気になる存在

【その日の夜──歩の自宅】


部屋の灯りは落として、ベッドの上に仰向けになっていた。


天井をぼんやりと見つめながら、歩は小さくため息をつく。


「……白鳥さん」


静かに名前を呟くと、彼女の顔が脳裏に浮かぶ。

笑ったときの無邪気な表情。怒ったときのまっすぐな瞳。

そして、最後に見せたあの決意の笑顔──


「……」


気づけば、何度も思い出している。



部屋の隅に置かれたローテーブルの上には、あの日もらった手紙が、今もそっと置かれている。



歩は起き上がり、ゆっくりと足を床に下ろす。パジャマの裾が膝に触れ、少しだけ冷たい。


手紙を手に取り、封筒ごと指先でなぞる。


(本当に……何がしたかったんだろ、俺)


あの遊園地の帰り。笑って、じゃあね、と手を振った彼女の背中。


(あの時……もっとちゃんと、自分の気持ちに向き合うべきだったのかもしれない)


けれど、自分は逃げていた。社会人と高校生。立場とか、年齢とか。そんな“常識”を盾にして。


歩はため息をつきながら、もう一度ベッドに身を投げる。


そして――


「はぁ……俺、何してんだろ……」


静かな部屋に、自分の声だけが溶けていった。



だが──


(あれ以来、白鳥さんは一度も姿を見せていない)


連絡もない。来店もない。

本当に、約束だけを残して──消えてしまったようだった。


(……どうしてるかな)


ふと、そんな思いが胸をよぎる。


(もしかして……もう、恋人でもできたのかな)


いや、当然だろう。

あんなに可愛くて真っ直ぐな子を、クラスの男たちが放っておくはずがない。


(……そりゃ、そうだよな)


そう自分に言い聞かせるように、目を閉じた。


──だけど、胸の奥が妙にざわつく。

恋愛感情なのか、救ってあげた過去に対する責任感なのか、自分でもよくわからない。


ただ一つ確かなのは──


(……また会いたい)


その想いだけだった。


歩はそっと目を閉じ、静かな夜の中に溶けていった。


数日後


夕暮れの空が、橙から藍へとゆっくり色を変えていく。


白鳥美月は駅前の通りを、一人で歩いていた。制服姿ではなく、淡いピンクのカーディガンにシンプルなスカート。高校卒業を控えた今、少しだけ大人びた服装。


手には、買い物袋。母に頼まれた日用品を入れて、帰路につこうとしていた。


(今日、たまたまこの道にしたけど……)


ふと、視線の先。

人混みの中に、見覚えのある後ろ姿があった。


(……あれ?)


コーヒーショップの紙袋をぶら下げ、いつものゆっくりした歩調。


(……歩さん……?)


一瞬、心臓が跳ねる。無意識に足が前に出そうになる。


「……!」


でも、寸前で止まった。


(ダメ……)


自分の中で、“会いたい”と“我慢しなきゃ”がせめぎ合う。


(……私が勝手に、あと少しって決めたんだもん。ちゃんと、約束を守らなきゃ)


歩の背中を、じっと見つめる。


(本当は……今すぐ声をかけたい。顔を見て、元気だった?って笑いたい。でも……今はまだ)


拳を強く握る。唇をきゅっと噛んで、そっと後ろを振り返った。


──そして、美月はそのまま走り出した。


風が髪を揺らし、心の中で何かがぎゅっと締め付けられる。


(絶対、また会える。ちゃんと、胸を張って)


(あのとき言った通りの私になって、ちゃんと──“約束”を叶えに行くんだから)


遠ざかる雑踏の中、歩はその存在に気づかないまま、静かに前を歩いていた。





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