第11話

あの人が、私の手首を掴んだ。


その熱が、まだ肌に残っているみたいだった。


昨日の夕刻、庭で起こった出来事を思い出すたびに、心臓が勝手にきゅっと縮こまって、顔にまで熱が集まってくる。


私は自分の両手で頬をぱたぱたと叩いた。


だめだ、しっかりしなくちゃ。


あれは、景久様が私の怪我を心配してくださっただけ。


そう、それだけのこと。


決して、やましいことなど何一つないのだから。


そう自分に言い聞かせても、一度跳ねてしまった心は、なかなか元通りにはなってくれない。


朝の支度を終え、私は少しばかり重い足取りで厨へと向かった。


いつもと同じように、景久様のための朝餉を作る。


でも、今日ばかりは、どんな顔をしてあの方に会えばいいのか、全く分からなかった。


「おはようございます、奥様。どうかなさいましたか?お顔が真っ赤でございますよ」


厨に入るなり、心配そうに声をかけてくれたのは、侍女のハナだった。


「な、なんでもないの!ちょっと、朝の空気が温かかっただけよ」


しどろもどろに言い訳をする私を、ハナは不思議そうな顔で見ている。


ごまかしきれていないのは、自分でもよく分かっていた。


私は深呼吸を一つして、気を取り直して料理に取り掛かる。


今日のおかずは、里芋の煮っ転がしと、ほうれん草の胡麻和え。


それから、きのこをたっぷり入れたお味噌汁。


一つ一つの作業に集中することで、頭の中から昨日の出来事を追い出そうと試みた。


けれど、里芋の皮をむいていても、ほうれん草を茹でていても、ふとした瞬間に、あの黒い手袋の感触と、戸惑いに揺れていた景久様の瞳が、脳裏にちらついてしまう。


ああ、もう。


私の心は、すっかり、あの方のことでいっぱいになってしまっている。


なんとか朝餉を完成させた私は、お盆を手に、広間へと向かった。


戸を開けると、そこにはすでにあの方が座っていて、窓の外を眺めていた。


その横顔が、なんだかひどく、居心地悪そうに見える。


「おはようございます、景久様」


私が声をかけると、彼の肩が、ぴくりと跳ねた。


ゆっくりとこちらを向いたその顔は、案の定、ものすごく不自然だった。


私と視線を合わせようとせず、あちこちを彷徨わせている。


「……ああ」


くぐもった声でそれだけ言うと、彼はすぐに目の前のお膳に視線を落としてしまった。


その様子を見て、私は確信する。


気にしているのは、私だけではなかったのだ。


この人も、昨日のことを、うんと意識している。


その事実が、私の心を、妙な安堵感と、それから、新たな緊張で満たしていく。


向かい合って座ると、二人の間になんとも言えない空気が流れた。


昨日までは、穏やかで、少しずつ温かくなっていたはずの空間が、今日は、なんだかむず痒くて、どうしようもない。


私たちは、一言も言葉を交わさなかった。


聞こえるのは、お互いが箸を動かす音と、お味噌汁をすする音だけ。


いつもより、ずっと速い速度で、景久様が食事を終えていくのが分かった。


そして、あっという間にお膳を空にすると、彼は、逃げるように立ち上がった。


「……ごちそう、さまだった」


ぼそりと、床に向かってそう呟くと、彼は一度もこちらを見ることなく、大股で広間から出て行ってしまった。


一人残された私は、その場にぽつんと座ったまま、熱いお茶をすする。


なんだか、嵐が過ぎ去った後のようだった。


でも、不思議と、嫌な気持ちはしない。


むしろ、あの人の不器用な反応が、私の胸をくすぐって、思わず、ふふっと笑みがこぼれてしまった。


鬼神様も、ああやって、照れたり、慌てたりするんだ。


その日の昼下がり。


私は、気持ちを切り替えて、庭仕事に精を出していた。


生命力に満ちた土に触れ、木霊たちの優しい歌声を聞いていると、ごちゃごちゃしていた心の中が、すっと澄んでいく気がする。


「やはり、ここが一番落ち着くなあ」


独り言を呟きながら、新しく芽吹いた薬草の周りの土を柔らかくしていると、背後から声をかけられた。


「奥様。少々、よろしいでしょうか」


振り返ると、そこにいたのは、家老の永井様だった。


いつもと変わらない、感情の読めない顔。


「永井様。何か、御用でございましょうか」


「は。実は、主、景久様より、言伝を預かってまいりました」


景久様から?


