、部屋まで我慢できずに玄関先でセックスに興じているようだった。がたがたと体が壁や靴箱にぶつかる音と共に、甘えたような泣き声が途切れ途切れに聞こえてくる。盛っている、と頭の冷静な部分が言う。きゅう、と猫の鳴き声にも似た美優の声に、へらりと浮かべるつもりのなかった笑みが顔に滲み出てしまう。気まずさを誤魔化したいと、防衛反応が働いた結果だった。

 一癸の笑みを見た桜庭が、首まで顔を真っ赤にする。空気清浄機の音にかき消されてしまいそうな声で、ごめん、と言った。

 恥ずかしくてたまらないのか、彼の瞳は床をじっと睨みつけている。

 もしも一癸も同じ状況に追いやられたとしたら、同じように床を睨みつけていただろう。セックスしている中に飛び込む勇気はない。家族の性の匂いを嗅ぐ勇気もない。桜庭のように、体が固まって何もできないに決まっている。

 階下からは、泣き声に加えて破裂音が規則的に聞こえてくる。聞き慣れた音だった。

 桜庭と向き合ったまま、美優の喘ぎ声を聞いていると、下半身がむくむくと頭をもたげてくる。まずい、と思ったが、体は心とは裏腹に欲を膨らませていく。制服を押し上げるようになってしまった股間を隠すように片膝を立て、少しでも階下の音が聞こえないように、スマートフォンで音楽を流した。

 たまたま聞いていたバンドの曲が、美優の喘ぎを掻き消してくれる。反応してしまった下半身は、しばらくすれば落ち着くだろう。下半身に燻る熱を誤魔化すように深く息を吐き出す。

 彼女と別れてから、すっかりセックスも自慰もしていなかった。快楽を貪ることが億劫になって、性器をいじるくらいなら眠りたいと思うようになっていた。どうしても体が反応してしまった時だけ、義務的に溜まったものを吐き出すだけだった。最後に吐き出したのはいつだったか、と記憶を辿るが、思い出せないくらい前のようで、それであれば美優の声に反応してしまったのも仕方ないかと自分の中で諦めがついた。あんな馬鹿そうで小汚い女に反応したと言う事実が、一癸には屈辱的だった。

「本当、馬鹿で恥ずかしい妹でごめん」

「桜庭が悪いわけじゃない」

「でも、僕の妹だ。僕の靴があるのはわかってるはずなのに、こんな…」

 続くはずだっただろう言葉は、桜庭の喉の奥で行き場を失ったようだった。恥いるように下唇を噛み、目にはうっすらと涙の幕が張っていた。

 どう言葉をかければ、桜庭の恥ずかしいと言う気持ちを薄れさせることができるだろう。一癸の恥部、伊月の話は、何度も聞かせているし、互いの兄弟の話をするようになってからは、何かあるたびに桜庭に伝えてきた。これといって、真新しい何かはない。

 何かないだろうか。頭の中で、ぎゅるぎゅると記憶を探る音がする。瞼の裏でちかちかと伊月に関する記憶が猛スピードで映し出されているが、やはりそのどれもが既に話した出来事だった。同じ話をしても、一癸が新しく恥部を曝け出したことにはならない。

 身じろぎをした時に、下着の中で下半身が腹に押し潰されて微かに痛んだ。息が詰まってしまい、ぐう、と喉からおかしな音が出た。桜庭の顔が持ち上がる。怪訝そうな顔を見て、思わず口走っていた。

「俺、桜庭の妹の声で勃ったわ」

 鼓膜に声が届いた時、自分でも何を言っているのかと呆れた。意味がわからなすぎるだろう、と。それを言われた桜庭は、どう反応すればいいと思っているのか。口にしてからしまったと思っても遅い、既に桜庭の耳には届いている。現に、桜庭は口を半開きにして珍獣でも見るような目をしていた。一癸が何を言ったのかは理解した上で、こいつは何を言っているんだ、と呆然としているようだった。

 おかしなことを口走った自覚があるからか、それを誤魔化すように言葉が溢れて止まらない。栓が壊れてしまったように、だらだらと言葉がこぼれ落ちる。

「彼女と別れてもう五ヶ月くらい経つんだけど、別れてからろくに抜いてもなかったから変に反応しちゃったみたいだわ。でも桜庭の妹は好みじゃないから、本当に誤作動。誤作動でしかない。あるじゃん、すんごい喉乾いてたら普段は美味しいと思わない飲み物でもめちゃくちゃ美味しく感じること。あんな感じ。だから桜庭の妹が好みとか本当そういうわけじゃなくて、同じこと言ってるな、ええと、だからつまりだな」

 何も考えずに言葉を発していたせいで、自分が何を言っているのかわけがわからなくなってくる。桜庭の恥部を見てしまったから自分の恥部も晒そうと思ったのだが、果たしてそれは一癸の性器が勃起したという話と同じ価値はあったのだろうか。話しておいて何だが、妹のセックスを友人に聞かれることと比べれば、随分生やさしい気がする。

 脇の下がじわりと汗ばむのを感じた。桜庭は変わらず口を開けたまま、感情の読めない瞳で一癸を見ていた。

 どうすればいい。混乱した頭はろくな考えが浮かばず、だらだらとこぼれ落ちていた言葉も勢いを失い、途中で途切れた。まだ太陽が顔を覗かせている時間帯に、階下からは情事の音が聞こえてくる状況に頭がおかしくなりそうだ。自らが望んだわけではないこの状況。流していたバンドの曲が終わり、大して好きでもないが、神林に聞いてほしいと言われて入れたアイドルの曲が流れ始める。恋愛の切なさを歌ったらしいそれが、緊迫感に満ちた部屋に不釣り合いな明るさだった。

 階下の音が止んだ。荒い呼吸音が聞こえ、セックスが終わったらしい。心臓が内側から強く肋骨を叩く。苦しいくらいだった。友人の妹のセックスを聞いてしまうという状況に下半身は反応し切っていて、それを目にした友人である桜庭の気持ちを考えると、気を失った方が楽なんじゃないかと思うくらいだ。

「終わったみたいだね」

 口をぽっかりと開けたままだった桜庭が、眉尻を下げた。そうみたいだな、と返事をする。下半身はまだ、痛いくらいに張り詰めている。

 美優の笑い声が聞こえた後、玄関の開く音がした。二階に上がってくるかと思ったが、そのまま外出するらしい。家には、ただセックスをするためだけに帰ってきたようだった。わざわざそれだけのために、と思ったが、制服ではどこのラブホテルにも入れないからか、と納得した。どうでもいいことを考えるのは、現実から逃げ出したいからだ。

「…ごめん」

 自然と謝罪の言葉が出た。それはおかしなことを口走ってしまったことに対する謝罪でもあったし、美優で勃起してしまったことに対する謝罪でもあった。桜庭がどんな顔をしているのか見るのが恐ろしく、なかなか顔を上げることができない。しばらく俯いたままでいると、ふ、と桜庭が息を吐き出した。

「最低だ」

 発せられた言葉の鋭利さに、体が強張る。最低と言われても仕方がない。セックスをしていたとしても、妹の声を聞いた友人が勃起をしたなんて嫌な気分にしかならない。それが例え仲の悪い兄弟だったとしても、肉親に対して向けられた肉欲は怖気が走るに違いない。

悪かった、と口にしようとする前に、部屋に笑い声が弾けた。え、と思って顔をあげると、顔を真っ赤にして笑い転げる桜庭の姿があった。

最低だと言ったその口で、今は楽しそうに腹を抱えて笑っている。何が起こったかわからず、彼の姿をじっと見ていた。桜庭の笑いが収まるまでに流れていたアイドルの曲が終わった。

笑い終わると、桜庭は大きく息を吐いた。

「や、ごめんね。面白くって」

 何が面白かったのだろうと思っていると、それが顔に浮かんでいたのか、桜庭は言葉を続ける。

「だって最低だろう。友達を家に呼んだら妹がセックスし始めたなんて。もし僕が同じ現場に居合わせたら気まずくって仕方ないし、次の日だって顔合わせるのしんどいなあって思うよ。でも、一癸くんは僕が恥ずかしいだろうからって、わざと自分の話して誤魔化そうとしたでしょ?それがもう、面白くって。僕が最低だって言ったらあからさまに落ち込んだ顔したから、それも面白くて、我慢できなかった。ごめんね」

 言い切ると、桜庭がまた吹き出した。何を思い出して笑っているのかは全くわからなかったが、呟かれた最悪という言葉が一癸に対してではなかったことに安堵した。

「勃起、勃起ってさ、言わなくてもよかったじゃん。彼女と別れたことだって、前に言われたから知ってたし」

 笑いを堪えているらしく、声が僅かに震えている。一癸が悶々と考え込んでいたことは、全て桜庭にとっては笑いの種らしい。勝手に気まずさを感じていたのは一癸だったが、こうも笑われると少しだけ腹が立つ。

「桜庭が気まずかったら嫌だと思ったんだよ」

 思ったよりも不貞腐れたような声が出て、我ながら子供のようだと思った。一癸自身が気がついたことを桜庭が気づかないわけがなく、それも笑いを悪化させる一因になった。笑い出したときはまだ少し抑えているようなそぶりが見られたが、今では大口を開けて大笑いだ。げらげら笑っている。

 何を言っても笑いを誘発させるだけだと気がつき、桜庭の気が済むまで一癸は放っておくことにした。

「はあ、笑った笑った」

「笑い上戸」

 悪口のつもりで言ったが、その直後にあんまり悪口じゃなかったな、と少し後悔する。

「普段はこんなに笑わないって知ってるだろ」

 それには返事をせず、床に広げてあった教科書をリュックにしまった。

「一癸くん、彼女と別れてもう五ヶ月くらい経つんだ」

 突然始まった自身の話に多少驚きはしたものの、以前にも同じようなことを聞かれていたことを思い出す。あの時は、桜庭から向けられる視線に、元彼女から向けられたような欲を感じた。虫が皮膚の上を這いずるような不快感に耐えられず、その問いには答えなかった。結局、一癸が感じたと思った欲は勘違いだったのだから、答えても何の問題もなかった。

「ん。一年終わる少し前に」

 女の話に食いつくことはほとんどない癖に、やけに一癸の話には食いつく。野次馬根性のようなものが働いているのだろうか。元々好きで付き合っていたわけではなかったし、振ったのも一癸からだった。それをそのまま伝えると、へえ、とおざなりな返事だった。

「何で別れたの?」

「これっていう理由はないけど、逆にいえばそれが理由」

 一年の途中から放課後は図書室で過ごすようになっていた。勉強をしている途中に二、三桜庭と言葉を交わす時間の方が、彼女と過ごすよりもよっぽど有意義だと知ってしまったからだった。彼女と過ごす時間の半分はセックスに興じていたし、残りの半分は面白くもない彼女の話に相槌を打つだけだった。

「文学的だ」

「茶化すなよ」

「茶化すだろ。カッコつけたような理由だもん」

 だらだらと他愛もない話をしていると、また玄関の扉が開く音がした。弥生、と少しくたびれたような女の声がする。美優のものではないから、おそらく桜庭の母だろう。桜庭はしまった、と言いたげな顔をしていた。

「母さんだ」

 苦々しげに呟かれた言葉に、以前した会話が耳に蘇ってきた。家族に蔑ろにされていると桜庭が語っていた。蔑ろにされる、その程度がわからないが、碌でもない親なのは確かだろう。洗濯物が悪臭を放っていても平然としているような大人だ。まともな考えを持ち合わせているとは到底思えない。

 弥生、と今度は怒鳴り声がした。階段を感情に任せて踏み締める音がする。階段を登り切ると、荒っぽい足音が扉の前で止まった。

「弥生!あんた誰連れ込んでんの!」

 扉を勢いよく開けた桜庭の母は、かなり若く見えた。まだ三十代半ばだろうか。明るい茶色に染められた髪の毛は胸元まで伸ばされているが、毛先が傷んでいて汚らしい。化粧の施された顔の造形は美しかったが、遠目からでも肌が荒れているのが見えた。生活の荒さが、随所に滲み出ている。この人は確かに洗濯物を放置しそうだ。清潔、という概念が他者とは違う気がする。

 女と目があった。ばち、と音がしそうなくらい、勢いよく。

「お邪魔してます」

 一癸の顔を不躾な視線が這った。年嵩の女から向けられる胡乱な目は、まだ高校生で庇護される対象の一癸には居心地が悪い。気づかれない程度に座りを直す。

「弥生、あんた友達いたのね」

 視線は一癸を見たまま、桜庭を嘲笑う声がした。蔑ろにされている、と言った桜庭の声が頭の中で響いた。なるほど確かに蔑ろにされているようだった。馬鹿にされ、尊重する必要のないものとして扱われている。それを他者の前で恥ずかしげもなく行っているのだから、かなり根深いものだとわかってしまう。正当性がある、と桜庭以外の家族は思っているのだろう。

「…いるよ、友達」

 弱々しい声で、桜庭が反論する。初めて聞く声音だった。犬が腹を出して降参のポーズをとっているような、逆らう気力というものを少しも感じさせない声だ。

「あんた、弥生と話してて楽しいの?変わってんね、こいつ、つまんないだろうに」

 そんなことない、と反論する前に、桜庭の母が荒々しい声でぴしゃりと言う。

「お父さんからそろそろ帰るって連絡来てたから、あんた帰ってくれる?弥生は風呂掃除して。あと一時間もしないで帰ってくるから、さっさとやってよね」

 入ってきた時と同じように、勢いよく扉を閉めて桜庭の母は出て行った。どん、どん、と床を踏み鳴らすのは、感情に任せているわけではなく、デフォルトでそういう歩き方なのかもしれない。賤しい、と頭に浮かんだ。言葉にはしなかった。できるわけがない。

「ごめんね、僕が誘ったのに…嫌な思いばっかりさせちゃったね」

 引き攣った笑みを見せられて、一癸は首を振った。

「桜庭が悪いんじゃない。桜庭は何も悪くないから、謝るな」

 次に顔に浮かんだ感情は、申し訳なさと恥ずかしさといった感情が複雑に絡み合っているようだった。

 お邪魔しました、と桜庭の母がいるリビングに向かって声をかけたが、ついぞ返事が返ってくることはなかった。こんな賤しい人間から桜庭のような聡明で思慮深い人間が生まれたことが何かの間違いでは、と思った。本人に言えば困ったように笑うことがわかっていたから、口にすることはなかった。

 予期できなかったとはいえ、桜庭の恥部を自分ばかりが見てしまったことに罪悪感を抱えながら帰路を辿った。

 結局、自宅に着いたのは普段と変わりない時間だった。友人と遊ぶから帰宅が遅くなるかもしれない、と母に連絡をしていたが、意味がなかった。

 玄関を開けると、視界に入った靴に体が強張った。伊月のスニーカーが、当たり前のように三和土に鎮座している。

このスニーカーは、まだ伊月が両親とも一癸とも仲が良かった頃に誕生日プレゼントとして父が渡したものだった。限定モデルだかで、伊月のお小遣いで買うには値が張るからと本人が我慢していた一品のようだった。手渡された箱が、欲しいが諦めたスニーカーだとわかった伊月の喜びようといったら今でも思い出せるくらいに微笑ましいものだった。許容量を超えた喜びは涙となって頬をしとどに濡らし、幼子のように父に抱きついて感謝の言葉を伝える姿は、ただ見ているだけの一癸の涙腺も刺激した。可愛いという言葉を投げかけるには大きすぎる体躯なのに、その姿は可愛いという言葉がぴったりだった。

