第二十九話

「その話、詳しく聞かせてもらえるかな?」


 落ちた紙を拾い上げ、目を通しながら鉄が言う。先ほど今回の件のあらましについては説明したが、夕霧の発言までを逐一全て報告したわけではない。何をどこから話すべきなのだろうか。


 夕霧が口を開くよりも先に、鉄がしゃがみ込んだ。さよと目線を合わせ、優しく諭すように語り掛ける。


「さよ。家族を失った君の心をおもんぱかり、これまであまり踏み込んだ話はしないよう努めてきた。だが、今回のようなことが起きてしまうとなると、あまり悠長に構えてもいられなくなる。君と夕霧を守るためにも、知っていることを教えてはくれないかい?」

「っ…………」

「限界を感じたなら、拒否してくれて構わないよ。可能な範囲だけでもいいんだ。夕霧、さよが少しでも落ち着くように、手を握ってあげてくれ」

「! 承知致しました」


 たとえ彼女が言葉を詰まらせたとしても、夕霧が触れてさえいれば汲み取れる情報があるかも知れない。周囲に違和感を与えることなくその状況を作り出した鉄の指示に、夕霧は一人で敬服する。


 筆を執っていた右手を避け、さよの左手をそっと握った。冷たい手が小さく震えている。それでも、彼女は鉄の問いに恐る恐る頷いた。


「ありがとう。それではまず、君は先の男と面識があったのかな?」


【向こうは私を知らないわ】


 さよが首を横に振る。


「そうか。それでは、狙われる心当たりは?」

「…………」


【確証はないけれど、考えられるとしたら……】


 悩む素振りを見せた後、さよは紙に文字を綴り始めた。普段よりも迷いのある線が、彼女の意思を代弁する。


『わかりません』

『でも 男は兄と面識がありました』

『あの日も家にきて 兄を』


 筆が止まった。その先を書くのを躊躇している様子だ。墨を蓄えた穂先が紙に押し付けられ、黒い染みが広がってゆく。


【兄上……どうして兄上が……!】


 夕霧は後に続く言葉を察し、さよの手を握る己の手に力を込めた。無理をする必要はないと伝えたかったが、それをどう受け取ったのか、さよはゆっくりと続きを書ききって見せた。


『あの日も家にきて 兄を手にかけました』

「!」


 邏卒たちがざわつく。夕霧も息を呑んだ。喜三郎が殺害された可能性には至っていたものの、あの阿片中毒者と思われる男が実行犯である確証はなかった。事件の背景が、少しずつ浮かび上がってくる。


 喜三郎の死因は阿片中毒で間違いないか。事件当時、さよは自宅にいたのか。決定的な瞬間を目撃したのか。それらの問いかけに、さよは全て頷いた。それから、二人がどのような会話をしていたのか尋ねられると、瞳に涙を溢れさせながら俯いてしまった。夕霧の手を強く握り込んでくる。


【金が要るのだろう、と。奉公先でばら撒けば早いだろう、と。兄上は、やはりそんなことはできない、と。そうしたら、ふざけるな、と。それならばお前が全て買い取れ、と……兄上に阿片を……っ】


 さよの手から筆が落下し、空いた手が心臓の辺りを抑えた。震えが大きく、呼吸が浅くなってゆくのが分かる。夕霧はすぐさま彼女の体を抱き締め、聴取の中止を訴えた。


「鉄様、これ以上は……!」

「ああ。さよ、大丈夫かい? つらいことを聞いてしまって、本当にすまなかった」


 鉄が優しく頭を撫でると、さよは小さく首を横に振った。変わらず声は出せていないが、しゃくり上げて肩を揺らしている。喉から零れる引き攣った音が、彼女の悲愴を物語っていた。


 源蔵が湯呑みに水を注いで持ってきた。夕霧が体を離すと、さよは片手で目を擦りながら、もう片方の手で湯呑みを受け取り、ちびりちびりと口を付けた。時折つっかえつつも、何とか喉を通っているようだ。


 立ち上がった鉄が、邏卒に頭を下げる。


「この子をよろしく頼む。僕が言えたことではないが、あまり心労をかけるようなやり取りはしないでやってくれ。まずは僕に声をかけてほしい。朝比奈家当主、朝比奈鉄之丞だ」

「畏まりました、朝比奈様。丁重に御持て成しさせていただきます。時に、この一帯を統治されている華族様はどなたかご存知ですかな?」

「松平侯爵だ。御屋形様には僕が直接報告しておく」

「恐れ入ります。……差し出がましいようですが、港町からこちらの町の周辺まで、警備を強化することを強く推奨致します。似たような事件の報告が、我々の元へも相次いでおります故。御婦人……奥方様がお屋敷へ戻られるのであれば、しばらくは御屋敷の警備に人手をお出ししましょうか?」

「頼めるかい?」

「もちろんですとも。市民をお守りするのが我らの勤めにございます」

「恩に着るよ。忠告も謹んで受け取ろう。御屋形様に進言させてもらうよ。ありがとう」

「とんでもございません」


 そんな会話を聴き流しながら、夕霧はさよへ目を向けた。しゃくりも震えも未だ残っているものの、僅かに落ち着きを取り戻してきているように見える。湯呑みの中身は半分ほど減っていた。


「さよ様、ご気分は如何でしょうか? 体調のこともございますから、無理せずお休みになっても構いませんよ」

「…………」


 さよが首を横に振る。そして、夕霧のほうを見据えながら、湯呑みを持っていない手でどこかを指さした。指の先を追ってゆけば、そこには本人が文字を書き記した紙が散らばっていた。


『ユウギリさんは大丈夫なのですか』


 そう書かれた紙を見て、夕霧は自分が彼女の問いに答えていなかったことを思い出す。情報を得たとて、状況は何一つ好転していない。身の安全の保証などどこにもないのだ。──しかし。


「夕霧」


 優しい声が名前を呼ぶ。振り向くと、鉄が真っ直ぐな目で夕霧を見詰めていた。


「帰ろう。大丈夫、君のことは僕が守るよ」


 たったそれだけの簡素な言葉が、夕霧の心に熱を灯してじわりと広がる。何の根拠もないくせに、きっと大丈夫なのだろうと思えてしまった。これまで鉄と共に過ごした短い時間の中で、溢れ返るほどの温もりを与えられ続けた、その弊害なのかも知れない。


 夕霧は、さよの目を見て答えを返した。


「ええ。御心配には及びません。私めには、鉄様がついていてくださいますから」

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