第2話
——20××年、1月。
倉敷の冬は、いつも通り静かだった。
朝の空気はしんと冷えていて、吐く息が白く曇る。
自転車のチェーンがきしむ音と、遠くで野良猫が缶を蹴ったような音が響いたきり、街はまだ眠っているようだった。
茶屋町駅の近く、古くからの住宅が並ぶ路地裏に大牙の家はある。
農地に囲まれた平屋の家々は冬枯れの土の匂いに包まれ、
朝露を含んだ畦道が、凍りかけた水をわずかにきらめかせていた。
高校生活も残りわずかで、進路が決まった冬。
それでも彼は、あまり変わっていなかった。
毎朝の日課のようにランニングをして、
小さな神社の石段を駆け上がり、肩で息をしながら空を見上げる。
——新しい年が始まって、何日が過ぎただろう。
年末年始は、町全体が少し浮かれていた。
普段より車も少なく、人も少なく、代わりに風がよく通る。
近所の畑には寒波で倒れかけた白菜と、干し大根が無造作に並んでいた。
祖父が大事にしている柿の木は、葉をすべて落として骨だけのようになり、
それでも枝先には小鳥たちが日替わりでやってきて、残った実をついばんでいく。
大牙は、そういうものを昔は気にもとめなかった。
けれど今は、ふと足を止めて、それを眺めている自分に気づくことがある。
「……変わった、のかもな」
独り言のように呟いたその声が、思ったよりかすれていた。
変わったのは自分だけじゃない。
あの頃の、青葉もそうだ。
彼女と最後に会ったのは、年末の終わり。
「次は、駅の裏のあのベンチで」
そう言って手を振ったのは、寒さに頬を赤く染めた、いつも通りの青葉だった。
けれど、年が明けてから……彼女は来ていない。
最初は、たまたまだと思った。
二度目は、風邪かもしれないと考えた。
三度目、少し不安になった。
四度目の今日、彼は自転車のペダルを、静かに家とは逆の方へと向けた。
その胸の奥で、薄く、何かが軋んでいた。
理由もわからず、ただ足が、彼女の家へと向かっていた。
田んぼの間を走る一本の舗装路を進む。
車の通りはほとんどない。
左手には、冬を越える準備を終えた畑と、寒風で揺れる防風ネット。
右手には、小さな川が流れていて、水面には葉を落とした桜の枝が反射していた。
その静けさが、逆に心のざわつきをあぶり出していく。
彼は自転車を降り、坂道の途中で息を吐いた。
白い息がゆっくりと立ちのぼり、すぐに空へと溶けていった。
彼女の家まではあと少し。
——けれどもう少しだけ、この静けさの中に身を置いていたかった。
まるで、何かを確かめる前に、深く息を吸い込みたくなるように。
——そこに、いつもの青葉がいるのか。
——それとも、いないのか。
それがわかってしまうのが、怖かった。
田んぼを抜けた細道が、やがて広い国道にぶつかる。
そこを越えた先に、赤茶けたフェンスで囲まれた公営団地が広がっている。
コンクリートの外壁はところどころ黒ずみ、薄くひび割れていた。
数十年は経っていそうな建物は、建て替えの話もどこかで止まってしまったままのようだった。
洗濯物が干されたベランダには、色褪せたタオルや衣類が並び、