 まだこのスニーカー、持ってたのか。家族との仲が悪くなり、家に寄りつくこともほとんど無くなっていたから、きっともう捨ててしまったと思っていた。父に対してあんな仕打ちをしておいて、未だにこのスニーカーを履いているところに、図太さを感じた。物は物でしかないという考えなのだろう。その物に付随した感情や思い出は、気にならないようだ。

 リビングからは、わあわあと騒がしい音がした。母と伊月、二人で話しているにしては、聞こえてくる声が多すぎる。母はそこまでテレビを好まない。時折暇潰しにつけるくらいだ。伊月は何もなくともテレビをつけていたから、きっと伊月がテレビを見ている。

 気が重かった。履いているのにそれを感じさせないくらい軽いからという理由で購入したスニーカーが、今は石のように重たかった。玄関は空気が篭って暑く、本当はすぐにでも冷たい水を飲みたい。しかし、伊月がいるというだけで、どうしようもなく嫌な気分になった。

 リビングからは変わらずテレビの音が聞こえてくる。玄関にいる一癸の耳にも、何を話しているのかなんとなく聞こえるのだから、その音量はかなりのものだろう。

 まだ一癸が帰ってきたことはバレていないのではないだろうか。

 頭の中で声がする。

 母には帰りが遅くなるかも、と事前に連絡を入れてあるのだから、門限ぎりぎりまで外出していれば、伊月と顔を合わせる時間は限りなく少なくて済む。母には申し訳ないと思うが、出て行ってしまおうか。

 ぐるぐると考え込んでいると、がちゃりと鍵の落ちる音がした。悪いことをしているわけではないのに、見られてはいけない、と思った。父が帰ってきた。普段はもう少し遅いことが多いのに、今日はどうしてだか早い帰宅だ。もしかすると、今朝伊月が家にいたことを気にしていたのかもしれない。扉が開く前に急いで靴を脱ぎ捨てた。靴底が天井を向いているが、知ったことかと急いで洗面所へと向かった。

 洗面所に飛び込んだ瞬間、扉を開けて父が家の中に入ってくるのが見えた。さも少し前に帰宅した風を装い、洗面所から顔を出す。廊下に腰を下ろし、背中を丸めているのが見えた。

「おかえり」

「ただいま」

 父もきっと、伊月のスニーカーが三和土にあることに気がついている。一癸に背を向けているから、その表情は確認することができなかった。

 少しでも伊月と顔を合わせる時間を短くしようと、普段よりも丁寧に手を洗う。泡で出てくるハンドソープを丹念に手の甲、指の間に伸ばし、しつこいくらいに手を擦り合わせた。のんびり手を洗っていると、父がやってくる。狭い洗面所に二人でいるのは随分と窮屈で、追い出されるようにしてリビングに向かった。

 思った通り、伊月の姿があった。昨日と同じようにソファに腰を下ろし、げらげらと笑いながらテレビを見ている。ただいま、と台所にいる母に声をかけると、伊月の切長の目が自分に向いたのを感じた。それまで笑っていたのに、一瞬にして無表情になった顔に体が強張った。

 伊月を恐ろしいとも、怖いとも思ったことはこれまでなかったのに、昨日からは、恐ろしいと思う。何を考えているのか、全くわからないのだ。

「た、ただいま」

「おかえりぃ。遅かったね」

「友達の家行ってたから」

「へえ。仲良いんだ」

「まあ」

 人好きのする笑顔を向けられて、吐きそうになった。

 暴言を吐くようになるまでの伊月は、友達が多かった。今でも多いのかもしれないが、友人の話をするような関係性ではなくなってしまったからわからない。

「一癸の友達、どんな奴なん?」

 今までの暴言や暴れっぷりが、一癸の見ていた幻覚かと思うくらい、当たり前のように日常会話を振られて困惑する。今まで一癸がストレスを抱えていた時間は、なんの為にあったのかと思うくらい、伊月はあっけらかんとしている。

 真面目で良い奴だよ、と言うつもりだったのに、口から飛び出したのは全く別の言葉だった。

「お前はどうして、平然としてられるんだ」

 口にした言葉を少し遅れて理解した瞬間、やってしまった、と思った。伊月の顔に張り付いていた笑顔が剥がれ落ち、怒鳴り声がぶつけられることを覚悟して強く目を瞑ったが、怒鳴り声はいつまで経っても聞こえてこない。それどころか、か細い声で

「今までごめん。悪かったと思ってる」

と今にも泣き出しそうに揺れている声がテレビの音に混じって聞こえた。

 言葉を失った。まるで一癸に酷いことをされたとでも言いたげな表情に、それはないだろうと言いたいのに、言葉にならない。被害者面をする伊月が、恐ろしくて気持ちが悪い。

「悪かったで済まされるわけないだろ」

 喉の奥で詰まっていた言葉をどうにか絞り出す。ぜいぜいと息が上がる。

 一癸の言葉に、伊月がくしゃりと顔を歪めた。幼子が泣くのを我慢しているように下唇を突き出し、眉頭を寄せて、涙がこぼれるのを必死で耐えている。じわりじわりと目の表面に涙の膜ができるのが、遠目でもわかった。

 伊月の顔を見ていると、罪悪感で心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられて苦しい。どうして自分が罪悪感を抱かないといけないのかという怒りが湧く。しかし、伊月が今にも涙をこぼそうとしている姿を見ていると、酷いことをしているのは自分かもしれない、という気持ちになる。

 伊月も一癸も黙って、お互いの顔を見ていた。母は台所にいるはずなのに、物音ひとつ立てない。一癸たちに巻き込まれたくないと考えているのか、それとも本当に何も聞こえていないのかは定かではない。

 酸素が吸いにくい。空気が重たい。そして、空気を重たくしたのは自分だという自覚がある。喘ぐように息を吸い込む。何か言わないと、となんの考えもなしに口を開いた時、父がリビングの扉を開けた。

 父の顔は、随分と強張っていた。肩も僅かに上がっていて、緊張しているのが見てとれる。その緊張の原因が伊月だということも、よくわかった。

「…どうしたんだ」

 動揺混じりの声と視線が一癸に向いた。今にも泣き出しそうな顔をした伊月と一癸の顔を何度も見比べ、次はどの行動を取るべきか考えているようだった。

 一癸の味方をしてくれないのか、と子供のようなことを考える。どうして自分の味方をしてくれないのかと考えると、唇が尖るのを感じる。それを誤魔化すために下唇を噛んだが、父に対して不満が募った。

 伊月は父にも母にも迷惑ばかりかけてきた。一癸は反抗期こそあれど、伊月のように感情任せに暴れることも暴言を吐くこともなかった。例え伊月が泣きそうな顔をしているからと言って、今までの行いを考えれば瞬時に一癸の味方をしてくらたっていいのに、と心がささくれ立つ。

 父の問いかけに伊月は黙ったままで、それにも腹が立った。

 今まで罵詈雑言は聞きたくないとこちらが耳を塞いでも構わず叫んでいたのに、聞かれたことに答えないのか。

 ついには俯いてしまった伊月の殊勝な姿に舌打ちが出そうになったが、堪えた。舌打ちをするのは悪手だとわかっている。ここで舌打ちをすれば、きっと一癸が何かをしたと父は思うだろう。

「どうもしてない」

 抑えきれない苛立ちが言葉に乗って、吐き捨てたようになってしまった。しまったと一瞬思ったが、どうせ父は自分の味方をしていないのだから構わない。詳しく話したところで、最初におかしなことを言い出したのは伊月だ。今までの自分の行いがなかったように振る舞い、こちらにもそれを要求するような姿勢が気に食わない。

「どうもしてないわけないだろう」

「どうもしてないって。強いて言えば、伊月が今まで悪かったって謝ったくらいだよ」

 びくりと伊月の肩が揺れた。顔を上げろ。自分で説明しろ、と左巻きの旋毛を睨みつける。どうして一癸が説明をしないといけないんだ。腹の底で怒りが燃え上がるのを感じる。

「伊月、本当なのか」

 父が問いかけると、伊月はゆっくりと頷いた。こちらを伺うように僅かに顔が持ち上がる。父を見るその瞳は媚びを多大に含んでいて、許してくれるだろう、と物語っているように見える。そんなに簡単に許してもらえるわけないだろう。叫び出しそうになるのをグッと堪えた。自分が思っているよりも、ずっと伊月に腹が立っていたことに、今初めて気がついた。

「父さん、ごめんなさい」

 甘えた声だ。聞き覚えがある。何か欲しいものがある時、父や母にねだる時の声だった。何が悪かったのか、ろくに謝ることもせずに、ただ一度ごめんなさいと口にしただけで許してもらおうなどと虫が良すぎる。つくづく人の神経を逆撫でする奴だ。下唇を噛んでいなければ、何度も舌打ちをしていたに違いない。

 一癸の頬に、父の視線がぶつかるのを感じた。一癸が怒っていることを、父も理解しているのだと思う。一癸の怒りがどの程度なのかを把握しようとしているのかもしれない。

 しばらく父はだあったままだったが、大きくため息をついた。ぎし、と床が音を立てる。

「伊月、ちょっと。こっちに来なさい」

 伊月は固まったまま動かずにいたが、再度父に呼ばれると渋々といった様子で父の方に向かった。

「ちょっと外に出てくる」

 そう言い残し、父は伊月を連れてリビングを出て行った。玄関の扉が閉まる音が聞こえると、そろそろと台所から出てくる母の姿が見えた。

「大丈夫だった?」

 自分がいなかった時も、伊月は同じ言葉を母に向けたのだろうか、それとも何も言わず、昨日と同じようにだらけた姿で家に居ただけだったのか。

 ぎこちなく頷いた母の顔は、父と同じように困惑していた。無理もない。ほんの一ヶ月ほど前まで、伊月は荒れにあれていた。家に帰ってきたら暴言を吐き、用事を済ませればさっさと出て行った。いるのかいないのかわからない存在が、突然実態を伴って家にいるようになったのだ。伊月の暴言に何度も傷つけられてきた母にとっては、嵐の発生源が家の中にあるようなものだ。

 自分が母を守らなければ、と強く思う。

「あの子、謝ってた」

 母の声に違和感を感じた。困惑の中に、違う感情が混ざっているように感じた。気のせいだろうか。

「悪かったと思ってるって、言ってた」

 驚いて母の顔を見る。目に、希望が灯っているのが見えた。その希望は、間違いなく伊月の言葉に起因するものだった。

 体がぐんと地面にめり込んだような感覚がした。一癸の周りだけ重力が強くなり、足が床に沈んでいく気がする。ただ立っているだけなのに、体が重くて仕方がない。夏が出た時のように頭ががんがんと痛むのは、体調を崩したからではなかった。母の目がショックだった。

 あんなに伊月に傷つけられてきて、どうしてたった一言、謝罪の言葉が出ただけで、そんなに嬉しそうな顔をしているのか。

 自分は反抗期こそあれど、母に一度だって伊月のような暴言を吐いたことはなかった。せいぜいうるせえ、くらいのものだ。壁を殴るなど、暴力に訴えたことは一度もない。伊月が荒れた分、自分は両親になるべく迷惑をかけないようにしようと思って過ごしてきた日々を窮屈だと思ったことはなかった。しかし、我慢はしていた。言いたいことがあっても、伊月が暴言を吐いた後の両親をさらに疲れさせるようなことを言うのは躊躇われた。今でこそすっかり両親に対する苛立ちというものは収まったものの、伊月が荒れ始めた当時は一癸も我慢に我慢を重ねていた。我慢をしないと、自分までも我儘放題では両親が可哀想だと苛立ちを消化させてきたのに、裏切られた気分だった、我慢を重ねていた日々は、一癸の両親に対する献身は、伊月のたった一言でないものにされた気がした。

 母に寄り添おうと思っていた気持ちが急速に萎んでいく。労りたいという感情が、息を吐くたびに空中に霧散していく。体の中にある感情は無職透明で、その感情を抱えていた人間にしか存在はわからない。母に差し出そうとしていた感情は、一癸が自分の手で潰してしまうことにした。

 一癸が今までどんな気持ちでいたかも知らない癖に、伊月の一言でそんなに嬉しい顔をするなら、もう何をしても無駄じゃないかと思ってしまった。

 母が口を開いた時、がちゃんと玄関の開く音がした。二人が出て行ってから、十分ほどしか経っていない。何を話していたのか気になったが、今は何も聞きたくなかった。父の口が、瞳が、母と同じように希望を見出していたら、耐えられそうになかった。

 ただいま、という声がする。家を出て行った時よりも少し明るい父の声と、同じように明るい伊月の声が重なって聞こえる。その声に、二人がどんな話をしていたか、なんとなく想像ができてしまった。最悪だと思った。声音の明るさから、きっと父は伊月の謝罪を受け入れたに違いない。伊月が荒れている間、一癸がどんな思いをしていたかなんて、父も考えなかったのだ。考えが及ばなかったのか、考えるつもりがなかったのか、どちらでも構わない。一癸の存在が、少しも頭に過らなかったのだろうという事実が胸を締め付けた。

 その晩は、ぎこちなさは残るものの、伊月が荒れる前のように四人で食卓を囲った。伊月が口を開くたびに、覚束ない様子で両親は返事をしていた。久しぶりに怒鳴り散らさない伊月との会話に困惑しているのは見てとれたが、その唇はうっすらと笑みを形作っていた。伊月も、久しぶりの両親とのまともな会話を楽しんでいるように見えた。

 一癸の目の前で繰り広げられるそれらが茶番のように見えて仕方なかった。

 少し前まで、伊月に対してあんなに怯え、呆れ、諦めていたのに。悪い奴が良いことをすると、普通の人と比べて株が上がりやすいと言うが、今まさに目の前でそれを見せつけられている。 

 こんなことなら、我慢せずに我儘を言って困らせてやればよかった。

 そう思っている間も、三人は会話を楽しんでいるようだった。一癸の周りにだけ分厚い透明の幕が貼っている。

 どうして我慢をしていた自分は褒められることなく、良い子でいることが当たり前だと受け止められ、我儘放題で暴言だらけだった伊月が少し態度を改めただけで尊重されるのか、理解ができない。

 僅かに硬さは残るものの、明るい食卓の中に入っていけない一癸は孤独だった。母の作ってくれた食事も、ほとんど胃に入ることはなかった。口に運んでも、一口が鉛を飲み込んだように重たく、すぐに腹一杯になってしまった。

 早々に風呂に入り、自室へと引っ込んだ後も、聞こえるはずはないのに階下から三人の楽しげに笑い合う声が聞こえてくるようで、布団を頭の上まで被った。

 家に居たくないと思ったのは、人生で初めてだった。


 朝食を取る気になれず、朝は飲み物を口に含んでさっさと家を出た。母の声が背中を追いかけてきたが、聞こえなかったふりをして家を飛び出した。今は、母の顔も父の顔も、もちろん伊月の顔も見たくなかった。

 普段より三本早い電車は通勤ラッシュにぶつかっていたようでかなり混雑していた。電車が揺れるたびに誰かの体重がかかり、息苦しい。家にいたら気が滅入ると思って早く出たのに、結局気分はがた落ちだった。

