第三十話
徒歩での移動は危険だと判断され、邏卒が送迎用の馬車を手配してくれた。さよと源蔵の乗った馬車を見送り、夕霧も鉄と共に別の馬車へと乗り込む。三人掛けの座席が対面する形で二
座席に腰掛けると、ここ数刻のうちに溜まった疲労が一気に押し寄せてくるような感覚があった。体がずるずる沈み込んでしまいそうにさえなったものの、
そんな夕霧の葛藤を知ってか知らずか、鉄が優しい声で語りかけてきた。
「疲れただろう? 休んでいて構わないよ。屋敷へ戻る前に御屋形様の所へ報告に伺うけれど、それも僕一人で大丈夫だ。君は馬車で待っていてくれ」
「いえ、そのようなわけには……」
「うとうとしている愛らしい君を、他の誰にも見せたくない。僕の我儘を聞き届けてはくれないかい?」
「鉄様……」
穏やかな声音が子守歌のように、馬車の振動が揺りかごのように感じられ、次第に夕霧の目蓋が落ちてゆく。隣から伝わる体温が心地好い。誰かが傍にいてくれることに安心感を覚える日が来るだなんて思わなかった。
「……君が
鉄が何事かを語っていることは認識できるが、もはや内容など少しも理解できない。右から左へ音が通り過ぎてゆき、心地の好い余韻だけが耳に残る。そうしているうちに、いつの間にやら夕霧は意識を手放していた。
屋敷を出たのはまだ日が高い頃だったが、戻って来たのはほとんど日が沈んだ頃だった。夕霧の帰りが遅いことを心配していたらしい女中に泣きつかれ、何とか穏便に振り切って鉄の部屋まで退避する。別の女中が温かい茶を二人分運んで来てくれたので、ありがたく受け取った。夕食は断ってしまったけれど。
広い座敷の中央で座布団に座り、茶を啜って息を吐く。様々なことがあり過ぎて、脳も心も未だ処理が追いついていない。湯呑の中の水面を苦々しい表情で見つめた。
仕事用の正装から着流しへと着替えた鉄が、夕霧の正面で茶を啜っている。やがて湯呑を置くと、彼は穏やかに切り出した。
「改めて、今日はお疲れ様。大変な一日だったね」
「……ええ」
「大丈夫かい? まだ、ぼんやりしているようだけれど」
「申し訳ございません。未だ思考を整理できておらず、何からご報告すれば良いものなのか分からずにおります。己が未熟さに恥じ入るばかりです」
「君が恥じることなど何一つとしてないだろうに、真面目な人だなあ。……そうだね、無理にまとめて話す必要はないよ。断片的にでも構わないから、一通り吐き出して、少しずつ繋ぎ合わせていこうか」
そう言うと、鉄は文机の上にあった紙とインクと羽根ペンを持って来て、夕霧の前に差し出した。知り得た情報を書き出せと言われているようだ。文字として出力しておけば、鉄と共有して共に考えることができる。自分の疲れきった脳だけでは足りないと判断し、夕霧はペンを手に取った。
これまでに見聞きした情報、今日手に入れた情報、自分の発言に対するさよの返事と思考、そして不審な男の様子と主張。時系列など丸ごと無視し、思い出したことを順番に脈絡なく書き留めてゆく。一見すれば暗号のようにすら思えるそれらを、夕霧は無心で生成し続けた。
しばらく作業を続けていると、紙の上にインクではない半透明の水滴が落ちた。それが自分の額から流れた汗だと理解するのに、やたらと時間がかかった。利き手ではない左手で乱暴に額の汗を拭う。すると、正面から伸びてきた手が羽根ペンを掴み、そのまま優しく取り上げた。
「うん。ひとまず、ここまでにしよう。あまり
「……左様にございますか」
「ああ。それでは、読ませてもらうよ。目を通している間、君も楽にしていてくれ」
「畏まりました」
鉄が数枚の紙を拾い上げ、順に目を通し始める。手持無沙汰になって湯呑を手にすると、すっかり冷めてしまっていた。自分が思うよりもずっと時間が経っていたらしい。夜行性の虫たちの鳴き声を聴きながら、冷めた茶を啜った。
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