第6話
ハナが私の部屋を出て行ってから時間はひどくゆっくりと流れ、心臓の音だけがやけに大きく耳についた。
私は落ち着きなく部屋の中を歩き回りながら、太陽が西に傾き城の黒い影が庭を覆い尽くしていくのを何度も窓の外に目をやって見ていた。
まだハナは戻らない。
悪い想像ばかりが頭を巡る。
あの人が私のささやかな贈り物を無礼だと断じたのではないか、怒りにまかせてあの可憐な花を植木鉢ごと叩き割ってしまったのではないか。
そして私の勝手な行いのためにハナが罰を受けていたらと思うと、居ても立ってもいられなかった。
廊下で何かの物音がするたびに、私の体はびくりと跳ねる。
日はとっぷりと暮れ、部屋に夕闇が満ち始めたその時、ようやく私の部屋の戸がそっと開かれた。
「ハナ!」
私は駆け寄っていた。
そこに立っていたのは青白い顔でひどく怯えているように見える、やつれた姿のハナだった。
「大丈夫なの?何かされなかった?」
私はハナの両肩を掴んで矢継ぎ早に尋ねた。
「お、奥様……わ、私は大丈夫でございます……」
ハナは震える声でかろうじてそう答えた。
彼女が無事だったことに、私はまず心の底から安堵する。
「よかった……。それで、あの花は……?」
ハナはごくりと喉を鳴らし、そしてあの後の出来事をぽつりぽつりと語り始めた。
彼女は私の言いつけ通りに景久様の私室へと続く廊下へ向かったという。
そこは城の中でも特に人の気配が乏しい冷え切った一角であり、誰もが主の怒りを恐れて近づこうとしない場所だ。
彼女は恐怖に震える足でそこを進み窓辺にあの植木鉢を置くと、誰にも見つからないうちに一目散に逃げ帰ってきたのだと。
「その後どうなったかは私には……。ただ、旦那様がお怒りになったという話は聞こえてきませんでした」
それがハナが知るすべてのことだった。
結局あの花がどうなったのかは分からないままだが、少なくとも最悪の事態にはなっていない。
私はそれだけでよしとしなければならなかった。
次の日もそのまた次の日も城に変わったことは何も起こらず、景久様からの何の反応もなかった。
あの花はまるで初めから存在しなかったかのように誰の口にも上らない。
この何の反応もないという事実がかえって私を落ち着かなくさせた。
怒りでも嘲りでもない、ただの無視。
それは肯定なのか、それとももっと深い拒絶なのだろうか。
私は答えの出ない問いを抱えながら庭での作業を続けた。
そしてあの日から三日が過ぎた昼下がりのこと、私の部屋を家老の永井様が訪れた。
「奥様。今宵よりお食事は旦那様とご一緒にしていただきたく」
いつもと変わらぬ平坦な声で告げられた言葉に、私は我が耳を疑った。
「……え?お食事をご一緒ですか?」
「左様。旦那様のご命令です」
なぜ?
あれほど私のことを疎み、目の前から消えろとまで言ったあの人が。
「……何か理由をお聞きしても?」
私の問いに永井様は、わずかに口の端を動かしたように見えた。
「さあ。私にも主のお考えは分かりかねます」
そう言うと彼は一礼し、すぐに部屋を出て行ってしまった。
その夜、私は緊張でこわばる体を引きずるようにして城の広間へと向かった。
そこは初めてこの城に来た日に通された謁見の間とは違う食事のための部屋だったが、雰囲気は少しも変わらない。
高い天井と重厚な黒光りする長い卓が置かれたその部屋は、人の営みの温かさからはほど遠い空間だった。
部屋の奥、卓の最も上座に景久様はすでに座っており、私が部屋に入っても彼は顔を上げようともしない。
私は侍女に案内されるまま、彼から最も遠い卓の末席に腰を下ろした。
彼と私の間には途方もない距離がある。
やがて膳が運ばれてくるが、音を立てることさえはばかられるような重苦しい空気の中で、私は目の前の膳に視線を落としたまま動けなかった。
ちらりと上座に目をやると、景久様は何も言わずただ淡々と箸を動かしている。
その横顔はやはり氷の彫刻のように、何の感情も映し出してはいない。
なぜ私をここに呼んだのだろう。
この気詰まりな時間を共有することが目的なのだろうか。
長い長い拷問のような食事が終わる。
侍女たちが膳を下げ始めたその時だった。
「……あの花は」
不意に景久様が低い声で呟いた。
私の心臓が大きく跳ねる。
「枯れぬのだな」
彼は私の方を見ないままそう言った。
枯れない。
その一言にすべての意味が込められていた。
彼はあの花を捨てなかったのだ。
それどころか毎日見ていた。
自分の呪いでいつ枯れ果てるかと。
「……はい」
私は震える声でかろうじて答えた。
すると景久様はゆっくりと顔を上げた。
そして初めてこの部屋で、私とまっすぐに視線を合わせたのだ。
その黒い瞳が私に問いかけてくる。
「なぜだ」
それは今まで聞いたどの彼の言葉とも違っていた。
嘲りも怒りも苛立ちもない、ただ純粋な問い。
どうしてお前の生み出した命は俺の呪いに蝕まれないのだ、と。
その真摯な問いに私は恐れを忘れ、覚悟を決めた。
今こそ私の想いを言葉にする時だ。
「あの子があなた様を恐れていないからでございます」
私は彼の瞳をまっすぐに見つめ返して言った。
「真の温もりから生まれた命は冷たさを恐れません。ただその温もりを分かち合いたいと願うだけでございます」
それは花のことでもあり、そして私のことでもあった。
私の答えを聞いた景久様の瞳が大きく見開かれる。
そこには驚きとも困惑とも違う、今まで一度も見たことのない色が宿っていた。
彼は何も答えなかった。
ただ私から視線を逸らすと席を立ち、音もなく広間から去っていった。
一人だだっ広い部屋に残された私の胸の中に、小さなしかし確かな希望の光が灯っていた。
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