第7話

 *


 私は向こう側の日本を旅してみようと思った。津田さんと同じように、東に向かって。まだ見たことのない東京を見て、できれば、彼が通れなかったと言った青函トンネルまで行ってみようと思った。当然向こう側には交通手段もなく、車が満足に通れるほど道路も整備されていないので、歩きとなる。

 一体どのくらい時間がかかるのか。津田さんは三年で帰ってきた。私はもっとかかるだろう。そして津田さんほど要領の良くない私は、途中で野垂れ死にする可能性の方が高かった。隣県まで行けたらいい方だろう。でも、私は行ってみたかった。きっと何も新しいものは見つからないのだろうと思った。だとしても、私は正しく絶望したかったのだ。たとえ、その結果行き着く先が、屋上のパラペットの上なのだとしても。

 こちらの世界で一番問題なのは夫だった。いくらなんでも旅行だと言って、妻が数年姿を消すのは怪しすぎる。しかも、向こうは電波がないから、連絡が一切取れない。向こう側のことを隠して、適当にごまかせる範疇を越えていた。

 私は消灯した後、夫の寝室を訪れた。夫は少し驚いたようで、寝室の電気をつけようとしたが、私はその手をとどめた。

「話があるの」

 私は夫の手を取って語った。向こう側の日本のことを。向こう側にいた人たちのことを。私がやってきたお使いのことを。そして、私が旅に出ようとしていることを。それは客観的に見れば、いきなり気が狂ったようにしか見えなかった。或いは、夫と別れるために、呆れるくらい低品質の嘘を並べ立てているか。ちょっと待ってよ、ねえ、待ってと言う夫に、とりあえず最後まで話させてと言って語り続けた。

 私が最後まで語り終えると、夫はすすり泣きを始めた。こらえようとしているらしいが、鼻をすするのはやめられないらしかった。私は「ごめんなさい」と呟く。

「いや、違って、そうじゃなくて」

 わっと夫は思いっ切り泣き始めた。私は大人の男の人が、目の前でこんなに泣いているのを見るのは初めてだった。しばらくそうしてから、夫は腕で鼻の下を拭い、嗚咽の切れ間に、「倫ちゃんのこと分かってあげたいのに、分かってあげられなくてごめんね」と言った。そうだ、夫はそういう人だったと、私は静かに息を吐く。

 しばらく嗚咽が続いて、段々夫は落ち着いてきたようだった。身じろぎした夫は肩を震わせておかしそうに、「ねえ、倫ちゃんにサバイバル日本旅行は無理だよ。火とかちゃんと熾せるの?」と言いながら、私を隣に座らせて肩を抱いた。夫にそんなことをされるのは随分と久し振りだった。

「僕と一緒にこっちで暮らそうよ。贅沢はできないけど、僕たちきっとこのまま暮らせるよ。人生で何かしなきゃいけないなんて嘘だよ? お金儲けをしたい悪い人たちが、ずっとそんな嘘をついているからみんなその気になっちゃうだけで。二人で何事もなく暮らせるって、とっても尊いことのはずじゃない? だから」

「私があなたと結婚したのは――」

 夫は黙った。

「私があなたと結婚したのは、こっちでもやっていけるんだって思いたかったからなの。私はもう既に向こう側を見てしまっていて、でも、どうしたらいいのか分からなくて。こっちでやっていける保証が欲しかった。あなたを利用してしまった。でも、それじゃ駄目だったの。だって、それでやっていけるくらいなら――私にあれが見えるはずなんかないから」

 夫は何も言わなかった。私の肩を抱く手が緩んだ。私も何も言わなかった。結婚って、それなりの合意が必要だったわりに、こうやっていきなり終わっちゃうんだなと思った。ちゃんと考えれば、それは全然、いきなりでもなんでもないのだけれど。

「初めて会った時のこと覚えてる? あの駅前の潰れた喫茶店で待ち合わせたよね」

 夫の声にはもう涙が滲んでいなかった。肩を抱いていた手は降りて、今は私の左手を握っている。

「会った時にね、なんだ、普通に笑うんだなって思ったよ。写真は全部仏頂面だったのにね」

 私と夫はマッチングアプリで出会った。確かに夫の言う通り、私のプロフィール写真に笑っている写真は一つもなかった。私には自撮りをする習慣がなく、スマホのフォルダには、最近の私が笑顔で写っている写真がなかった。そして、マッチングのために自撮りをしながら笑うだなんてことが、私には許せなかったし、許せない行為をわざわざするほど、私はその先に期待なんかしていなかった。そうしてほとんどLikeも付かないなか、反応を送ってきたのが夫だった。

「僕は写真を見て、きっとこの人になら僕ができることもあるはずだって思ったんだ。罰なんだね、これは」

 とても夫らしかった。夫が罰を受けるかどうかにかかわらず、私は罰を受けるだろうと思った。こういう人だと、根底の所で分かりあえることなんかないと最初から分かっていながら、打算で一緒にいた罰を。そして、二人とも既に罰せられていたのだと気付いた。結婚生活の間、ずっと静かに、何も起きていないのだと思い込みながら罰を受け続けていた。そういうことに、後から気付いてばかりだ。

「……籍は残しておく。僕は、帰って来るのを待っているよ」

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