 教室に着くと、さすがにまだ誰も来ていないようだった。部活動に励む生徒たちの声は遠巻きに聞こえるものの、昇降口や廊下はまだ眠っているように物音一つしない。

 自分の席に座り、頬を机に押し付けた。ひんやりとしていて、気持ちがいい。そのままじっとしていると、自分と机の境界が曖昧になるような気がしてくる。冷たかった机が、一癸の体温で温められて、その境目が不明瞭になる。このまま机に頬がくっついてしまえば、家に帰らなくて済むのに。

 目を閉じていると、意識の端がとろりと溶け出すのを感じた。昨晩は早く布団に潜り込んだものの、いろいろと考え事をしていてあまり熟睡できなかった。自分がただ拗ねている、ということはわかっている。子供が駄々を捏ねるように、伊月が我慢しなかったことを自分は我慢を強いられたのに、と怒りの感情が湧いているだけだ。それにさっさと折り合いをつけて仕舞えば楽なのに、どうにもそれができない。頭でわかっていても、心が追いつかない。このまま眠ってしまおうか。そう考えていると、がらりと扉を開く音がした。

 重たい瞼をこじ開け、音のした方を見ると、桜庭が立っていた。

「あれ、今日は早いね」

「んー、ちょっとな」

 時計を見ると、まだ八時にもなっていない。一癸に早いと言ったが、桜庭だって早い。始業までは、まだ三十分以上ある。

「桜庭こそ早いな。毎日このくらいに来てんの?」

 桜庭はスクールバッグを机に引っ掛け、慣れた手つきで参考書やらを取り出している。以前見た時と同じように、勉強するつもりらしい。

「うん。家はほら、美優がうるさいからさ」

 苦笑混じりの声に、なんとなく事情を察した。大方、あの化粧の濃い妹が洗面所を占領していて準備ができないから早めに家を出ているとか、そんな理由だろう。可哀想に、と哀れみの感情を抱いてすぐ、自分も同じようなものかと少し笑った。桜庭が美優を避けているように、一癸も伊月を避けている。

「一癸くんは、どうしてこんな早くに来たの?」

 飛んできた質問に、自分にも火の粉が降りかかった、と頭の中で声がした。

 適当な嘘をついてその場を誤魔化すことも考えたが、すぐに思い直した。桜庭には、伊月が家に帰って来ていたことを既に話してある。はっきりと口にはしていないし、そんな素振りは少しも見せていないが、伊月に関係しているとわかって聞いてきている気もする。この質問自体が、一癸が愚痴を溢しやすくするための誘い水のような。

 誤魔化したって、どうせすぐに愚痴を溢したくなるに決まっている。家に居たくなくて早く登校したのも、両親には思っていることの欠片も晒すことができないと思ったからなのだから。

「朝から愚痴、言ってもいい?」

 断られることはないとわかっていたが、一応、確認をとった。桜庭は小さく噴き出すと、いいよ、と頷いた。

 一度愚痴を溢せば、体の中に溜まっていた不満が噴出する。意識せずとも舌が激しく蠢き、伊月に対する不満だけでなく、両親に対する不信感や、今までの一癸の我慢などが勢いよく溢れ出す。それを黙ったまま桜庭は聞いていて、時々相槌を打った。その相槌もそうだね、うん、といったもので、一癸の言葉を邪魔するものではなかった。これが酷いね、といったように同調するものなら、一癸の言葉はつんのめって、喉の奥でぐるぐると澱のようになっていたかもしれない。桜庭の相槌は、ただ次の言葉を促すためのものだった。

 一癸の口が止まったのは、二十分ほどしてからだった。怒りに任せて口を動かしていた時には気が付かなかったが、体の中に溜まっていた黒いものを吐き出し切って仕舞えば、ほとんど同じことを繰り返し口にしていただけだった。

 愚痴を溢している間は意識が外に向いておらず気にならなかったが、既に数人のクラスメイトが登校していた。愚痴を聞かれていたと思うと気まずかったが、クラスメイトたちは一癸に興味がなさそうで各々好きなことをして過ごしている。もし聞き耳を立てられていたとしても、まあいいか、と思えた。

「スッキリした?」

「かなり。昨日から我慢しっぱなしだったから、吐き出させてもらえてよかった。ありがとう」

「どういたしまして」

 スマートフォンが、スラックスのポケットの中で振動したのを感じた。なんとなく伊月からのメッセージのような気がして、そのままにした。

 伊月がいくら今までの行動を謝罪したとしても、両親のようにすぐにそれを受け入れて許せるほど一癸の心は広くなかった。このまま伊月が暴言を吐くことも暴れることもなければ、いつかは許せる日が来るとは思うが、それは今ではなかった。今はまだ気持ちの整理がつかない。

 放課後、ホームルームが終わるとすぐに図書室に向かうのが日常になっていたが、なんとなく気乗りしない。かと言って家に帰るのも嫌で、椅子に座ったままどうしようかと考えていた。

「あれ、図書室行かないの?」

 既に図書室に向かう準備を終えた桜庭が、首を傾げて一癸を見る。それに唸り声で返事をしつつ、何かがしたいわけではなく、何もしたくないと思った。何かをすれば、それをしている時は頭の中がそれで一杯になるけれど、それを止めた瞬間に伊月のことで頭が一杯になりそうだった。

 一癸のことを待っている桜庭に

「今日はパス」

と声をかけた。朝、伊月への愚痴をこれでもかと語っていたからか、わかったと一言あっただけだった。

 椅子に座ったまま、本当に何もしないでいた。一人また一人といなくなる教室の中で、スマートフォンを見るでもなく、机の表面にある傷を見つめていた。

 伊月に会いたくないなあ、と思う。突然暴言を吐くようになったと思ったら、突然元の伊月に戻ろうなんて、都合が良すぎる。自分の感情が優先で、周りのことを少しも考えていない。自分が傷つけてきた家族たちが当たり前のように笑顔で受け入れてくれると思えるのは何故だろう。

 はたと気がついた。

 伊月は、自分への愛情が枯渇することはないと思っている。

 馬鹿馬鹿しい考えだと思ったが、それしかない。だからこそ、あんな風に当たり前のような顔で家に帰ってこられる。伊月が暴言を吐くようになったあの日の前に戻ったように振る舞える。

 吐き出しきったと思った澱が、まだ胸の辺りにへばりついているようだった。細く長く息を吐き出した。

 考えたところで、これはあくまで仮説でしかない。人の気持ちはわからない。伊月が何を考えて動いているかなんて、伊月本人にしかわからないのだ。

 机に上体を預けた。あまり眠れなかったせいか、今になって睡魔がやってくる。とろりと意識が蕩け始めて、それに抗うことなく身を任せる。最終下校のチャイムで目を覚ませば何も問題はない。家に帰っても気が休まらないだろうから、眠ってしまおう。

 よく晴れた空から落ちてくる太陽光は暑いくらいだったが、それが心地よかった。


 背中の痛みで目が覚めた。机に突っ伏すようにして寝ていたからか、肩甲骨の辺りが痛い。寝ている間に痛めたらしい。窓の外はまだ明るい。夏の空気が濃くなって、日の落ちる時間がかなり遅くなっていた。

上体を持ち上げると、机の上にペットボトルの紅茶が置いてあった。一癸が好んで飲んでいるものだ。誰かの忘れ物か、と首を傾げていると、教室の扉がゆっくりと開いた。

「あ、起きたんだね。おはよう」

 教室に入って来たのは桜庭だった。トイレにでも行っていたのか、ハンカチを手に持っている。

「はよ。これ、誰かの忘れ物?」

 ペットボトルを指差しながら言うと、桜庭が左右に首を振った。

「違うよ。それは僕からの御見舞いみたいなもん」

「御見舞い?」

「そう。御見舞い。伊月くんのこと、かなり気にしてるみたいだったから。いつもなら図書室に行くのに行かないのも、気持ちの整理したかったからじゃないの?」

 言い当てられて、目を逸らした。もしかしたら、自分は感情が顔や態度に出やすいのかもしれない。

 勝手に気まずさを感じていると、目の前の席に腰を下ろした桜庭がハンカチをいじり始めた。端のところが少しほつれて糸が飛び出している。

「話聞いてると、一癸くんの両親は一癸くんを大切にしてるんだなと思ったから、余計に腹が立ったんでしょ。突然自分を蔑ろにされたような気がして。うちはほら、僕は両親にはぞんざいに扱われてるから気にならないけど、そうじゃないなら、きっとすごく嫌だと思う」

 この言葉もきっと、紅茶と同じく御見舞いのつもりなのだろう。大丈夫だよ、というような無神経で神経を逆撫でにするような言葉ではないところが、桜庭らしいと思う。

「ん。紅茶、ありがとう」

 ペットボトルを揺らすと、中身がちゃぷんと跳ねた。

 どういたしましてと笑った顔が少し寂しそうに見えたのは、自分の両親からの扱いを思い出してなのかと思うと、胸が火傷をした時のようにじくじくと痛んだ。

 自分ばかりが桜庭を頼ってしまっている気がする。桜庭も、もっと一癸にやりきれなさを吐き出せばいいのに、と思った。

「しんどいこと、いっぱいあるけど、腐らずにやってこうよ」

 桜庭の言葉は、一癸に向けられたものだったが、自分自身に向けた言葉でもあった。言い聞かせるようにゆっくりと吐き出された言葉に頷いて、紅茶を一口飲み込んだ。


 ただいま、と声をかけると、そのタイミングでリビングから母の笑い声が聞こえた。三和土には、最近よく見るようになった伊月のスニーカーが置いてある。

 手洗いを済ませ、部屋着に着替えてからリビングに向かうと、母と伊月が談笑していた。

 数日前まで伊月に対して怯えた表情を浮かべていた母は、それまでが嘘だったように弾けんばかりの笑顔を浮かべていた。目尻にシワを寄せて顔中で笑う母の姿に、心臓が大袈裟に跳ねる。胸の奥、普段は意識したってわからない心臓の場所がありありとわかるくらいに強く収縮し、思わず胸を抑えた。心臓が痛い。

「あ、おかえり」

 振り返った伊月の目が細くなる。

 伊月は、暴言を吐くようになるまでは人懐っこい性格をしていた。一癸も、後をついてくる伊月を可愛いと思っていたし、時々我儘を言って困らせてはいたが、自分の感情に素直な様を、両親も好ましく思っていたように感じていた。

 今、目の前にいる伊月は、すっかり昔の伊月に戻っているようだった。

 中身をごっそりと入れ替えたように、少し前までの伊月はどこかに消えてしまった。

「ただいま」

 一癸が返事を返す前に、伊月が母に向き直る。母はちらと一癸に視線を向けたが、すぐに伊月に視線を戻した。そうして一癸を見ないまま、おかえり、とおざなりに口にした。

 一瞬で身体中の血液が沸騰するような、激しい怒りが湧いた。

  入ったばかりのリビングを飛び出し、風呂場に飛び込んだ。まだ湯は張られていなかったが、服を脱いでシャワーを浴びる。乱暴に頭と体を洗い、さっさと浴室から出ると体を拭くのもそこそこに自室へと戻った。リビングの前を通り過ぎた時、母と伊月の楽しげな笑い声は続いていた。

 シャワーを浴びたことで、ほんの少しだけ落ち着いていた怒りが再燃する。自室に入るなり、枕を殴りつけた。拳が痛くならないのをいいことに、何度も何度も殴りつける。枕の形が変形しても、構わず殴り続けた。そうでもしないと、怒りが喉から飛び出しそうだった。

 伊月にもイライラするが、それ以上に母に苛立ちを感じていた。

 なんだよ、伊月が怖いと言っていた癖に。伊月がちょっと謝って、それで済むのかよ。

 殴っても殴っても、怒りは収まらない。それどころか、殴れば殴るだけ、自分の怒りを意識して燃え上がるようだ。

 わかっている。一癸が伊月を許せなかったとしても、母と父が伊月を許すなら、それに従うしかない。両親にとって、伊月は子供なのだ。愛想を尽かしたとしても、謝られれば一時の過ちだったと水に流せてしまうものなのだろう。ただ、一癸がそれに納得できないだけなのだ。

 髪の毛を掻き毟ると、ぶちぶちと毛根から数本が抜けた。痛みに顔を顰めたが、その痛みで少し頭が冷静になった。

 枕を殴るのを止め、変形してしまったそれの形をどうにか整えるために揉んだ。歪ではあったが、ほとんど元の形に戻って安堵していると、階下から母の声がした。

「一癸、ご飯よ」

 降りたくない、と思ったが、腹は減っている。生憎小腹を満たせるようなものは部屋にはないし、ここで降りずに夕飯を取らないのも、伊月への当てつけのように思われるのも嫌だった。仕方なく腰を上げ、リビングへと向かった。

 食卓には既に伊月も母もついていて、扉を開けた一癸に二人の視線が突き刺さった。

 三人での食卓は、おかしくなるほどの賑やかで、昨日と同じように一癸の居場所だけがなかった。

 母と伊月がにこにこと笑い合い、一癸の存在は空気のようだった。早く空腹を満たして自室に戻りたい一心で、食事を口に詰め込んでいた。

「ね、一癸もそう思うでしょ?」

 それまで一癸に視線一つ向けなかった癖に、突然伊月が一癸に話を降ってきた。もちろん、一癸はなんの話かわからない。素直に

「聞いていなかった」

と答えると、子供のように頬を膨らませて拗ねていることを伊月がアピールする。

「ちゃんと聞いててよ、もう」

 その言葉に、押さえつけていた怒りが爆発した。

「お前、すごい図太いよな」

 伊月の顔が強張った。それまで笑っていた母の顔も、同じように強張った。幸せな家族、を演じていたのに、ダメ出しを喰らった顔をしている。

 もう、どうでもいい。自分ばかりが言いたいことを我慢して、好き勝手やってきた伊月が自分の思い通りに過ごしていることが、我慢ならない。

「どうしてお前のことを、家族全員が受け入れてると思った?あんなに暴言吐いて、暴れてたのに。母さんに酷いこと言ったの忘れたのかよ。父さんの宝物燃やしたの忘れたのかよ。お前はいいよなあ、ちょっとごめんなさいって謝って勝手にスッキリしてこっちの感情は無視ではい元通りとでも思ってんだろ、なあ。お前馬鹿だもんな、人の感情とか考えたことないんだろ、なあ?考えられるんだったらそもそも暴言も吐かないし暴れることもしないもんな。お前はいつまで経っても馬鹿でどうしようもない子供だよ。どうせ反省したって言っても今だけだろうが、なんとなくもうしないって気持ちになってるだけで、どうせ父さんか母さんに怒られでもしたらまた暴れるんだろ?一回やる奴はまた同じことするんだよ。そうに決まってる。お前の我儘に、俺たち家族がどんだけ迷惑してきたと思ってんだよ、クソが」

 一度吐き出した言葉は止まらない。澱が無くなるまで溢れ出す。伊月の顔が悲しげに歪むのが見えても止まらなかった。

 言葉が止まった時、すっかりとした気分だった。言ってやった、と思ったし、うじうじと悩んでいたのが馬鹿らしく思った。伊月が気に食わないなら、こうしてはっきり言えばよかったと過去の自分を愚かしく思った。

