第四部

 1 黒幕を暴け!



 2035年3月10日。


 トイレット革命は,我らがラ・ニュヴェレ新聞社にも,変化の風を吹き込もうとしていた。朝から私は「携帯トイレは問題の解決策か」という特集記事をまとめていた。携帯トイレのカットを3枚も入れたのはやりすぎだろうか。首をひねってパソコン画面を睨むと,内線が入った。事件なのか。


 「はい,こちらフランツです」「フランツ!」。受話器からは聞きなれた声。顔を上げると,離れたデスクで手を振るミシェルがいた。そうか,そろそろ休憩か。私は一度伸びをして,重い腰を上げた。ミシェルの見つけたカフェ「ラ・スフレ」はオフィスビルから3ブロック東にある。


     * * *

 『リリアンと親しくなってからというもの,昼休憩はラ・スフレでとるのが僕たちの日課になりました。それまで社内の狭苦しい食堂で,変わりばえのしないサンドイッチをほおばっていたわけですから,これは僕たちにとって大きな変化でした。それに,屋外での食事は心身ともに有益なことです』

 ──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『ミシェルは何かにつけてあのカフェに行きたがりました。体にいいとか,太陽を浴びようとか。少し前まで「美少女戦士のんたん」のことしか話題にしなかったのに,急に真面目腐って「健康」とか言い出すんですから,もう笑ってしまいましたよ。何が彼をここまで変えたのか,気になって仕方ありませんでした。ラ・スフレにつくと,彼は道路沿いのテラスを陣取り,私を手招きしました。注文し,パンケーキとコーヒーが運ばれてきます。


『熱々のコーヒーを一口呑んでから,彼はぽつりと言いました。「フランツ,考えてみたんだ」「何を?」。彼の目は真剣でした。「この事件──トイレット革命──には裏があるんじゃないだろうか」。最初言われた意味が分かりませんでした。要するにのためにトイレが消えているのではというわけです。確かに“怪盗トマトン”なる過激活動グループは性的弱者とは無関係だと報道されていましたが……ただそれだけで?


『「さすがにそれはないだろ。時代の流れだよ。ジェンダーは繊細な問題なんだ。これまでだって性差は激しい議論を呼び起こしてきた。今に始まったことじゃない。


『「確かにトイレがないのは不便だ。カフェにトイレがあれば,人々は以前のようにもっとカフェを利用するようになる」。私は客足の引いたテラスを見まわしながら説明しました。「でも,争いが起きるのは仕方ないんだ。人によって価値観は違う。だろ? だから考え方の違いで衝突が起こるのはどうしようもない。じきに収まるよ」。


『ミシェルは頷き,「確かにフランツの言う通りだ」と。そしてパンケーキにバターを塗りながら,「だけど,どうしても解せないことがある」』

 ──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『「このトイレット革命って出来事は,どうもしっくり来ない」。僕はフランツに告げました。「だいたい,マイノリティーについて意見したいのなら,もっと平和に物事を進めればいいじゃないか。どうして無関係な者たちが,テロ活動をするようになるんだ。


『「フランツもそう思わないか? うまく言えないけど,誰かが,そう,マイノリティーを見下げる誰かが,逆宣伝活動をしていると思えてならないんだ」。フランツはそれを聞くと,顔をしかめました。ゴシップ誌みたいな記事を書くんじゃないぞという目で僕を見ます。


『彼はゆっくりと口を開き,「ミシェル,そういう発言は新聞記者として慎んだ方が──」「話は聞かせてもらったわ」。その時,二つ離れたテーブルから声が聞こえてきました』

 ──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『「裏組織・陰謀・談合。どれもとびきり面白そうなテーマじゃない」。タイトスカートの女性は私たちに歩み寄り,さっとサングラスを外しました。「リリアン!」。ミシェルが名前を呼んだ女性,それはまぎれもない,TOLの記者会見で見た気鋭のジャーナリスト,リリアン・ベレッタ氏その人でした。彼女は言います。「ミシェル,その話題,じっくり考える価値がありそうね」』

