第1話
蝉の声が、うるさすぎて目が覚めた。
開けっぱなしの窓から吹き込む風はぬるくて、——生ぬるくて、なんの役にも立たない。
団地の五階。起き抜けの天井は、毎日同じ色をしているのに、
今朝は、なんか……、嫌な感じだった。
「……だる」
口に出してみても、別に誰かが答えてくれるわけじゃない。
部屋には古びた扇風機がうるさく回ってるだけ。
スマホを手に取ると、グループLINEが30件近く溜まってた。
あたしが前までいた“グループ”からのやつ。
けど今はもう、既読すらつける気にならなかった。
この夏、あたしは学校に行ってない。
正確に言えば、「ほとんど行ってない」。
校門の前まで来て、Uターンしてマック行って、ポテトとアイスコーヒーで時間潰して、
日が暮れる前に家に戻る。そんな毎日を繰り返してる。
母親は昼間、工場のパートに行ってるし、
弟は小学生で、塾とゲームが日課。
父親は――うちにはもう、いない。
「……だりぃ……」
起き上がろうとしたとき、腹のあたりがズキッとした。
ただの寝違えかと思った。
でも、そういう感じじゃなかった。
鈍くて、じっとりしてて、言葉にならない違和感。
なんだこれ。って、思ったけど、
口に出すのはめんどくさくて、そのままトイレに向かった。
鏡に映った自分の顔は、ちょっと青白い気がした。
目の下にうっすらクマができてて、口紅も取れかけてて、
ヤンキーっていうより、ただの疲れた女子高生って感じだった。
昨日の夜、コンビニの前でタバコ吸ってた男に絡まれて、
腹立って思い切り蹴り飛ばした。そのせいでちょっと喧嘩になって、
帰ったのが朝方だった。
その疲れが残ってるだけ――そう思って、顔を洗って、
タンクトップにジーパンを引っかけて、家を出た。
行き先なんて、ない。
けどあたしは、今日も家を出る。
なにかが変だと気づきながら、
それが何かを見ないふりしながら、
だるさと一緒に、この街を歩く。
日差しが、痛い。
商店街の自販機で買ったレモンスカッシュを一口飲んで、
あたしは足を止めた。
金属のベンチに座って、足を投げ出す。
目の前を、ランドセルを背負った子どもたちが通り過ぎていった。
笑ってる。何かをじゃれあって、手を叩いて笑ってる。
ああいうの嫌いじゃない。けど、混ざる気にもなれない。
スマホの通知を切ってから、何日経ったっけ。
元のグループのことも、学校のことも、なんか全部遠くなっていく。
昔はよくバイクで駅前まで流してたけど、
今は乗る気にもならなかった。
飲みかけのペットボトルを傾けたとき、また、腹に「違和感」が走った。
軽い痛み。刺すような感じではなく、
奥のほうでじんわり、熱を持っている感じ。
「……っつー……」
思わず、声が漏れた。
なのに、誰も振り向かない。誰も気づかない。
いや、もともと、誰も気にしちゃいない。
それが普通。あたしはそういうポジションで生きてきたし、
それが一番、気楽だった。
でも。
今日のこれは――、なんか、変だった。
背中にも、少し重さがある。
目の奥がじんじんしてきた。
夏バテだとか、寝不足だとか、そういう話じゃない気がした。
「……はー……」
煙草、吸いてえ。けど今日はポーチ忘れた。
苛立つ指先が、ジーンズのポケットを探るけど、ライターも出てこない。
このまま帰ろうか。
でも家に戻っても、あの狭い部屋と、
埃っぽい団地の天井しか待ってない。
あたしは、立ち上がった。
そして、ふと思った。
もし、この違和感が、ずっと続いたら――。
いや、違う。
もし、これが“終わりの始まり”だったとしたら。
そんなこと、考えたくもなかった。
それでもどこかで、あたしは知ってた気がする。
何かが、もう動き始めてるって。
その夜、鏡に映った自分の腹を見て、あたしは少しだけ言葉を失った。
「……太った?」
冗談のように呟いてみたけど、笑えなかった。
別に食べ過ぎてるわけじゃない。
運動してないのは昔からだし、
最近はまともに食欲もないのに、なんか……膨らんでる気がした。
皮膚の内側、沈んだ奥の方で、じくじくと熱いものがくすぶっている。
そんな感覚が、日に日に強くなっていた。
――なんなんだよ、マジで。
枕元に放り投げたスマホに手を伸ばす。
LINEの通知はゼロ。
連絡してくるのは、たまに古い付き合いのやつが金を借りに来るか、
母親が「帰ってこい」って言うくらい。
「……つーか、病院、行くか?」
ひとりごとのように漏らした声は、自分のものとは思えないくらい弱々しかった。
熱もない。吐き気もない。