 もっとよく考えろよ、と伊月に言ってやろうと口を開いたところで、母の硬い声がした。

「一癸、伊月に謝りなさい」

 停電でもしたのかと思うくらい、一気に目の前が真っ暗になった。どうしてと問いかける間も無く、母が怒りを露わにする。

「人間誰だって間違えることはある。伊月は確かに間違えたけど、自分でそれに気が付いたんだから、それを責めるのは違うでしょう。謝りなさい」

 怒りに満ちた瞳に射抜かれて、動けなくなった。自分は正しいことを言っているはずなのにと納得ができなかったが、反論しようにも母が恐ろしかった。普段は穏やかな母から向けられる怒りの熱に、それまで抱いていた怒りの勢いが収まっていく。

 黙り込んでいると、母が大きくため息をついた。呆れたように眉間を揉み、

「もういい。さっさと部屋に行きなさい」

と吐き捨てるように言った。

 食事はまだ少し残っていたが、反論することなく自室へと向かった。

 母から一癸が悪いと直接言われたことが、自分でも驚くぐらいショックだった。

 次の日から、母の顔を見るのが怖くなった。

 朝はどうしても母と顔を合わせてしまうが、なるべく目が合わないように下を向いて過ごした。用意された朝食を食べ、弁当を持ち、足早に家を出る。息苦しい。伊月は好きに生きてきたのに、自分を律して生きてきた一癸が息苦しさを感じている。たった一度、伊月に暴言を吐いただけなのに。

 今朝、母から向けられた視線を思い出す。あれは間違いなく悍ましいものを目にした時のそれだった。虫が嫌いな母が、台所でゴキブリを見つけた時に向ける視線だ。そんなに自分は酷いことをしただろうか。あんな目を向けられないといけないくらい。

 奥歯を強く噛み締める。顎がぎちぎちと音を立てるくらい、痛みを感じるほど強く。そうでもしていないと、泣き出してしまいそうだった。

 母から向けられた視線が恐ろしく、もう一度向けられれば恥も外聞も無く泣きじゃくってしまう確信があった。朝は視線を下げて目が合わないように過ごし、夜はなるべく遅くに帰宅するようにした。今までは、遅くなるとすぐに母から何処にいるのか、何時に帰ってくるのかと連絡があったものだが、それも来なくなった。伊月に謝るまでは、一癸のことなどどうでもいいと言うことなのだろう。随分と冷たいと思う。伊月の時は何度だって伊月と関わろうとしていた癖に、一癸はたった一度、誤っただけでこの仕打ちかと思う。そう思うと、家に帰る足は遠のき、帰宅が二十二時を過ぎるようになった。

 まだ両親は起きている時間だったが、寝室に篭っていることがほとんどだったから、手早く食事をと風呂を済ませれば顔を合わせることもなかった。

「最近クマすごいね。ちゃんと眠れてる?」

 桜庭が自身の目の下を指で指しながら指摘してきたのは、伊月に暴言を吐いてからしばらく経ってからだった。帰宅はいつも二十二時過ぎで、諸々を済ませてベッドに入るのは二十四時、起床は六時。睡眠時間自体は、少し少ないが取れていないわけではない。ただ、眠りが浅かった。少しの物音で目が覚めてしまうし、一度目が覚めるとなかなか寝付けない。話し声が聞こえると、自分を悪く言っているんじゃないかと胸が苦しくなる。家では誰と会話をすることもなく、空気のように扱われている。その生活が、精神的に一癸を追い詰めているのは火を見るよりも明らかだった。

「まあ、そこそこ」

 言葉を濁した。桜庭には今まで伊月という恥部を曝け出してきたが、母と気まずくなったことは伝えていなかった。伝えることが恥ずかしかった。以前愚痴を溢した時、桜庭から言われた言葉が、一癸の口を固くしていた。

 自分は大切にされていると思っていたが、そんなことはなかった、両親にとっては、伊月の方が大切なんじゃないかとすら思う。馬鹿な子ほど可愛いという言葉があるように、大して我儘も言わずに過ごしてきた一癸は、少し本心を出しただけで鬱陶しがられてしまった。

 桜庭はもの言いたげに一癸を見ていたが、

「まあ、話したいことあれば聞くからさ」

と言って、それ以上追求してくることはなかった。

 神林には、伊月の話はできない。他のクラスメイトも同様だ。となると、自然と桜庭と過ごす時間が多くなるのは必然だった。伊月のことで愚痴を溢すわけではなかったが、一癸が黙り込んでいても何か聞いてくることはなく、好きなことをして過ごしているのが楽だった。家にいる時間は苦しいものだったが、精神的にキツくとも、なんとかやっていけているのは、桜庭のお陰だった。

 家に帰る時間が遅くなってからは、桜庭を家に送り届けてから帰るようになっていた。一緒にいたいという感情ももちろんあったが、それ以上に一人で辺りをぶらつくのにも飽きていたし、ひとりぼっちは寂しかった。家に帰っても家族と会話をすることはなく、孤独感が強い。少しでも誰かといたかった。その誰かは、孤独感が薄れてくれさえすれば、正直誰でもよかった。神林は彼の底抜けの明るさに逆に心が腐ってしまいそうだったし、それ以外の友人も、神林と同様に明るい性格をした者が多く、気乗りしなかった。その点、暗いわけではないが明るいというわけでもない桜庭は都合がよかった。家に急いで帰りたい理由もなく、一癸たち以外に親しい友人があまりいない。誰かが一癸と桜庭との間に入ってくる可能性も少なく、ただ時間を経過させるためにちょうどいい相手だった。

 そろそろ桜庭の家に着いてしまう。桜庭を家まで送り届けたら、今日はどこに行こうかと考える。

 両親からは、帰宅が遅くなってしばらく経つが、何も言われない。会話をしていないのだから、当たり前だ。何か一言、怒ってくれるだけでも自分の存在が空気として扱われていないと安心できるのに、一癸にとって声をかけないことが罰になるとわかっているのか、全く声をかけようとしない。それは両親だけでなく、伊月もだ。一癸を見ることさえしない。一癸は伊月が両親に空気のように扱われていた時だって、可哀想に思い話してやっていたのに。薄情なやつだ。

「今日は早く帰ったら?ちゃんと寝た方がいいよ」

 桜庭の家が遠くに見えて、鳴りを潜めていた孤独感が顔を出す。嫌だな、と思う。また一人になってしまう。

「考えとく」

「もう。いつか倒れちゃうよ」

 心配したような声に、それでもいい、と思った。もしも一癸が倒れれば、流石に母も父も、一癸を空気のように扱わないだろう。そもそもたった一度、伊月に暴言を吐いただけで無視されている現状が納得いかない。自分ばかり理不尽だ。謝れば済むことだとわかっていても、素直に謝りたくない。どうして自分ばかりという感情が先行する。

「わかってるよ。ちゃんと帰るから」

「本当かなあ」

「本当だって」

 家が近づいてくると、玄関の前に見慣れた姿があった。明るい頭髪が、記憶に残っている。美優が玄関先で、スマートフォンを弄っていた。うわ、と隣で桜庭が嫌そうな声を上げる。毎日のように嫌味や小言を言われると愚痴を溢していたから、なるべく顔を合わせたくないのだろう。それでも家に帰るためには美優を退かすしかない。

「ここまででいいよ」

 少し離れたところで別れを告げられたが、美優が何かを言ってきたら言い返してやろうと聞こえないふりをして足を早めた。ちょっと、と声がかけられるが、構わずに進む。美優の目の前まで来ると、一癸たちの存在に気がついたらしい美優がスマートフォンから視線を上げた。

「ただいま」

 嫌そうに桜庭が言うが、美優はじろじろと一癸を見るばかりで返事をしない。角度を変えてぶつけられる不躾な視線に口を開きかけた時、美優が一癸を指差して言った。

「あんた、弥生の好きな相手じゃん!なんか見覚えあると思ったんだあ!まだ一回しか会ったことなかったのに、覚えてたあたしって天才!」

「美優!」

 悲鳴をあげて、桜庭が美優に飛びかかる。髪の毛を鷲掴みにされた美優がぎゃっと短く悲鳴を上げたが、桜庭はやめろ、と叫んで手を離そうとしない。一癸はそれどころではなかった。弥生の好きな相手、と美優は言った。その好きな相手は、間違いなく一癸のことだ。そう、美優が言っていた。好きな相手とは、どういうことだ。友人として、だろうか。

「何だって本当のことじゃん。こいつの写真見ながら扱いてたの、見たもん!」

「美優!」

「うるさぁい。本当のこと言われて怒ってやんの」

 耳を両手で覆い、眉間にシワを寄せた美優と一癸の視線がぶつかった。アイラインで強調された瞳が、おもちゃを見つけたように歪む。極めて透明度の高い純粋な悪意を、その時初めて目にした。どくん、と心臓が激しく跳ねた。美優から離れた桜庭が一癸の腕を掴み何かを頻りに訴えているが、その声は届かない。

「一癸って、あんたのことでしょ?弥生、あんたのことおかずにしてたよ。一癸くん一癸くぅんって」

 その場面を想像してしまって、眩暈がした。自分の写真を見ながら必死に性器を擦る桜庭の姿が、鮮明な映像となって頭の中で再生される。気持ち悪い、と思った瞬間、勢いよく嘔吐した。胃の中には何も残っておらず、コンクリートの上に落ちた胃液がばしゃばしゃと音を立てる。噴水のように溢れた胃液は、一癸の制服の襟元を汚した。喉が胃酸で焼かれ、口の中が酷い味だ。胃液が夏の空気に熱せられて、辺りに鼻につく刺激臭を撒き散らす。

 げほ、と咳き込む。楽しそうに一癸を見る美優と、一癸の腕を引っ張り違うんだ、と泣きながら言う桜庭。美優が信用できる人物だとは欠片も思わないが、多分、嘘は言っていない。そんな嘘を美優がつく必要はないし、何より一癸の名前を知っていることが、真実味を増していた。一癸は美優に名乗っていない。桜庭が美優に一癸の話をしたとも思えない。それに、と桜庭に視線を向ける。真っ青な顔で泣いている桜庭の姿は、嘘を言われた人間の姿ではなかった。嘘なら笑い飛ばすか、怒るかする。桜庭はそういう奴だ。面識がないのに、視聴覚室でセックスしていた一癸に注意ができる程度には気が強いし、はっきり物を言う。以前美優と会った時は顔を青くしていたことが頭を過ったが、愚痴を聞いている限り、美優には強く反論している。親の見ていないところでは舌戦を繰り広げていると何度も聞かされた。

 それが今はこんなに青い顔をして、一癸の腕に縋り付いている。ダメだ、と思った。美優の言葉を信じるだけのものが、そこかしこに散らばっている。

「一癸くん」

 ぞわりと背中が粟立つのを感じた。芋虫が背骨を辿っているように、首の辺りから全身に怖気が一瞬にして拡がる。桜庭の目尻から一粒、涙が落ちた瞬間、腕が勝手に動いていた。

 縋り付いていた桜庭の腕を振り解き、反対の腕で触れていた場所を強く擦った。擦っている場所が熱を持っても、肌に欲がこびり付いているように感じて気色悪かった。

「一癸くん!」

 癇癪をおこした子供の叫び声のようだった。桜庭の声は悲痛に満ちていて、普段なら可哀想にと哀れみを誘うそれも、今は嫌悪の対象だった。

 滂沱の涙を流す姿に何かを言ってやりたい気持ちと、一刻もここから離れたい気持ちとが鬩ぎ合う。美優がけたけたと笑い声を上げた。

「一癸くん、だって。気持ち悪ぅい」

 その言葉に、弾かれたように走り出した。来た道を全力で駆け抜ける。桜庭の泣き声が角を曲がるまで背中を追いかけてきた。走れ、走れ。胃液が込み上げてきて、喉を焼いている。吐き出したい、でも、止まりたくない。少しでも桜庭から遠ざかりたかった。

 頭の中に、少し前に感じていた違和感が再度蘇る。あの時、欲を孕んだ視線を向けられたと思ったのは間違いではなかった。本能的に、理解していたのだ。これは自分に対して肉欲を抱いているのだと。

 心臓が破裂しそうなくらい激しく脈打って苦しい。止まりたい。でも、止まれば後ろから桜庭が追いかけてくるような気がして、足を止められなかった。

 家に着いた時、まだ十九時前でリビングからは母と伊月の声が聞こえていた。こんなに早く帰ってくるのは久しぶりだと思いながら扉を開け、リビングに向かって声をかける。聞こえているはずなのに、一瞬静寂が訪れた後、何事もなかったように再開される会話が一癸の存在をないものにしていた。


 机に突っ伏していると、旋毛を指先で突かれた。

「おはよう。具合悪いんか?」

 頭上から降ってきた声に顔を上げる。本格的な夏になったことで、神林からは制汗剤の匂いが強く香るようになった。人工的な石鹸の香りが鼻にこびりつく。運動部が全員汗の匂いを誤魔化すために制汗剤をつけているから、朝のホームルーム前の教室は色々な匂いがする。

「いや、そういうわけじゃない」

「そうなん?そしたら、桜庭と喧嘩でもした?」

 神林の口から出てきた桜庭の名前に、思わず体がびくついた。昨日、家に帰ってから桜庭から弁解するような連絡は一つもなかった。今朝も、一癸が登校したことはわかっているだろうに、いつものように一心不乱に参考書を睨みつけていた。これに関しては、一癸と顔を合わせたくなかったからかもしれない。

「しとらん、何も」

「でも、普段朝喋ってるのに、今日は二人とも知らん顔してるから」

「たまたま!たまたまだから」

 探られたくない一心だった。まだ、誰にも話したくない。同性から欲を抱かれているということを、友人に知られたくなかった。一癸が恥ずかしい訳ではないのに、桜庭の手形が自分にくっきり残されているような気がしていた。

 神林は怪訝そうな顔をしていたが、一癸が顔に無理矢理作った笑顔を貼り付けると首を傾げながら自分の席へと戻っていった。ほっと安堵の息を吐いた時、じっとりと重たい視線が頬に突き刺さっているのを感じた。その視線の主は桜庭だった。一癸と視線がぶつかった瞬間、パッと顔を俯かせてしまう。ぞわ、と鳥肌が一気に立つ。頬を拳で擦る。どろどろとした欲が頬にこびりついて、自分が汚されている、と思った。

 休み時間は机に突っ伏して時間を潰すことができたが、昼食はそうもいかない。一癸と神林、桜庭の三人で机を囲むことが多かったから、今更別のところに混ぜてもらおうにも既にグループは出来上がってしまっている。自分の机に弁当を広げ、箸を握ると神林が桜庭を引っ張って来る。

「ちょっと、神林本当にやめて、僕一人で食べるから」

「まあそう言わず」

 腕を解こうとする桜庭を無理矢理席に座らせ、神林もその隣に椅子を持ってきて腰掛ける。桜庭は顔を俯かせたままで、弁当にも手をつけようとしない。俯いた耳が僅かに赤らんでいるのが見えて、胃が痙攣した。喉元に迫り上がってきた胃液を飲み下す。昨日も思ったが、酷い味をしている。

「で?二人はどうしてそんな気まずそうな顔してんのよ」

 大きく口を開け、白米を放り込みながら神林が言った。今朝、誤魔化されてくれた訳ではなかったらしい。何も考えていないような顔をしている癖に、変なところで冊子のいい奴だと毒づいた。