 ──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『リリアンは椅子を持ってきて,どかりと腰を据えました。「その探偵部にわたしも入れてよ! ちょうどわたしもトイレ消失のミステリーを考えてたところ」。彼女は手を組んで,不敵な笑みを浮かべます。「やっぱりジャーナリストは探偵のようでないと。でなきゃ,真実の記事なんて書けやしないわよ」。驚きました。彼女もこのカフェを利用していたのです。


『「リリアンは昼休憩?」「そうよ。何か変? わたしがいたら邪魔?」。彼女と息が通じていることが嬉しく,「全然。むしろ大歓迎だよ!」と叫びました。彼女は店員を捕まえて,「すいません,コーヒーもう一杯。砂糖たっぷり入れて」とオーダーしていました。


『「あんまり飲むと,……ここトイレないんだよ」と注意すると,「だからこそ陰謀を暴くんじゃない!」とテーブルを叩いていました。「ミシェル,フランス国民は危機感がなさすぎるのよ。わたしたちの手でトイレのある世の中を取り戻さないと! いつまで経ったって,カフェで安心してエスプレッソも飲めない」』

 ──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『コーヒーが運ばれてくると,「で,ミシェル。その裏組織って何だと思うの? フリーメイソン? テンプル騎士団? イルミナティー?」。彼女はとても食い気味で,相棒の陰謀説に乗り気でした。ああ,妙なことになってきたと思いました。リリアン・ベレッタという人物は,なるほど,こういうキャラクターなんですね。オタクのミシェルと息が合うわけです。


『ミシェルの方を見ると,さっと髪をなびかせて,「よく聞いてくれた」とウインクしていました。もうどうにでもなれ(笑い)。


『「まず,世界的な秘密結社は今回の件に無関係だと思う」。彼は説明を始めます。「今のところ,事件はフランス国内だけにとどまっているし,銀行家たちが性的弱者を陥れることによって利益を得ているとも思えない」。彼はパンケーキを切り分けて,一つをフォークで刺しました。「社会的性差の壁がなくなったり,同性愛者が増えたりすると,困るのは国家だ」。


『ミシェルは,かわいらしい10歳くらいの女の子がいるテーブルを見つけました。旅行客でしょうか,アジア系の少女が両親と昼食をとっていました。彼は立ち上がり「お嬢ちゃん,こっち来てくれない?」。親御さんに事情を説明し,探偵部に加わってもらうことなりました。一体何をするのでしょう』

 ──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『「お待たせ。友達のカレンちゃんだ」。僕は二人に,おさげの女の子を紹介しました。「始めまして,お兄さんに,美人のお姉さん。カレンです。夢はケーキ屋さんになることです」。彼女は深々とお辞儀をしてくれました。「かっわいいー!」「何誘拐してんだよ」。リリアンとフランツはそれぞれに反応しています。


『僕は彼女を見ながら喋りました。「二人とも知っているように,国家の基盤は若者たちだ。国に利益が還元されるためにも,政府は学問教育に多大な資金を投ずる。ところが,性的マイノリティーが許容されると,一体どうなるか」』

 ──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『「国益に適う人材が不足する?」「ご名答!」。リリアンの答えにミシェルが応じました。「マイノリティーが増えると,少子化が進む。社会の基盤を構成する成員が減るからね。そうなると労働力も減るし,税収もなくなる。収入源が,消えてしまうんだ」。「ありがとう」と耳打ちし,彼は少女を去らせました』

 ──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『「つ,つまりフランス政府が黒幕ってこと? 収入源を確保するため,LGBTに嫌悪感を抱くような画策をしてるってわけ?」。彼女は身を乗り出して僕の話に聞き入っていました。「その可能性がある」。


『横からフランツが遮り,「いやいや。その理論はおかし……」「可能性あるわね!」。彼女はフランツを退けて,親指を立てました。「じゃあ,さっそく」「ああ,記事にしてみるよ!」。僕も親指を立てておきました』