私は、思わず、ぴんと背筋を伸ばした。


永井様は、私と、それから、私が生き返らせたこの庭を、ぐるりと見渡した。


「奥様がこの城に来られてから、幾月か。この庭は、見違えるように、生命力を取り戻しました」


「まあ。ありがとうございます」


「城の者たちの顔つきも、以前より、ずっと明るくなったように思います。これも、すべて、奥様のお力添えあってのこと」


思いがけない言葉に、私は少し、戸惑ってしまった。


永井様が、こんな風に、私を褒めてくれるなんて。


「して、本題なのですが」


彼は、一つ咳払いをした。


「景久様が、奥様に、お頼みしたい儀がある、と」


「お頼み、ですか?」


「うむ。一度、城下の村へ、足を運んでいただきたい、と」


「城下の、村へ?」


私は、自分の耳を疑った。


この城の外へ、出ても良いということ?


それも、景久様のお頼みで?


「ご存知の通り、この庭は蘇りつつありますが、領地全体を見れば、まだまだ、大地は疲弊しております。作物の育ちも芳しくありませぬ」


永井様は、苦々しい表情で言った。


「景久様は、奥様のお力、その目で、この庭以外の場所でも確かめたい、と。そして、奥様の目から見て、土地の様子がどう映るのか、知りたい、と。そう、おっしゃっておられました」


それは、あまりにも、予想外の申し出だった。


私を、政略の駒、城の飾りとしか見ていなかったはずの人が。


私の力を、認めて、頼ろうとしてくれている。


それは、この城の主として、領地を思う、真摯な気持ちの表れに違いなかった。


「……分かりました」


私は、迷わず、頷いていた。


「景久様のお頼みとあらば、喜んで、お受けいたします。私にできることがあるのなら、何なりと」


私の返事を聞いて、永井様の険しい顔が、ほんの少しだけ、和らいだように見えた。


「かたじけない。では、明日の昼餉の後、ご支度をお願いいたしまする。景久様が、直々にお供をされる、と」


「えっ、景久様が、直々に?」


「左様でございます」


それだけ言うと、永井様は深々と一礼し、去っていった。


私は、その場に立ち尽くしたまま、今、告げられたことを、頭の中で何度も繰り返す。


景久様と、二人で、お出かけ……?


そう思った瞬間、さっきまで落ち着いていたはずの心臓が、また、とくとくと、大きな音を立て始めた。


その話は、あっという間に、ハナの耳にも入った。


「まあ、まあ、まあ!旦那様と、ご一緒に、村へ?奥様、大変でございます!」


私の部屋に駆け込んできたハナは、自分のことのように、大興奮していた。


「どんなお着物がよろしいでしょうか。やっぱり、動きやすい方がよろしいですよね?でも、旦那様とご一緒なのですから、少しは、お洒落もしないと!髪は、どういたしましょうか」


一人で、あたふたと動き回るハナを見ていると、私の緊張も、なんだか少し、ほぐれてくる。


「ありがとう、ハナ。そんなに、大げさなことではないのよ」


「いいえ、大げさなことでございます!これは、この黒鉄城始まって以来の、大事件でございますよ!」


目をきらきらさせながら、ハナは、私のために、いくつかの着物を見立ててくれた。


私が選んだのは、藤色の地に、小さな白い花が描かれた、素朴で、けれど品のある小袖。


これなら、村を歩くのにも、物々しくなりすぎないだろう。


明日のことを考えると、楽しみな気持ちと、それから、やっぱり、緊張する気持ちで、胸がいっぱいだった。


その夜は、なんだか、なかなか寝付けなかった。


そして、次の日。


約束通り、昼餉を終えた私は、支度を整え、城の玄関へと向かった。


そこには、旅支度を済ませた景久様と、そして、見たこともないほど大きな、黒い馬が、一頭、待っていた。


彼の、戦場での愛馬だろうか。


筋肉質で、たくましい体躯は、まるで主の写し鏡のようだ。


景久様は、私が現れると、ちらりとこちらを見た。


そして、すぐに、ぷいと顔をそむけてしまう。


まだ、昨日の気まずさを、引きずっているみたいだ。


「……行くぞ」


彼は、馬の世話をしていた家臣に目配せすると、ひらりと、その大きな馬に飛び乗った。


馬の上から、私を見下ろす姿は、まさに、威風堂々たる武人そのものだった。


私は、どうすればいいのか分からず、その場に立ち尽くす。


すると、景久様は、おもむろに、私に向かって、手を差し出した。


「……乗れ」


「えっ?」


「二人乗りで行く。その方が、速い」


ぶっきらぼうな口調。


つまり、彼の、後ろに、乗れということ?


