白い煙が目に沁みて

霜月このは

白い煙が目に沁みて

 息を吸う。透明なボトルがコポコポと音を立てる。白く濃い煙を吐き出しながら、光るランプに彩られた天井を仰いだ。


 薄暗い店内では、誰も目を合わせず、時折ボソボソとした会話が聞こえるのみ。白い雲に覆われながらただ気怠い時が流れていく、この空間が私は好きだった。


 高円寺駅から徒歩1分以内に辿り着けるこのシーシャ屋に通い始めたのは、2年前のことだった。


 離婚したばかりの私に気晴らしを、と、ミュージシャンの友人が誘ってくれたのだった。気づけばこの空間の虜になり、1人でも通うようになった。


「炭換え、しますね」


 ベリーショートの店員さんが、数十分おきに来て煙の量を調整してくれる。二言三言、会話をするこの距離感も心地いい。


 炭換えの間はほんの少しだけ手持ち無沙汰で。ぼーっと彼女の手元を見ていると、


「今日のワンピース、可愛いですね」


 ふいにそんなことを言われた。


「あ、ありがとうございます」


 驚いて思わず見上げると、ニコっと笑う。その笑顔はどこかで見たことがあるような気がするけど、思い出せなかった。


 ホースを受け取り、煙の具合を確認すると、彼女はスッとカウンターに戻っていく。今日のフレーバーはシトラスとカモミールと、それからなんだったか忘れたけど、おすすめのミックスをアイスホースでオーダーしていた。


 喉の奥にひんやりとした感覚が広がっていく。外の暑さを忘れられるひとときに、頭の中がとろんとなる。


 本当はここでライティングの仕事でもしようかと思ったのだけど、今日はなんだかそんな気にもなれず、私はただぼーっと目の前の空間を見つめていた。


 こまめに炭換えをしてくれるおかげで、ここのシーシャは他のお店よりも味が長持ちするような気がする。14時のオープンと共に入店して、空いている日は17時ごろまで居座ることもある。


 今日もしばらくゆっくりしようと思っているとスマホにピコンと通知が来る。


 見慣れた表示名。優子からだった。


「藍、今、暇?」


 こういう連絡は正直、困る。今が暇かどうかなんてそちらの要件次第なんだけど、暇だと答えればどうなるかはわかりきっている。


「シーシャ吸ってる。いつものとこ」

「今から行っていい?」

「別に、いいけど」


 返事をしてから30分ほどして、優子がやってきた。毛先だけ淡い緑色に染まった髪が、煙の混じった空気の中で揺れる。

 二人がけのソファー席に置かれた私の荷物を当たり前のようにどかして、彼女は私の隣に腰掛ける。


「今日はどうなさいますか?」


 すぐにやってきた店員さんに、優子は自分の好みのオーダーをする。それから当たり前のように私のシーシャのホースを奪う。オーダーしてからシーシャが準備できるまでには少し時間がかかるから、それまで私のを吸って待とうというわけだった。


 1台のシーシャをシェアするにも、普通は1人ずつ別のマウスピースを使うけど、優子はまったく気にせずに私のものを吸う。優子のピンク色の唇が薄いイエローのプラスチックに触れる。なんだか気まずくなって目を逸らした。


 今更こんなのを意識する仲でもないけど、なんとなく目に毒だ。


 白い煙を吐き出すと気持ちよさそうに一瞬目を細めて、優子は私にホースを戻す。私も気にせずにそれをまた吸った。

 

 優子は私の元カノだ。私が離婚した半年後に、友人のライブで出会って、ほどなくして付き合い始めた。そしてわずか1年くらいの交際期間ののちに、私たちは別れた。付き合い始めたきっかけも、別れたきっかけも今からすればほんの些細なことで、ありふれたことだった。


 だけどいまだにこうして時々会っては、気怠い時間を過ごしている。それは私たちの行動範囲がかぶっていて、共通の友人も多くて、わざわざ避けるのも面倒だったから。それから、お互いにフリーな私たちはなんだかんだ、寂しかったんだと思う。