 ──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。


『「ぶあっかもーん!」。ニルスの怒号はこっちにまで聞こえてきました。ボスは穴という穴からシュッシュと蒸気を噴き出しながら,ミシェルを叱っていました。「何だね,この記事は! 陰謀? 黒幕? そういうことは大衆向けのリュムール誌でやれ!」。次の日,ミシェルは叱責を受けていました。


『「ですが編集長,政治を批判するのは我々の務めでは? 大統領は今の今に至るまでトイレ問題を国会で議論していません。何か企みがあることは明らかです!」ミシェルが反論すると,彼はデスクに自社の朝刊号をダン!と広げ,「君は新聞も読んでいないのか?」と。そして唾が飛ばしながら,「大統領シャイエは今週から,トイレ問題を,実際に国会で議論するんだ!」』

 ──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。

     * * *


 ニルスの言葉は嘘ではなかった。トイレ問題は,今や国家を動かし始めていたのである。そして,この大統領の行動が,後々,3番目のモンスターをおびき出す。


 2 シャイエ大統領の決断



 2035年3月21日。

 パリ,エリゼ宮。



     * * *

『緊急の招集がかかりました』

 ──ジャンヌ・ド・ラランド。元外務大臣。


『テロでも起きたのかと思いました。急いで階段を駆け上がり,大統領のいる閣議室へ向かいました』

 ──アダム・デュカス。元国防大臣。


『扉を開くと,国防大臣など17名のほかに,学者や有識者の方が顔を揃えていました。最後だったので扉を閉め,さっと着席しました。いつもの定例閣議でないことはすぐに判りました。では何の集まりなのでしょう』

 ──ジャンヌ・ド・ラランド。元外務大臣。


『大統領は真面目な口調で「現在,我が国を震撼させている最も重大な問題がある」と述べ,テレビのスイッチを入れました。映し出されたのはニュース番組で,パリのトイレで起きた連続殺人事件について報道していました。たった今起きたとのことでした』

 ──アダム・デュカス。元国防大臣。


『チャンネルが変えられます。リヨン郊外でのインタビューで,「なんとかしてほしい。トイレのない生活にはうんざりだ。いつまで携帯トイレを持ち歩かないといけないんだ!」と男性が述べていました。大方の「察し」がつきました』

 ──ジャンヌ・ド・ラランド。元外務大臣。


『全員にレジュメが渡った後,大統領は一人ひとりの顔を見てから言いました。「速やかに集まってくれたことに感謝する。今日より我々は,『トイレ問題』を,解決すべき最優先事項と位置づける」。ざわつきました。トイレのピクトグラムについて国会で議論することになったのです。あの閣議は,各省がこの点で緊密に連携し,問題を解決するために全力で取り組むことを励ますものだったのです』

 ──アダム・デュカス。元国防大臣。


『ジャンヌ・ド・ラランド(Jeanne de Lalnde)外務大臣が唐突に立ち上がっていました。「何か意見でも?」と大統領が尋ねると,彼女は何かを言い淀み,しばらくしてから,「元老院はどう動くと思いますか?」と先々を見越した発言をされていました。さすが政界のジャンヌダルクこと,ラランド大臣です。彼女の発言を皮切りに,その場でディベートが始まりました』

 ──イレール・ラフィー。厚生副大臣。


『議論になったので,真っ先に「廃止すべきだ」と叫んでおきました』

 ──R・クライン。心理学者。ルネ・デカルト大学。


『誰かが「ピクトグラムは撤廃すべき」と言ったので,「それは最終手段です。まずは代替案を考えるべきです」と述べました』

 ──アダム・デュカス。元国防大臣。


『まったく恥をかくところでした。危なかったです。おちゃめなシャイエ大統領のことですから,またいつもの“ドッキリ”なのかと思い,「その手には乗らんぞ,シャイエよ! 政界のジャンヌダルクことジャンヌ・ド・ラランド様が成敗してくれよう!」の持ちネタで応じるところでした。本当にしなくて良かったです。どの口が「察しがいい」なんて言うのよ(ペチペチ)』