あんなに高い馬に?


しかも、あの方と、あんなに近くに?


私の頭の中は、完全に、真っ白になった。


私がためらっていると、景久様は、少し、苛立ったように、眉をひそめた。


「……何を、している。早くしろ」


「は、はい!」


私は、慌てて、彼の手を取った。


手袋越しに伝わる、大きくて、固い手。


彼が、ぐっと、力を込めて、私を引く。


ふわりと、体が浮き上がり、次の瞬間には、私は、彼の背中に、ぴったりとくっつくような形で、馬上の人となっていた。


目の前には、彼の、広くてたくましい背中。


嗅ぎ慣れない、けれど、なぜか、心が落ち着く、お香の匂い。


「しっかり、掴まっていろ」


低い声が、すぐ耳元で聞こえて、私の体は、びくりと震えた。


私は、おそるおそる、両手を、彼の腰に回す。


硬い、鎧下の下にある、彼の体の熱が、じかに伝わってくるようだった。


もう、私の心臓は、破裂してしまいそうだった。


馬が、ゆっくりと歩き出す。


私たちは、城門をくぐり、城下町へと、足を踏み入れた。


道行く人々が、鬼神と呼ばれる領主が、一人の娘を後ろに乗せて馬を走らせている姿を見て、目を丸くしている。


その視線が、なんだか、ひどく、気恥ずかしかった。


やがて、私たちは、城から少し離れた、小さな村にたどり着いた。


そこは、永井様が言っていた通り、活気のない、寂しい場所だった。


畑は痩せ、植えられた作物は、どれも、ひょろひょろと力なく伸びている。


私たちが村に着くと、村人たちが、家の戸口から、恐る恐る、こちらをうかがっていた。


その瞳には、領主である景久様への、恐怖と、それから、私に対する、かすかな、好奇の色が浮かんでいた。


景久様は、馬から下りると、私にも手を貸してくれた。


彼の手に触れるたびに、心臓が、いちいち、大きく跳ねる。


私たちは、言葉もなく、村の中を歩いた。


彼の視線は、厳しく、領地の隅々までを、見定めようとしている。


私は、その横顔を見上げながら、この人は、本当に、この土地と民のことを、深く想っているのだと、改めて感じていた。


やがて、私たちは、一本の、枯れかかった桃の木の前に、たどり着いた。


葉はほとんど落ち、枝は、まるで助けを求めるように、痛々しく空に伸びている。


私は、吸い寄せられるように、その木に近づいた。


そして、目を閉じ、そっと、その幹に、手を触れる。


『……くるしい……』


『……水が、ほしい……』


か細い、木霊の声が、直接、心に響いてきた。


私は、自分の内にある、温かい光を、手のひらから、ゆっくりと、木の中へと、注ぎ込んでいく。


大丈夫。


もう、一人じゃないわ。


お願い、元気を出して。


私が、どれほどの時間、そうしていたのか。


ふと、目を開けると、目の前で、信じられない光景が、広がっていた。


枯れ木だと思っていた、その枝の先に。


一つ、また一つと、小さな、固い蕾が、ぷっくりと、その姿を現していたのだ。


それは、花の奇跡ではなかった。


生命が、もう一度、生きようと、力を振り絞った、証だった。


「……やはり、な」


背後から、景久様の、呟くような声が聞こえた。


振り返ると、彼は、その蕾を、そして、私を、今まで一度も見たことのないような、深い、真剣な眼差しで、見つめていた。


その瞳に浮かんでいるのは、驚きでも、恐怖でもない。


それは、まるで、夜空に、初めて、星を見つけた子供のような、純粋な、畏敬の念だった。


この人の、凍てついた世界に、私が、初めて、本物の光を灯すことができた。


そう、確信した瞬間だった。

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