 だけど今更よりを戻すことなんてなく、ダラダラとした腐れ縁を続けている。


 「今日も暑いね」なんて言ったきり、何を話すでもなく、まるで自分たちの関係を象徴するかのように、わたしたちはダラダラとホースを行ったり来たりさせていた。


 しばらくそうして交互に吸っているうちに、優子のオーダーしたシーシャが運ばれてきた。


 煙の確認をしてもらって、優子が煙を吐き出す。甘ったるい香りが私の前にもやってくる。


「何にしたの」

「吸ってみる?」


 そう言われたから、私も優子のホースを受け取って、一息吸う。ボトルの中をコポコポ言わせて白い煙を吐き出すだけの行為を無言でおこなう。


「キャラメルとシナモン? ……あと、なんだろ」


 鼻の奥に残るのはどこかで嗅いだことのある香りだけど、なんだっただろう。


「マサラチャイですよ」


 いつのまに戻ってきたのか、さっきの店員さんが答えを教えてくれる。


「ああ、なるほど」


 甘いキャラメルの奥にあるどこか懐かしい香りは、それだったのか。


「こういうのも好きですか?」

「あ、はい。チャイってなんか久しぶり」


 隣で吸っているのを嗅いだ時より、自分で吸うほうがやっぱり深く香りを感じられてよかった。


「すごく、いいですね」

「ふふ、嬉しい。今度はこっちもぜひ試してみてください」


 そう言ってまたニコッと笑って。


「ごゆっくり、どうぞ」


 そしてまた、他のお客さんのほうへ行ってしまった。




「……なんか、お腹減っちゃった」


 煙を吸いながら他愛のない会話を続けて、やがてアイスホースがぬるくなってきた頃、優子はそんなことを言い始めた。


「何か買って来れば?」


 ここは食べ物の持ち込みは自由だし、途中で抜けて買い物をしてくることもできる。私はもう少し吸っていたいなと思っていたのだけど。


「焼き鳥食べたくなっちゃった。……ねえ、このあと、ちょっと行こうよ」


 そう言われると私もなんだかお腹が空いてくる気がする。確かに焼き鳥なら、持ち帰ってここで食べるよりは、お店に行ったほうがいいと思う。


 甘い香りを身に纏ったまま、私たちはシーシャ屋をあとにした。



「かんぱーい!」

「お疲れ」


 何が乾杯で何がお疲れなのかわからないけど、そんな言葉で私たちはグラスをぶつけ合う。


 優子は生ビールを、私はハイボールをそれぞれ注文して、シーシャ屋のすぐそばの焼き鳥屋に入っていた。


 別にカウンターでも良かったんだけど、今日は奥の個室に案内されたので、コの字形になった座席に腰掛けている。優子は向かい合わせじゃなくて、カウンセリングルームみたいに90度の位置に座った。


「……そこに座るんだ」

「だめ?」

「別に、いいけど」


 そう答えるけど、なんとなく優子の距離が近くて、落ち着かない。人間の心理的にはこの位置関係のほうが安心感があると言われているけど、不思議なものだ。だけど拒否するほど嫌というほどじゃないから、そのままの場所でいることにした。


 お通しに続いて、しばらくして定番の焼き鳥の盛り合わせが運ばれてきた。優子はタレが好きで、私は塩が好き。だから2種類を同時に注文して、でもなんだかんだ両方の種類を分け合って食べた。


「ぼんじりの食感って、なんかエロいよね」

「なんかそれ、いつも言ってない?」

「え、そうだっけ?」


 優子はそうとぼける。私はどちらかといえば砂肝のほうがセクシーだと思うけど、そのノリに付き合うのも面倒臭いので黙っていることにする。


 17時過ぎに始まった飲み会は、”ちょっと”なんかで済むことはなく。趣味の合う私たちの話題は結局尽きないから、そのまま場所を変えて深夜までダラダラと続いた。


 ほろ酔いになった優子の頬はほんのり赤く染まっていて、唇の色もさっきよりも濃くなって見える。そんなところにばかり目が行く自分にはほとほと嫌気が刺すけれど、多分ろくでもないことを考えているのは向こうも同じだと思う。


「なんか、帰るの面倒になっちゃった」

「……また?」

「今日、いっぱい歩いたから疲れちゃった。泊まってこうよ」


 簡単にそんなことを言ってくるけど、嫌とは言えない。人懐っこい大きな目をうるうるとさせて「だめ?」なんて言ってきて。……私は、つくづくこの目に弱い。


「いいよ」


 そう答えてしまえば、もう後戻りはできなかった。


 夜の街を適当に歩いて、週末価格の割高な料金を支払って、わたしたちはホテルに入る。交際していた頃にはこんなところに来ることはほとんどなかったし、お金がかかるのはほんとは嫌だけど、なんとなく家に泊めるのは良くない気がして、最近はこういう展開になることが多かった。