 ──ジャンヌ・ド・ラランド。元外務大臣。


『絵で区別しようとするから問題が起きるのです。色で区別すればいいのではないでしょうか。例えば,男性用トイレは「青」,女性用トイレは「赤」とか』

 ──R・クライン。心理学者。ルネ・デカルト大学。


『色分けの話が出たので,一言言わせてもらいました。「そのやり方は間違っている!」。なぜって取り組んでいるのは性差問題だからです。男女の色は決まっているという別の問題が起きるのは目に見えています』

 ──イレール・ラフィー。厚生副大臣。


『ですからトイレに男女の区画を設けることがそもそもの原因です。確かにトイレは沢山必要ですが,区画を設けるなんてバカバカしいことです』

 ──チューペル・ブリア・サバラン。精神分析学者。サン・ドニ大学。


『例えば,ヴィタルカード(保険証)をスキャンできればいいのです。そうすれば,戸籍上,男か女かが明確になり,利用に際して問題が生じることはないでしょう』

 ──マリー・コスト。法学者。パリ北大学。


『トイレの中に設置するしかありません。ダミーでもいい。監視カメラの導入を検討すべきです』

 ──アダム・デュカス。元国防大臣。


『色々出ました。まず,以前のように性別でトイレを分けない方式では,充分な数のトイレが確保できません。2030年以降観光客が減っているのは,不況というだけでなく,トイレの利便性にも原因があります。トイレ環境を戻すのは,資金が必要である上に,とても合理的な方法とは思えません。また同じ理由で,カード方式は人々を困惑させます。海外からの客人はどうするのでしょうか。カメラも暴動に対する根本的な解決策を示しません』

 ──ジャンヌ・ド・ラランド。元外務大臣。


『前代未聞とはまさにこのことです。誰がこんな時代を予想していたでしょう。自由な風紀は人々に繁栄をもたらすはずだったのです。何が問題なのでしょう。どこに原因があるのでしょうか。「困ったことになった」。私は眼鏡をはずして,一人呟きました』

 ──R・クライン。心理学者。ルネ・デカルト大学。


『トイレ設置を増やすか,法規制を強化すべきではないでしょうか。あるいは,携帯トイレの清潔性とか人権についてもっと議論すべきでしょうか。たかがトイレの問題なのに,なんでこんなにややっこしいんでしょう』

 ──マリー・コスト。法学者。パリ北大学。


『ピクトグラムを現に撤廃している地方もあります。撤廃しないのであれば,それらの地域には,どう対応すべきでしょうか。撤廃するのであれば,信念のもとに撤廃していない地域にどのように納得してもらうのでしょうか。それに加え,議論を一層難しくさせていたのは,「異性の格好をすること自体が法律違反ではない」という事実でした』

 ──チューペル・ブリア・サバラン。精神分析学者。サン・ドニ大学。


『私の父はよく言っていたものです。「アダム,他の人の気持ちになって考えなさい。規則をただ当てはめるのではなく,人の心に訴えなさい。そうすれば自分も同じ扱いを受けます」。寛容であることの大切さをずっと学んできました。トイレット革命は,人々がより寛容になるための成長痛のようなものだと私は思います。確かに今はつらいですが,これを乗り切れば,一人前の“大人”になれるのです』

 ──チューペル・ブリア・サバラン。精神分析学者。サン・ドニ大学。


『自由の大切さがこれほど謳われている今日でさえ,性別に執着しようとする人たちがいる。悲しいことです。型にとらわれ過ぎて,本来の目的を見失っているのです。服装や趣味や髪型などは,何のためにあるのですか? それは,自分が自分らしく生きるために存在するものです。そうではないでしょうか。「こうすべきである」とか「これでないといけない」などと他人が指示するものではありません。


『Tシャツを着ていて,「その絵柄は女性用なので,この絵柄にすべきです」などと言われたい人はいません。自由だからです。服装や髪型は,自分らしく生きるために存在しています。目的を果たせないような習慣は廃されるべきです』