「お前には関係ない」

「友達が二人ともしんどそうな顔してるのに関係ないはちょっとひどくない?」

「俺と桜庭の問題だから」

「そうかもしんないけど、二人が気まずそうだから俺がお節介を焼いてやろうと思ってるんだけど?」

「余計なお世話」

 一癸が吐き捨てると、慌てたように桜庭が神林に向かって声をかける。

「神林、気持ちは有難いけど、放っておいてくれないかな。あの、何があったかはちょっと、言えないんだけど、僕が悪いから。一癸くんを責めるような物言いはやめてあげて」

 ちらちらと盗み見るように向けられる視線が鬱陶しい。一度視線に欲が孕んでいると気がついて仕舞えば、そのどれもが肌に嫌な熱を与えてくる。

「桜庭はこう言ってるけど、一癸はそれでいいの?」

 笑い声混じりの声に、何も知らない癖に、と頭に血が昇った。

「お前は何も知らねぇ癖に!」

 突然の大声に、教室内は一瞬にして静寂に包まれる。肩で息をして、荒ぶった感情をどうにか落ち着かせようとする。最近、全てが上手くいかない。伊月が帰ってきてから、全てが。両親からは存在をないもののように扱われ、心をさらけ出せる友人だと思っていた桜庭は自分に対して恋愛感情を抱いていた。短期間で家族も友人も失ったようなものだ。桜庭は顔を真っ青にしているが、神林は凪いだ表情で一癸を見ていた。

「何も知らんよ。だけど、どうにか二人が仲直りしたらいいなって思って、行動してる」

「それがお節介だって言ってんだろうが!」

 大声を出しているせいで、喉が焼けるように痛む。教室内の視線が全て自分に突き刺さっている。こんな風に怒りを露わにするのは恥ずかしいことだとわかっているのに止められなかった。

「落ち着きなよ、一癸らしくない」

 自分らしくないことなど、神林に言われずとも一癸本人が一番よくわかっていた。普段の自分はどちらかと言えば冷静であまり感情を出すことはなくて、声を荒げることなどほとんどない。伊月に対して怒りをぶつけた時くらいのものだ。こんなにも感情が乱されているのは、桜庭のせいだった。

 おろおろと神林と一癸の間で視線を彷徨わせている桜庭の姿に、お目の清田という感情が膨れ上がる。全て、こいつのせいだ。

「こいつが!俺のこと好きだなんて言うから!」

 勢いよく桜庭を指差すと、ひ、と小さく悲鳴が聞こえた。桜庭のものだったか、この騒動を見ているクラスメイトのものかはわからない。しかし確かに悲鳴は一癸の耳に届いた。その悲鳴は、嫌悪と不理解で構成されていた。

「…はぁ?」

 神林の眉間にシワが寄ったのを見て、怒りが急速に冷えていく。ここで言わなくていいことを言ってしまったと気がついた。桜庭を見ると、昨日と同じように顔を真っ青にさせ、小さく唇が震えている。桜庭の気持ちを、自分が怒りで冷静さを欠いた原因だと押し付けるのは卑怯だった。

「あ、桜庭」

 ごめん、と続けるはずだった言葉は口から発せられることはなく、胃の中に落ちていった。

「桜庭!」

 がたん、と椅子が床に叩きつけられる。弾かれるように立ち上がった桜庭は、スクールバッグを引ったくるようにして持つと、教室を飛び出した。廊下を走り抜け、あっという間に足音が聞こえなくなる。

 教室内にいる全員が呆気に取られていた。何が起こったのか理解が追いつかず、教室内には突如静寂が訪れた。その静寂を破ったのは、野球部に所属している柄木だった。

「え、桜庭ってホモなん?」

 嘲笑混じりのそれに、教室内からはくすくすと笑い声が起こった。その原因を作ったのは一癸だったが、だんだんと大きくなるそれに嫌悪を感じる。一癸と桜庭の間に何があったかも知らず、ただ笑いものにするなと思った。

「やめろよ、そんな風に言うの」

 神林が低い声で言った。感情を押し殺したような声に、下品な笑い声を上げていた柄木の声が止まる。柄木に触発されて笑い声を上げていた数人も、神林の声に気まずそうに口を閉じた。

「俺、桜庭探してくる」

「あ、俺も一緒に探す」

 慌てて一癸が立ち上がったが、神林は振り返らずに首を振った。

「お前は来るな」

「どうしてだよ。俺が原因なんだから、俺が探しに行かないと意味がないだろ」

 振り返った神林の眉間には深いシワが刻まれていた。見たことのない顔にどきりとする。普段は笑顔でいることが多い神林の真面目な表情に、自分が彼を不快にさせていることを理解した。

「それをわかってるんなら、何でこんなクラスメイトがたくさんいるところで言った?人の性的嗜好を、こんな大勢の前で晒すなんてクソすぎるだろうが」

 そんなこと言われなくてもわかっている。わかっているからこそ、しまったと思い、こうして一緒に探しに行こうとしているんじゃないか。

 しかし、口にはできなかった。火に油を注ぐだけだとわかっていた。神林はわざとらしく大きくため息をつき、

「早退するって言っといて」

と言うと、リュックを背負って教室から出て行った。

一人取り残された一癸は教室内の視線を一身に受け、どうしようもない居心地の悪さを感じていた。

その日は夜になっても桜庭からも神林からも連絡は来ず、一癸からも連絡することはなかった。何の面下げて連絡をすればいいかわからなかった。


 桜庭が嘲笑の対象となったのは必然だった。

 教室から飛び出して行った翌日も、何食わぬ顔で席についていたが、クラスメイトたちは遠巻きにその姿を見てはこそこそと何かを話していた。嫌味な奴らだと思ったが、一癸は自分が原因を作ったことに負い目を感じており、話しかける勇気がなかった。普段と変わらない様子で桜庭に話しかけるのは、神林たった一人だった。

 柄木や他の野球部からホモが移るぞ、と馬鹿にされていたが、それに構うことなく普段通りに接していた。

 一癸は桜庭の様子を聞こうと神林に話しかけようと何度かしたが、近づくと神林が誰かに話しかけてしまい、なかなかタイミングが掴めなかった。自分が避けられていることは明らかだったが、桜庭の様子が気になった。顔色が少し悪いような気がするが、そこまで体調が悪そうではないし、神林の言葉に笑顔を浮かべていることもあり、少しホッとしていた。

 恋愛感情を抱かれていることは、変わらず不快感を覚える。だからと言って無闇矢鱈と傷ついて欲しいわけではないし、傷つけるつもりもない。

「お前もホモに好かれて可哀想になあ」

 桜庭に聞こえるように、柄木が話しかけてくる。一癸はこの男が苦手だった。図体が大きく、骨太の体には密度の高い筋肉がみっしりとついている。所謂固太りの体型だ。肉に埋もれた目は細く、人相が良いとはお世辞にも言えない。その顔立ちを裏切らず、友人の少ない人間や気の弱い人間相手に絡んではいじめのようなことをよくする常習犯だった。

「やめろよ、そんな風に言うの」

 一癸が不快感を滲ませて言うと、わざとらしく目を見開いた柄木が大きな声を上げる。下手くそな演技だった。

「えぇっ!お前、もしかして桜庭のこと好きなのか?そうだったのかよ、早く言ってくれよ!応援してるからな!」

 唇が歪んで、維持の悪い言葉が乱杭歯の隙間からぼろぼろと落ちてくる。こいつの、こういうところが大嫌いだ。自分は悪くないと周りにアピールしながらも、悪意が発する言葉の端々に滲んでいる。言葉にこそする人はほとんどいないが、こいつを好いている人間なんてほとんどいないだろう。普段は柄木が誰かをターゲットにしていると、その視線もまたやっているというような、柄木の幼稚性に呆れたものばかりだ。しかし、一癸に向けられる視線はそうではなかった。おもしろいもの、と突き刺さる視線のどれもが語っている。

 やめてくれと叫びたい。しかし、叫べば桜庭を傷つける。四面楚歌だ。

 黙ったままでいると、柄木がひゅう、と口笛を吹いた。

「カップル誕生、ってことかぁ?」

 おめでとう、と教室中に響き渡る声で煽ってくる柄木の瞳は一癸を馬鹿にしていた。何も言い返せないだろうとでも言いたげで、心底腹が立った。肩に回された腕を叩き落とし、柄木の襟を掴んだ。

「やめろ!男なんて好きになるわけねぇだろうが!」

 もう全てがうんざりだった。

家族と距離を置かれていることも、友人だと思っていた桜庭が自分に恋心を抱いていることも、神林が桜庭の味方をしていて、親しい友人が同じ教室内にいないことも。

家でも学校でも居場所がない。

一癸は学校を飛び出した。背後で桜庭が自分の名前を呼んだような気がしたが、そんなわけないと幻聴を振り切った。

このまま家に帰ってしまおうと思ったが、鍵はリュックの中に入っている。そのリュックも、教室に置いたままだ。辛うじてスマートフォンだけは持っていたから、放課後になって人気が少なくなるまで、どこか店にでも入っていようと思った。学校近くのカフェに入ると、店員がちらと一癸を見て怪訝そうな顔をしたが、何かを言われることはなかった。明らかに授業を行なっている時間に制服で学校外をうろついているなんて訳ありだとわかるだろうに、知らんぷりをしてくれるのは正直ありがたかった。今更学校に戻って、何事もなかったような顔で授業を受けるのは無理だ。

ホームルームが終わって三十分ほどしてから、学校へと向かった。カフェには結局、カフェラテ一杯で三時間も居座ってしまった。スマートフォンで支払いを済ませ、足早に学校へと向かった。

すっかり校内は静まり返り、人の気配を感じない。室内履きに履き替え、教室へと向かう。扉を勢いよく開けると、そこには桜庭がいた。

何をするでもなく、四肢を投げ出して天井を眺めていた。二人きり、という状況に思わず足が止まる。こんなところを誰かに見られたら、何を言われるかわからない。しかし、リュックを持って帰らなければ、電車に乗ることもできないし家に帰ることもできない。

「一癸くん、リュック取りに来たんでしょ?」

 話しかけられて、体がびくついた。あんなに心を曝け出せる友人だと思っていたのに、今では桜庭が何を考えているのかわからない。

 天井を向いていた視線がゆっくりと下がり、一癸を射抜いた。見慣れた深い漆黒だ。その瞳は一癸を見ているようで、遠いどこかを見ている。

「ごめんね、言うつもりはなかったんだ。ずっと、友達でいられれば、それだけでよかったんだけど。美優のせいで台無しだ」

 自嘲気味な声でぼそぼそと言う。

「いや、違うな」

 最近はめっきり目にすることの無くなっていた仕草で、桜庭が前髪を執拗に引っ張る。瞳を隠そうとするが、短くなった前髪では瞳を隠すことはできない。

「僕だけが悪いか。僕が一癸くんに気持ち悪い感情を抱いたからか。美優が悪いってのは、八つ当たりだな」

 ゆっくりと焦点のあった瞳が、一癸を見た。泣き出しそうに一度唇が歪み、口角が持ち上がった。

「君を好きになった僕が悪い。君が魅力的だったから」

 心臓を強く握られたように、胸が痛んだ。空気で膨らんだ肺が一瞬にして押し潰されて、ペシャンコになる。

 気持ち悪いとは思わなかった。ただ、怖かった。

 同性相手に恋愛感情を抱くその頭が理解できず、宇宙人と対峙しているようだった。

 今まで同性愛に対して、偏見も何もないつもりだった。認めるも認めないも、一癸は神様でも何でもないから、勝手にすればいいと思っていた。ぎゃあぎゃあと騒ぐ人間がおかしいとすら思っていた。そのぎゃあぎゃあと騒いでいた人間たちは、同性愛に何か嫌な思いをさせられたことがあったんじゃないか。ただの不寛容だと思わず、どうしてそうなったのかと言う背景を考える必要があったかもしれない。

 今にも泣き出しそうな顔をしているのに、瞳だけが爛々と輝いている。一癸への欲が滲み、異様な輝きを放っていた。

 同じ空間にいたくない。

 リュックを掴み、教室を飛び出した。一癸くん、と泣き声のような、甘えているような桜庭の声が、布団の中でも鼓膜にこびりついて泣きそうだった。

 桜庭と過ごした時間の全てが、体から砂のように粉々になって出ていくのを感じた。


 学校に行きたくなかったが、行かないわけにはいかない。義務教育ではないのだ。出席日数が足りなければ留年になる。重たい体を引き摺って登校すると、教室内が騒がしかった。廊下にいてもわかる喧騒に疑問を抱きながら扉を開けると、柄木が桜庭に絡んでいるところだった。

 ちょうど一癸が登校したことに気がついた柄木が、乱杭歯を剥き出しにする。

「ほら、彼氏が来たぞ。挨拶がわりに抱きついてこいよ」

 柄木と一緒になって、野球部の数人が囃し立てる。桜庭は媚びるようにヘラヘラ笑うことはなく、柄木を睨みつけた。

「彼氏じゃない。僕は振られてる。一癸くんに失礼だからやめろ。お前のやってることは低俗でどうしようもなく愚かなことだ」

 言い返されると思っていなかったらしい柄木が口をぽかんと開ける。それを見て、桜庭が鼻で笑った。

「ああ、お前は馬鹿だからわかんなかったか?前回の試験、赤点だらけで部活停止になりそうだったんだもんな。そんな頭じゃ、理解できないか」

 顔を一瞬で真っ赤に染めた柄木が拳を握ったのが見えた。あ、と声を出す間も無くその拳が桜庭の頬にめり込んだ。細い体躯が吹っ飛び、机を巻き込みながら床に倒れ込む。女子の悲鳴と柄木を押さえようとする野球部の声が混ざり合い、教室内は大騒ぎになった。

 鼻血を出している桜庭を介抱する神林の焦った声と、暴れる柄木を宥める野球部の声、泣き出した女子の声と、もうめちゃくちゃだった。先生呼んでくる、と駆け出したのは陸上部に所属している男子だった。

 自分も当事者であるはずなのに、どこか薄い壁一枚向こうで行われているような気がしてならない。桜庭と一癸、二人の問題が、一癸たちの手を離れてうんと遠くへ行っている。他の人間の玩具にされている。

 結局、事態は数人の男性教師がやってきたことで収束を迎えた。興奮した柄木を押さえつけて他の教室へと連行し、桜庭は神林と一緒に教師に連れられて保健室へ向かった。

 一癸は自分も桜庭たちについていこうか迷ったが、その瞳が一癸を全く写そうとしないのを見て、足が竦んだ。お前のせいだと、投げかけられる瞳に言われたらどうしようかと恐ろしかった。

 恋心を向けてくる桜庭は気持ち悪いが、それ以外のところは、好ましいものの方が多く、だからこそ言い表しようのない感情が一癸の胸に巣食っていた。

 桜庭を殴った柄木は一週間の停学処分、桜庭は大事をとって病院に行くことになったらしい。保健室から戻ってきた神林が、事情を聞いたクラスメイトにそう伝えているのが聞こえた。何か症状があるわけではないが、頭を床に強かに打ち付けたことが心配だと言うことらしかった。

 神林はむっつりとした顔のまま黙り込み、ホームルームが終わるとさっさと教室を出ていった。もしかしたら、桜庭に会いに行ったのかもしれない。担任から桜庭に関して何か話があるかと思ったが、結局何もないまま終わった。電話をかけるのは憚れて、体調を気遣うメッセージを送ったが、ついぞ返事が来ることはなかった。


 桜庭が登校してきたのは、柄木と揉めてから二日が経ってからだった。殴られた右の頬が色濃い青に染まっている。腫れは大分引いたようだが、かなり痛そうだ。大丈夫かと数人のクラスメイトから声をかけられ、大丈夫だと頷いている。その光景に胸に黒い靄が広がった。

