独身中年男性がハニトラハッカーの美青年に捕まってお願いされる話
八億児
第1話
グルダスタに空はない。
タウリル・シェンが歩いているこの路地裏も、その混沌の一種だった。
だが俺はこの路地裏へ入ってから、少し気が楽になるのを感じていた。
自分を知る人間が少なそうな、住居のある場所から少し離れた区画。たまには気楽に飲もうかとその
普段はグルダスタの中でも
ひと
防護シールド付きの手袋を着けた左手を、トレンチコートのポケットに突っ込む。小型のデータパッドの感触に、店に忘れてはいなかったことを確認して
突然、漏れ聞こえていた音楽が大きくなった。
反射的に視線を向けると、少し先にあるナイトクラブの裏口が開き、一人の
酔客が完全に路地に出るとナイトクラブ裏口の重い扉は自ら閉じていき、音楽のボリュームも元に戻った。扉という支えを失った彼は、壁にもたれるとずるずると崩れるように地面に落ちて動かなくなる。眠ったのだろう。おそらく朝までにはほぼ間違いなく、クレジットを抜かれて身ぐるみを剥がされるのは免れないはずだ。
歩くうちに距離が近付くと、壁にもたれて仰向いて眠っている酔客の顔が見え、そこで少し驚いた。紫がかった長い黒髪と黒い眼帯で片目が隠れているが、路地裏の安っぽいネオンライトに照らされていてもいやに美しい男だと分かる。
こんな場所ではクレジットを抜かれるだけでは済まないかも知れないと嫌な想像をしたが、こんな男ならそのうち連れが探しに来るだろうとも思い、視線を外す。
だが不意に路地の先から、女の短い悲鳴が上がった。
見ると路地から出た道路に、三、四人連れだった荒っぽい雰囲気の若い男達がいる。一人が通りすがりに若い女の腕を
ここは確かにそういう場所だった。
再び眼帯の男に視線を向けたが、起きる気配はない。不自然に
くそ、と呟いてから、俺は酔っ払いに近付いて声をかけた。
「おい、あんた」
だが返ってくるのは
「ん、んぅ……何れすかぁ……」
ろれつの回っていない返答。もたつく舌にも、ちらりとピアスが光る。
「こんなとこで寝てたら死ぬぞ」
「寝て……ないれす」
言いながら
「さっきそこの店から出てきただろ。さっさと連れ呼んで送って貰え」
「ツレぇ? あのバカとはもう、昨日からツレなんかじゃない……」
よく分からないが、今日は恋人と別れたやけ酒か何かだったのだろうか。
「その連れじゃなくても、さっきまで誰かと一緒だったりしねえのか」
「ない」
「一人か」
「そお。寂しんれすよぉ~」
言いながら、眼帯の男は俺の首に腕を絡めてきた。様子がおかしい。いやに綺麗な顔が近付いてくる。作り物めいているが
キスをするつもりだな、と気付く。眼帯の男が、ぬるりと
だが、酒の匂いがない。
俺は
眼帯の男は不満げな顔をして見せたが、すでにその目に酔いの気配はなかった。
見抜けなかった己の愚かさを悔やみながら、掴んだままの整った顔をゆっくり遠ざけた。
「おっと、そのお綺麗なちーせぇ顔それ以上近付けんなよ。……おい本当に小せぇな。握りつぶせそうだ」
左手に少し力を込めると、眼帯の男は諦めたように黙って俺の手を振り払った。
「あんたのそのエロい舌のエロいピアス、接続端子だろ」
男の舌にあるそれは一見ピアスのように見えるが、おそらくデータコネクタの一種だ。指に備え付けているハッカーはたまに見かけるが、舌は珍しい。
「よく気付きましたね。さすがは《魔女の息子》だ」
眼帯の男は慌てた様子もなく立ち上がり、服についたゴミを軽く払う。手足が長いとは思っていたが、まっすぐ立つと俺ほどではないが長身だ。
「……何の話だ」
俺はゆっくり立ち上がりながら、まるで意味が分からないといった顔をする。
この辺りのハッカーが《魔女》と言えば、それはグルダスタの
そして《魔女》は俺の育ての親でもあり、俺が今の仕事の基礎を教わった人間でもあった。とはいえ俺には彼女のようなハッキングの才能は無く、今は主にアンドロイドの
「分かっていることなんで、あなたが何を言っても意味はありませんよ。珍しい場所でお見かけしたので、《
俺が《魔女》の関係者であることはその気になって調べれば分かることだろうが、むしろ調べれば俺が彼女のような有能なハッカーでないこともすぐに分かるはずだ。そのおかげか最近は、俺を《魔女》の
だが何故、今になって。
「最悪の挨拶だな。妙な親切心なんか出すんじゃなかった」
「おかげでこちらは、あなたはどうやら想像より善人らしいと知ることが出来ましたけどね」
「そうやって善人やスケベな酔っ払いから、舌でクレジットでもぶっこ抜いてんのか?」
言いながら、俺はさりげなくコートのポケットにあるデータパッドに触れ、念のためシールドレベルを上げた。俺に専門のハッカーほどの技術は無いが、それでも何の対策もしないよりマシだろう。
「人聞きの悪い。今回は《魔女の息子》のデータに興味があっただけです」
「さっきから人のこと息子息子って、どうせ俺の名前くらい分かってんだろ? こっちはアンタがハニトラハッカーらしいことしか分からねえってのに」
「普段からこんなことをしているわけではありませんが……。ですが確かに、お互い自己紹介がまだでしたね」
眼帯の男が、片目を細めて俺に
「これから、どこかで一杯どうですか? 奢りますよ」
「……お前、頭おかしいんじゃねえのか」
「酒飲みたくてこんな回りくどいことをしたわけじゃねえだろ? 直接正面から来いよ」
すると眼帯の男は、困ったように首を傾げた。その表情は幼く、さっきの酔っ払いと同じ人物だと思わせるところがある。
「それに関しては、少し難しいところがありまして。あなたのところに堂々と出入りするには、こちらの立場上の問題が」
「なんだよ」
「私は──」
言いかけて、男が周囲を窺う。
「何だ?」
「いえ、一応」
眼帯の男が俺の耳元に顔を近づける。一瞬警戒したが、その動きに色めいた気配は皆無だ。
「──私はグルダスタ管理協会の
眼帯の男──エレインダーは、真剣な声でそう囁いた。
管理協会の監督員と言えば、複数の居住区に一人しかいないかなり高い地位だ。それが、協会にとっての
どうやらこの男は、本当に頭がおかしいようだった。
独身中年男性がハニトラハッカーの美青年に捕まってお願いされる話 八億児 @hco94
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