 ──R・クライン。心理学者。ルネ・デカルト大学。


『かつて南アフリカで行われていた人種隔離政策アパルトヘイトはどんな政策でしたか? 人々を区別し偏見を煽る政策ではありませんでしたか? 人種が違うというだけで,結婚に関して規制を設け,生活圏を奪い,必要な医療も受けさせず,一部のトイレに出入りすることも許さなかったのです。


『では,我々フランスはどうするでしょうか。「スカート人禁止」の看板を掲げ,人々を区別すべきですか? あるいは,そのようなイデオロギーを助長するピクトグラムを用いて,人々を不安にすべきでしょうか。答えは明らかです』

 ──チューペル・ブリア・サバラン。精神分析学者。サン・ドニ大学。


『時々,ピクトグラムについての社会問題を,偏見や差別の問題と同列に置く人がいます。でも,それは間違いです。なぜなら差別とは,理由もなく人々を疎んじたり軽んじたりすることだからです。トイレの区別は,理由もなくなされているものではありません。むしろ,社会が上手く機能していくために最低必要なマナーやルールの類です。


『例えば,「交通基本法」は,自動車と自転車と歩行者に区別を設けます。はっきりとした区分のために,道路標識さえ設けるかもしれません。しかしそれを差別的だという人はいません。なぜでしょうか。その区別が,事故を防ぎ,安全なインフラストラクチャーを可能にしているからです。ピクトグラムもこれとよく似ていると思います』

 ──アダム・デュカス。元国防大臣。



『なにもこれは,人々に冷たく当たるという意味ではありません。人に対する態度と,行為に対する態度には違いがあって当然です。アルコール依存症患者には,親切で辛抱強くなければならないでしょう。ある場合特別な配慮も必要です。でも,アルコール依存症「そのもの」に対しては,断固とした姿勢が必要です。


『同じように,突飛な服装をしたり性別がよくわからない人に対して,偏見を持つべきではありません。ある場合特別な配慮も必要です。でも,「放任主義」を受け入れたいとは思いません』

 ──マリー・コスト。法学者。パリ北大学。


『みなさん,これは過失ではないのです。こう考えてほしいものです。男性は男性としての遺伝子を持つために,女性から卑下されますか? いいえ。女性はどうでしょう。やはりいいえです。封建主義は過去のものです。


『では,男性でもなく女性でもない遺伝子を持つために,他者から卑下されるべきでしょうか。もちろん「いいえ」です。科学が発達し,遺伝子について理解が進んだこの時代に,性別についてあれこれ揉めること自体が愚かしいことなのです』

 ──アダム・デュカス。元国防大臣。



『科学とは,現象に対する客観視された数学的・論理的体系のことです。科学は,政治論争に意見することはあっても,決定することはありません。遺伝子レベルに違いがあるから容認するのであれば,すべての行為が容認されてしまいます。


『肥満も遺伝子レベルの差異によって生じることがあります。あー,私がそういう人間ですから誤解しないでください。そのような人を疎んじる傾向が一般には見られます。とても残念です。でも,政府が国民の健康を思い,一定の基準を満たすよう国民に働きかけるとしても,それは道理にかなっているのです。誰も「あの人は太りやすいのだから,大食癖は仕方ない」とし,健康診断を免除させようとしますか?


『フランスは法治国家ですから,行為の全責任を遺伝子に求めることはできないんです』

 ──マリー・コスト。法学者。パリ北大学。


『マイノリティーであるゆえに,後れを取る。この辛さが,あなたには解りますか? いい人を見つけても,告白することも付き合うこともはばかられます。それはトイレが発言権を持ちすぎているからです。


『今でも,ピクトグラムによって悲しい思いをしている人たちが大勢います。人間が人間らしく生きることを保証する。これが国家の務めでありませんか? ピクトグラムに描かれているを守り,社会に存在するを守らないのであれば,何が人権でしょうか』