 声をかけているクラスメイトの中には、柄木が桜庭を揶揄している時、同じように笑い声を上げていたものもいた。いい人ぶりやがってと思う気持ちと、いい人でいることすら拒否された自分の方が虚しい、という気持ちがあった。

 桜庭が登校しなかった二日間、未練がましく何度かメッセージを送信したが、一度たりとも返信はなかった。

 それがとてもショックだった。当たり前だとは思う。気持ち悪いと桜庭を一蹴したのだから、返事がくると思う方が馬鹿だ。それでももしかしたら、という気持ちはあった。

 桜庭は一癸と目が合うとパッと視線を反らし、顔を俯かせてしまう。一癸の姿を視界に入れないように必死だった。

 柄木が登校するようになると、それまで桜庭に向けられていた憐れみの視線は一瞬にして変わった。関わり合いになりたくないと物語る視線は、桜庭の存在を空気のようにした。柄木が桜庭に対して敵意を剥き出しにするようになったことで、ほとんどのクラスメイトは長い物には巻かれることにいたらしい。変わらず桜庭に話しかけるのは、神林だけだ。

柄木は桜庭が言った通りの馬鹿だった。毎日飽きもせずにホモだなんだと絡み、放課後は桜庭を引っ張ってどこかへ連れ出す。桜庭は嫌そうな顔をしているが、腕を引き摺られては抵抗できないらしく、いつも不服そうな顔をしてその後をついていく。何をしているのかはわからないが、それを突き止めようと言う気持ちもなかった。

何度も送信したメッセージの返信が一度もなかったことで、自分には関わってほしくないのだろうと思った。

神林と言葉を交わすこともなくなり、クラスメイトからは距離を置かれている。家に帰っても誰と話すわけでもない。孤独だった。美優を恨んだ。桜庭が一癸に恋愛感情を抱いていると気付かなければ、きっと今でも変わらずに二人で笑っていられただろうに、あったはずの未来が眩しくて、羨ましくて、ため息をついた。

 桜庭と話さなくなってから、図書室には一度も行っていない。勉強だけなら、図書室に行く必要はない。教室で参考書を広げ、集中力が切れればスマートフォンをいじり、最終下校時刻になるのを毎日待っている。時間が過ぎるのが遅かった。

 参考書を解いていると、どん、と地面に何かが叩きつけられるような音がした。次いで、甲高い悲鳴が聞こえる。ざわめきが濁流のように広がっていくのが、窓の外から聞こえた。窓から身を乗り出すと、地面に横たわった誰かの姿が見えた。どうしてだか、その体には衣類が身に付けられていない。右足が人体の可動域を超えて曲がっていて、ぎゃっと悲鳴を上げた。頭を強く打ったのか、地面にはとろとろと赤が広がっている。

 救急車、と叫ぶ声に、心臓が激しく脈を打つ。顔が前髪に隠されていて、誰だかわからない。もう一度窓から身を乗り出した。裸体に群がるようにして生徒たちが集まっている。スマートフォンを取り出し、写真を撮っている姿もちらほら見える。なんて不謹慎な、と思うが、誰が飛び降りたのかを確認しようとしている一癸も同じようなものだろう。

 ばたばたと慌ただしく数人の足音が聞こえてくる。

「退きなさい!誰だ、写真撮ってる奴は!消しなさい!消せ!何を考えてるんだ!」

「ここにいる人全員スマホ確認するから!そこ、動くな!」

「撮るなって言ってるだろ!退け!」

 教師が怒声を浴びせながら、生徒をかき分けて裸体に近づいていく。大丈夫か、と声をかけながら頬を叩いているが、反応はない。

「来栖先生!」

 少し遅れて、白衣を着た保健教諭がやってきたことがわかった。顔を真っ青にして裸体の横に座り込み、脈を確認している。

「生きてます!救急車は?」

「呼びました!待ちです!」

 撮るな、と教師が声を張り上げているのに、スマートフォンのシャッターは止まない。

 現実のようでいて、彼らにとってはフィクションなのだ。自分が関与していないから、全ては画面の向こう側。同じ学校での出来事でも、それは変わらない。だからこそ、面白がって写真を撮りまくっている。こんなことがあった、と一時の話題にするためだけに。

 可哀想に、と裸体を晒している生徒に思った。お前の自殺は、ただ消費されるだけだ。

 憐れみを感じていると、救急隊員が学校に着いたようだった。やってきた数名が、裸体の生徒をゆっくりと担架に乗せて戻っていく。裸体が露わにならないよう、毛布がかけられた僅かな一瞬で、その裸体の正体がわかった。

 額を真っ赤に染め、死んだように目を閉じているその裸体は、間違いなく桜庭弥生だった。

 学校は翌日、翌々日と休校になった。休校連絡を受け取った母は、久しぶりに一癸を正面から見て、心配そうな顔をした。

「大丈夫なの?」

「うん、大丈夫」

「無理しないのよ。同じクラスの子だったんだし、気がついてないだけでダメージがあるかもしれないから、しっかり休みなさい」

 心配を寄せてくる母の前では必死に表情を作っていたが、今にも笑い出してしまいそうだった。母から向けられる視線と、空気のように扱われないことの幸せが身に染みていた。最悪だとわかっているが、桜庭が飛び降りたことに感謝を覚えたほどだ。なし崩しに両親との会話は復活し、家庭内で感じていた疎外感は一気になくなることとなった。


 休校明け、登校すると教室内は異様な熱気に包まれていた。それに対して神林がやめろよ、と声を荒らげているが、熱気に浮かされたクラスメイトたちの耳には入っていない。

「どうしたんだ、これ」

 近くにいたクラスメイトに声をかけると、興奮で頬を上気させたクラスメイトが興奮を滲ませた声で言った。

「桜庭が飛び降りた原因、柄木だって!」

「柄木?」

「うん。柄木が桜庭に絡んでたのは、平手も知ってるだろ?」

 もちろん知っている。このクラスの生徒なら、誰だって知っているはずだ。昼食が終わった後、いつも柄木は桜庭に絡んでいた。神林がそれをやめさせようとしているところも何度も見ている。柄木に食ってかかろうとする神林を諌めるのは桜庭で、大丈夫だから、と言われてしまうと神林も強く出ることができないようだった。教室内を見渡すも、まだ柄木は登校していないようだった。

 おう、と返事をすると、クラスメイトは叫ぶように言った。

「柄木、桜庭のこといじめてたんだってよ!」

「いじめ?」

「ほら、これ見ろよ」

 差し出されたスマートフォンを覗き込むと、画面一杯に肌色が広がっていた。一瞬肌色の多さに視線がいったが、それは男の裸体だということに気がついて、小さく声を上げた。

 クラスメイトが興奮した声で何かを言っているが、そのどれもが耳に入ってこない。

 画面の中の桜庭は、全裸で局部を踏みつけられていた。苦痛に歪む顔が、前髪に隠されることなく露わになっている。じっとそれを見ていると、画面が変わった。次も、画面のほとんどが肌色だった。局部が丸出しなのは先ほどの写真と変わらないが、今度の写真は先ほどよりもずっと酷かった。顔を真っ赤にさせて涙を流す桜庭の尻に、棒状の何かが突き刺さっている。いじめ、と声が出た。

「すげぇよなあ!これ、柄木から一斉送信で送られてきたんだよ。リベンジポルノって言うんかな、これ。ちょっと違うか?」

 いじめと言うにはあまりにも酷い。身体的に辱めて、尊厳を破壊する。心を壊すのに一番手っ取り早い方法だろう。

桜庭は、こんな扱いを柄木にされていたのか。一体いつから。神林は知っていたのか。どうして柄木は桜庭にここまでしたんだ。何度こんな辱めを受けたのか。こんな風に扱われて、どうして学校を休まなかったのか。俺がクラスメイトたちの前で桜庭に告白されたと言ったから、桜庭はこんな目に遭わされたのか。

眩暈がした。頭の先が冷えて、足にうまく力が入らない。平手、と自分を呼ぶ声が聞こえたが、電気が落ちたように一瞬で意識は暗くなった。


 目が覚めると、真っ白い天井が見えた。鼻腔に消毒の匂いが届き、ここが保健室だと気が付く。意識を失った一癸を、誰かがここまで運んでくれたのだろう。頭の中で何かが暴れ回っているかのようにがんがんと痛み、胃はむかむかと不快感を訴えている。口の中は乾いてベタつき、水を飲みたい、と思った。上体を起こそうとすると、キャスターの転がる音がした。閉められていたカーテンが勢いよく開く。

「おはよう。気分はどう?」

 窓から差し込む太陽光を背に、保健教諭の来栖が言った。

「最悪です」

 胡蝶はしていない。実際気分も体調も最悪だ。意識を失う前に見ていた桜庭の裸体の画像はしっかりと頭に刻み込まれているし、それのせいで体調不良を引き起こしている。頭ががんがんと痛むのは、忘れたいにも関わらず強烈にそれが脳内にこびりついているからだろう。

「最悪ね。でも貧血だけだから、特に心配はないよ。頭を打つ前にクラスメイトが支えてくれたから、病院も行かなくていいよ。気になるならかかってもいいけど」

「あの、全校集会ってもう終わりました?」

 壁にかかった時計を見ると、まだ十時にもなっていない。休校明けの今日は、もともと授業はなく、全校集会のみの予定だった。まだ、終わっていないだろうか。もしもまだ集会がやっているなら参加したい。たった二日間で何がわかるのかとも思うが、桜庭をいじめていたのは柄木で、それを本人も認めているからああして話題になっているのだろう。桜庭の画像がばら撒かれているのも、柄木自身が退学やらの処分を受けるのだとすれば、桜庭もろとも地獄に落ちてやるといった感情だろうか。馬鹿の考えることはわからない。馬鹿だからこそ、恐ろしい。

「まだ終わってないみたいだけど、やめておいたら?」

「どうしてですか?」

「だって君、飛び降りた子がいじめられる原因作ったんでしょう」

 心臓がどくんと大きく脈打った。来栖は表情を変えることなく淡々と言葉を続ける。

「君を運んできたクラスメイトが言ってたよ。飛び降りた子に告白されたって君がクラスメイトの前で言ったから、柄木くんがいじめるようになったって。集会の話聞くの、しんどくない?」

「それは、そうですけど。それって、いじめられたのって、本当に俺のせいですか?」

 自分でもわかっている。一癸がクラスメイトの、せめて柄木の前で言わなければ、いじめは起こらなかったかもしれない。全ては一癸の放った言葉が原因だった。それを認めたくない。

「自分のせいじゃないと思うなら、そう思っていればいいと思うよ」

 来栖は一癸のせいだとも、そうでないとも言わなかった。ただ、その瞳は冷たい色をしていて、一癸を睨んでいるように見えた。

 ふらふらと保健室を出る。体育館からは微かにマイクの音が漏れていたが、聞き取ることはできなかった。体育館には向かわず、教室へと向かった。

 桜庭をいじめたのは柄木で間違いないが、そのきっかけを作ったのは一癸だとどれほどの人間が思っているかを想像すると、息ができなくなった。経緯をかいつまんでしか知らない来栖ですらそう思うのだから、声に出していなくともクラスメイトのほとんどがそう思っているだろうことは明白だった。のこのこ集会に顔を出す勇気はない。

 誰もいない校舎の中で、一人机に座っていた。どこから間違えたのか、考える。全てを振り返ってみると、視聴覚室でセックスをしていたところが始まりだった。肉欲に溺れたのが悪かった。肉欲に溺れていなければ、セックスしていたことを桜庭に咎められることもなく、図書室に行くこともなかった。今更考えても、仕方がないけれど。

 タイムマシンが欲しい。この学校に入学するところから、やり直したい。桜庭に会うことなく日常を送っていたら、と別の道を歩く自分を羨ましく思った。


 桜庭が登校することなく、夏休みに突入した。柄木は、退学になった。当たり前の結果だった。

 しばらくは柄木が退学になった衝撃と桜庭の体調を心配する声が頻繁に聞こえていたが、二週間もすれば、話題は近づいてきた夏休みのこと一色になる。どこそこに旅行だ、イベントだと、額に汗を浮かべて満面の笑みを浮かべて話している。桜庭が飛び降りたことなんて、もう記憶から消されたかのようだ。

 一癸は、学校にいても誰かと話すことはほとんどない。桜庭のことを聞かれるのが嫌でぞんざいな扱いばかりしていたら、話しかけてくる人がいなくなっていた。少し寂しさを感じることもあるが、特に不便は感じていない。桜庭のことを詮索されるより、ずっとましだ。桜庭とは連絡を取っていないし、体調がどうなのかも知らないのに、どうしてか一癸なら知っているだろうと好奇心を隠さずに話しかけてくるクラスメイトが多かった。夏休み前最終日は、せいせいすると思ったくらいだ。

 夏休みに入ってからは、睡眠と勉強を繰り返した。眠り、起きたら勉強をして、また眠る。それを毎日、飽きもせずに繰り返した。去年のように遊びに行くような友人もおらず、またそんな気分でもなかった。自分から桜庭に連絡することは、随分前に止めてしまっていたが、飛び降りてから一度も登校することのなかった桜庭の容体が気になっていたのも理由ではあった。

 地面に倒れる桜庭の姿を、何度も夢に見た。実際には真上から遠巻きに目撃しただけなのに、夢の中で一癸は桜庭の体に触れることのできる距離で見つめていた。額から出血したことで青くなった顔、地面に落ちた拍子についた砂埃、関節の向きとは反対方向に曲がった足。大丈夫かと声をかけたいのに、凍りついたように体は指先一つ動きやしない。全身に汗が滲み、地面がどんどんと血を吸い込み、桜庭の体がどんどん青くなっていく様をただ見ていることしかできない。そんな悪夢を何度も見た。飛び起きた時、いつだって体は汗だくで、心臓は全力疾走をした後のようにどくどくと早鐘を打っていた。

 その夢は決まって、一癸が何か楽しいと思う出来事があった日に一癸を苦しめた。お前だけ幸せになるなんて許さないと言っているようだった。夢を見る頻度が高くなるにつれ、勉強の時間を増やした。自分に対する戒めだった。

 少しも遊ぶ素振りを見せず、家に閉じこもっている一癸を、両親は心配した。クラスメイトが飛び降りたことを気に病んでいるのだと思い、何度も旅行やイベントに誘い出そうとした。しかし、全てを断った。桜庭の裸体を見るのは、夢だとわかっていても辛いものがあった。

 伊月から誘われることもあったが、それにも答えなかった。伊月を見ると、美優を思い出した。

 美優と桜庭の関係性はどうなったのかわからない。今までと変わらないのか、それとも飛び降りた兄を労わるような素振りを見せているのか。優しくしてやっているといい、と思う。

 荒れていた頃の凶悪さはすっかり鳴りを潜め、丸くなった伊月はこれまでを挽回するように家族に対して気を使うようになった。このまま伊月が変わらなければ、一癸は遠くない未来に伊月を許すと思う。あんなに許せないと思っていたのに、あの頃感じていた怒りの半分も体には残っていない。