ただ、腹の中が、黙って何かを育ててる気がする。
それが「不安」って言葉に変わるのは、
数日後、目覚めたとき、息を吸うだけで背中が痛んだ朝だった。
◆
結局、町医者に行くことにしたのは、
「まあ、めんどくせえけど、念のため」くらいの気持ちだった。
ヤンキーあがりの女が、病院の待合で呼ばれるのは妙なもんだ。
窓際に座ってスマホをいじっているふりをしながら、
周囲の視線をすり抜けるようにうつむく。
名前を呼ばれたとき、あたしは心のどこかで、
「何もありませんでした」って笑える未来を望んでいた。
それでいい。
それでよかった。
でも、先生の顔が、診察室に入ってすぐに少し曇ったのが、気になった。
「念のため、血液検査とエコー、やっときましょうか」
医者は、表情を崩さずに言ったけど、
“念のため”って言葉が、脳に引っかかって離れなかった。
血を抜かれて、腹にゼリーを塗られて、
冷たい棒みたいな機械でなぞられて、
「はい、息を止めてー」と言われるたび、どこか現実味がなかった。
病院の白は、嫌いだ。
あたしには似合わない。
あたしの人生には、無関係だと思ってた。
けれど、待合のソファに座るこの時間だけは、
そんな幻想をひとつひとつ、指先で剥がされるようだった。
「青葉さん、検査の結果が出ましたので……こちらへどうぞ」
名前を呼ばれた瞬間、あたしの心臓がひとつ、音を立てて沈んだ気がした。
「……あ、はい」
自然に立ち上がったようでいて、足は重たかった。
廊下を歩くあいだ、壁の時計の秒針の音だけが耳につく。
ドアの向こうには、医者と――さっきとは違う、別の看護師がいた。
机の上には、あたしの名前が書かれたファイル。
「検査結果について、少しお話しさせてください」
その一言で、空気が変わった。
声は穏やかだった。
でも、その穏やかさが怖かった。
説明は、難しい言葉を並べていた。
肝臓、腫瘤、腫瘍、悪性の可能性……
どこか他人事みたいに聞こえるのに、
「ご家族の方と一緒に、後日大きな病院での再検査を」
と告げられたとき、あたしはようやく悟った。
――ああ、マジなんだ、これ。
背中が冷たくなった。
何も言えなかった。
ふと、さっきの看護師がティッシュを差し出してくれた。
でも、涙なんか出てなかった。
代わりに浮かんだのは、母親の顔だった。
ずっとまともに話してない。
うるせぇ女だと思って、避けてきた。
けど――今、一番最初に知らせるのは、あの人しかいないんだって、
あたしの奥の方で、誰かがつぶやいてた。
帰り道、スマホはポケットの中で沈黙を守ったままだった。
誰にもLINEを送る気にはなれなかったし、
インスタも、開く気になれなかった。
いつものバカみたいな通知音さえ、
今はどこか、遠い星の出来事みたいに思えた。
バスに揺られてるあいだ、何度も頭の中でシミュレーションした。
「ママ、ちょっと病院でさ…」
いや、違う。「肝臓に、なんか影があるって…」
ちがう、もっと軽く。冗談みたいに、笑って言えれば…
――でも、どんな言葉を選んでも、
あたしの喉の奥に張りついて、出てこなかった。
うちの団地は、夕方になると子どもの声と夕飯の匂いが混ざり合う。
うちだって、たぶんそう。
母さんはいつも通り、忙しそうに鍋の蓋を開けたり閉めたりしてるんだろう。
エレベーターのボタンを押しながら、あたしは自分の手の甲を見つめた。
小さなすり傷と、古いガサつき。
喧嘩した日も、逃げ出した日も、
この手でドアを閉めてきた。
でも、今日は――
この手で、ドアを開けなくちゃいけない。
⸻
玄関の鍵を開けると、
「あら、あんた、ちゃんと病院行ったの?」と、
母親の声が飛んできた。
「……うん」
それだけが、精一杯だった。
あとは何も、言葉にできなかった。
「んで、なんて言われたの? また貧血? 肝臓って言ってたわよね?」
「……」
「ねぇ、青葉?」
母さんが振り返る。
その目はいつもみたいに強気で、やかましくて、けど――その奥にうっすらと、まだ知らない何かを察し始めてる色があった。
あたしはその視線から目を逸らした。
靴のまま、リビングの椅子に座り込む。
「……再検査だって。大きい病院で。
なんか、影があるんだって。肝臓に」
そう言い終えたとき、
母さんの手から、鍋つかみが落ちた音がした。
鍋つかみが床に落ちた音は、思っていたよりも大きく響いた。
母さんは何も言わずにそれを拾い上げると、
ふたたび鍋の前に立った。
けれど、その手はもう、何かをかき混ぜてはいなかった。
静かだった。