風に吹かれては無音の手旗信号のように揺れていた。
——青葉の家は、ここだ。
建物の一番奥、五階の角部屋。
何度か来たことがある。玄関の位置も、階段の感触も、全部覚えていた。
だが、今日は違って見えた。
なんでもない日常の風景が、妙にざらついて映る。
張り詰めた空気のせいか、冷え切ったコンクリートの階段を登る足取りが妙に重かった。
「……よし」
大牙は、小さく息を吐き、玄関前に立った。
ドアの前には、錆の浮いた新聞受けと、少し傾いた表札がある。
以前来たときに気づいた、その小さな歪みは、今日に限って妙に気になった。
彼はためらいがちに指を伸ばし、インターホンを押した。
チャイムの音が団地の廊下に響く。
少しして、中から足音が近づいてきた。
ぎぃ、と玄関の扉が軋んで開く。
現れたのは、青葉……ではなく、彼女の母親だった。
細身の体に、だぼついたセーター。
くすんだ茶色の髪を後ろで一つに束ね、顔には化粧の痕跡もない。
だがその目元はどこか気品があり、柔らかい印象を残していた。
「あら……大牙くん?」
彼女は少し驚いたように目を丸くし、次に察したように顔を和らげた。
「……青葉に、会いに来てくれたのね」
大牙は口を開こうとして、何も言えずに頷いた。
彼女の母親は一瞬だけ目線を落とし、それから優しく微笑んだ。
「外、寒いでしょう。とりあえず……中に入りなさい」
大牙は軽く会釈して、靴を脱ぎながら上がる。
玄関の土間には、彼が何度か見たことのある、同じような光景が広がっていた。
*
古びたアパートの一室は、静かで、少し暗かった。
壁紙はところどころ剥がれかけ、隅には冬の冷気がしんと溜まっている。
電気ストーブが一つだけ、部屋の片隅で赤く光っていた。
床には薄いカーペットが敷かれ、その上にちゃぶ台が置かれている。
生活の匂いがする。調味料の混ざった空気、冬の洗濯物の湿気、どこか懐かしい埃っぽさ。
何度か訪れたときと、何も変わっていない。
変わっていないのに、どこか違うように感じたのは気のせいだろうか?
「悪いわね、こんなとこしかないけど……。どうぞ、座って」
母親はそう言って、小さな湯呑みに緑茶を淹れながら大牙の前に差し出した。
ちゃぶ台の上には、青葉が以前使っていた参考書の山がまだ積まれている。
その中に、彼女が大牙に借りたままだった本もあった。
(そういえば、こんなのも貸してたな……)
小さな違和感が、胸の奥を撫でていく。
「……青葉は、いま……」
問いかけようとして、言葉が詰まる。
母親は少しだけ遠くを見つめるようにして、微かに笑った。
「……とりあえずお茶でも飲まない?」
彼女の声は落ち着いていたが、その奥に、澱のような沈黙がひっそりと漂っていた。
部屋の中は、静かだった。
ストーブの小さな唸り声と、お茶の湯気だけが、時を進めていた。
ここに来たのは初めてじゃない。
それなのに大牙は、どこか別の場所に来たような感覚に包まれていた。
部屋の隅の段ボール、テレビの上に積まれた光熱費の督促状。
カーテンの隙間から射す光が、彼の見慣れたはずの空間に、何かを浮かび上がらせていた。
——青葉は、どこにいる?