「一癸」

 伊月が扉をノックした。参考書を解いていた手を止めて

「入っていいぞ」

と返す。教科書とノート、筆箱を持った伊月が照れたように笑っている。

「勉強、また教えてもらっていい?」

「おう。そこ座れ」

「うん。ありがとう」

 いそいそと床に腰を下ろした伊月は、教科書を広げて一癸が隣に座るのを待っている。家に帰ってくるようになると、伊月はこれまで後回しにしていた勉強に真面目に取り組むようになった。もちろん、一朝一夕でできるようになるわけはない。四苦八苦しながらも、わからない単元を一つ一つ潰していくことで、以前よりはかなり理解度が上がっている。

 穏やかだった。桜庭に告白されてからの約二ヶ月強は、かなり密度が濃い日々だった。毎日が目まぐるしく、自分の身に降りかかっていることなのに、全てが光の速度で目の前を通り過ぎていった。起こった出来事を理解するのは、いつだって物事が起こり終わった後だった。

 伊月が隣で問題を解いているのを眺めながら、今後、桜庭とどう付き合っていくのが正解なのだろうと考えた。考えても答えなどはないことは分かりきっているが、考えずにはいられなかった。

 なかなか睡魔が訪れず、夜遅くまで勉強していると、スマートフォンが振動した。最近は全く鳴らなくなったそれは、大抵が企業アカウントかアプリの通知だ。今回もそうだろうと、一瞬視線をやっただけで無視をしていると、二度三度と続いて振動する。連絡を頻繁に取るような友人は、夏休みに入る前のいざこざで無くしてしまった。しかし、スマートフォンはしつこく振動を続けている。仕方なく腰を上げ、スマートフォンを手に取ると、画面に表示ぃされていた名前に息が詰まった。

 桜庭弥生。

 ずっと頭の中にいる相手の名前が表示されていた。メッセージだと思っていた振動は、電話だった。今も変わらず振動を続けているところから、間違えてかけているわけでもないらしい。

 指が震える。電話に出るつもりはなかったのに、勝手に指が動いていた。無機質な通知音が途切れ、画面からけほん、と咳払いの音が聞こえた。

「もしもし」

 慌てて耳にスマートフォンを当てる。電話口からは、また小さく咳払いが聞こえた。

「久しぶり、一癸くん。元気にしてた?」

 飛び降りたことが嘘だったように、一癸に恋愛感情を抱いていると暴露されたことが幻だったように、桜庭の声は普段通りだった。いっそ恐ろしいくらいに、変わらない。思わず拳を握り締める。何を言われるのか不安だった。一癸が連絡をした時は一切返事をよこさなかった癖に、今更なんの用があるというのか。

「電話なんて、どうしたんだよ」

 声が震える。お前のせいでと罵倒されるのか。全裸にされて、飛び降りた桜庭は精神的、肉体的にもかなりの深傷を負っているはずだ。どんな酷い言葉をぶつけられるだろうと震えたが、桜庭は

「ちょっと話したいと思っただけだよ」

と、またなんともないような声で言った。思わず拍子抜けしてしまう。怯えているのは一癸だけで、桜庭は一癸に気持ち悪いと言われたことも、なんとも思っていないように振る舞う。そんなわけないのに、何事もなかったように振る舞う。

「ちょっと、怪我が治らなくてさ。暇だから誰かと話したいと思って電話したんだ。僕の家族は、ほら。一癸くんなら、知ってるだろう」

 自嘲気味に笑われ、怪我をしても尚、家族から酷い扱いを受けていることが言葉の端々に滲んでいる。全快するまでくらい、優しくしてやればいいのにとも思うが、そういった気遣いができるような母でも妹でもないことは、片手で足りるほどしか会っていない一癸にも察することができる。

「あー…まあ、なんというか。ご愁傷様?」

「ふ、そうだね。ご愁傷様で合ってるよ」

 それからしばらく、下らない会話をした。久しぶりに、家族以外の人間と会話をした。元々桜庭との会話はテンポがよく、楽しいと思うことが多かったが、この時も楽しかった。夜が遅いことも忘れて、大きく声を上げて笑ってしまったくらいだった。電話がかかってきた時はどんな酷い言葉で詰られるのだろうと思っていたが、桜庭からは一度たりとも一癸を責める言葉は出なかった。強張っていた体は、時間が経つにつれてすっかり解れていた。時計の短針がてっぺんを通り過ぎ、一周しようかというところで、桜庭がそろそろ、と口にした。一癸はもう少し話したいと思ったが、まだ怪我が治っていないと口にしていたことを思い出し、了承した。この様子なら、一癸から連絡をしても反応を返してくれるだろう。

「また電話してもいい?」

 伺うようなそれに、食い気味に源氏をする。

「いいに決まってる」

 恋愛感情を向けられて気持ち悪いと思ったことなど既に忘れてしまったように、一癸は口にした。他人との会話に飢えていたし、恋愛感情が間に入ってこないのなら、今までと変わらずに関わっていけると思った。

 桜庭は

「またかけるね」

 と言って、電話を切った。

 切断された電子音が鼓膜を擽る。桜庭と話すのは楽しかったな、と思い出す。またこうして会話を楽しめるようになってよかったと安堵した。電話口からは、桜庭が一癸に好意を抱いている様子は欠片も感じなかった。このまま桜庭が一癸に対する恋愛感情を無くしてくれれば、と思う。他に好きな相手ができて、そいつと付き合うようになれば、一癸も何も考えることなく、桜庭と付き合うことができるようになる。

 そういえば、桜庭の恋愛対象は男なのだろうか。一癸に対して恋愛感情を抱いているのだから、男が好きなのだとは思うが、どちらもいけるタイプの人間なのだろうか。さっぱりわからない。一癸は男に対して恋愛感情を抱いたことは一度もないし、そういう人間に会ったことも一度もない。少し気になったが、自分からその話を振るのは薮蛇だとわかっている。

 くあ、と欠伸が漏れた。気がつけば、二時近くになっていた。夏休みだからと言って夜更かしし過ぎると、生活リズムが崩れて辛くなるのは自分だ。拡げていた参考書を閉じると、ベッドに身を投げた。あんなに眠たくないと思っていたのに、ベッドに入ると一瞬で意識は闇に呑まれた。


 桜庭と電話をした日から、週に二、三回、桜庭から深夜に電話がかかってくるようになった。大抵日付が回る少し前にかかってきて、一時前には電話を切る。桜庭はまだ怪我がよくなっていないらしく、一日中家にいることが多く、桜庭の口から語られるのは映画や本の話がほとんどだった。一癸も同じようなものだった。桜庭が面白いと言っていた映画を観て、その感想を伝えると嬉しそうにしていたから、会話に出てきたものはなるべく観るようにしていた。

 夏休みも終盤に差し掛かった頃、それまで流暢に口を動かしていた桜庭が突然黙り込んだ。

「桜庭?」

 ネット配信が始まったばかりの映画のアクションがすごかったと興奮した声で言っていたのに、電源が落ちたようにぱったりと止まった言葉に違和感を覚えた。電話口からは、桜庭の呼吸音だけが小さく聞こえる。

 何度か呼びかけてみるも、そのどれもに返答はない。メッセージアプリの通話機能を使って通話をしていたから、ネット接続がうまくいっていないのかと思った。電話を切ろうとすると、

「一癸くん」

と桜庭が口を開いた。接続が悪いわけではなかったらしい。どうして返事をしなかったんだと思ったが、何か考え込んでいたのかもしれない。

「なんだよ」

「明日って、暇?」

 明日だけでなく、いつだって予定は入っていない。それを伝えると、桜庭は家に来ないかと言った。行きたいとは思ったが、すぐに返事をすることはできなかった。美優に言われた言葉が頭を過った。桜庭が自分の名前を呼びながら自慰行為に耽っていたこと。その現場を実際に目にしたわけではないが、どうしても自分をそういう対象として見ている相手の家に行く、ましてや二人きりになる可能性があることは避けたかった。桜庭との会話は楽しいが、恋愛感情を抱かれていることに関しては、やっぱり気持ち悪さがある。以前に比べて濃度は薄くはなったが、完全になくなったわけではない。

 言葉を濁していると、一癸の心の内を察したらしい桜庭が安心して、と言った。

「僕が怪我をしてから、お母さんが家にいること多いから大丈夫だよ。二人になることはないし、もし二人になったとしても、怪我で一癸くんに襲い掛かることなんてできないから。だから警戒せずに来てよ。話し相手がいなくて暇なんだ」

 そこまで言うなら、と家に行くことを了承した。桜庭ははしゃいだ声を上げ、楽しみだ、と声を漏らした。

「昼過ぎに行けばいいか?」

「こっちはいつでもいいよ」

「じゃあ一時くらいに向かう。昼は家で済ませてくるから」

「わかった。楽しみにしてるね。おやすみ」

 電話を切ると、まだ零時にもなっていなかった。ほんの少しも眠気を感じることはなかったが、久しぶりに炎天下の中でかけることを考えると、早めに眠っておいた方がいいだろうと思った。ベッドに体を横たえてもなかなか眠ることができず、十回寝返りを打ったところで、ようやっと意識は泥の中に飲まれていった。

 八時前に目が覚め、リビングに降りると掃除機をかけていた母が驚いたような視線を向けてくる。

 なんとなくバツが悪く、口をもごもごとさせながらおはようと言った。

「こんなに早く起きてくるなんて、雪でも降るんじゃないだろうか…」

「聞こえてんぞ」

「あら怖い」

 コップに麦茶をたっぷりと注ぎ、一気に飲み干すともう一杯コップに注ぐ。桜庭と電話をするようになってからは眠る時間が遅くなったせいで、すっかり起きる時間が遅くなっていた。以前は八時にはリビングに降りていたが、電話をするようになってからは十時、十一時が当たり前になっている。朝食を取らないことも多く、体に悪いとわかっていてもなかなか治すことができないまま、今に至っている。

 掃除機をかけ終えた母が冷蔵庫を開けながら何か食べるか、と声をかけてきたのでありがたくお願いすることにした。その間に身支度を整えてしまおうと洗面所へと向かう。顔を洗い、歯を磨き、寝癖を整える。一度部屋に戻り、寝巻き代わりのジャージを脱ぎ、箪笥の一番上に置いてあるジーンズとシャツを身につけた。財布とスマートフォン、家の鍵をボディバッグに詰め込んだ。そこまで準備してはたと手土産がないことに気がついたが、そう気取ったものである必要はないだろう。駅に向かう途中のコンビニで何か調達すればいい。洒落たものを買っていったとしても、桜庭の口に入る前に美優や母親が全て食べてしまう光景が浮かび、高い金を出す気にはなれなかった。

 リビングに戻ると、ちょうど母が朝食の準備を終えたところだった。母の前にはカフェオレだけが置かれている。

「母さんは食べないんか」

「もう食べ終わってる」

「まじか。用意してくれてありがとう」

「どういたしまして」

 皿の上にはベーコンにスクランブルエッグ、サラダが乗っている。バターの塗られたトーストも、全て自分のためだけに用意させたと思うと申し訳ない気持ちが芽生える。母の一服の時間を少し奪ってしまったような気がした。帰りがけに、ケーキか何かを買って帰ろうと思った。

「今日、友達の家行ってくるから」

 皿を洗いながら声をかけると、母は驚いたように振り返った。

「珍しいね。夏休みになって初めてじゃない」

「ん。最近そいつと電話してたんだわ」

「そうなの?知らなかった」

「まあ、部屋でしか電話してないから」

 安堵した表情を浮かべた母が、大きくため息をついた。

「あんまりにも家に閉じこもってるから、虐められてるのかと思ってた。クラスメイトが飛び降りたからって、去年は遊び回ってた子がどうしてこんなにも家にいるのかって、お父さんと不安に思ってたのよ」

 飛び降りた本人の家に行くとは到底言い出せなかったし、飛び降りた本人がいじめられる原因になったのは自分だということも言い出せなかった。どう説明すればいいかわからなかったし、ただ心配をかけるだけだろうと思った。

 会いに行くのはどんな子なの、とわくわくしたように聞いてくる母に、聞かせても問題ない話をした。図書室で仲良くなったことから、どんな話をするのかまで。母はその全てに嬉しそうに頷いていて、そういえば二年に上がってから学校の話はほとんどしていなかったと思う。話したくないと思って故意に話していないわけではなかったが、なんとなく話す機会がなかった。伊月のことがあったからかもしれない。

 こんなに嬉しそうな顔をするなら、これからも時間を見つけては母に学校のことを話してやろうと思った。

 昼過ぎにようやっと起きてきた伊月と並んで昼食を済ませると、皿洗いを伊月に任せて家を出た。太陽が頭の真上にある時間帯に出歩くのは随分と久しぶりで、玄関を出た瞬間に身体中から汗が滲み出る。駅に着くまでに、汗だくになるな、と思う。コンビニで手土産としてちょっとしたお菓子や飲み物を買おうと思っていたが、汗拭きシートも一緒に買おうと思った。歩き出して五分と経っていないのに、既に背中に汗でシャツが張り付いている。桜庭の家に着くまでに、シャツが絞れそうだ。

 コンビニで買い物を済ませ、電車に乗る。平日の昼間ともあって、車内は空いていた。涼しいと思ったのは一瞬で、汗をたっぷりとかいた体はすぐに寒さで鳥肌が立つ。電車は冷房が効き過ぎているか、暖房がほとんど効いておらず寒いかのどちらかで、いつも上着を持ってくればよかったと後悔する。次こそ、と思うのだが、家を出るときは頭からすっかり消えているのだからどうしようもない。早く目的の駅に着いてほしい。鳥肌の立つ腕を擦りながら、一癸はスマートフォンを取り出した。乗り換え案内のアプリを立ち上げ、乗り込んだ電車をスクリーンショットで送る。すぐに楽しみにしてる、と返信がきて、頬が緩んだ。

 怪我がまだ治っていないと言っていたが、どの程度なのだろう。飛び降りた直後、足は折れているようだったが、二ヶ月近く経てばほとんど治っているのだろうか。足以外にも、見えないところに大きな怪我があったのかもしれない。早く完治して、自由に外出できるようになったら、神林も誘って三人で出かけないかと声をかけたい。桜庭は一癸に恋愛感情を抱いているようだが、それ以前に一癸の友人だった。お互いの恥部を曝け出した、一番仲がいいと言っていい。たかが恋愛如きでその関係性を失いたくない。

恋愛関係に発展することは考えられないが、今後も友人として仲良くしたいと桜庭には伝えるつもりだった。

都合のいい発言だとわかっている。一癸の感情優先で、桜庭の気持ちは少しも考慮していない。ただ、男女間で片方が恋愛感情を抱いていても友人関係を続行することができるように、自分達の間でもそれが適応できるのでは、と思った。桜庭の恋愛対象が男だけなのか、それとも男女両方なのかは全くわからないが、時間が経てばいつかは一癸以外の人間を好きになる。今は一癸と距離が近いから、一癸にばかり目が向いているだけだと思う。高校生の恋愛なんて、そんなものだ。

いつか桜庭に彼女、はたまた彼氏ができたときは、祝福してやりたい。

乗り換え駅につき、電車を降りる。乗り換えの時間はほとんどなく、急いで電車を降りると階段を駆け上り、その勢いのままホームに駆け降りた。車内で冷え切った体が一瞬で熱せられて、汗を滲ませる。自然のサウナみたいだ。サウナで整った、と喜んでいる人がたくさんいるが、あれは緩やかな自殺だといつも思う。交感神経と副交感神経がめちゃくちゃになるし、何より心臓に悪いに決まっている。どうしてそんなこともわからずに喜んでやっているのか、心底理解ができない。サウナはタバコと同じようなものだ。