テレビも、換気扇も、隣の部屋の時計も。
すべての音が、まるで一斉に息を止めたみたいだった。
「……それ、どういうこと?」
母さんの声は、いつもみたいな怒鳴り声じゃなかった。
やけに静かで、怖いくらいに丁寧だった。
あたしはリビングのテーブルに肘をついたまま、
視線を壁のシミに向けた。
「なんかね、影があるんだって。でかい病院、紹介された。
来週、行く」
「それって、なんか悪いものなの?」
母さんのその質問が、胸に刺さった。
“悪いもの”――その響きが、まるで呪いの言葉みたいだった。
「……わかんないよ。
でも、なんか大きいっぽい。肝臓が腫れてるって」
母さんの背中が一瞬、揺れた。
振り返ることはなかったけれど、
そのわずかな動きだけで、何かが伝わってきた。
沈黙がふたたび、部屋を包んだ。
こんなふうに気まずいの、初めてだった。
ケンカした時の沈黙は、どっちが先に口火を切るかのゲームみたいだったけど、今の沈黙は違った。
言葉を出したら、なにか取り返しのつかないことが起きる――
そんな空気があった。
「……ちゃんと、行くんでしょ? 紹介された病院」
「うん」
「お金、いるなら言いなさいよ」
「うん」
「……」
母さんはそれ以上、何も言わなかった。
*
いつからだろう。
明日が来なくなるかもしれないという不安が、不意に頭のそばへ掠めていくようになったのは。
無機質な六畳一間の生活音も、街に鳴り響く騒がしいクラクションの音も。
妙に遠くに感じる日が増えた。まるで、世界の輪郭が曖昧になっていくような感覚。
最近大丈夫か?って、大牙が心配そうに声をかけてくる。
余計なお世話だって言いたいんだけど、そんな余裕もなくてさ?
未来のことなんて、今までろくに考えたこともなかった。
明日が来ないなんて、どこかの小説かドラマの中の話だと思ってた。
どうせ夜寝て起きれば、明日がやって来るって思ってた。
けれど、その“当たり前”に、ヒビが入った。
それがどこからか、ゆっくりと崩れていく。
私のなかで何かが、確実に変わりはじめてた。
やかましい蝉の声が、目覚まし時計のように朝の喧騒の向こうに流れている。
だけど目は覚めない。
目が開いてるのに、夢の続きみたいに、現実感が遠のく。
そういう日が、少しずつ増えていった。
大牙は相変わらず、まっすぐで、どこか不器用で、
でも、そういうとこが眩しいくらい真っ直ぐに見える。
最後の夏の大会が終わった後も、彼は前を見ていた。
進学先の大学の話や、トレーニングのことを嬉しそうに話すその顔を見てると、
心のどこかがじわりと、痛む。
「やっぱり俺、大学に進んでみようかなって思う。プロになるのは、その後でもいいだろ?」
そう言って笑う彼の横顔は、まるで太陽みたいだった。
まっすぐに未来を信じてる人間の顔だ。
あたしには、もうそんなふうに未来を見る力は残ってないのかもしれない。
最近、少しだけ楽になってきた。
痛みの波が引いていくような、あの不意の静けさ。
でもそれは、良くなっているわけじゃないって、ちゃんとわかってる。
母さんの目を見れば、一発で察せる。
あの人、ずっと嘘が下手なんだ。
だから最近は、余計にあたしに優しい。
台所の音が静かになってきたのも、洗濯物を干す手つきがやたら丁寧になったのも。
みんな、言わないだけで知ってる。
あたしだけが、知らないふりをしてる。
……それでいいんだと思ってた。
でも、大牙の顔を見ると、それが揺らぐ。
「何か、言いたいことあんのか?」
先週、ふいに彼がそう聞いてきたとき、一瞬、心臓が止まりそうになった。
――バレた?
けれど彼は、そうじゃなかった。ただ、あたしの様子がいつもと違うからって。
本当のことを話そうか、って、何度も思った。
だけど、そのたびに胸の奥で何かがせき止める。
それを言ったら、全部が変わってしまう気がして。
彼の未来までも、あたしが濁らせてしまう気がして。
あたしは彼の“今”を壊したくない。
それだけなんだ。
わがままだって分かってる。でも、それでも、まだ……
もう少しだけ、このままでいたい。
彼の隣で、何でもない日々のフリをしていたい。
沈む夕陽の色が、やけに濃く感じる。
照らされた指先が細くて、少し震えていた。
でもそのことには、触れない。
今日も、大牙は何も聞かない。
そして、あたしも何も言わない。
けれど、その沈黙の中にだけ、
本当の言葉がぎゅっと詰まっているような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます