第8話

 *


 リチャードにも別れの挨拶をしに行った。リチャードは、私の計画を聞いて、紅茶を飲みながら「じゃあ、僕は別の人をまた雇わないとね」とごく軽く言った。

 それから私たちは向こう側の話をし、リチャードは知っている限りの東京の情報を教えてくれた。私は彼にテキストを返した。それを借りてから、もう半年が経とうとしていた。私が「日本語」を読む能力はおおむね小学四年生並みになった。本当はもう少し勉強したかったが、いつまでもグズグズはしていられない。どこかで見切りをつけなくてはならなかった。

「……結局逃げられないから、だから、君が間違っているだなんて僕には言えないんだよ」

 私が聞き返すと、リチャードは「何でもない」と言って、窓の外を見た。冬の終わりの柔らかな太陽の下、洗濯物が揺れている。

 空になったカップを置いて、玄関に向かおうとした時、廊下で後ろから呼び止められた。リチャードは白い壁紙に肩を預けて立っていた。

「二〇〇一年に初めて日本に来た時、僕はまだ若かった。この国で漫画家になろうだなんて全然思っていなかった。普通にアメリカでずっと暮らすんだって思ってたよ。単なる旅行。そのつもりだった」

 彼は廊下のフローリングを少し見てから、私に視線を戻し、眼鏡を押し上げた。

「僕が羽田に着いたのは、九月十一日の夜遅くだった。イミグレーションを抜けて、待合かどこかだったのかな、テレビがついていた。なんとなしに見たその画面では、ワールドトレードセンターのツインタワーが煙を上げていた。そして、それは中継ではなく、既に編集されたニュース映像だったんだ。僕が見ている前で、タワーが崩れた。もうさ、旅行どころじゃないよね。すぐに実家に国際電話をかけたよ。別に僕の実家はサンフランシスコだし、ニューヨークに行ったり飛行機に乗ったりする予定の親族もいないはずだった。それでも、僕はすぐに電話を掛けた。そして、繋がるのを待ちながら、『手遅れだ』と思った。僕のアメリカは僕が見ていない所で終わったんだと思った」

 私はリチャードがその話をしていることに戸惑う。私はその時、六歳だった。幼稚園のテレビでニュース映像を見たおぼろげな記憶があるだけで、リチャードの話をちゃんと受け止められるのか自信がなかった。今、彼はとても大事な話をしている気がするのだが。リチャードは恐らくそんな私の様子に気付きながらも話を続ける。

「だが、実際帰国してから僕があの国に居がたいと思ったのは、ツインタワーがなくなったからでも、ペンタゴンが傷ついたからでも、もう一機の飛行機が墜落したからでも、そこで大勢亡くなったからでもなく、アメリカが「テロ」と呼ぶものとの戦いが始まったからだった。そして、あの日が、僕にとって本当には終わりでも始まりでもなかったのだと気付いてしまったからだった。僕はあの日の実行犯の側には決して立たない。しかし、僕にとってはそうだった」

「それから、僕はどこか違う国を探したはずだった。アメリカに帰ってから日本のことを思い出して、必死に日本語を勉強した。途中で漫画も好きになった。日本で漫画家になりたいと言って出てきたけどね、本当は僕は逃げ出したかったんだ。あの国から。でも、再び羽田に着いてみると、そこはもう、僕の知っている日本ではなかった」

「僕は嘘つきなんだ。漫画家になるなら、きっと、僕はニューヨークを描くべきだったのだろうし、『テロ』という言葉の使い方を骨抜きにするために戦うべきだったのだろうし、もしかしたら、向こうでトンネルでも探してみるべきだったのかもしれない。僕がそれをすることはなかったのだけれど」

 だから、どうということじゃないのさ。ただ、最後に君に聞いてもらいたくなっただけで。リチャードは壁に肩を預けるのをやめて、私に手を差し出す。

「本当は僕の方から手を出しちゃいけないんだけど、許してほしい。さようなら、マイフレンド。君の旅が成功することを祈っている」

 私は初めてリチャードと握手をした。

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