 ──R・クライン。心理学者。ルネ・デカルト大学。


『「馬鹿野郎! 差別差別うるさいんだよ!」。あの時はもう少し紳士的に行動すべきでした。反省しています。声を荒げたのもまずかったです』

 ──イレール・ラフィー。厚生副大臣。


『投げられたペンが私の額に当たったので,“怒り心頭”でした。出された資料をビリビリに破いて,相手に掴みかかりました。大統領は首を振り,頭を抱えていました。乱闘になりだしたので,彼は手を叩いて言いました。「諸君。落ち着きたまえ。話し合いはまた別の時に行おう」』

 ──アダム・デュカス。元国防大臣。


『焦点がずれていました。最初はピクトグラムについての話し合いだったのに,だんだん感情論になっていき,そのうち野次の飛ばし合いになりました。どうしてトイレット革命が暴動を伴うのか,少し理解できたような気がしました』

 ──ジャンヌ・ド・ラランド。元外務大臣。


『シュラの間(閣議室)を退室するとき,手元の資料が読めないことに気づきました。私が破ってしまったからです。掴みかかった大臣に平謝りし,資料をコピーさせてもらいました(笑い)。大臣は本当はいい人なんです』

 ──チューペル・ブリア・サバラン。精神分析学者。サン・ドニ大学。


『結局,あの閣議で皆が一致したのは,意見が一致していないという点だけでした。これからどうなるのだろうと思いました』

 ──イレール・ラフィー。厚生副大臣。


『解散し,官邸を出ようとしたときに,礼服に身を包んだ人物とすれ違いました。「ご足労をお掛けしました」。振り返ると,大統領が彼を出迎えていました。その人物は何かを耳打ちし,大統領は大きく頷きます。会話は一部でしたが、聞こえました。礼服の男性はこう言っていました。「『二人は一体』,これは神の掟です。私たちが神のみむねを果たすよう努めるとき,フランスは繁栄します」』

 ──ジャンヌ・ド・ラランド。元外務大臣。

     * * *


 批判の多い大統領シャイエであるが,決して鈍足だったわけではない。トイレ問題が幾つもの社会問題モンスターを伴っており,当時はどのように戦えばよいか判らなかったのである。


     * * *

『政界がこの難解な問題にメスを突き入れたこと,まずはこの事実に目を向けるべきだと思います。それはシャイエが,「公平な政治」を公約に掲げていたからこそ実現したものです。彼がいなければ,今もトイレ問題は,公の場で論議されていなかったのではないかと私は思います』

 ──アベル・ブロンダン。歴史学者。パンテオン・ソルボンヌ大学。


『どう考えても最後の悪あがきだ。脱スペイン・ショックはかなわなかったし,雇用の創出も道半ばだった。支持率が低かったので,藁をも掴む思いだったのだ。トイレ問題は彼の支持率を一時的に上げることに成功した。社会の安定が目的だったわけではない。もしそうなら,来年度の予算案にもっと力を入れていただろう』

 ──ベルベット・マスク。リュムール誌編集長。

     * * *


 トイレ問題解決に奮起した大統領ノルベール・シャイエであったが,彼の在任中に,この問題は具体的な進展を見ることがなかった。


 それは,首相ギデオン・ブノワ(Gedeon Benoist)がフランス民主党に属しており,ピクトグラム廃止に難色を示したからとも言われる。そうした事情も相まって,フランス史におけるシャイエの評価は,それほど高くないようである。


 トイレ問題を解決できなかったためか,シャイエの支持率は48パーセントから15ポイントほど後退し,それは彼の任期中続いた(*)




 ──────────

(*) シャイエの功績の一つは,「シャイエ・メソッド(la Chailley méthode)」と呼ばれる性犯罪抑止政策である。これはトイレット革命が始まってから施行されたもので,性的攻撃に対する罰則強化が含まれている。現行の法律も「シャイエ・メソッド」の影響を受けている。


 より詳しくは,次の書籍を参照されたい。「ヘッセとホートによる現代フランス史 第3巻」357ページ,「トイレとねじれ国会」(G・アバック)114ページから116ページ。

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