茶の湯がぬるくなる頃、二人の間には、言葉のない空気が静かに漂っていた。
青葉の母は、ぽつりぽつりと話し続ける。
最近のこと、近所の変わり映えのない風景、庭先の梅がやっと蕾を開いたこと——
そんな取り留めのない話題が、時間を埋めるように流れていく。
だが、大牙の胸中には、別のものがじわりと染みていた。
青葉の気配が、あまりにも薄い。
この家にいるという実感が、どこにもないのだ。
壁に掛けられた写真。台所に置きっぱなしのマグカップ。居間の隅の漫画本。
それらはすべて“過去の青葉”であり、今ここには、彼女の生の気配がなかった。
「……最近、青葉は?」
何気ない口調だった。だが、母親の手が、その瞬間ぴたりと止まった。
「え?」
「最近、彼女が家にいる時間って、減ってたりしますか? 何となく、ですけど」
母親は表情を整えるまでに、ほんの一呼吸分の間を必要とした。
「そうね……あの子、よく出かけてるわね。……友達と、遊んだりして」
「今日も…ですか?」
「そう、……ね」
そう言いながらも、母の声はどこか歯切れが悪かった。
単に心配をしているだけの母親には見えなかった。
むしろ、“何かを見せまいとする”意志が、言葉の隙間から滲み出ていた。
大牙は、ふと視線を落とす。畳に置かれた湯呑。微かに震えていた。
「——何か、ありました?」
その問いは穏やかに、だが明確に、沈黙の水面に小石を投じるように発せられた。
母親はすぐには答えなかった。
けれど、その瞳はたしかに揺れていた。
まるで抱えきれないものを抱えている人間特有の、些細な表情。
ストーブの赤い光が、ちゃぶ台の上の湯呑みに微かに揺れていた。
沈黙が長く続いた。
母親の指先が、膝の上でかすかに揺れている。
話したいことがあるのに、話せない。話せないからこそ、余計に言葉が重たくなる。
大牙は、それを肌で感じ取っていた。
「……青葉は今、どこに?」
もう一度、声に出して訊いた。
さっきより、少し強めの口調だった。
母親は視線を落としたまま、湯呑みを両手で包むようにしていた。
「……ごめんなさいね。ちゃんと説明できなくて」
「いえ、別に……責めてるわけじゃないです。でも、ここ最近ずっと会ってなくて、連絡も返ってこなくて……」
大牙の言葉は、詰まった。
目の前の彼女――あの元気すぎるくらいだった青葉が、急にいなくなる理由なんて考えたくもなかった。
だが、ふと脳裏をよぎるのは、良くない想像ばかりだ。
「もしかして……変な奴らに絡まれてるとか、そういうことじゃ……?」
口にしてから、自分でもバカな想像だと思った。
でも、それくらいしか思いつかない。ヤンキーだった過去。地元の不良との因縁。喧嘩や揉め事。
あいつなら、「あるかもしれない」って、どこかで思ってた。
母親は、小さく笑った。
それは、どこか哀しみの滲んだ微笑だった。
「ふふ……あの子が、そんなことで困るようなタイプに見える?」
「……見えない、です。むしろ……」
「でしょ?」
静かに遮るような声。
母親は湯呑みから目を離し、大牙の目をしっかりと見た。
「大牙くん。ありがとう。あの子のこと、こんなに心配してくれて」
「でも……!」
大牙は、思わず拳を膝に握りこんだ。
「でも、俺……何にも知らされてないの、正直……怖いんです」
声が震えていた。
「そりゃあ、あいつとは……まあ、ちょっと変わった関係かもしれないですけど。でも……! 俺、ちゃんと付き合ってるつもりです。あいつのそばにいたつもりだったんです。なのに……気づけないって……悔しいんです」
母親は、ゆっくりと瞬きをした。
その目元には、ほんのわずかに湿り気が浮かんでいた。
「……ごめんなさい。あの子に、“言わないで”って言われてたの」
「え……?」
「“大牙には、普通にしててほしい”って。……“かわいそうに思われるのは、あたしらしくない”って、そう言ってたのよ」
その言葉に、大牙の心臓が、どくんと跳ねた。
“かわいそうに思われるのは、あたしらしくない”。
まさに青葉が言いそうな言葉だった。
らしい、と言えば、らしい。だけど——。
「……何か、あったんですか? 青葉に」
再び訊ねた。
それでも、母親は答えなかった。
ただ、そっと視線を落とした。
その沈黙が、言葉よりも雄弁だった。
やがて、ぽつりと呟くように言った。
「……あの子、自分のこと、ほんとに強い子だと思ってるのよ。だから……最後まで、そうでいたいんだと思う」
「……最後?」
大牙が呟いたその言葉に、母親は目を伏せたまま答えなかった。
また、沈黙が降りる。
その沈黙の奥に、何かが確かに潜んでいる。
だがまだそれは、姿を見せようとしなかった。
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