階段を駆け降りると、ちょうどホームに電車が滑り込んできた。額から流れてきた汗を腕で拭い、冷房で冷え切った車内に乗り込む。外気との差に、頭がくらくらしてくる。こんなのを繰り返していれば、体調が悪くなるのも当たり前だ、とサウナを思い出した。

空席に腰を下ろし、コンビニで購入しておいた汗拭きシートで体を拭った。洋服がじっとりと汗を吸い込んで重たくなっているからあまり意味がないかもしれないが、やらないよりはやった方がいいだろう。人様の家にお邪魔するのに、汗臭いままは嫌だ。

最寄り駅を降りて、再度桜庭に連絡をする。家までの道は、何度も歩いて覚えている。駅からはそう遠くはないが、家までの道中は少しも日陰がなく、太陽に晒されるのが辛い。せっかく汗拭きシート一度体を拭ったが、全て無意味になりそうだ。

足早に家に向かっても、ゆっくりと家に向かっても、どちらでも汗だくになる未来が見えている。それならゆっくり歩くか、と大股で歩くのをやめた。

真夏の昼間ともあって、ただ歩いているだけなのに汗がどばどばと毛穴から溢れ出す。暑い、と無意識のうちに呟いていた。太陽光でコンクリートは焼かれ、じりじりと焦げる音がしている。生卵を落としたら、確実に目玉焼きができるだろうな、とどうでもいいことを考えた。

桜庭に渡そうと思って購入したペットボトル飲料は、どれも温くなってしまっているだろう。ほんの少しだけ、申し訳なく感じた。桜庭の最寄り駅で買えばよかったと後悔する。

肌をじりじりと焼かれながら十分ほど歩いていると、何度も目にした家が見えてくる。最後に来たときと変わらず、遠目からでも庭が荒れているのがわかる。手入れをしていないのが周りと比べて丸わかりだ。隣家は綺麗に手入れをされているから、余計に荒れているのがわかってしまう。

インターホンを押すと、中からどたどたと足音が聞こえた。はぁい、と声がして、玄関が開く。開いた扉の隙間から顔を出したのは、濃い化粧をした桜庭の母だった。胡乱な視線を一癸に向けた後、家の中に向かって大声を上げた。

「弥生、友達来たよ」

 そう言い放ち、扉を閉めてしまう。あ、と思う間も無く足音は遠ざかり、しばらく待ってみたが戻ってくる気配もない。勝手に入っていいのかわからず、太陽光にただ肌を焼かれるしかできない。

 額から滲んだ汗が、顎を伝って地面に落ちる。

 桜庭に電話をかけて開けてもらった方がいいだろうか。

考えていると、足を引きずるような音が少しずつ玄関に向かってくるのが聞こえた。誰か、おそらく桜庭が、玄関に向かってきている。

ゆっくりと開いた扉から顔を覗かせた桜庭は、目が合うと緩く口角を持ち上げた。

「久しぶり」

 少し痩せたように見えた。元々細身ではあったが、頬についていた肉が削げた気がする。太陽光の当たった頬は、皮膚の下に走る血管の走行がわかるほど白い。怪我をしてから、ほとんど外にも出ず、太陽光にも当たっていないことがわかる。言葉を選ばずに言えば、不健康そうな見た目をしていた。元から大きな瞳は、頬の肉が落ちたことでより一層存在感を増している。そのせいか、目はぎらぎらと怪しく光っているように見えた。

 ぞく、と背筋に寒いものが走ったが、小さく首を振って自分に勘違いだと言い聞かせた。

 持っていたコンビニの袋を差し出し、手土産だと言うと桜庭は嬉しそうに笑った。

「ありがとう。暑いし、家の中どうぞ」

 玄関が大きく開き、桜庭の全身が目に入ったとき、言葉を失った。

 壁に体重を預けるようにして立っている桜庭の右足に、見慣れない器具がついていた。せいぜい歩くときに松葉杖をついているくらいだろうと思っていたが、こんな器具をつけているくらい、怪我の程度が悪いのか。

「それ、大丈夫なのか?」

 右足を指差して言うと、なんてことないように桜庭が口を開く。

「右足は麻痺が残っててね。リハビリしても治ることはないだろうって言われたから、柄木の両親に買ってもらったんだ」

 言葉を失った。桜庭はなんて事のないように言ったが、とんでもない大怪我だった。

 二の句を告げられずにいると、壁を押して桜庭が体の向きを変えた。

 足を引きずっていると思った音は、右足に付けられた器具が床に擦れている音だった。金属で固定された足を動かしているが、違和感はないのだろうか。器具をつけているくらいだから、かなり酷い麻痺が残ったのだろうか。

 桜庭が転ばないように後ろからゆっくりと追いかける。以前家にお邪魔したときと同じく、目に染みる臭いがした。洗面所の前を通り過ぎる一瞬、臭いがとてつもなく濃くなって思わず咽せた。げほげほと咳き込むと、前を歩いていた桜庭が振り返って笑う。

「酷い臭いだよね。さっさと洗濯すればいいのに、面倒くさがって母さんがやらないんだ。臭いってわかってるのに、家に呼び立ててごめんね」

「いや、大丈夫だから。ちょっと咽せただけ」

 階段を通り過ぎ、桜庭は家の奥へと進んでいく。桜庭の部屋は二階にあったはずだが、足の怪我で一階に降ろしたのかもしれない。黙って後ろをついていくと、一番奥の部屋で、桜庭の足がぴたりと止まった。

「どうぞ」

 扉の向こうには介護用ベッドと勉強机、椅子、小さな衣装箪笥があるだけで、あとはぽっかりと何もない空間が広がっていた。以前の部屋は、もう少しものが有った気がする。

 必要最低限のものしか置かれていない部屋は空虚に満ちていた。

 桜庭はベッドまで行くと、勢いよく腰を下ろした。ベッドからは軋んだ音がして、腰をおろしたときの勢いがわかる。

 器具があっても歩くのは疲れるのか、桜庭が深く息を吐き出した。うまく動かない右足を叱責するように何度か叩いた。

「足、どれぐらい動かしにくいんだ」

 一度も桜庭から怪我のことを詳しく聞いていない。あまり詮索するのは良くないとわかっているが、聞かずにはいられなかった。

 来栖の言葉を思い出す。

 自分のせいじゃないと思うなら、そう思っていればいい。

 桜庭の怪我は自分のせいじゃないと、一癸は思っている。柄木が桜庭を虐めたからであり、桜庭が飛び降りたからだ。そこには一癸はなんの関与もしていない。しかし、その二つの行動は一癸の言葉を起因としていないだろうか。

 心臓が痛かった。自分のせいだと、頭の中でがんがんと音が鳴り出す。

「うーん…」

 桜庭が顎に手を当てて唸り声を上げる。芝居めいた仕草に少し腹が立った。こっちがこんなに焦っているのに、どうして桜庭は余裕そうなんだと。八つ当たりでしかないとわかっていても、思わずにはいられなかった。

 桜庭の拳が器具を叩いた。こつん、と硬い音がした。

「歩くのはできるよ。ずっと痺れてて、階段の昇り降りは、少し難しいかな」

 胃の中に、重石が落とされたように体が重たくなった。電話口ではあんなに軽く話していたのに、実際は、一生付き合わなくてはならない障害を負っていた。

 自分の発した一言のせいだと考えると眩暈がして、胃液が食道を駆け上がってくる。口腔内に拡がる酷い味に、涙が浮かんだ。吐き出すわけにはいかないとどうにか飲み下し、息を大きく吐き出した。

「…俺のせいだ」

 吐き出した声はみっともなく震えていた。

 ずっと考えていた。桜庭が虐められたのは自分のせいだと。頭の奥底ではわかっていた。桜庭は、クラスメイトから嫌われていなかった。どちらかと言えば、好かれていた方だと思う。成績が優秀だと言うこともあったし、桜庭の幼子のような顔立ちが周りに対して悪意を抱かせにくいという理由も有った。桜庭を虐めていた柄木も、桜庭に対して初めから悪意を抱いていたわけではない。二人は関わりがなかった。必要があれば言葉を交わす、といった具合で、特別お互いを意識しているわけでもなかった。全ては一癸の発した一言が巻き起こしたことだった。その一言で、桜庭の足は自由に動かせなくなってしまった。歩くことも、走ることも不自由になって、冷たい金属に支えられる未来しか手にできなくなった。

「ごめん」

 一度自分のせいだと認めると、それまで否定してきた反動が一気にやってきた。自分のせいじゃないと思い込もうとした日々の記憶が脳みそを締め付ける。自分のせいではないと思い込みたい一心だった。

「一癸くんが悪いわけじゃないから」

 桜庭はそう言って笑ったが、本当にそう思っているのか、疑ってしまう。

 もしも一癸が桜庭と同じ立場に立たされたら、そうは思わない。怨恨の炎が絶えず体の中で燃え盛る。お前のせいだと罵倒して、殴りかかる。

 桜庭は微笑み、罵倒をすることも、睨みつけることもしない。それが不自然で、怖かった。一癸を恨んでいないと主張するその様子が恐ろしい。

「確かに一癸くんの一言で柄木が調子に乗ったのはあると思うけど、それでもそれはただのきっかけでしかないよ」

 なんの前触れもなく、口から胃液が溢れ出した。なんの予兆もなかった。一度は飲み下したはずの胃液が食道を駆け上がり、口から噴き出た。びちゃびちゃと床に胃液が落ちる。酷い匂いがした。胃液に焼かれた喉が痛い。げほげほと咳き込む一癸に向かって、桜庭は大丈夫かと声をかけた。

「ごめん、掃除する。本当にごめん」

「そこのティッシュ、使っていいから」

 言葉に甘えてティッシュを手に取り、床を拭いた。拭いている間にも臭いが迫り上がってきて、吐き気を堪えた。

 桜庭が話をしたいと自分を誘い出したのは、本当に自分と会話をしたいだけだったのだろうか。

 考えていることがわからなかった。

 冷房が効いている室内は寒いくらいなのに、一癸の肌には汗が滲んでいた。

「一癸くんにお願いがあるんだ」

「…何」

「僕、脳にも障害が残ってね。長い文章が読めなくなったんだ。勉強も、あんなに頑張ってきたのに、前まで簡単に解いてた問題が全然わからなくなった。高校にも、もう通えない。足もこんなだし、通信制に通う」

 がんがんと頭の中を殴られているような気がした。心臓が痛いくらいに脈打っている。それを知ってか知らずか、桜庭が満面の笑みを浮かべた。

「僕と友達になってほしい。もうあの高校にも通えない、馬鹿になった僕の友達になってよ。前までの僕とは違う、木偶の坊になった僕と友達になろう」

 拒否権はなかった。あるはずもない。

 体の芯から震えが走る。今後、自分は何があっても、桜庭の友達で居続けなければいけない。本人にそのつもりはないのかもしれないが、一癸にとってはそうも同然だった。

 以前のように仲良くしたいと思っていたが、それはこんな風に加害者と被害者の側面を感じさせる関係ではない。桜庭の言葉からは、自分が被害者である、と訴えているようにしか聞こえなかった。

 自分を木偶の坊と呼ぶようになった相手と、その相手が木偶の坊になるきっかけを作ってしまった一癸。

 どう足掻いても対等な関係になれるわけが無い。以前のように、と考えた一癸の思いが叶うことも、もう二度とないのだ。

「わかった」

 声が震える。目の前の顔はにまにまと嫌らしい笑みを浮かべていた。自分の願いが拒絶されることはないと確信している顔だった。

「これからよろしくね、一癸くん」

 体内の内臓が内側から焼かれているようにじくじくと痛んだ。家にお邪魔したばかりだったが、すでに家に帰りたかった。扉を閉めていても鼻腔に入ってくるすえた臭いが胃を刺激して、空の胃から胃液を誘い出そうとする。喉に込み上げてくるそれを必死に飲み下し、唇を噛み締めた。

「弥生って呼んでよ。僕たち友達なんだから」

 身体中の毛穴からぬるついた脂汗が滲む。こんなことになるなら、桜庭の電話を取るんじゃなかった。クラスメイトから避けられるようになって、夏休みも家族以外の人間と話すことなく、孤独だった。桜庭から連絡が来て、舞い上がっていた。一癸を責めず、何事もなかったように接してくれる様子に、なんの疑いもなく尻尾を振ってしまった。

 逃げられない。

 弥生って呼んでみて、と桜庭は楽しそうだった。弥生、となんの感情も込めずに言うと、嬉しそうに頬を染めていた。

 その姿を見たら、もうどうなってもいい、と思った。

「帰る!」

 待って、と背中から声が追いかけてきてはいたが、聞こえないふりをした。転がるようにして廊下を走り、家を飛び出した。駅に向かって全力で走っていると、あ、と声がした。視線だけその方向にやると、美優の姿が見えた。目が合った、と思った瞬間、美優の口角が持ち上がった。

「ご愁傷様!」

 コンクリートの焦げる音が聞こえる中で、楽しげなその声は鼓膜に響いた。何がご愁傷様だ、と思ったが、それを聞くことが怖かった。視線を引き剥がして、駅まで走る。熱い空気は肺に入ると苦しかった。満足に息を吸えず、酸素不足で視界がちかちかと点滅したが、それでも走ることをやめなかった。少しでも桜庭から遠ざかりたかった。

 弥生と名前を呼んだとき、確かに桜庭の瞳に欲が宿るのが見えた。絶対に勘違いではなかった。

 気がつくと、頬に滂沱の涙が流れていた。風で頬から引き剥がされた涙はコンクリートに一瞬シミをつくるだけで、すぐに蒸発してしまう。

 一癸のせいで虐められるようになったというのに、桜庭はまだ一癸のことを恋愛感情で好きなのだとわかってしまった。被害者という立場を利用して、一癸の罪悪感に漬け込もうとしている。被害妄想だと言われても、そうとしか思えなかった。本当に自身の怪我を気にしていないのなら、記憶障害のことなんて口にする必要はなかった。あれは、一癸の罪悪感を煽るための言葉だった。

 噛み締めた唇から、獣のように低い唸り声が出た。

 怪我をした桜庭を、可哀想だと思った。できることがあるなら、力になってやりたいと思った。純粋な気持ちだった。なんの打算もなかった。

 ちりちりと火花が散るような、熱を宿した桜庭の瞳を思い出す。美優のご愁傷様という言葉を思い出す。

 桜庭弥生という男は、随分と賢かった。思慮深く、相手の求めている言葉を差し出すことのできる人間だった。反対に、相手の嫌がる場所を的確に刺すこともできる人間だった。

 どこからが計算だったのだろう。

 脳内では、まだ五月になったばかりのある日を思い出していた。図書室での勉強を終え、桜庭と一癸は駅に向かっていた。学校から駅までの道は、朝と夕方は車通りの激しい道だった。ガードレールが設置されているため、その内側を歩いていればなんてことはないのだが、時折車に撥ねられた猫の死体が転がっていることがあった。

 その日も、猫の死体が転がっていた。猫の体が潰されて飛び出た内臓が道路に点々と落ちている。猫の血液を引きずり、コンクリートには生々しいタイヤ痕が残されていた。

 猫の死体の傍を通りかかった時、桜庭は一瞬その方向に視線をやって呟いた。

「可哀想にね」

 憐れみで満ち満ちた声だった。

 可哀想にね、という言葉が、いつまでも頭の中で反響していた。

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可哀想にね @kawaisounine

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