 レトロな内装の部屋に入ると、優子は慣れた動作でバスタブにお湯を溜め始め、クローゼットからタオルとバスローブを出してくれた。


 交代でお風呂に入って、バスローブに身を包んで、ベッドに寝転ぶ。


「……もう寝る?」

「うん」


 照明を暗くして、なんとなく流れていた有線のBGMを切って。


 寝転んだ私の腕に、優子は当たり前のように身を寄せてくる。


 私も当たり前のように優子を抱き寄せて、髪を撫でた。


「……やっぱ、落ち着く」


 優子はそんなことを言って、私の胸に顔をうずめる。首筋に髪の毛がかかって、くすぐったい。優子の髪からは、さっき吸ったシーシャの甘い香りがした。


「髪、洗わなかったの」

「時間、かかるし。……それに、どうせあとでもう一回お風呂入るし」


 そう言うと、優子は私の首筋に口付ける。ん、と思わず声を漏らした私の耳元でささやく。わざわざ息がかかるように「可愛い」なんて言ってくる。


 ほんとうに、ずるい。


 くすぐったさに文句のひとつでも言おうとしたタイミングで優子の唇が私の言葉を塞いで、くすぐられた舌のもどかしさに身をよじったのをきっかけに、私たちは重なり合った。


 息を吸って、吐いて。声をあげて、触れて。私たちは互いを求め合った。


 そうしてどれくらいの時間を過ごしただろうか。白くなった頭の中が正常に戻り、呼吸もすっかり整った頃、私の腕につかまりながら、優子は話し出した。


「あのさ」

「ん」


 真面目なトーンの声を聞いて、私は優子の目を見つめる。だけど甘い表情と裏腹に、その赤い唇から飛び出したのは予想していたのとは違う言葉だった。


「藍、あのお姉さんのこと、好きでしょ?」


 優子は唐突にそんなことを言う。


「え、何言ってんの」


 思わぬ言葉に、つい動揺してしまう。


「わかるよ。……好きでしょ、ああいうタイプ」

「……別に」

「隠さなくてもいいじゃん。……元カノの目はごまかせないよ」


 そう言って笑う。


「好きってほどじゃないよ。……そもそも、名前も知らないし」

「行けばいいじゃん。あの人も多分、藍のこと気になってるよ」


 そんないい加減なことを言って。


 だけど、優子の手は私の腕をぎゅっと掴んだままだった。


 優子が何を考えているのか、どんな気持ちだったのか、気づかないわけじゃなかった。だけど明確に否定できなかったのは、それが図星、だったから。


「……ちゃんと、終わりにしよう」


 優子はそう言った。


「最後にこうさせて」


 そう言って、私の胸元に頬を寄せる。優子は、泣いていた。とても静かに。


「でも……わたしだって、藍が良かった」


 今更になって、そんなことを言って。


 私は優子の髪を撫でた。何度も、何度も。



 *



 朝になって、優子は先に帰っていった。なんとなく口寂しくなった私は、ダラダラと遅めの食事を摂った後、また高円寺のシーシャ屋に向かっていた。


 いつもの彼女が、オーダーを訊いてくれる。キラキラの笑顔を見つめながら、ほんの少しだけ胸が痛む。


「マサラチャイ、試してみます?」


 なかなかオーダーを決められない私に、彼女はそう提案してくれる。私は彼女の提案通りにお願いして、シーシャが出てくるのを待った。


 しばらくしてボトルを持ってきた彼女は、煙の調子を確認しながら、何気なく話しかけてくる。


「昨日のお友達とは、長いんですか?」

「はい。……まあでも、もう会うことはないかもしれないですけど」

「え、そうなんですか?」

「……元カノなんです。だから、もう終わりにしたほうがいいかなって、昨日、話して」


 私は思わずそんなことを口走ってしまう。親しいわけでもないのに、こんなことを言われても困るだろうなと思っていたら、彼女は言った。


「……終わりになんか、ならないと思いますよ」


 少し遠くを見るような目で。


「え……?」

「だって、”彼女”はいつでも辞められるけど。……”元カノ”は辞められないですから」


 そんなことを。


「ふふ……なんだか妬けちゃいますけどね」


 そう言った後で、彼女は、私に自分の名前を教えてくれた。


 昨日とはほんの少しだけ違う味の煙が、ほんの少しだけ、目に沁みて。


 頭の中がまた白く、とろけていった。


 

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